サッカー日誌 / 2016年09月24日


カープ初優勝の思い出(下)


カープ初優勝の思い出(下)

ルーツの「赤ヘル」革命

プロ野球セ・リーグ優勝決定
(9月10日、東京ドーム)

★激しくプレーする
 プロ野球セントラル・リーグで広島カープが優勝した機会に、1975年のカープ初優勝のときの話が、改めてマスコミに取り上げられた。
 そのなかに、古葉竹識監督(当時)の「猛練習」が勝因だったという記事があった。
 「違うな」とぼく(牛木)は思った。
 1975年に広島カープを変えたのは「猛練習」ではない。
 広島カープを変えたのは、ルーツ監督の「赤ヘル革命」である。
 それは「激しくプレーする」ということだった。
 たとえば、である。
 一死、走者一塁で左前にヒットが出たとする。
 一塁にいた走者は、当然、二塁に進むが、走者の判断で、さらに三塁を狙うべきだという。
 ただし、三塁で刺される可能性は大きい。

★合理的だが独断的
 そうであっても、一死一、二塁に留まるよりも、一死一、三塁にする可能性に賭けるべきであり、その判断は走者が行うべきだという。
 もちろん、状況にもよるのだが、一死一、三塁だと、次のプレーの選択肢が多い。
 外野フライで得点の可能性がある。
 一塁走者の盗塁もある。 
 ヒット・エンド・ランもある。
 ダブル・スチールもある。
 積極的にプレーする「激しさ」の象徴として、ヘルメットの色を「赤」に変えた。これが「赤へル革命」である。
 しかし、カープの内部では反発を買ったらしい。
 その原因の一つは、ルーツ監督の独断的な言い方にあったのかもしれない?

★古葉監督の功績
 言葉の問題もある。
 英語で話すルーツの言葉のニュアンスを、通訳が的確に日本語にするのは難しい。
 もう一つは、選手に自主的な判断を求めたことである。
 コーチの指示通りにプレーすることに慣れている選手たちにとって、自分の判断で次の塁を狙うようなプレーを推奨されることには、とまどいがあったのではないか?
 しかし、ルーツがクビになったあと、新監督に就任した古葉竹識新監督は、そのシーズンは、ルーツ路線を否定するのではなく、むしろルーツ路線を継承し、推進した。
 それが、1975年に広島カープを初優勝に導いたと思う。
 すぐに自分の考えを実行するのではなく、前任者の「いいところ」を見極めて、チームを運営した。
 これは、古葉竹識監督の功績である。


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サッカー日誌 / 2016年09月23日


カープ初優勝の思い出(中)


ルーツ監督の辞任騒ぎ

プロ野球セ・リーグ優勝決定
(9月10日、東京ドーム)

★病気のアナウンス
 プロ野球セントラル・リーグで、広島カープが初優勝したのは1975年である。
 当時、ぼく(牛木)は、東京の読売新聞でプロ野球を担当していて、シーズンの初めごろ、中日対広島の試合の取材のため、名古屋に出張した。
 そのころ、読売新聞は名古屋には本社がなく、スポーツの取材は、東京本社運動部から記者を出張させていた。
 というわけで、ぼくは中日球場の記者席に座っていたのだが、ドラゴンズについても、カープについても,内情は、ほとんど知らなかった。
 試合のはじめにアナウンスがあった。
 「広島カープのルーツ監督は、病気のため、本日の試合にはベンチに入りません」。
 ぼくは、そのアナウンスを信じていた。
 試合は代理監督の指揮で、無事に行われた。

★監督のボイコット
 試合が終わって、記事を送りおわったあと、報知新聞の駒沢悟記者が、ぼくに声をかけてきた。
 駒沢さんは、広島出身で、当時も今も、カープにもっとも詳しい記者である。
 駒沢さんは言った。
 「ルーツは病気ではありませんよ。代表と喧嘩して、試合をボイコットしたのですよ。ホテルに行ってみましょう」
 なにも知らないぼくは、駒沢記者といっしょにホテルに行った。
 ジョー・ルーツ監督は、ロビーのソファに、一人でポツネンと座っていた。
 「カープの監督を辞任するのか?」
 と、ぼくが聞いた。
 「辞任はしないよ」とルーツは答えた。
 「じゃ、なぜ球場に行かなかったのか」
 ぼくは、しつこく尋ねた。

