スポーツ報道 / 2013年01月29日


部活顧問の暴力の報道


学校スポーツのあり方を問え

バスケットボール部主将の自殺
(2012年12月23日 公表2013年1月8日)

★体罰でも指導でもない
 大阪市立桜宮高校バスケットボール部の主将(2年生)が顧問から「体罰」を受けた翌日に自殺した。それが半月後に明るみに出てマスコミで大騒ぎになった。
 報道で知った限りでは、これは「体罰」とはいえない。教員の生徒に対する理不尽な「暴力」である。自殺した生徒は、悪いことをしたわけではない。部活での活動ぶりが、顧問の先生の気に入らなかっただけである。
 相手が悪事をしたとしても、法によらないで暴力で罰するのは罪である。まして教師の立場を悪用して恣意的に暴力を振るうのは極めて悪質だ。
 マスコミでは「指導暴力」という言葉も使われていた。
 しかし、これは「指導」でもない。
 生徒がよい人間になるために導く方法が「指導」だが、このケースはチームを勝たせるための間違った手段である。

★「部活」そのものが問題
 新聞紙上にいろいろな意見が掲載されている。「勝利至上主義が問題」「暴力では選手は伸びない」などである。
 部活顧問の暴力には、さまざまな原因や背景がある。だから、いろいろな角度からの意見があるのは当然である。
 しかし、かなり多くの識者の考えが紹介されているにもかかわらず「学校のスポーツ活動」そのものへの批判は、ぼくの見た限りでは、見当たらなかった。
 ぼくの考えでは学校スポーツ、つまり部活そのものが問題である。
 学校が正課のほかにスポーツ活動をする。それが学校教育の一部とされている。
 したがって指導するのは、その学校の教員である。生徒はスポーツの指導者を選べない。指導者が暴力教員であっても別の学校に移ってスポーツをすることは難しい。

★顧問の呼称は「まやかし」
 大多数の「部活顧問」が教育の立場から「部活」を指導していることは知っている。その努力には敬意を表する。
 しかし「顧問」という呼称が「まやかし」であることが実態ではないか?
 「顧問」とは生徒の自主的な活動にアドバイスする立場という意味だろう。
 しかし、トップレベルの部活の「顧問」の多くは「監督」である。生徒たちの自主性を認めないで自分の思い通りに動かすことのできる立場である。
 「体育」以外のスポーツ活動は、学校教育から切り離したほうがいい。これが、ぼくの考えである。
 体育館やグラウンドなどの学校の施設を活用することは必要である。
 しかし、組織と指導者を学校から切り離し、民間のクラブとして運営することを真剣に検討すべきだと思う。

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サッカー日誌 / 2013年01月28日


「サッカーくじ」批判への反論


政府への要求だけでいいのか?

スポーツ政策研究会
(1月21日 明治大学駿河台)

★スポーツ支援の方法
 毎月1回の「スポーツ政策研究会」に比較的熱心に参加している。主として大学の先生方による勉強会である。
 1月の例会では「日本のスポーツ振興は、サッカーくじ頼みでいいのか」がテーマだった。
 新日本スポーツ連盟の和食昭夫理事長が基調報告をし、そのあと討論があった。新日本スポーツ連盟は日本共産党系の団体である。
 和食さんは、数字をあげて具体的な報告をした。
 2011年度の国のスポーツ予算の総額は約228億円。一方、サッカーくじからのスポーツへの助成は128億円。日本のスポーツが「サッカーくじ」すなわちギャンブルの資金に頼っていていいのか、という批判が趣旨だった。
 そのあとの討論は、極端なケースを極端な表現で述べ合ったので、あまり建設的なものにはならなかった。

