ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2015年07月28日
新国立競技場計画の見直し(補-追加2)
「アスリート」のために?
日曜討論「国立競技場をどうする」
(7月26日、NHK総合テレビ、ラジオ第1)
★問題は「建設費」ではない
新国立競技場の問題を放送の政治番組がとりあげた。
日曜日午前のNHK 「日曜討論」である。
この番組では、各党の幹事長あるいは政調会長が参加して政治問題を生中継で討論する。
7月最終週のテーマは、前半が新国立競技場問題だった。
この番組を視聴して、ちょっと安心した。
というのは、どの党も、新国立競技場の「オリンピック後の利用」が問題であることを認識していたからである。
新国立競技場は2520億円の総工費が焦点になっていた。
しかし、問題の本質は「建設費」の額ではない。
建設費と維持費に見合う「利用価値」があるかどうか、である。
高速道路やダムの建設では、はるかに高額な工事も少なくはない。
しかし、それをすべて「ムダ」ということは、できない。
★将来の活用の見通し
税金を負担する住民にとって、高速道路やダムが大いに役立つのであれば巨額の投資をする価値はある。
また、その投資を回収するために、高速道路通行料の徴収やダムの下流の利用者(住民など)への用水料金加重などの方法もとられている。
新国立競技場の場合は、どうだろうか?
オリンピック後もスポーツのために役立ち、その使用料で建設費と維持管理費が償却できる見通しであれば、巨額の投資もムダではない。
しかし、国立競技場の場合は、将来、陸上競技で活用できる見通しも、使用料で維持できる見通しもない。
したがって「サブトラック常設」の陸上競技場として維持するのは難しい。
「サブトラック」の問題も、日曜討論のなかで取り上げられた。これもよかった。
★陸上競技だけのため?
新国立競技場の見直しについて「アスリートの声を聞くべきだ」という意見が強調されていた。
これには、いささか問題がある。
英国英語では Athlete は「陸上競技(Athletics)」の選手のことである。
そうすると「アスリートのために」は「陸上競技の選手のために」ということになる。
つまり、新国立球技場は、サブラック常設の「陸上競技場にするべきだ」ということである。
そうであれば、巨額な投資は、将来、大きな赤字を生む。
ただし,米国英語では陸上競技はTrack and Fieldである。
Athleteは「運動選手」(スポーツ選手)を指す。
カタカナ英語の「アスリート」は、まぎらわしい。
新国立競技場は、陸上競技だけのために建設されるのだろうか?
日曜討論「国立競技場をどうする」
(7月26日、NHK総合テレビ、ラジオ第1)
★問題は「建設費」ではない
新国立競技場の問題を放送の政治番組がとりあげた。
日曜日午前のNHK 「日曜討論」である。
この番組では、各党の幹事長あるいは政調会長が参加して政治問題を生中継で討論する。
7月最終週のテーマは、前半が新国立競技場問題だった。
この番組を視聴して、ちょっと安心した。
というのは、どの党も、新国立競技場の「オリンピック後の利用」が問題であることを認識していたからである。
新国立競技場は2520億円の総工費が焦点になっていた。
しかし、問題の本質は「建設費」の額ではない。
建設費と維持費に見合う「利用価値」があるかどうか、である。
高速道路やダムの建設では、はるかに高額な工事も少なくはない。
しかし、それをすべて「ムダ」ということは、できない。
★将来の活用の見通し
税金を負担する住民にとって、高速道路やダムが大いに役立つのであれば巨額の投資をする価値はある。
また、その投資を回収するために、高速道路通行料の徴収やダムの下流の利用者(住民など)への用水料金加重などの方法もとられている。
新国立競技場の場合は、どうだろうか?
オリンピック後もスポーツのために役立ち、その使用料で建設費と維持管理費が償却できる見通しであれば、巨額の投資もムダではない。
しかし、国立競技場の場合は、将来、陸上競技で活用できる見通しも、使用料で維持できる見通しもない。
したがって「サブトラック常設」の陸上競技場として維持するのは難しい。
「サブトラック」の問題も、日曜討論のなかで取り上げられた。これもよかった。
★陸上競技だけのため?
新国立競技場の見直しについて「アスリートの声を聞くべきだ」という意見が強調されていた。
これには、いささか問題がある。
英国英語では Athlete は「陸上競技(Athletics)」の選手のことである。
そうすると「アスリートのために」は「陸上競技の選手のために」ということになる。
つまり、新国立球技場は、サブラック常設の「陸上競技場にするべきだ」ということである。
そうであれば、巨額な投資は、将来、大きな赤字を生む。
ただし,米国英語では陸上競技はTrack and Fieldである。
Athleteは「運動選手」(スポーツ選手)を指す。
カタカナ英語の「アスリート」は、まぎらわしい。
新国立競技場は、陸上競技だけのために建設されるのだろうか?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月26日
新国立競技場計画の見直し(補-追加)
ラグビーW杯への影響
森喜朗・五輪組織委会長の記者会見
(7月22日、日本記者クラブ)
★開幕と決勝は横浜日産へ
新国立競技場の計画を白紙に戻して見直すことになったために、2019年に日本で開催されるラグビーのワールドカップの計画も見直しが必要になった。
ラグビーのワールドカップは、開幕試合と決勝戦を新国立競技場で行なうことになっていた。
しかし、新国立競技場の計画が見直されると、工事は東京オリンピックが開かれる2020年までかかる見込みである。
前年のラグビー・ワールドカップには間に合わない。
そこで、ラグビー・ワールドカップのメーン会場は、横浜日産スタジアムに変更される見通しである。
国際統括団体「ワールドラグビー」(WR)は「新しいナショナル・スタジアムを使えないのは残念だ」とコメントしたと伝えられている。
しかし、横浜日産スタジアムへの会場変更は、ラグビー・ワールドカップにとって大きな痛手ではない。
★当初の計画に戻る。
もともと、日本ラグビー協会は「ワールドカップ」招致に乗り出したとき、横浜日産スタジアムをメーン会場として申請書に記載していた。
その後、文部科学省が国立競技場を改築する予定であることが明らかになったので、日本ラグビー協会の森喜朗会長などの運動で、新国立競技場の計画をラグビー・ワールドカップに間に合うようにした。
念のために付け加えると、国立競技場の改築が必要になったのは、ラグビーのためでも、オリンピックのためでもない。
建設後60年以上たち、老朽化したためである。
前の国立競技場ができたのは、1958年、第3回アジア競技大会東京大会のときである。
そういうわけで、ラグビー・ワールドカップのメーン会場は当初の計画に戻っただけである。ラグビーにとって、それほど深刻な問題ではない。
★収入面で痛手か?