★「ファイア」を求める
 ルーツ監督は、自分の説明を、ぼくが理解できないのに業を煮やして、こう言った。
 「きみは、ファイアという英語を知っているか?」
 「ファイア」は「解雇する」という意味である。
 自分から辞任すれば、以後の給料はもらえない。
 カープのほうが解雇すれば、契約した期間(1年分)の報酬をカープはルーツに支払わなくてはならない。
 ぼくが、英語で「リザイン(辞任)するのか」と繰り返し質問したので、ルーツ監督は「ノー」と答えたのである。
 「自分から辞任はしない。カープがクビにするのを待っている」と言いたかったのだろう。
 ぼくは、駒沢記者と一緒に広島カープの宿舎に行って、重松代表を呼び出した。
 「分っているよ」と重松代表は言った。
 「ルーツを解雇」は、報知の特種になったと記憶している。


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サッカー日誌 / 2016年09月22日


カープ初優勝の思い出(上)


カープ初優勝の思い出(上)

「巨人中心」のプロ野球を変える

プロ野球セ・リーグ優勝決定
(9月10日、東京ドーム)

★サッカー出身の重松代表
 プロ野球セントラル・リーグで、広島カープが優勝した。25年ぶり7度目の優勝である、
 初優勝は、41年前の1975年だった。
 前年に、広島カープの球団代表に、重松良典さんが就任していた。
 重松さんは、元日本代表のサッカー選手である。
 広島出身で慶応大学から広島の東洋工業(マツダ)に入り、カープに出向して、球団代表になった。
 当時、ぼく(牛木)は、東京の読売新聞でプロ野球を担当していた。
 重松さんは、サッカーの関係で旧知の間柄だったから、カープが東京に来たとき、球場で挨拶した。
 重松さんが言った。
 「日本のプロ野球は、巨人を中心に運営しなければならないんだよ」

★ホームゲームで稼げ
 「それは違います」
 と、ぼくは反論した。
 「カープは広島中心で経営すべきです」
 カープが、巨人との試合で収入を挙げられるのは、広島地元開催の13試合(当時)だけである。
 広島のホームゲームは、巨人戦を含めて65試合(当時)ある。その全部で稼がなければならない。
 そのためには「巨人の魅力」で、お客さんを集めるのではなく、「地元のカープの魅力」でファンを引き付けるべきである。
 これが、ぼくの主張だった。
 欧州や中南米のサッカークラブの運営では、当たり前の考えである。
 重松さんは、もちろん、そのことを知っていただろう。
 にもかかわらず「巨人中心」を、ぼくに話したのは、セ・リーグの長老役員との関係を考えてのことだったと思う。

★地元中心の運営
 重松さんは、球団代表に就任すると、セ・リーグの長老役員に挨拶に行った。そこで「球団運営は巨人中心に行なえ」とアドバイスされたのだろう。
 ぼくは、そう推測した。
 当時のセ・リーグの長老役員は、読売新聞と巨人のオーナーだった正力松太郎との関係の深い人だった。
 重松さんは、長老の考えを聞いていることを、読売の記者だったぼくに伝えたのである。
 しかし、広島球団のその後は「巨人中心」ではなく、地元、広島中心だった。
 広島のスタープレーヤーを売りだし、ホームゲームのすべてで、ほとんど満員の観衆を集めた。
 1975年の広島の初優勝は「巨人中心」のプロ野球を変えるきっかけになったと思う。


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サッカー日誌 / 2016年09月17日


殿堂のチーム表彰に疑問


サッカー殿堂表彰式
(9月10日、日本サッカー協会)

★ベルリン五輪チーム
 日本サッカー殿堂入りの表彰式が、9月10日に日本サッカー協会で行われた。
 2016年度の表彰は、ジーコと1936年ベルリン・オリンピックの日本代表チームだった。
 ジーコの表彰に異議はない。
 ブラジル人であり、いろいろな功労は,すでに広く世界で知られているが、日本のサッカーへの貢献を日本のサッカーの歴史に刻んでおく意味はある。
 しかし、ベルリン・オリンピックの日本代表チームの表彰には違和感を覚えた。
 1936年のベルリン・オリンピックで、日本代表チームが優勝候補のスウェーデンを破った。
 これは、日本のサッカー史上に残る出来事である。
 しかし、その業績は、いまさら顕彰しなくても、歴史に、ちゃんと残っている。