★国家負担か、受益者負担か
 討論が建設的なものにならなかった責任は、ぼく(牛木)にある。最初にぼくが「(和食さんの主張は)スポーツの経費は、すべて国が負担すべきだということですか?」と質問し、和食さんが簡単に「そうです」と答えた。それが討論の発端になった。
 その後の討論は「スポーツ活動の経費は国の負担か、受益者負担か」という極論の応酬になった。
 ぼくは「スポーツ活動を税金でまかなうべきではない」と主張したつもりではない。「政府が責任を持つべき部分とスポーツ界が自己負担すべき部分がある」という考えである。
 例えば、である。
 一般国民がスポーツを楽しむための施設を作るために税金を使うのは当然である。しかし、オリンピック参加費のような一部のエリートたちのためのものは、スポーツ界が自前で調達したほうがいい。

★エリート・スポーツへの援助
 とはいえ、スポーツのエリートが、その才能を伸ばし、オリンピックなどに参加する経費を、すべて自分で負担することは難しい。援助は必要である。
 だが、エリート・スポーツに関心のない国民もいるし、オリンピックに反対の国民もいる。だからエリート・スポーツのための経費をすべて国民の税金から出すのは適当でない。ぼくはそう考えている。
 その部分の資金は、宝くじやトトから得てもいいのではないか?
 「オリンピック参加協力くじ」と銘打って売り出せば、オリンピック大好きの人は喜んで買うし、オリンピック反対の人は買わないだろう。
 そういう意味で「サッカーくじ」は悪くない。
 国の財政の中で、スポーツ振興への援助が少なすぎるのは別の問題である。また、現在の「サッカーくじ」の運営にも問題が多い。
 しかし、討論は、そっちのほうには進まなかった。

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サッカー日誌 / 2013年01月27日


ラグビーW杯への強化策


トップリーグ中心では難しい

サロン2002月例会
(1月23日 筑波大附属高)

★企業内チームのリーグ
 「サロン2002」は筑波大附属高の中塚義実先生が主宰するスポーツ文化の勉強会である。サッカーが中心だが、他のスポーツも取り上げる。ぼくは会員として、かなり熱心に参加している。
 1月の例会では「ラグビートップリーグ現状と課題 ~トップリーガーの生活から見えてくる2019年への課題」というタイトルのお話を聞いた。
 2019年は、日本でラグビーのワールドカップが開かれる年である。開催国である日本は、代表チームにベスト8以上の成績を期待している。
 代表選手たちは「トップリーグ」に所属している。
 トップリーグは企業内チームによる組織で、選手たちは企業の社員でなければならない。
 そういう制約があるという話だった。

★クラブ・チームはダメ
 トップリーグには、お役所の職場チームにも参加資格があるから正確には「企業リーグ」とは呼べない。かつての用語でいえば「実業団リーグ」である。
 ラグビーでは「社会人」と呼んでいるようだが、選手たちの勤務先が一つでない「クラブ」には参入資格がない。選手は勤務先と雇用契約をしていなければならない。つまり同じ職場の社員あるいは職員でなければならない。
 「この体制で世界のトップレベルに対抗するのは、難しいだろうな」と思った。
 トップレベルの選手が実業団と大学に分かれて競技している。それ以外のクラブは外されている。チーム下部の育成組織はない。
 そういうシステムで、クラブを基盤にしている国の世界のトップクラスに対抗するのは無理ではないかと思った。

★集中強化と構造改革
 ラグビー・ワールドカップの日本開催まで、あと7年。その間に、こういう日本のラグビーの構造を変えるのは不可能だと思う。
 そうであれば、2019年の代表チームには「集中強化」しかない。素質のありそうな選手を集めて一つのチームに作り上げる強化策である。
 1964年の東京オリンピックに向けて、サッカーがとったのは「集中強化」だった。それは1968年メキシコ・オリンピックの銅メダルとして実った。
 しかし「集中強化」には弊害がある。その後に成果が残らないことである。サッカーでは「メキシコ銅メダル」のあと、長い低迷が続いた。
 日本のラグビーは、2019年のための「集中強化」と未来のための「構造改革」を並行して行うほかはないと思った。