新国立競技場計画の見直しとラグビーW杯との関係について、7月18日付けの読売新聞(東京版)に、かなり詳しい記事が載っていた。
「W杯、収入面でも痛手」という見出しがついていた。
新国立競技場は8万人収容の予定だったが、横浜日産スタジアムの定員は7万2千人である。
この8千人の収容能力の差によって、入場料で「億単位の減収が見込まれる」という内容である。
そうだろうか?
横浜日産スタジアムは、陸上競技場である。9レーンの陸上競技のトラックがある。
そのトラックの上に張り出して「仮設」のスタンドを増設することができる。
新国立競技場でも、球技のときにはトラックに張り出す座席が計画されていた。また1万5千席は「仮設」だった。
ラグビー・ワールドカップにとって重要なのは、横浜日産スタジアムを満員にできるかどうか、である。
森喜朗・五輪組織委会長の記者会見
(7月22日、日本記者クラブ)
★開幕と決勝は横浜日産へ
新国立競技場の計画を白紙に戻して見直すことになったために、2019年に日本で開催されるラグビーのワールドカップの計画も見直しが必要になった。
ラグビーのワールドカップは、開幕試合と決勝戦を新国立競技場で行なうことになっていた。
しかし、新国立競技場の計画が見直されると、工事は東京オリンピックが開かれる2020年までかかる見込みである。
前年のラグビー・ワールドカップには間に合わない。
そこで、ラグビー・ワールドカップのメーン会場は、横浜日産スタジアムに変更される見通しである。
国際統括団体「ワールドラグビー」(WR)は「新しいナショナル・スタジアムを使えないのは残念だ」とコメントしたと伝えられている。
しかし、横浜日産スタジアムへの会場変更は、ラグビー・ワールドカップにとって大きな痛手ではない。
★当初の計画に戻る。
もともと、日本ラグビー協会は「ワールドカップ」招致に乗り出したとき、横浜日産スタジアムをメーン会場として申請書に記載していた。
その後、文部科学省が国立競技場を改築する予定であることが明らかになったので、日本ラグビー協会の森喜朗会長などの運動で、新国立競技場の計画をラグビー・ワールドカップに間に合うようにした。
念のために付け加えると、国立競技場の改築が必要になったのは、ラグビーのためでも、オリンピックのためでもない。
建設後60年以上たち、老朽化したためである。
前の国立競技場ができたのは、1958年、第3回アジア競技大会東京大会のときである。
そういうわけで、ラグビー・ワールドカップのメーン会場は当初の計画に戻っただけである。ラグビーにとって、それほど深刻な問題ではない。
★収入面で痛手か?
新国立競技場計画の見直しとラグビーW杯との関係について、7月18日付けの読売新聞(東京版)に、かなり詳しい記事が載っていた。
「W杯、収入面でも痛手」という見出しがついていた。
新国立競技場は8万人収容の予定だったが、横浜日産スタジアムの定員は7万2千人である。
この8千人の収容能力の差によって、入場料で「億単位の減収が見込まれる」という内容である。
そうだろうか?
横浜日産スタジアムは、陸上競技場である。9レーンの陸上競技のトラックがある。
そのトラックの上に張り出して「仮設」のスタンドを増設することができる。
新国立競技場でも、球技のときにはトラックに張り出す座席が計画されていた。また1万5千席は「仮設」だった。
ラグビー・ワールドカップにとって重要なのは、横浜日産スタジアムを満員にできるかどうか、である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月25日
新国立競技場計画の見直し(補)
計画の責任者は誰か?
森喜朗・五輪組織委会長の記者会見
(7月22日、日本記者クラブ)
★五輪組織委の責任ではない
新国立競技場計画の見直しは、政治の世界を巻き込む大きな問題になった。
この混乱を起こした「責任者」は誰か?
東京オリンピック組織委員会の森喜朗会長は、日本記者クラブの会見で「組織委員会の責任ではない」と弁明した。
組織委員会の会長としては、もっともな発言である。
組織委員会は、大会開催のために競技場を借りる立ち場であって、競技場を作る立ち場ではない。
「国立」の競技場だから、建設の責任は政府にある。所管官庁は文部科学省である。
そういう筋道では、責任者は文部科学大臣である。
しかし大臣は内閣が変わるごとに変わる。
大臣個人を追及しても意味はない。
文部科学省の官僚を、誰が、何のために、動かしたのか?
実際に計画を作り、推進していたのは誰なのか?
★建築専門家の責任
推進したのは、日本スポーツ振興センター(JSC)であり、その責任者は河野一郎理事長である。
JSCは文部科学省の外郭団体で、国立競技場とスポーツ振興資金(トト)を管理している。
そのJSCが、新国立競技場計画の根回しをした。
JSCが、委員会を作り、建築家などの専門家やスポーツ団体の会長などを集めて審議を求めた。
適切な結論を出さなかった委員会のメンバーに、もちろん責任はある。とくに、著名な建築家の安藤忠雄さんの責任を問う声があるのは当然である。
安藤さんは、デザイン選定の責任者の一人だった。
選んだデザインが、当初の予算枠である1300億円では建設できないことを、建築の専門家として想定できなかったはずはない。それを、その場で指摘しなかったのであれば、無責任である。
★責任者はJSL理事長
しかし、委員会や審議会の意見を聞いて、それが適切かどうかを判断し、実行するのは所管の官庁、あるいはその外郭団体である。
新国立競技場の場合はスポーツ振興センター(JSC)である。その責任者は、河野一郎理事長である。
河野一郎さんは、もともと、お医者さんで、ラグビーのチームドクターだった。
というわけで、河野理事長の背後には、日本ラグビー協会会長の森喜朗さんがいると思われている。森さんは元内閣総理大臣で政界、官界に大きな影響力を持っている。
だから、森元首相の「子分」の河野一郎JSL理事長の責任を表に出せないのではないか?
森元首相は、日本記者クラブの会見で「役所の組織と機構の問題で、個人の責任を追及してもプラスにはならない」と述べた。
ラグビーの身内をかばう発言に聞こえた。
森喜朗・五輪組織委会長の記者会見
(7月22日、日本記者クラブ)
★五輪組織委の責任ではない
新国立競技場計画の見直しは、政治の世界を巻き込む大きな問題になった。
この混乱を起こした「責任者」は誰か?