★殿堂表彰は個人に
 サッカーの殿堂入りの表彰は、個人を対象に行うべきであると思う。
 チーム・スポーツでは、チームの業績は「優勝記録」として残る。
 しかし、個人の貢献は歴史に留め難い。
 そこで「殿堂」のような機会を作って、個人の功績を歴史に留める。それはいい。
 しかし、チームとしての業績は「優勝」などの成績で評価されて歴史に残るのだから、改めて「殿堂」で表彰する必要はない。
 サッカー・ミュージアムのなかに「ベルリン・オリンピック日本代表チーム」の写真を掲げ、その業績を解説する。
 それは当然、行うべきことだろう。ミュージアムとしての「サッカー史の評価」である。
 だが、これは「殿堂入り」とは違う。

★殿堂委員の責任逃れ
 ベルリン・オリンピックの日本代表チームのなかで、スウェーデンを破った業績に、もっとも貢献したのは誰か?
 「チーム・スポーツ」だから、それを、特定の個人に特定するのは適当でない。また難しい。
 それで、チーム全体を「殿堂入り」にしたのではないか?
 そう憶測した。
 そうであれば、殿堂委員の安易な「責任逃れ」である。
 「チーム・スポーツ」であっても「ベルリンの業績」を導いた功労者がいる。それを明らかにして、歴史に留めておくのが殿堂委員の仕事である。
 今回、ベルリン・オリンピック代表チームの一員として殿堂入りした人のなかには、これまでに、ベルリンでの功績を含めて、個人として殿堂入りしている人がいる。
 監督の鈴木重義、コーチの竹腰重丸、選手の竹内悌三などである。
 この人たちを二重に表彰する意味があるのだろうか?


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サッカー日誌 / 2016年09月11日


「ユーロ」の広域開催(下)


メディア・サービス

サロン2002月例会
(8月29日、筑波大附属高)
報告:徳田仁(スポーツ旅行業)
田村修一(スポーツ・ジャーナリスト)

★取材の優先順位
 「ユーロ」は、ヨーロッパの国のサッカー大会である。
 南米の「コパ・アメリカ」と並んで、世界のトップレベルのサッカーが展開される。
 したがって、地域外のメディアの関心も高い。
 しかし、その取材には、いろいろな問題がある。
 一つは、ヨーロッパ以外の国のマス・メディアの取材を、どの程度、認めるかである。
 国際大会の取材記者登録には、大まかな基準がある。
 国際通信社(AP、ロイターなど)は最優先である。その報道を、世界中のメディアが利用できるからである。
 次いで、その試合の出場国の主要メディアが優先である。
 日本の出場する試合であれば、朝日、読売、毎日などの特派員の取材が認められないことはない。
 大きな組織に属していないフリーランスでも、これまでの取材の実績があれば、日本人は、まず、認められる。

★地域外のメディア
 しかし「ユーロ」を日本のフリーランスのライターが、取材しようとする場合は、優先順位は低い。
 出場国との関係は、まったくなく、大きなマス・メディアに属していないからである。
 日本人のフリーランスのサッカー・ジャーナリストの田村修一さんも「ユーロ」の取材では苦労したらしい。
 記者証はもらえたのだが、一つ一つの試合の取材は、そのつど申請して記者用入場券の割当を受けなければならない。希望した試合の取材が認めらないことがあったという。
 日本の出場していない大会だからである。
 田村さんは、フランスの最有力のサッカー・メディアである「レキップ」に寄稿している。
 しかし「レキップ」への割り当ては、本社の取材記者が使うだろうから、社外のフリーランスには回ってこない。
 フリーランスは、まず取材権を得て、そのうえでの寄稿である。

★ペーパーレス
 「ユーロ」のメディア・サービスは、どうだったか?
 田村さんの話では、おおむね、ワールドカップと同じサービスを提供されたという。
 しかし、鉄道の無料パスはなかった。
 これまでのワールドカップなどでは、記者証を持っていると鉄道の無料乗車券がもらえた。
 各地を転々と取材して歩くフリーランスの記者にとっては、これは大助かりだったのだが……。
 もう一つの、メディア・サービスの様変わりは「ペーパーレス」だった。
 これまでは、試合の記録や記者会見の内容は、プリントされて、記者席やメディアセンターで配布されていた。
 それが、最小限になった。インターネットで公開し、パソコンで検索できるようになったからである。
 広域開催スポーツ大会のメディア対策を考える必要がある。


