サッカー日誌 / 2008年06月24日


最終予選進出までの岡田用兵


W杯アジア3次予選
タイ 0対3 日本 (6月14日・バンコク)
日本 1対0 バーレーン (6月22日・埼玉スタジアム)

★今後の戦い方を占う
 南アフリカ大会をめざす日本代表チームがアジア最終予選進出を決めた。岡田武史監督は「ほっと一息」である。これから本格的な岡田監督自身のチーム作りと戦いがはじまる。
 オシム監督が病に倒れたあとを突然引き継いだとき、オシムが築いてきた土台を壊してゼロから作り直すわけにはいかなかった。とにかく目前の3次予選を1試合、1試合勝っていかなければならなかった。だから、全面的に岡田色を出すことはできなかった。
 しかし、その間の試合でも、岡田監督の「考え」をうかがうことはできた。とくに6月の連戦シリーズでは、欧州組が帰国して手ごまが豊富になり、選択肢が増えたから、試合ごとの用兵から、今後の最終予選の戦い方を想像することができた。
 6月2日のホームでの対オマーン戦以後の3試合を、岡田監督は、ケガなどによるやむを得ない変更を除いて、ほぼ同じメンバーと布陣で戦った。

◆バンコクで俊輔を強行起用
 バンコクで行われたタイとの試合で足首を痛めている中村俊輔も出場させた。1週間前、酷暑のマスカットでのオマーン戦は1対1で引き分けに終わっている。だから、このバンコクでは、どうしても勝たなければならない。そのための強行起用だったのではないか。
 6月シリーズの最初の試合はホームでオマーンに3対0で快勝した。その勢いを保って、同じメンバーで勝ち抜こうという考えだろう。これは、まともな考え方である。
 しかし、勝負の世界では別の考え方もある。
 3次予選も終盤になって、相手のようすも、今後の見通しも読めるようになってきた。
 ここでは、今後のことを考えた選手起用をするのも一つの手である。つまり俊輔を休ませて足首をしっかり治させる一方、俊輔なしの布陣を試みてみるのである。もちろん、まだ最終予選進出確実という段階ではないから、これは一つの「賭け」である。

★地元でバーレーンに幸運な勝利 
 3次予選の最終戦は、日本もバーレーンも、ともに最終予選進出が決定済みで、いわゆる消化試合だった。それでも岡田監督は「勝ちにこだわる」と宣言した。
 中村俊輔は90分間フル出場した。岡田監督は「足首は完全に直っている」といい、「勝ちにこだわって」強行起用したのではないことを説明した。
 欧州組の松井と長谷部は、それまでに警告1回を受けているので温存した。この試合で警告が累積して最終予選の第1戦に出場停止になるのを恐れたのである。そのために中盤で中村俊輔と中村憲剛のコンビを見ることができた。2人とも中盤でのプレーは、ひときわ抜けていた。中盤の新しい組み合わせを試みることができたのは収穫である。
 終了間際に、相手ゴールキーパの判断ミスで1点が転がり込んで、ラッキーな勝利。岡田監督は大喜びのガッツポーズだったが、この勝利にあまり意味はない。
 
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サッカー日誌 / 2008年06月11日


アウエーの用兵は適切だったか?


W杯アジア3次予選、対オマーン(下)
(オマーン 1対1 日本、6月7日・マスカット)

★結果として引き分けは上出来
 オマーンとの第2戦をアウエーで引き分けたのは結果としては上出来だった。勝ち点1を加えて、3次予選突破は有力となった。
 テレビ中継で見る限り、選手たちは悪条件のなかで、よくがんばっていた。ホームでの第1戦から中4日、飛行機で12時間の旅のあとである。時差5時間。気温は40度に近く、湿度は50%を越していた。運動量が落ちたのはやむをえない。それでも、パスを確実につなぎ、相手の個人的な力による突破を、しっかり食い止めていた。スタッフの対策と選手たちの体調管理がよかったのだろうと思う。
 ただし、岡田監督の用兵には議論の余地がある。
 先発メンバーは、1人を除いて第1戦と同じだった。右サイドバックに内田篤人が起用されたが、これは長友佑都が右足首を痛めたためである。
 