東京オリンピック組織委員会の森喜朗会長は、日本記者クラブの会見で「組織委員会の責任ではない」と弁明した。
組織委員会の会長としては、もっともな発言である。
組織委員会は、大会開催のために競技場を借りる立ち場であって、競技場を作る立ち場ではない。
「国立」の競技場だから、建設の責任は政府にある。所管官庁は文部科学省である。
そういう筋道では、責任者は文部科学大臣である。
しかし大臣は内閣が変わるごとに変わる。
大臣個人を追及しても意味はない。
文部科学省の官僚を、誰が、何のために、動かしたのか?
実際に計画を作り、推進していたのは誰なのか?
★建築専門家の責任
推進したのは、日本スポーツ振興センター(JSC)であり、その責任者は河野一郎理事長である。
JSCは文部科学省の外郭団体で、国立競技場とスポーツ振興資金(トト)を管理している。
そのJSCが、新国立競技場計画の根回しをした。
JSCが、委員会を作り、建築家などの専門家やスポーツ団体の会長などを集めて審議を求めた。
適切な結論を出さなかった委員会のメンバーに、もちろん責任はある。とくに、著名な建築家の安藤忠雄さんの責任を問う声があるのは当然である。
安藤さんは、デザイン選定の責任者の一人だった。
選んだデザインが、当初の予算枠である1300億円では建設できないことを、建築の専門家として想定できなかったはずはない。それを、その場で指摘しなかったのであれば、無責任である。
★責任者はJSL理事長
しかし、委員会や審議会の意見を聞いて、それが適切かどうかを判断し、実行するのは所管の官庁、あるいはその外郭団体である。
新国立競技場の場合はスポーツ振興センター(JSC)である。その責任者は、河野一郎理事長である。
河野一郎さんは、もともと、お医者さんで、ラグビーのチームドクターだった。
というわけで、河野理事長の背後には、日本ラグビー協会会長の森喜朗さんがいると思われている。森さんは元内閣総理大臣で政界、官界に大きな影響力を持っている。
だから、森元首相の「子分」の河野一郎JSL理事長の責任を表に出せないのではないか?
森元首相は、日本記者クラブの会見で「役所の組織と機構の問題で、個人の責任を追及してもプラスにはならない」と述べた。
ラグビーの身内をかばう発言に聞こえた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月24日
新国立競技場計画の見直し(下)
スタジアム全体を仮設に!
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★神宮外苑の将来像
新国立競技場を相来も陸上競技で使えるようにするためには、サブトラックを常設にする必要がある。
そのためには、東京中心部の緑の敷地に400mのトラックをもつ陸上競技施設を二つ作ることになる。
これは都民のための貴重な公園の景観と環境を損なう。
8万人の巨大スタンドも景観と環境を損なう問題である。
スポーツ施設か?
都市環境のための公園か?
これが基本的な問題である。
国立競技場を建て直す前に、まず考えるべきことは「神宮外苑を将来、どう使うか?」だった。
東京の中心部の貴重な公園である。
そこを作り直す機会に、東京都全体の都市計画との関係を明らかにして、外苑の将来像を示すべきだった。
★三つの選択肢
おおまかに言って、三つの選択肢があった。
一つは、明治天皇の遺徳を偲ぶ公園として残すことを基本とし、老朽化している施設をリニューアルすることだった。これは,従来の神宮外苑の景観の保存である。
第二は、巨大化した東京の現状に応じて、大都市の中の「緑の公園」として新たにデザインすることだった。これは「環境重視の新都市計画」を作ることである。
第三には、国を代表する「総合スポーツセンター」として再整備することだった。これはオリンピックのためである。
いまとなっては、2020年の東京オリンピックに間に合わせるために、第三の選択肢しかない。
そこで、とんでもないアイデアが浮かんだ。
「環境か? スポーツ施設か?」の問題を、オリンピック後に先送りする案である。
★五輪後に解体して転用
2020年の東京オリンピックを考えれば、神宮外苑に陸上競技場を建設するほかはない。
しかし、それは環境と景観の破壊をともなう。
8万人収容の巨大なスタンドも、将来の利用の可能性に疑問があるだけでなく、環境と景観を損なう。
そうであれば、とりあえずオリンピックに必要な競技場を仮設で作り、大会後に取り壊して、改めて神宮外苑の「あり方」を考えてはどうか?
スタジアム全体を、オリンピックのためだけの「仮設」にするわけである。
突拍子もない考えだと思われるかもしれないが、現在の案でも、8万人のスタンドのうち1万5千人分は仮設である。
また仮設の新国立競技場全部がムダになるわけではない。施設の大部分は、オリンピック後に、各地の新施設に転用できる。
技術的、経費的には、大きな問題ではないだろう。
検討に値すると思うが、どうだろうか?
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★神宮外苑の将来像
新国立競技場を相来も陸上競技で使えるようにするためには、サブトラックを常設にする必要がある。
そのためには、東京中心部の緑の敷地に400mのトラックをもつ陸上競技施設を二つ作ることになる。
これは都民のための貴重な公園の景観と環境を損なう。
8万人の巨大スタンドも景観と環境を損なう問題である。
スポーツ施設か?
都市環境のための公園か?
これが基本的な問題である。
国立競技場を建て直す前に、まず考えるべきことは「神宮外苑を将来、どう使うか?」だった。
東京の中心部の貴重な公園である。
そこを作り直す機会に、東京都全体の都市計画との関係を明らかにして、外苑の将来像を示すべきだった。
★三つの選択肢
おおまかに言って、三つの選択肢があった。
一つは、明治天皇の遺徳を偲ぶ公園として残すことを基本とし、老朽化している施設をリニューアルすることだった。これは,従来の神宮外苑の景観の保存である。
第二は、巨大化した東京の現状に応じて、大都市の中の「緑の公園」として新たにデザインすることだった。これは「環境重視の新都市計画」を作ることである。
第三には、国を代表する「総合スポーツセンター」として再整備することだった。これはオリンピックのためである。
いまとなっては、2020年の東京オリンピックに間に合わせるために、第三の選択肢しかない。
そこで、とんでもないアイデアが浮かんだ。
「環境か? スポーツ施設か?」の問題を、オリンピック後に先送りする案である。
★五輪後に解体して転用
2020年の東京オリンピックを考えれば、神宮外苑に陸上競技場を建設するほかはない。
しかし、それは環境と景観の破壊をともなう。
8万人収容の巨大なスタンドも、将来の利用の可能性に疑問があるだけでなく、環境と景観を損なう。
そうであれば、とりあえずオリンピックに必要な競技場を仮設で作り、大会後に取り壊して、改めて神宮外苑の「あり方」を考えてはどうか?