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サッカー日誌 / 2013年01月26日


記者席から見た転換点


財徳健治さんに聞く

日本サッカー史研究会月例会
(1月21日 JFAハウス会議室)

★プロ導入の特ダネ
 歴史の流れは大きな河のようにも思える。時として険しい曲がり角や急に落ちる滝があり、そこで流れの様子が大きく変わる。
 しかし、急激な変化が表面に現れる少し前に、川筋の変化を読み取ることも出来る。
 ジャーナリズムの仕事は、表に出た急変を伝えることであるが、その前の変化の予兆を探り出すことも重要である。
 1992年のJリーグ創設が、日本サッカー史の大きな曲がり角だったことは明らかだろう。しかし、その前に「日本リーグ活性化委員会」が川筋を変える設計図を描いていた。
 Jリーグ発足の3年前に、その設計図を特報したのは1989年1月21日付の東京新聞だった。「日本にプロサッカー」という記事がスポーツ面トップに掲載されている。同系列の名古屋の中日新聞にも載っている。「中日スポーツ」と「東京中日スポーツ」では一面トップである。

★「なでしこジャパン」の認知
 このニュースをスクープしたのは財徳健治さんである。
 日本サッカー史研究会の2013年1月例会では、その財徳さんを招いて、お話を聞いた。
 これまでは、主として河の流れの中で舟を操ってきた方を招いていた。財徳さんはそうではない。岸辺に立って流れを観察していた人である。
 そこで、財徳さんのお話には「記者席からみた日本サッカー史」とタイトルをつけた。
 財徳さんは、マスコミの立場からみた「日本サッカー史の転換点」を語った。
 たとえば、女子サッカーへの評価である。
 日本のマスコミが女子サッカーを大きく取り上げたのは、2011年のワールドカップで「なでしこジャパン」がグループ・リーグで2連勝したときからである。優勝してからではなく、その前だったことが興味深い。

★テレビCMの影響
 男子のワールドカップが、日本のマスコミで認知されるようになった転換点は、いつだったのだろうか?
 財徳さんは「1990年イタリア大会だ」という。
 日本はまだ出場権を得られなかった時代であるが、日本の新聞社は、はじめて積極的に特派員を出した。
 日本代表が出場しないのに、なぜ日本のマスコミが注目し始めたのだろうか?
 研究会常連であるサッカーマガジンの国吉好弘さんが「テレビCMの影響ではないか」という意見を出した。
 このころ、マラドーナを起用したテレビのコマーシャルが広く知られていたという。
 テレビが日本のスポーツの転換点を作った。これは、もっと突っ込んで調べる必要のあるテーマではないか? そう思った。

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サッカー日誌 / 2013年01月23日


田村修一さん、バロンドールを語る


ビバ!サッカー研究会月例会
(1月18日 東中野テラハウス)

★投票権を持つ日本記者
 2013年の最初のビバ!サッカー月例会では、サッカーライター仲間の田村修一さんに来ていただいた。田村さんのほうから「バロンドールの話をしたい」と申し出があったのである。願ったりかなったり。喜んでお招きした。
 「FIFAバロンドール」は、男子の年間最優秀選手の表彰である。世界各国のサッカー記者1人ずつと代表チームの監督、主将が投票する。田村さんは日本の記者として指名されて投票権を持っている。
 FIFAは最優秀監督や女子の表彰もしているが、男子最優秀選手のバロンドールは特別の歴史を持っている。
 もともとサッカーの専門誌「フランス・フットボール」の伝統ある表彰だった。2010年からFIFAの最優秀選手表彰と合併して現在の形になった。田村さんはフランス語が達者で「フランス・フットボール」にも寄稿している。それが、田村さんが指名されている背景である。
 
