ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2016年02月21日
『ベルリンの奇跡』再考(中)
代表選手選考と民族差別
サッカー史研究会
(2月15日・JFAハウス会議室)
★朝鮮出身は金容植だけ
ベルリン・オリンピック(1936年)のサッカー日本代表チームは選手16人で、そのうちの一人は朝鮮人だった。
キム・ヨンシク(金容植)である。
当時、日本が朝鮮半島を植民地として支配していて、朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)のサッカーも「大日本蹴球協会」の
統制下にあった。
そのため、朝鮮人を日本代表に加えられたのである。
ベルリン・オリンピックの前年、1935年(昭和10年)の全日本総合選手権と明治神宮競技大会では「京城蹴球団」が優勝していた。
「京城」(けいじょう)は、現在の韓国の首都「ソウル」である。つまり、日本サッカー協会のもとで、朝鮮のチームが、もっとも強かったわけである。
にもかかわらず、ベルリン・オリンピックの代表に加えられたのは、金容植ひとりだけだった。
★早大主力に補強
「これは民族差別によるものだ」という見方が、当時からあったし、現在もある。
成績によって代表選手を選ぶなら、当時の「日本一」の京城蹴球団を主力に代表選手を選ぶべきだった。
にもかかわらず、朝鮮から一人しか選ばなかったのは、朝鮮民族に対する差別だというのである。
ベルリン・オリンピックの代表チーム編成についての事情は、後藤健生著『日本サッカー史、代表編』(2002年、双葉社)の記述が簡明で分りやすい(45~47ページ)。
詳しくは、それを読んでいただきたいが、簡単にいうと、単独チームを主力に、補強するという形だった。
その結果、早稲田の10人を主力に東京帝大から3人、慶応大学と東京高師(現在の筑波大)、京城蹴球団から、それぞれ1人が補強された。
つまり、金容植は早稲田チームへの補強の一人だった。
★関東からの補強の例外
関西サッカー協会も「関西の選手を加えろ」と抗議していたのだが、関西のチーム所属の選手は、一人も入っていない。
関東以外の地域からの補強は、例外的に朝鮮だけである。
そういうふうに見れば、金容植が入ったのは、朝鮮に対する差別ではなく、むしろ、朝鮮地域に対する「優遇」である。
サッカー協会は代表選手選考委員会を設け、1935年9月に代表チーム編成の基準を、次のように決めている。
①全国選抜でなく、断然強い「単独チーム」を主体にする。
②断然たるチームがなかった場合には、一つの地域協会を中心に選ぶ。
この第2項は「京城蹴球団」を念頭に置いたものだろう。
当時の日本の植民地政策を考えれば、朝鮮のチームをオリンピック代表の主体にすることは難しかった。
そのために、関東地域中心のチームとする道を作ったのだろうと、ぼくは憶測している。
サッカー史研究会
(2月15日・JFAハウス会議室)
★朝鮮出身は金容植だけ
ベルリン・オリンピック(1936年)のサッカー日本代表チームは選手16人で、そのうちの一人は朝鮮人だった。
キム・ヨンシク(金容植)である。
当時、日本が朝鮮半島を植民地として支配していて、朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)のサッカーも「大日本蹴球協会」の
統制下にあった。
そのため、朝鮮人を日本代表に加えられたのである。
ベルリン・オリンピックの前年、1935年(昭和10年)の全日本総合選手権と明治神宮競技大会では「京城蹴球団」が優勝していた。
「京城」(けいじょう)は、現在の韓国の首都「ソウル」である。つまり、日本サッカー協会のもとで、朝鮮のチームが、もっとも強かったわけである。
にもかかわらず、ベルリン・オリンピックの代表に加えられたのは、金容植ひとりだけだった。
★早大主力に補強
「これは民族差別によるものだ」という見方が、当時からあったし、現在もある。
成績によって代表選手を選ぶなら、当時の「日本一」の京城蹴球団を主力に代表選手を選ぶべきだった。
にもかかわらず、朝鮮から一人しか選ばなかったのは、朝鮮民族に対する差別だというのである。
ベルリン・オリンピックの代表チーム編成についての事情は、後藤健生著『日本サッカー史、代表編』(2002年、双葉社)の記述が簡明で分りやすい(45~47ページ)。
詳しくは、それを読んでいただきたいが、簡単にいうと、単独チームを主力に、補強するという形だった。
その結果、早稲田の10人を主力に東京帝大から3人、慶応大学と東京高師(現在の筑波大)、京城蹴球団から、それぞれ1人が補強された。
つまり、金容植は早稲田チームへの補強の一人だった。
★関東からの補強の例外
関西サッカー協会も「関西の選手を加えろ」と抗議していたのだが、関西のチーム所属の選手は、一人も入っていない。
関東以外の地域からの補強は、例外的に朝鮮だけである。
そういうふうに見れば、金容植が入ったのは、朝鮮に対する差別ではなく、むしろ、朝鮮地域に対する「優遇」である。
サッカー協会は代表選手選考委員会を設け、1935年9月に代表チーム編成の基準を、次のように決めている。
①全国選抜でなく、断然強い「単独チーム」を主体にする。
②断然たるチームがなかった場合には、一つの地域協会を中心に選ぶ。
この第2項は「京城蹴球団」を念頭に置いたものだろう。
当時の日本の植民地政策を考えれば、朝鮮のチームをオリンピック代表の主体にすることは難しかった。
そのために、関東地域中心のチームとする道を作ったのだろうと、ぼくは憶測している。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2016年02月19日
『ベルリンの奇跡』再考(上)
複数の視点からの記録
サッカー史研究会
(2月15日・JFAハウス会議室)
★竹之内響介さんを招く
「サッカー史研究会」の月例会を、久しぶりに開いた。
月に1度の割合で開催しているのだが、12月は年末のため休み、1月は予定していた15日に雪が降ったため中止した。
2月例会は、実質3ヵ月ぶりの開催である。
今回は、11月に出版された『ベルリンの奇跡』(東京新聞)の著者、竹之内響介さんに来ていただいて、取材と執筆の実際について、お話を伺った。
前にも紹介したが、この本はサッカー界にとって非常に貴重である。
1936年ベルリン・オリンピックのサッカー競技1回戦で日本が優勝候補のスウェーデンを破った。これが「ベルリンの奇跡」である。
しかし、その試合がどういうものであったのか?