スタジアム全体を、オリンピックのためだけの「仮設」にするわけである。
突拍子もない考えだと思われるかもしれないが、現在の案でも、8万人のスタンドのうち1万5千人分は仮設である。
また仮設の新国立競技場全部がムダになるわけではない。施設の大部分は、オリンピック後に、各地の新施設に転用できる。
技術的、経費的には、大きな問題ではないだろう。
検討に値すると思うが、どうだろうか?
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月23日
新国立競技場計画の見直し(中)
サッカーでも使えない
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★協会は計画通りを要求
新国立競技場計画の見直しについて、日本サッカー協会は当初の計画通りを要求した。
「8万人収容の屋内スタジアムを」ということである。
この要求は、2020年東京オリンピックのあと「主としてサッカーで使うことができる」という想定に基づいている。
8万人のスタジアムを埋めることができる可能性があるのは、いまの日本では、サッカーの国際試合だけである。
6万人規模の横浜・日産スタジアムと埼玉スタジアムでも、日本代表の試合で満員札止めになることがある。
そういう事情を考えれば「8万人収容のスタジアムが欲しい」という要求は理解できる。
しかし、新国立競技場は、東京オリンピックのあと、サッカーで利用できる状態になるのだろうか?
一つの問題は「使用料」である。
建設費と維持費を賄うには、使用料はかなり高額になる。
★使用料が週1億3500万円以上?
かりに建設費を2000億円とする。
年間の維持管理費を1年、30億円とする。
これは、現在想定されているよりも低い金額である。
競技場の耐用年数50年とする。現在の鉄筋コンクリートの構造物が建て替えられる平均的な年数である。
維持管理費の50年分は1500億円になる。
これに、50年後に建て替えるための建設費を加えると総額3500億円になる。金利などを考慮しない単純計算である。
50年で割ると1年あたり70億円である。
1年は52週である。
建設費の償却と維持費を、独立採算で賄うには、週の使用料を約1億3460万円以上にしなければならない。
スポーツ団体が支払える金額ではない、
サッカーでも無理である。
使用料が高額であれば、既設の埼玉あるいは横浜の日産スタジアムを使ったほうがいい。
★芝生を維持できない
もう一つの問題は「芝生」である。
屋根付きスタジアムで、天然芝を育てるのは難しい。
天然芝を維持するには、使用頻度を制限するとともに、朝日がさんさんと照ることが必要である。
総屋根では不可能である。スタンドだけの屋根でも、東側に大屋根があると芝生は育たない。
植え替え用の芝生の育成には、特別の用地と経費がいる。
そういうわけで、新国立競技場ができても、サッカーが使用する可能性は低い。
日本サッカー協会は、そういう事情を理解しているのだろうか?
そのうえで「総屋根、8万人収容」を要求しているのだろうか?
東京に、どんなサッカー場が必要かは、オリンピック施設とは別に考えたほうがいい。
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★協会は計画通りを要求
新国立競技場計画の見直しについて、日本サッカー協会は当初の計画通りを要求した。
「8万人収容の屋内スタジアムを」ということである。
この要求は、2020年東京オリンピックのあと「主としてサッカーで使うことができる」という想定に基づいている。
8万人のスタジアムを埋めることができる可能性があるのは、いまの日本では、サッカーの国際試合だけである。
6万人規模の横浜・日産スタジアムと埼玉スタジアムでも、日本代表の試合で満員札止めになることがある。
そういう事情を考えれば「8万人収容のスタジアムが欲しい」という要求は理解できる。
しかし、新国立競技場は、東京オリンピックのあと、サッカーで利用できる状態になるのだろうか?
一つの問題は「使用料」である。
建設費と維持費を賄うには、使用料はかなり高額になる。
★使用料が週1億3500万円以上?
かりに建設費を2000億円とする。
年間の維持管理費を1年、30億円とする。
これは、現在想定されているよりも低い金額である。
競技場の耐用年数50年とする。現在の鉄筋コンクリートの構造物が建て替えられる平均的な年数である。
維持管理費の50年分は1500億円になる。
これに、50年後に建て替えるための建設費を加えると総額3500億円になる。金利などを考慮しない単純計算である。
50年で割ると1年あたり70億円である。
1年は52週である。
建設費の償却と維持費を、独立採算で賄うには、週の使用料を約1億3460万円以上にしなければならない。
スポーツ団体が支払える金額ではない、
サッカーでも無理である。
使用料が高額であれば、既設の埼玉あるいは横浜の日産スタジアムを使ったほうがいい。
★芝生を維持できない
もう一つの問題は「芝生」である。
屋根付きスタジアムで、天然芝を育てるのは難しい。
天然芝を維持するには、使用頻度を制限するとともに、朝日がさんさんと照ることが必要である。
総屋根では不可能である。スタンドだけの屋根でも、東側に大屋根があると芝生は育たない。
植え替え用の芝生の育成には、特別の用地と経費がいる。
そういうわけで、新国立競技場ができても、サッカーが使用する可能性は低い。
日本サッカー協会は、そういう事情を理解しているのだろうか?
そのうえで「総屋根、8万人収容」を要求しているのだろうか?
東京に、どんなサッカー場が必要かは、オリンピック施設とは別に考えたほうがいい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月22日
新国立競技場計画の見直し(上)
サブトラックをどうするか?
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★政治の決断を評価する
新国立競技場の問題は、7月に入って急展開した。
政府は、これまでの計画を「白紙に戻して、新たな計画を策定する」ことにした。
この決断は見事である。
官僚が推し進めている計画を、国民の声を聞いて変更させる。これこそ「政治」の役割である。
しかし、これで問題が解決したわけではない。
新計画は、これから立てられることになるが、その方向は限られている。
2020年の東京オリンピックのために、神宮外苑に陸上競技場が再建される。オリンピックのためには、8万人収容のサタンドが要求されている。
しかし、東京オリンピックのあとに、陸上競技会で8万人のスタンドを活用できるだろうか?