★バロンドールの始まり
 バロンドールが創設されたのは1956年である。欧州各国でプレーしている欧州国籍のプレーヤーを対象に投票し「金のボール」のトロフィーを贈った。最初は16ヵ国、16人の記者の投票だった。
 1956年は、第2次世界大戦が終わって11年目である。
 英仏とドイツが欧州を2分して激しく争った思いが生々しい時期に、またフランスの国土が戦争の惨禍からの復興途上であった時期に、サッカーで欧州各国を一つにつなぐアイデアを実行した。
 テレビの国際中継は、まだない時代である。多くの人が自分の国内のことしか考えていなかった時代である。
 そのころに、のちの欧州連合(EU)に、そして現在のグローバル化につながる企画を実現した。
 「フランス・フットボール」に、視野が広く、先見性と実行力を持つ人物がいたに違いない。

★個人の能力とチームへの貢献」
 欧州最優秀選手の表彰は、時代の移り変わりとともに世界的な表彰へと広がった。
 田村さんはバロンドールについての本を書こうと構想している。その本の中で、そういう時代的背景や「フランス・フットボール」のリーダーの話も紹介されるだろう。
 バロンドールは、当初はジャーナリストだけの投票だったが、現在は各国代表チームの監督と主将も投票する。
 田村さんの話では、監督と主将は個人的に優れたプレーヤーを選ぶ傾向がある。一方、ジャーナリストは、その年に優勝したチームに貢献したプレーヤーを選ぶ傾向がある。
 ぼくは1961年に記者投票による日本の最優秀選手表彰を企画して創設したことがある。
 そのころ、日本の新聞記者の投票は「得点王」になったというような個人的な記録に集まる傾向があった。欧州の記者たちとは逆である。これも興味深いと思った。

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サッカー日誌 / 2013年01月20日


第91回高校選手権(下)


歴史に残る三つの出来事

決勝(1月19日 東京・国立競技場=日本テレビ)
鵬翔(宮崎)2-2(PK戦)京都橘(京都)

★鵬翔がPK勝ちで初優勝
 2012年度の高校サッカー選手権大会は、次の三つの出来事で記憶されるだろう。
 まず、大雪で決勝が5日後に延期された大会として思い出されることになるだろう。会期21日間、史上最長の高校選手権になった。
 また、宮崎県代表の初優勝が記録として高校サッカー史に残る。サッカー後進県がなくなってきた象徴である。
 鵬翔は6試合のうち4試合でPK戦をして優勝した。これは「珍記録」として残るのではないか。
 決勝戦は、すばらしかった。
 天候がすばらしかった。快晴微風、気温11度前後。最高のコンディションだった。
 芝生がすばらしかった。これは雪掻きをした東京の高校サッカー部員のおかげである。
 そして、試合の内容がすばらしかった。

★決勝延期の「英断」が実る
 京都橘の攻撃力が、鵬翔の守備力を上回るだろうと予想していたので、前半41分に京都橘が先制したときには「これで決まりかな」と思った。
 ところが後半、鵬翔が追いつき、さらに京都橘の再度のリードにも追いついて引き分け、PK戦に持ち込んだ。
 双方合計4ゴールは、いずれも見事な攻めだった。京都橘にとっては、後半39分のPKが痛かったが、これも反則を誘った鵬翔の日高献盛のすばやい出足とドリブル突破を評価すべきだろう。
 好試合になった要因は決勝を延期した英断だと思う。いい天候で、いい芝生で試合をすることが出来た。
 両校の選手たちは休養をとることが出来た。ケガをしていた選手には回復する時間が与えられた。
 学校教育の立場からは延期に批判もあるだろうが、いい環境といい試合を提供できたのは良かった。

★部活と中学生クラブの融合
 宮崎県代表の初優勝は「高校サッカーの様変わり」を象徴するものだった。
 松崎博美監督は30年の苦労のすえに優勝をかちとった。
 同じ九州で高校日本一を育てた長崎の小嶺忠敏監督と鹿児島の松沢隆司監督に追いついたと評価されている。
 しかし、鵬翔の松崎監督は、2人の先輩監督とは違う試みを成功させている。その点を特筆したい。
 それは、6年前に中学生を集めて「セントラルFC宮崎」というクラブを作り、中学生年代からの育成をはかったことである。決勝戦に出場した14人のうち、半数の7人が「セントラルFC宮崎」育ちである。
 鵬翔高校のグラウンドでクラブの中学生が指導を受け、年上の高校生のプレーを見て育つ。学校の部活と地域のクラブの融合である。これこそ「様変わり」である。
 今大会ではPK戦が多かった。各校の力が接近している証ではあるが、検討を要する問題でもある。