その様子は、ほとんど知られていなかった。
竹之内さんの著書は、それを克明に描いている。
★書くことの好きな人
テレビもビデオもなかった時代である。
試合の全貌を映像で知ることはできない。
どのようにして調べたのか?
竹之内さんの説明はこうである。
ベルリン・オリンピックのサッカー代表チームは「書くことの好きな人」を、何人も伴っていた。
コーチの名目でチームのメンバーになっていた工藤孝一さんは、実は通信社の記者だった。だから、記事としてレポートを残している。
選手として参加した川本泰三さんも、のちに同盟通信の記者になる。
同じく選手の堀江忠男さんは、のちに経済学者として早大教授になった人である。もちろん「書くこと」を苦にしない。
ドイツ語ができるから、現地の新聞に目を通して、その論評なども紹介している。
★活字にして残す
もう一人、田辺五兵衛さんがいる。
「田辺製薬」のオーナーで、当時の日本サッカー協会の財政の有力な後援者だった。書くことが好きで「烏球亭雑話」というタイトルで、多くのサッカー随筆を残している。
こういう、いろいろな人が、それぞれの立場から観戦記を活字にして残している。
そういう記事を集めて読むと、試合の全体が浮かびあがってくるという。
「複数のカメラでテレビの中継をしているようなもの」だと竹之内さんは話した。
竹之内さんの本業は、テレビの番組などのシナリオを書く「映像作家」である。
だから、複数の視点から書かれた記事をまとめて、ビジュアルに表現することができたのだろう。
日本のサッカー史にとって、貴重な業績となった。
サッカー史研究会
(2月15日・JFAハウス会議室)
★竹之内響介さんを招く
「サッカー史研究会」の月例会を、久しぶりに開いた。
月に1度の割合で開催しているのだが、12月は年末のため休み、1月は予定していた15日に雪が降ったため中止した。
2月例会は、実質3ヵ月ぶりの開催である。
今回は、11月に出版された『ベルリンの奇跡』(東京新聞)の著者、竹之内響介さんに来ていただいて、取材と執筆の実際について、お話を伺った。
前にも紹介したが、この本はサッカー界にとって非常に貴重である。
1936年ベルリン・オリンピックのサッカー競技1回戦で日本が優勝候補のスウェーデンを破った。これが「ベルリンの奇跡」である。
しかし、その試合がどういうものであったのか?
その様子は、ほとんど知られていなかった。
竹之内さんの著書は、それを克明に描いている。
★書くことの好きな人
テレビもビデオもなかった時代である。
試合の全貌を映像で知ることはできない。
どのようにして調べたのか?
竹之内さんの説明はこうである。
ベルリン・オリンピックのサッカー代表チームは「書くことの好きな人」を、何人も伴っていた。
コーチの名目でチームのメンバーになっていた工藤孝一さんは、実は通信社の記者だった。だから、記事としてレポートを残している。
選手として参加した川本泰三さんも、のちに同盟通信の記者になる。
同じく選手の堀江忠男さんは、のちに経済学者として早大教授になった人である。もちろん「書くこと」を苦にしない。
ドイツ語ができるから、現地の新聞に目を通して、その論評なども紹介している。
★活字にして残す
もう一人、田辺五兵衛さんがいる。
「田辺製薬」のオーナーで、当時の日本サッカー協会の財政の有力な後援者だった。書くことが好きで「烏球亭雑話」というタイトルで、多くのサッカー随筆を残している。
こういう、いろいろな人が、それぞれの立場から観戦記を活字にして残している。
そういう記事を集めて読むと、試合の全体が浮かびあがってくるという。
「複数のカメラでテレビの中継をしているようなもの」だと竹之内さんは話した。
竹之内さんの本業は、テレビの番組などのシナリオを書く「映像作家」である。
だから、複数の視点から書かれた記事をまとめて、ビジュアルに表現することができたのだろう。
日本のサッカー史にとって、貴重な業績となった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved. |