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サッカー日誌 / 2016年09月07日


「ユーロ」の広域開催(中)


宿 泊

サロン2002月例会
(8月29日、筑波大付属高)
報告:徳田仁(スポーツ旅行業)
    田村修一(スポーツ・ジャーナリスト)

★ホテルの予約
 「ユーロ」などの国際大会を見に行く場合の一つの問題は、ホテルの予約である。
 あらかじめ確保しようとしても、なかなか「空き」がないし、あってもベラボーに高い。
 ぼくの個人的経験によると、大会直前になれば「空き」が出て、ホテル代も値下がりするのだが、寝る場所のあてがないまま旅行するのは不安である。
 ましてや、日本からの観戦ツアーを募集するときには「宿泊先未定」というわけにはいかない。
 高額でも、部屋を予約しておく必要がある。
 サッカーを主にスポーツ旅行会社を経営している徳田さんの報告によれば、ホテル代の高騰で、ツアーを組むのが難しくなっているらしい。
 日本円にして、10年前には1泊6,000円程度だった中級ホテルが、いまでは、12,000円以上になっている。
 航空運賃は比較的安定しているが、現地の宿泊費が高くなっている。それに試合の入場券代などが加わるので、1日あたりの経費が3万円以上になる。
 この金額で、ツアーのお客さんを集めるのは難しい。

★部屋代の高騰
 部屋代の高騰は、ぼく自身も体験している。
 2013年にオランダを旅行したとき、滞在を延長しなければならなくなって、現地でアムステルダムのホテルの部屋を取った。
 中級の下のクラスのホテルで、バスはなく、シャワーは共同だった。
食堂もなかった。外へ出て大衆レストランに行くほかはなかった。
 町のレストランでは、オランダ語ができないために困惑したが、学生が大勢いて、英語で通訳してくれて助かった。
 どうやら、ぼくのとったホテルは、大学街の学生向けだったらしい。
 そのレベルの安ホテルで、日本円にして、1泊1万円以上だった。
 欧州のホテル代の高騰を実感した。

★民家を借り上げる
 フランスのユーロを取材したフリーランスのライターの田村修一さんは、ホテルを取るのを諦めて、パリのメディアセンターの近くの民家の部屋を借りたという。
 一つの解決策だが、フランス語の達者な田村さんだからできたことである。
 また、ジャーナリストは、夜の試合が終わったあと、競技場のメディアセンターで仕事をするので、帰宅が深夜になる。
 深夜の帰宅を受け入れてくれるところでないと、民家に泊めてもらうわけにはいかない。
 というわけで、ホテル代の高騰は、われわれ、フリーランスのジャーナリストにとっても大きな問題である。
 「ビバ!サッカー」のグループでは、ワールドカップのときには、民家を一軒、まるごと借りて共同で使った。
 人数が集まれば、1人あたりの宿泊費は安くなる。食事はグループで自炊である。
 これが、いちばん安上がりな解決策だと思うが、グループが、まとまらないと成り立たない。


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サッカー日誌 / 2016年09月04日


「ユーロ」の広域開催(上)


移 動

サロン2002月例会
(8月29日、筑波大付属高)
徳田仁(スポーツ旅行業)
田村修一(スポーツ・ジャーナリスト)

★「集中」から「広域」へ
 筑波大学附属高校の中塚義実先生が主宰している「サロン2002」の月例会で、フランスのユーロとリオデジャネイロ・オリンピックを見に行った人の報告があった。
 試合の様子は、テレビで見ているから、ある程度は分っているが、大会の雰囲気や運営ぶりなどを知るには、現地で体験した人の話が貴重である。
 ユーロは、フランス全土にわたる「広域開催」だった。
 オリンピックは、1都市で多数のスポーツを行う「集中開催」だが、サッカーだけは、試合を地方都市に分散して行う「広域開催」である。
 将来の国際スポーツ大会は「集中開催」から「広域開催」へと変わっていくだろうと、ぼくは考えている。
 そうであれば、広域開催の運営に、どんな問題があるかを、考えておく必要がある。
 そういう意味で「サロン2002」での報告は興味深かった。