★勝ったメンバーは変えない?
 快勝した第1戦とほぼ同じメンバーを使ったのは常識的な用兵である。「勝った試合のメンバーをいじるな」と、よく言われる。
 しかし、今回の場合は、選手たちが疲れているうえに酷暑の悪条件である。さらに1週間後にはバンコクでタイとのアウエーの試合を控えている。主力の一部を休ませ、第1戦では使わなかった選手を入れて活力を加えることも考えられた。
 第1戦は中盤を攻撃的なプレーヤーで構成したが、第2戦はアウエーだから守備の強い選手を起用して守りを固め、攻めは逆襲速攻を狙うのも手である。「アウエーは引き分けでもいい」というのも一つの常識だ。
 中盤には人材が多い。それぞれ特徴のあるプレーヤーである。近野泰幸、鈴木啓太、中村憲剛、山瀬功治などの、いろいろな組み合わせを考えてみることができる。

★中盤の多様な選択肢を生かせ
 しかし、岡田監督は第1戦と同じメンバーを先発させた。「これがベストの組み合わせ」と信じたからだろう。ベスト・メンバーで攻勢をかけて先取点を狙い、リードを奪ってから、守備的な構成に変えることを考えていたかもしれない。
 ところが、立ち上がりの12分にオマーンに先取点を奪われた。それで守備重視の布陣に変えることはできなくなってしまった。
 後半8分にPKで同点にできたのは幸運である。その5分後にPKをとられたが、防ぐことができたのも幸運である。1対1の引き分けは、結果としてはよかったが、岡田用兵の成功とはいえない。
 2010年のワールドカップ出場権を得るには、まだ先に長い道のりがある。中盤構成の多様な選択肢を生かして戦って行く必要があるだろう。

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サッカー日誌 / 2008年06月10日


キリンカップが用意したホームでの快勝


W杯アジア3次予選、対オマーン(上)
(日本 3対0 オマーン、6月2日・横浜日産スタジアム)

★欧州組を生かした攻撃的布陣
 日本にとって、ホームでのオマーンとの第1戦は、絶対に勝たなければならない試合だった。勝てばワールドカップ・アジア予選の最終ラウンド進出は、きわめて有望になる。負ければ非常に苦しい立ち場になる。ホームでもあり、攻撃的なサッカーをめざしたのは当然だろう。
 中盤に中村俊輔、松井、長谷部と欧州のシーズンを終えてか戻ってきた3人を起用した。この3人が、それぞれ期待通りの役割を果たした。もう一人はガンバの遠藤保仁だった。この攻撃重視の中盤の構成が3対0の快勝を生んだ。
 オマーンのできが、予想外に悪かったこともある。3人の出場停止を含め、レギュラーから5人が抜けていたという。酷暑の砂漠の国からきたオマーンの選手たちは、不慣れな気候に戸惑い、不慣れな大観衆にのまれていたようだった。
 
★長谷部の復活に目をみはる
 前の週に行われたキリンカップで欧州組を使ってみることができたのが、岡田監督にとって非常に役立ったように思う。
 5月24日に豊田スタジアムで行われたコートジボアールとの試合では、ドイツのウォルフスブルクで4カ月を過ごした長谷部誠の復活に目をみはった。
 前半21分の玉田圭司のボレーシュートをお膳立てしたのは長谷部だった。右に走り出て、今野泰幸からのパスを受け、すばやくゴール前へ出した。これが、この試合で唯一の得点だった。
 このプレー以上に感心したのは、守りでの貢献である。
 他の守備プレーヤーとの連係の判断と動きがいい。グループによる守りに、スムーズに溶け込んでいた。
 