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サッカー日誌 / 2013年01月16日


第91回高校選手権(中)


決勝戦、大雪で延期の「英断」
高体連の「様変わり」を評価する

決勝(1月14日 東京・国立競技場=19日に延期)
 
★一般の常識では「取りやめ」が当然
 高校選手権(中)では決勝戦の感想を書くつもりだったが大雪で14日の試合は取りやめ、19日に行うことになった。5日間の延期である。
 14日。東京は朝のうち雨だったが、やがて雪になり、しんしんと降り積もった。
 大会を運営している高体連サッカー部は、試合決行の方針で雪かきを始めていたが、正午ごろに取りやめを決断。試合開始時刻の午後2時に延期を発表した。
 雪は夜まで降り続くという予報だったから、完全に除雪して試合をするのは不可能だった。一般の人たちの常識では「取りやめ」が当然だろう。  
 しかし、降り続く雪の中で、雪上の決勝戦を強行する選択肢はあった。
 そういう中で、大会を運営している高体連サッカー部の役員が延期を決めたのは「英断」だったと思う。

★観客対策とテレビ対策
 いま80歳のぼくが学生だったころ、つまり半世紀以上前には「雨が降ろうが槍(ヤリ)が降ろうが試合をするのがサッカーだ」と言われていた。その当時なら「雪の上でも試合は出来る」と強行していただろう。
 しかし、いまは事情が違う。
 すでに約3万枚の入場券が売れている。雪と寒さの中で出かけるのをやめる人もいるだろう。大雪のため電車も止まっている。国立競技場に来ることが出来ない人がいる。
 「高校生のための大会だ。お客さんに見せるための試合ではない」という建前論を押し通すのは無理である。
 一方で、テレビ中継の問題がある。全国の民放テレビ43社では午後2時から2時間余の中継を予定している。プロ野球が雨で中止になったとき、テレビの代替プログラムを「雨傘番組」という。高校サッカー決勝の放映中止には「雪傘番組」が必要だった。

★矛盾する要素を広い視野で調整。
 観客のためには延期がいい。テレビは強行がいい。矛盾する二つの問題があった。
 高校生の大会だから、授業や入試との関係もある。
 今回は5日後の土曜日に国立競技場があいていたのが幸いだった。
 そういう、もろもろの事情を考えると、難しい決定だったに違いない。
 選手たちに、いい状態で、いいプレーの出来る状態を提供することが重要である。
 観客やテレビ視聴者に、いい試合を見てもらうことも無視できない。
 高体連サッカー部は、狭い考えの教育論にこだわらず、矛盾する要素を広い視野で調整し、賢明な決定をした。
 一般の人たちからみれば常識的な決定を「英断」と評価するのは、そういうわけである。

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サッカー日誌 / 2013年01月15日


第91回高校選手権(上)


高校サッカーの様変わり

準決勝(1月12日 東京・国立競技場=日本テレビ)
鵬翔(宮崎) 2-2(PK) 星稜(石川)
京都橘(京都)3-0 桐光学園(神奈川)

★第1試合-見事な4ゴール
 高校サッカーの「様変わり」を15年くらい前から感じている。Jリーグの影響が表れはじめたころからだ。
 準決勝の第1試合は鵬翔(宮崎)対星稜(石川)。
 宮崎も石川も、かつては「サッカー後進県」だった。そういう県の代表が国立競技場に進出して決勝進出を争う。これも高校サッカーの様変わりの一つである。
 星稜は8年前の第83回大会にベスト4に進出したことがある。本田圭佑が主将だった。石川県の高校から日本代表のエースが出た。様変わりの一つだったのだろうか。
 Jクラブのユースに素材を取られるので高校のレベルが下がった、という説がある。しかし、にわかには賛同できない。全体を見れば、個人の技術は確実に上がっている。
 第1試合は2対2の引き分け(PK戦で決着)だったが、4ゴールとも見事だった。鋭く曲がり落ちるフリーキックがあり、クロスからのこぼれ球をぴたりと捉えたボレーシュートがあった。