問題は、東京オリンピック後の活用である。
★練習トラックは仮設
陸上競技場としては、もう一つ、問題がある。
サブトラック(ウォーミング・アップ用)である。
現在の計画では、絵画館前の軟式野球場の広場に仮設してオリンピックの後は、もとに戻すことになっている。
これでは、オリンピックの後、新国立競技場にはサブトラックがないことになる。
陸上競技では、国際大会でも、国内大会でも、サブトラックがなければ、公式競技会とは認められない。
つまり、新国立競技場は、オリンピックのあとは、公式の陸上競技場としては使えないということである。
2020年で「使い捨て」である。
オリンピックのあとには、練習場としてしか使えない。
その陸上競技場に8万人収容のスタンドをつける。
これこそ大きな無駄遣いである。
★緑の環境と景観
そういうわけで、日本陸上競技連盟(陸連)は、東京オリンピックのあとサブトラックを残すことを要望している。
陸連としては、当然である。
オリンピックのあとに、公式の陸上競技場として活用するためには、サブトラックを残す以外にはない。
ところが、もう一つ、問題がある。
東京都の中心部の貴重な緑の公園を、陸上競技の400mトラックが二つも占拠することになることである。
新国立競技場反対の運動は、もともと「神宮外苑の景観と環境を守ろう」という声に始まっている。
そのことを思い出せば、基本的な問題は「神宮外苑の貴重な空間をどう使うか?」である。
都民のための緑の環境保全か?
国の威信のためのスポーツ振興か?
お金がかかりすぎることだけが問題ではない。
白紙に戻して新計画を策定
(7月17日、安倍首相言明)
★政治の決断を評価する
新国立競技場の問題は、7月に入って急展開した。
政府は、これまでの計画を「白紙に戻して、新たな計画を策定する」ことにした。
この決断は見事である。
官僚が推し進めている計画を、国民の声を聞いて変更させる。これこそ「政治」の役割である。
しかし、これで問題が解決したわけではない。
新計画は、これから立てられることになるが、その方向は限られている。
2020年の東京オリンピックのために、神宮外苑に陸上競技場が再建される。オリンピックのためには、8万人収容のサタンドが要求されている。
しかし、東京オリンピックのあとに、陸上競技会で8万人のスタンドを活用できるだろうか?
問題は、東京オリンピック後の活用である。
★練習トラックは仮設
陸上競技場としては、もう一つ、問題がある。
サブトラック(ウォーミング・アップ用)である。
現在の計画では、絵画館前の軟式野球場の広場に仮設してオリンピックの後は、もとに戻すことになっている。
これでは、オリンピックの後、新国立競技場にはサブトラックがないことになる。
陸上競技では、国際大会でも、国内大会でも、サブトラックがなければ、公式競技会とは認められない。
つまり、新国立競技場は、オリンピックのあとは、公式の陸上競技場としては使えないということである。
2020年で「使い捨て」である。
オリンピックのあとには、練習場としてしか使えない。
その陸上競技場に8万人収容のスタンドをつける。
これこそ大きな無駄遣いである。
★緑の環境と景観
そういうわけで、日本陸上競技連盟(陸連)は、東京オリンピックのあとサブトラックを残すことを要望している。
陸連としては、当然である。
オリンピックのあとに、公式の陸上競技場として活用するためには、サブトラックを残す以外にはない。
ところが、もう一つ、問題がある。
東京都の中心部の貴重な緑の公園を、陸上競技の400mトラックが二つも占拠することになることである。
新国立競技場反対の運動は、もともと「神宮外苑の景観と環境を守ろう」という声に始まっている。
そのことを思い出せば、基本的な問題は「神宮外苑の貴重な空間をどう使うか?」である。
都民のための緑の環境保全か?
国の威信のためのスポーツ振興か?
お金がかかりすぎることだけが問題ではない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月19日
日本サッカー・リーグ50年(11)
プロ化への道のり
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★日産自動車の昇格
「読売クラブ」がJSLの1部に加わった翌年、1978年に日産自動車が1部に昇格した。
日産自動車は会社(企業)である。
しかし、サッカー・チームは、これまでの「実業団」とは違う形を目指していた。
永年雇用の社員をプレーヤーにするのではなく、プロのサッカー選手として短期契約した。
また読売クラブと同じように、チームとしての「プロ化」を目指した。親会社を広告スポンサーにするにしても、サッカー・チーム自体を「独立採算」の企業にするのが目標だった。
日本リーグ1部のなかに、形態は違うにせよ、プロ・サッカーを目指すチームが2つになった。
しかも、1980年代には、その2チームが優勝争いをするようになり、観客動員もリードした。
実業団の限界は、明らかだった。
★アマチュアリズムの崩壊
1980年代になって、長年にわたって日本のスポーツを縛っていた「アマチュアリズム」が崩壊した。
アマチュアリズムとは「スポーツによって、金銭的、物質的利益を得てはならない」という考え方(倫理)である。
これは、当時のオリンピックの参加規程だった。
また、日本体育協会の「アマチュア規程」では「プロとアマの組織を一緒にしてはならない」とされていた。これは日本独特の偏狭な規定である。そのために、日本ではサッカーのプロは認められない状態だった。
ところが、1984年のロサンゼルス・オリンピックの「商業化」をきっかけに、オリンピックのアマチュアリズムは崩壊した。それを受けて「体協アマチュア規程」は1986年に撤廃された。
その結果、「水面下のプロ」の形だった読売クラブと日産自動車の組織が公然と認められるようになった。
★Jの基礎を作った功労者
1993年にJリーグができたのは、その結果である。
アマチュアであることを建前としていた「実業団」が、プロを名乗るのに障害がなくなった。
日本サッカー・リーグの「実業団」が、こぞってプロになることができた。その結果がJリーグである。
Jリーグ創設の功績を、たまたま転換期の当事者だった特定の個人だけに帰するのは公正でない。
次の人びとの功績を、日本のサッカーの歴史に刻み込むべきだと、ぼくは考えている。
日本サッカー・リーグ創設のときの功労者、西村章一、重松良典、石川八郎などの諸氏である。
また、日本初のクラブ創設を推進した読売クラブ初代事務局長の笹浪栄光、実業団の新しい在り方を打ち出した日産自動車の加茂周などである。