★松井-俊輔の胸のすくゴール
 松井はコートジボアール戦では先発して後半30分までプレーし、5月27日に埼玉スタジアムで行われたパラグアイとの試合では、後半から遠藤に代わって出場した。俊輔はパラグアイ戦に出場した。パラグアイ戦は0対0の引き分けだったが、中盤の人材の組み合わせの選択肢が多いことが分かった。
 その選択肢のなかから、ホームのオマーン戦では、欧州組を生かした攻撃的布陣を選んだわけである。
 前半10分の1点目はコーナーキックから中澤佑二のヘディング、22分の2点目は俊輔の好判断による長いパスが闘莉王の攻め上がりを生かして大久保嘉人のゴール、後半開始直後の3点目は松井-俊輔の欧州コンビがテクニックを生かして俊輔の右足シュート。 
 ホームの利をフルに生かして、胸のすく勝利だった。


 
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サッカー日誌 / 2008年06月04日


長沼 健さんの思い出


クラマーが絶賛した勝ち越し点
(日本サッカー協会元会長、6月2日、病気のため逝去 )

★新潟の実業団選手権
 長沼健さんの業績と人柄は、いろいろな人が語っている。古河電工の黄金時代を築いた選手として、二つのオリンピックを率いて銅メダルを獲得した監督として、また2002年のワールドカップを招致し開催した協会の会長として……。
 ここでは、あまり知られていないエピソードを、一つだけ紹介しておこう。
 それは、1961年7月に新潟で開かれた第14回全日本実業団選手権大会の決勝戦のときの話である。
 この大会の決勝戦は、古河電工対日立本社で、前半は1対1。後半は古河が押されっぱなしだった。しかし古河は、後半26分に勝ち越し点をあげ、それがきっかけで劣勢を回復して、結局、3対1で優勝した。
 その勝ち越し点をあげたのがケンさんだった。
 
★プシュカシュやディ・シュテファノのよう
 この大会を、ドイツから来たデットマール・クラマーさんが観戦していた。クラマーさんは、ケンさんが勝ち越し点をあげたのを見ると、すぐ記者席のぼくのところに来て「いまのゴールを見たか。勝つチームにはああいうスター・プレーヤーが必要だ」とまくし立てた。「ヨーロッパで人気のあるプシュカシュやディ・シュテファノも、チームの中で長沼と同じ役割をしている」とオーバーなくらいの、ほめようだった。
 この大会の総評を、ぼくが協会の雑誌「サッカー」12号(1961年8月号)に書いているが、それにはクラマーさんが「長沼を全日本に入れていないのは誤りだった」と話したとある。この書き方だと、長沼を日本代表で起用しなかったのは、自分の責任だと言っているようにもとれるが、実は前から長沼起用を進言していたのに、サッカー協会の幹部が、30歳の年齢を理由に聞き入れないのに不満を持ち、それを記者席に来てぶつけたらしい。
 
★スター・プレーヤーの存在感
 当時は、夏の暑いさなかに5日連続5試合である。両チームとも疲労のどん底だった。
 後半、古河の選手たちが下がりっきりで防戦に追われているなかで、ケンさんは前線に残ってぶらぶらしていた。そこへ逆襲のボールが出た。ケンさんは、にわかに元気を出してドリブルで突進し、日立のバックをかわしてキーパーの頭上をカーブして越すシュートをネットの左隅に決めた。
 ケンさんに、クラマーがほめていた話をすると「偶然、偶然。センタリングするつもりが、つま先に当たって、まがったんだよ」と言っていた。
 しかし、クラマーがほめたのは、シュートのテクニックではない。ベテランとしてチームのなかにいることによって、チーム全体ががんばることができる。そして、ここぞというときに、ピシッと決める。そういう存在感が当時のレアル・マドリードのスーパースターと同じだというのである。

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