★第2試合-京都橘のツートップ
 第2試合は京都橘(京都)対桐光学園(神奈川)。
 京都も神奈川も早くからサッカーが普及していた土地である。しかし、京都橘は2000年に女子高から男女共学になった学校でサッカー部の歴史は浅い。桐光学園は1978年創立だが伝統校の多い神奈川では新興校の部類である。サッカー先進県の中でも様変わりは進んでいる。
 前半は中盤からの守り合いだった。その膠着状態を破ったのは京都橘の仙頭啓矢である。42分、ドリブルとスルーパスで突破口を開き、味方のシュートがバーに当たって跳ね返ってきたのを押し込んだ。ドリブル、パス、走り込み。どのプレーも見事だった。
 後半31分に小屋松知哉が2点目をあげた。こぼれ球への反応がすばやかった・
 この京都橘のツートップは足技もスピードもすばらしい。
 「高校生のレベルが落ちている」とは、とてもいえない。

★ロングスローの活用
 準決勝2試合をテレビで見ていて、興味をもったことがひとつある。
 それはロングスローである。
 長いスローインを得意とする選手がいた。第1試合では星稜の松岡哲、第2試合では桐光学園の大田隼輔である。ゴール前まで投げてチャンスを作ろうとする。それが売り物になっているようで、アナウンサーがスローインのたびに紹介していた。
 ロングスローによる攻めは新しいことではない。半世紀前に、Jリーグの前身、日本リーグの時代に東洋工業の小城得達選手が得意としていた。
 「高校生でも、その手があるのか」と気がついた。
 ただし、ロングスローは得点には結びつかなかった。
 ほとんど大きくゴール前へ放り込むだけだった。活用するには、もうひと工夫が必要だろうと思う。

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サッカー日誌 / 2013年01月14日


ビバ!サッカー大賞2012(5)


35年間の表彰を振り返る
長沼健さんに「特別大賞」

★当初は「日本サッカー大賞」
 ビバ!サッカーで「大賞」の選考をはじめてから35年になるらしい。「らしい」というのは、書き続けてきた本人が記憶していなかったからである。
 「過去の授賞歴を教えて欲しい」という要望があって、仲間が調べてくれた。
 「サッカーマガジン」誌上に「ビバ! サッカー」を連載していた1977年に「十大ニュース」という形で、1年を振り返る記事を書いている。その翌年から「大賞」としてグランプリを選んでいる。
 名称は「日本サッカー大賞」だった。日本でもっとも権威ある表彰というつもりである。サッカーマガジンの当時の編集長が「ビバ!サッカー大賞」と見出しを付けたので「日本サッカー大賞だぞ」と抗議したこともある。
 しかし、いまや「ビバ!サッカー」の名声は確固としたものとなったので、今回から「ビバ!サッカー大賞」にした。

★女子サッカーにも注目
 友人が作ってくれた授賞歴のリストをみて、ぼくの狙いは「おおむね実現している」と自賛した。「狙い」とは、授賞歴で日本サッカー史を一覧できるようにすることだった。
 たとえば、女子サッカーである。ぼく自身は、それほど関心はなかったのだが、1990年にすでに女子代表チームを「将来を期待して」殊勲賞兼敢闘賞に選んでいる。
 2010年には、大賞を「女子代表チームとベレーザ」に出している。東アジア大会で優勝したからだが、その基礎を作ったベレーザにも注目したところが「ビバ!」である。
 日本代表が、女子ワールドカップに優勝したのは、その翌年である。世界一になる前から、その未来に注目していたのが「ビバ!」である。
 2011年の「世界一」は、もちろん記録している。しかし、タイトルそのものは表彰の対象ではない。優勝に導いた要素に大賞と三賞を出している。