この人たちの「提灯をもった」ジャーナリストとしての、ぼく(牛木)の功績をJSLは認めてくれた。
JSL50年のパーティーで「乾杯の音頭」をとる役割で、ぼくを壇上に上げてくれたのは、そのためだろうと、自分で勝手に考えて、感謝している。
(この項、おわり)
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★日産自動車の昇格
「読売クラブ」がJSLの1部に加わった翌年、1978年に日産自動車が1部に昇格した。
日産自動車は会社(企業)である。
しかし、サッカー・チームは、これまでの「実業団」とは違う形を目指していた。
永年雇用の社員をプレーヤーにするのではなく、プロのサッカー選手として短期契約した。
また読売クラブと同じように、チームとしての「プロ化」を目指した。親会社を広告スポンサーにするにしても、サッカー・チーム自体を「独立採算」の企業にするのが目標だった。
日本リーグ1部のなかに、形態は違うにせよ、プロ・サッカーを目指すチームが2つになった。
しかも、1980年代には、その2チームが優勝争いをするようになり、観客動員もリードした。
実業団の限界は、明らかだった。
★アマチュアリズムの崩壊
1980年代になって、長年にわたって日本のスポーツを縛っていた「アマチュアリズム」が崩壊した。
アマチュアリズムとは「スポーツによって、金銭的、物質的利益を得てはならない」という考え方(倫理)である。
これは、当時のオリンピックの参加規程だった。
また、日本体育協会の「アマチュア規程」では「プロとアマの組織を一緒にしてはならない」とされていた。これは日本独特の偏狭な規定である。そのために、日本ではサッカーのプロは認められない状態だった。
ところが、1984年のロサンゼルス・オリンピックの「商業化」をきっかけに、オリンピックのアマチュアリズムは崩壊した。それを受けて「体協アマチュア規程」は1986年に撤廃された。
その結果、「水面下のプロ」の形だった読売クラブと日産自動車の組織が公然と認められるようになった。
★Jの基礎を作った功労者
1993年にJリーグができたのは、その結果である。
アマチュアであることを建前としていた「実業団」が、プロを名乗るのに障害がなくなった。
日本サッカー・リーグの「実業団」が、こぞってプロになることができた。その結果がJリーグである。
Jリーグ創設の功績を、たまたま転換期の当事者だった特定の個人だけに帰するのは公正でない。
次の人びとの功績を、日本のサッカーの歴史に刻み込むべきだと、ぼくは考えている。
日本サッカー・リーグ創設のときの功労者、西村章一、重松良典、石川八郎などの諸氏である。
また、日本初のクラブ創設を推進した読売クラブ初代事務局長の笹浪栄光、実業団の新しい在り方を打ち出した日産自動車の加茂周などである。
この人たちの「提灯をもった」ジャーナリストとしての、ぼく(牛木)の功績をJSLは認めてくれた。
JSL50年のパーティーで「乾杯の音頭」をとる役割で、ぼくを壇上に上げてくれたのは、そのためだろうと、自分で勝手に考えて、感謝している。
(この項、おわり)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月18日
日本サッカー・リーグ50年(10)
クラブ組織のチームの参入
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★読売クラブの昇格
日本サッカーリーグ(JSL)の発足から13年目、1977年から「読売サッカー・クラブ」が、JSLの1部に加わった。
実業団(会社)チームでない「クラブ」組織のチームの参入だった。
「読売サッカー・クラブ」は1969年に創設された。創設者は、当時、読売新聞社の社主だった正力松太郎である。
読売クラブは「実業団チーム」ではない。
正力が率いる読売グループの三つの企業、読売新聞社、日本テレビ、よみうりランドが資金を出していたが、チームのメンバーは三社の従業員ではない。
読売新聞が紙面上の社告で公募した会員でスタートした。
「誰でも参加できるクラブ」という建前だった。
その「読売クラブ」の参入によって、日本リーグは実質的にも「実業団リーグ」では、なくなった。
★おとなのリーグ
「読売サッカー・クラブ」のチームは、創設されると東京リーグの3部に加盟し、関東リーグ、日本リーグ2部と上がっていって、1部に昇格した。
これが可能だったのには、二つの理由がある。
第一は、日本リーグが実業団(会社チーム)の集まりではなく、第1種登録(おとなのチーム)のリーグと規定されていたことである。
一つの企業の社員チームでなくても参加できる。だからクラブチームが昇格してきても、問題は起きなかった。
はるか後、2010年代になって、日本のバスケットボールに全国リーグが2つあることが、国際的な問題になる。
これは、長い間、日本バスケットボール・リーグが実業団チームの加盟しか認めていなかったことに原因がある。
バスケットボールは、サッカー・リーグの形だけを真似て発足し、その本質を認識していなかったのだと思う。
★下部リーグとのつながり
全国規模の日本リーグが発足すると、地域ごと、あるいは都道府県ごとのリーグ組織の再編の動きが出てきた。
関東サッカー協会でも「関東実業団サッカー・リーグ」を作ることになった。
その方針を決めることを、ぼく(牛木)は直前に知った。
そこで、関東サッカー協会の理事会が開かれる当日の朝に関東協会会長だった小長谷良策さん宛ての意見書を書いた。
休日だったが早朝に出かけて、協会の郵便受けに直接、投稿した。
「実業団リーグ」ではなく、クラブなどを含めた社会人のチームによる「関東リーグ」でなければ、ならない、という趣旨である。
幸いに、ぼくの「緊急投稿」は、小長谷さんに届いた。
関東の組織の名称から「実業団」は消えた、
都道府県、地域、全国のリーグが同じ組織でつながっている。
そのおかげで、クラブ組織のチームが、1部へ昇格できたのである。
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★読売クラブの昇格
日本サッカーリーグ(JSL)の発足から13年目、1977年から「読売サッカー・クラブ」が、JSLの1部に加わった。
実業団(会社)チームでない「クラブ」組織のチームの参入だった。
「読売サッカー・クラブ」は1969年に創設された。創設者は、当時、読売新聞社の社主だった正力松太郎である。
読売クラブは「実業団チーム」ではない。
正力が率いる読売グループの三つの企業、読売新聞社、日本テレビ、よみうりランドが資金を出していたが、チームのメンバーは三社の従業員ではない。