★航空便とバス
 広域開催の問題の一つは「移動」である。
 2016年ユーロの場合はフランス全域に、リオ五輪のサッカーではブラジル全域に会場が分散している。
 チームにとっては「移動」は、それほど問題ではない、
 航空便とホテルは、あらかじめ確保されているからである。
 グループリーグの成績によって移動先は変るが、大会運営当局が、勝ったチームと負けたチームの航空便と宿泊施設を、それぞれ確保している。
 しかし、サポーターと取材のジャーナリストにとっては問題である。
 フォローしているチームの次の試合地に行かなければならないが、勝った場合と負けた場合の両方の飛行機便とホテルを、予約しておくのは難しいし、経費もムダになる。
 ただし、ぼく自身の経験では、ジャーナリストの場合は、予約しておかなくても、なんとかなる。

★夜行バスでの往復
 自国チームが勝ち進むことを想定していた国のサポーターが、敗退するとキャンセルするから「空き」が出る。
 しかし、サポーターのツアーは、そうはいかない。
 実際には、負けたチームのサポーター・ツアーのキャンセルで、航空便にも、ホテルにも「空き」がでるのだが、お客さんを募集するとき、次の行き先への航空便や宿泊施設が分らないままというわけにはいかない。
 ただし、これは、日本のツアーをヨーロッパに連れて行った場合の問題である。
 ユーロでは、フランス以外の国からの欧州のサポーター・ツアーは、貸切バスでやってきて、夜の試合が終わると、そのままバスで帰国していたという。
 ユーロの国の間の高速道路網が整備されたので、夜行バスによる往復が、ふつうになっているようである。
 海を隔てたイングランドでも、フランスとの間には海底トンネルがあるので、バスによる往復が行われている。


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サッカー日誌 / 2016年09月02日


ドーピングとリオ五輪(下)


興奮剤から筋肉増強剤へ

スポーツ記者としての取材歴
(1956年~   )

★イタリアの自転車競技
 スポーツ記者として、ドーピングとは長い付き合いである。
 1956年の3月に東京新聞の運動部(スポーツ部)で働き始めた。
 最初に与えられた仕事が、外電の翻訳だった。
 AP、AFPなどの外国通信社の報道(外電)は、英語のテレックスで入ってくる。
 それを受けて日本語に翻訳するのは外報部(国際部)の仕事だが、どういうわけか、スポーツの外電だけは、英文のまま運動部に持ってこられた。
 そのなかで、日本の新聞に掲載すべきものを選んで翻訳するのが、新人記者に与えられた仕事だった。
 イタリアの自転車ロードレースで、興奮剤を使用した選手が死亡した記事があった。
 重要だと思って翻訳したが、紙面に掲載されたかどうかは記憶していない。

★日本の重量挙げの違反
 そのころ、ドーピングは、日本では知られていなかったし、自転車競技も盛んでなかったから、おそらくは「ボツ(没)」になっただろう。
 しかし、薬物によってスポーツの能力を高める手段があり、それが危険を伴うことは、ぼく個人にとってはショッキングな新知識だった。
 1967年だったと思うが、メキシコで行われた大会で、日本の重量挙げ選手がドーピングで失格になったことがある。
 日本側は「ドーピングを行ったことはない」と否定したが、認められず、事実関係は、うやむやに終わった。
 1976年モントリオール・オリンピックのとき、現地で、東ドイツの水泳チームの練習の様子を取材したことがある。 ティーンエージャーの女子選手の肩の筋肉が、重量挙げ選手のようにモリモリと盛り上がっているのを見て「筋肉増強ホルモンを使っているに違いない」と思った。

★札幌冬季オリンピック
 「特ダネ」のつもりで送稿したが、ドーピングをした証拠のない記事なので「ボツ」になったと記憶している。
 1972年の札幌冬季オリンピックのとき、東ドイツのアイスホッケー・チームの主将がドーピングで摘発された。
 これは、ぼくの国際的な「特ダネ」だった。
 欧州では、ぼくの「特ダネ」は、かなり評価してもらえたが、日本では読売新聞北海道版社会面の全面を埋める大扱いだったにも関わらず、どういうわけか、社長賞をもらえなかった。これは、くやしい思い出である。
 そういうわけで、ドーピングには、特に関心を持っている。
 最初のころは、興奮剤が問題だった。戦争中に戦闘機乗りの集中力を高めるために使われた薬が「ヒロポン」という名で出回っていた。
 次いで、持久力を高めるための「血液ドーピング」などが問題になった。
 いま取り上げられているのは、主として筋肉増強ホルモンのようである。


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