読売新聞が紙面上の社告で公募した会員でスタートした。
「誰でも参加できるクラブ」という建前だった。
その「読売クラブ」の参入によって、日本リーグは実質的にも「実業団リーグ」では、なくなった。
★おとなのリーグ
「読売サッカー・クラブ」のチームは、創設されると東京リーグの3部に加盟し、関東リーグ、日本リーグ2部と上がっていって、1部に昇格した。
これが可能だったのには、二つの理由がある。
第一は、日本リーグが実業団(会社チーム)の集まりではなく、第1種登録(おとなのチーム)のリーグと規定されていたことである。
一つの企業の社員チームでなくても参加できる。だからクラブチームが昇格してきても、問題は起きなかった。
はるか後、2010年代になって、日本のバスケットボールに全国リーグが2つあることが、国際的な問題になる。
これは、長い間、日本バスケットボール・リーグが実業団チームの加盟しか認めていなかったことに原因がある。
バスケットボールは、サッカー・リーグの形だけを真似て発足し、その本質を認識していなかったのだと思う。
★下部リーグとのつながり
全国規模の日本リーグが発足すると、地域ごと、あるいは都道府県ごとのリーグ組織の再編の動きが出てきた。
関東サッカー協会でも「関東実業団サッカー・リーグ」を作ることになった。
その方針を決めることを、ぼく(牛木)は直前に知った。
そこで、関東サッカー協会の理事会が開かれる当日の朝に関東協会会長だった小長谷良策さん宛ての意見書を書いた。
休日だったが早朝に出かけて、協会の郵便受けに直接、投稿した。
「実業団リーグ」ではなく、クラブなどを含めた社会人のチームによる「関東リーグ」でなければ、ならない、という趣旨である。
幸いに、ぼくの「緊急投稿」は、小長谷さんに届いた。
関東の組織の名称から「実業団」は消えた、
都道府県、地域、全国のリーグが同じ組織でつながっている。
そのおかげで、クラブ組織のチームが、1部へ昇格できたのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月16日
日本サッカー・リーグ50年(9)
八幡製鐵の説得が難関
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★九州の参加は必須
50年前の日本サッカー・リーグ(JSL)発足のとき、いちばん困難だったのは、八幡製鐵を加えることだった。
これは、初代総務主事の西村章一さんから聞いた話である。
八幡製鐵を参加させることは二つの点で重要だった。
第一は、八幡が強いチームだったことである。
東洋工業、古河電工、日立本社などと並んで、八幡は、そのころの実業団(企業チーム)の強豪の一つだった。
その八幡が加わらないのでは「トップレベルのチームによるリーグ」にならない。
そういうわけで、八幡の参入は、ぜひ必要だった。
第二には、地方の有力チームを加えられないようでは「全国リーグ」とは言えないことである。
加盟チームを全国に分散して、地方のサッカーを活性化することに意義があった。
有力チームがある以上、九州の参加は必須だった。
★出張旅費は出せない
一方、八幡製鐵の側には、おいそれと「日本リーグ」に加わることができない事情があった。
一つは、八幡製鐵には「半官半民」の企業としての性格があったことである。
八幡製鐵は企業ではあったが、もともとは「国策会社」としてスタートした会社である。
いわば、日本の国策としての、日本の企業のモデルともいうべき会社である。
そのため会社の体質は保守的である。
会社スポーツの「在り方」を大きく変える「日本リーグ」の理念を、会社の幹部に理解してもらうのは難しかった。
当時の実業団(企業)では、スポーツは、表向きは、社員の福利厚生のための会社活動の一部である。
だから、試合のための遠征費(旅費、宿泊費)は、会社の旅費規定による「出張経費」にしてもらえた。
しかし「日本リーグ」は独立の事業体になるので「出張」として扱えない。
★入場料をとれるか?
東京の丸の内3社を中心に進められていた計画は、こうだった。
試合は土曜、日曜に行うので、遠征試合が「出張扱い」である必要はない。
必ず有料試合とし、入場料収入で経費をまかなう。
「必ず有料試合」という要件が「やっかい」だった。
会社としては、新たな収益事業をはじめることになる。
しかし、その収益は会社に入るのではなく、支出も会社の経理を通さないことになる。
九州の八幡製鐵は遠征試合が多くなるから、経費の問題は、ますます難しい。
「八幡の運営委員だった石川八郎さんが、非常な苦労をして会社側との関係をまとめてくれた。石川さんに当時の事情を取材してください」
西村章一さんに、そう言われているのだが、まだ、果たしていない。
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★九州の参加は必須
50年前の日本サッカー・リーグ(JSL)発足のとき、いちばん困難だったのは、八幡製鐵を加えることだった。
これは、初代総務主事の西村章一さんから聞いた話である。
八幡製鐵を参加させることは二つの点で重要だった。
第一は、八幡が強いチームだったことである。
東洋工業、古河電工、日立本社などと並んで、八幡は、そのころの実業団(企業チーム)の強豪の一つだった。
その八幡が加わらないのでは「トップレベルのチームによるリーグ」にならない。
そういうわけで、八幡の参入は、ぜひ必要だった。
第二には、地方の有力チームを加えられないようでは「全国リーグ」とは言えないことである。
加盟チームを全国に分散して、地方のサッカーを活性化することに意義があった。
有力チームがある以上、九州の参加は必須だった。
★出張旅費は出せない
一方、八幡製鐵の側には、おいそれと「日本リーグ」に加わることができない事情があった。
一つは、八幡製鐵には「半官半民」の企業としての性格があったことである。
八幡製鐵は企業ではあったが、もともとは「国策会社」としてスタートした会社である。
いわば、日本の国策としての、日本の企業のモデルともいうべき会社である。
そのため会社の体質は保守的である。
会社スポーツの「在り方」を大きく変える「日本リーグ」の理念を、会社の幹部に理解してもらうのは難しかった。
当時の実業団(企業)では、スポーツは、表向きは、社員の福利厚生のための会社活動の一部である。
だから、試合のための遠征費(旅費、宿泊費)は、会社の旅費規定による「出張経費」にしてもらえた。
しかし「日本リーグ」は独立の事業体になるので「出張」として扱えない。
★入場料をとれるか?
東京の丸の内3社を中心に進められていた計画は、こうだった。
試合は土曜、日曜に行うので、遠征試合が「出張扱い」である必要はない。
必ず有料試合とし、入場料収入で経費をまかなう。
「必ず有料試合」という要件が「やっかい」だった。
会社としては、新たな収益事業をはじめることになる。
しかし、その収益は会社に入るのではなく、支出も会社の経理を通さないことになる。
九州の八幡製鐵は遠征試合が多くなるから、経費の問題は、ますます難しい。
「八幡の運営委員だった石川八郎さんが、非常な苦労をして会社側との関係をまとめてくれた。石川さんに当時の事情を取材してください」
西村章一さんに、そう言われているのだが、まだ、果たしていない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年07月11日
日本サッカー・リーグ50年(8)
開幕日に観客動員の工夫
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★東京チームのダブル
日本サッカー・リーグ(JSL)1年目の開幕は1965年6月6日だった。日曜日である。
創設当時の加盟8チームで4試合。
東京の駒沢競技場で、日立本社対名古屋相互銀行、古河電工対三菱重工のダブルヘッダー。
大阪の「うつぼ」グラウンドでヤンマー対八幡製鉄。愛知県刈谷の野球場の外野に特設したフィールドで豊田織機対東洋工業である。
東京の駒沢で2試合を行ったのにはわけがある。
東京の丸の内3社のチームを1会場に集めて、応援の社員でスタンドを埋めることを狙ったのである。
初日からスタンドが埋まれば、マスコミが注目する。最初が大事である。
そこで、マスコミの取材が集中する東京でスタンドを埋めるための工夫をしたのである。
★プロ野球にぶつける
開幕日の6月6日には東京でプロ野球の2試合があった。
後楽園球場の巨人対広島と、神宮球場のサンケイ対中日である。
そのころ、スポーツの新しい発表などは、月曜か金曜を選ぶのが常識だった。
プロ野球の試合は,ふつう月曜と金曜が「休み」だったからである。
プロ野球の試合がない日には、新聞のスポーツ面に余裕が出来る。そのため新しい出来事が大きく掲載される可能性が大きい。
しかし、日本サッカー・リーグは開幕日を日曜にした。
丸の内3社のビジネスマンを観客として動員するためには開幕日は日曜日でなければならなかった。
サッカー・リーグは、将来にわたってプロ野球と共存していかなければなない。
開幕日だけバッティングを避けても「一時しのぎ」である。
★地方での開催
ヤンマーの大阪と豊田織機の刈谷で開幕試合を行ったのも理由がある。
日本リーグ創設が計画された当初、関西と中部には加盟候補のクラブがなかった。そこへ、ヤンマーと豊田織機が手を挙げてくれた。
その新たな登場チームに、開幕試合をさせたのである。
その日、大阪ではプロ野球の阪神の試合がなく、中部では名古屋で中日の試合がなかった。ここでは、プロ野球とのバッティングを避けている。
こういう慎重な配慮である。
★異例の大扱い
梅雨のシーズンだったが、幸いに好天に恵まれた。
駒沢競技場の入り口には、会社で入場券を買わされた社員の家族連れで長い行列ができた。
新聞は「観衆5000」と報じた。
実数ではないにしても、当時としては異例の大観衆である。
翌日の新聞の扱いは、思っていた以上に大きかった。
6月7日付けの朝日新聞(東京版)は見開きのスポーツ面の右ぺージ(スポB面)のトップで扱い。4試合全部の内容を掲載した。左ページ(スポA面)はプロ野球である。
こういう綿密な「開幕作戦」を立てて実行し、みごとに成功させたのが、すばらしい。
それが「丸の内3社」のエリート・ビジネスマンの能力を結集した結果であることに、半世紀たってから、ようやく気がついた。
JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)
★東京チームのダブル
日本サッカー・リーグ(JSL)1年目の開幕は1965年6月6日だった。日曜日である。
創設当時の加盟8チームで4試合。
東京の駒沢競技場で、日立本社対名古屋相互銀行、古河電工対三菱重工のダブルヘッダー。
大阪の「うつぼ」グラウンドでヤンマー対八幡製鉄。愛知県刈谷の野球場の外野に特設したフィールドで豊田織機対東洋工業である。
東京の駒沢で2試合を行ったのにはわけがある。
東京の丸の内3社のチームを1会場に集めて、応援の社員でスタンドを埋めることを狙ったのである。
初日からスタンドが埋まれば、マスコミが注目する。最初が大事である。
そこで、マスコミの取材が集中する東京でスタンドを埋めるための工夫をしたのである。
★プロ野球にぶつける
開幕日の6月6日には東京でプロ野球の2試合があった。
後楽園球場の巨人対広島と、神宮球場のサンケイ対中日である。
そのころ、スポーツの新しい発表などは、月曜か金曜を選ぶのが常識だった。
プロ野球の試合は,ふつう月曜と金曜が「休み」だったからである。
プロ野球の試合がない日には、新聞のスポーツ面に余裕が出来る。そのため新しい出来事が大きく掲載される可能性が大きい。
しかし、日本サッカー・リーグは開幕日を日曜にした。
丸の内3社のビジネスマンを観客として動員するためには開幕日は日曜日でなければならなかった。
サッカー・リーグは、将来にわたってプロ野球と共存していかなければなない。
開幕日だけバッティングを避けても「一時しのぎ」である。
★地方での開催
ヤンマーの大阪と豊田織機の刈谷で開幕試合を行ったのも理由がある。
日本リーグ創設が計画された当初、関西と中部には加盟候補のクラブがなかった。そこへ、ヤンマーと豊田織機が手を挙げてくれた。
その新たな登場チームに、開幕試合をさせたのである。
その日、大阪ではプロ野球の阪神の試合がなく、中部では名古屋で中日の試合がなかった。ここでは、プロ野球とのバッティングを避けている。
こういう慎重な配慮である。
★異例の大扱い
梅雨のシーズンだったが、幸いに好天に恵まれた。
駒沢競技場の入り口には、会社で入場券を買わされた社員の家族連れで長い行列ができた。
新聞は「観衆5000」と報じた。
実数ではないにしても、当時としては異例の大観衆である。
翌日の新聞の扱いは、思っていた以上に大きかった。
6月7日付けの朝日新聞(東京版)は見開きのスポーツ面の右ぺージ(スポB面)のトップで扱い。4試合全部の内容を掲載した。左ページ(スポA面)はプロ野球である。
こういう綿密な「開幕作戦」を立てて実行し、みごとに成功させたのが、すばらしい。
それが「丸の内3社」のエリート・ビジネスマンの能力を結集した結果であることに、半世紀たってから、ようやく気がついた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ |
Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved. |