★健さんの長年の業績
 というわけで「歴史を見る目」を誇りたいところだが、逆に優れた業績を記録しそこなっている場合もある。
 35年間の表彰の間に、日本サッカー協会の会長は何人も代わった。そのなかで、岡野俊一郎さんと川淵三郎さんは、授賞歴に登場している。
 実力者におもねったわけではない。表だった業績は、ほかでいろいろ顕彰されている。あまり気付かれていない仕事を紹介したいと取り上げたものである。
 ところが、授賞歴のなかに長沼健さんの名前がない。
 長沼健さんは長年にわたって地道な仕事を続けてきた。その功績は、ほかのところで取り上げてはいるのだが、ビバの授賞歴に入っていないのでは、九分どおり仕上げた仕事を最後の一分でダメにするようなものである。
 そこで、ここに深く反省の意を表し「特別大賞」を贈ることにする。

【参考】これまでのビバ!サッカー大賞


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サッカー日誌 / 2013年01月13日


ビバ!サッカー大賞2012(4)


10年前の大賞に埼玉スタジアム
新潟に努力賞、札幌に技術賞

★2001年選考からの宿題
 2012年は日韓共催のワールドカップ10周年だった。開催地でそれぞれ記念行事が行われた。
 「わがビバ! サッカーも記念行事を」と言いたいところだが、実は10年前、すでにそれを宿題にしている。
 2001年度のサッカー大賞選考では、次つぎに完成した新スタジアムを選んだ。しかし授賞は10年後の宿題とした。
 当時の選考は「サッカーマガジン」誌上で行っていた。
 2002年1月23日号に次のように書いている。
 「それぞれ特徴もあるし難もある。観客の動線、交通アクセス、芝生の管理などである。こういう問題をクリアして2002年以後に、しっかり活用できるかどうかを見守らなければならない」
 「われながら、たいした見識だ」と自画自賛した。
 新スタジアムは、ワールドカップに使うためだけに建設するのではない。その後に活用してこそ価値がある。

★6万人超収容の専用スタジアム
 というわけで、10年間の使用状況を振り返り、2001年度サッカー大賞は「埼玉スタジアム」に授与する。
 もともと、活用できるのであれば、球技専用スタジアムを選ぶことにしていた。サッカーのためには、陸上競技のトラックのないほうが望ましいからである。
 球技専用で10年前に候補に挙げていたのは、カシマ、埼玉、神戸ウイングである。三つとも、その後、Jリーグ・チームのホームとして活用されている。
 そのなかで埼玉を選んだのは、63,700人の収容能力を、みごとに使いこなしたからである。
 交通手段(アクセス)がよくない農地の中にアジア最大級のサッカー・スタジアムを建設することは、当時としては大きな冒険だった。
 その冒険に挑戦し、それを活用してJリーグの観客動員記録のトップを維持していることを評価する。

★兼用競技場としての活用
 2001年に新設されたスタジアムには3種類あった。
 球技専用、陸上競技兼用、屋内ドームである。
 陸上競技兼用では、宮城、新潟、東京(現味の素)などがあった。
 そのなかで新潟のビッグスワン(現東北電力スタジアム)に努力賞を授与する。サッカーが見やすいようにスタンドの傾斜を急にするなど最大限に努力し、42,300人の収容能力を活用して、アルビレックス新潟のホームとして、浦和に次ぐ観客動員を記録している。
 屋内ドームでは、札幌ドームに技術賞を授与する。
 芝生のフィールドを屋外に置いて、試合のときだけドーム内に引き込む設備を使いこなした。
 プロ野球の日本ハムの本拠地として野球兼用にもなっている。ただ維持管理にかなりの経費がかかっているだろう。
 だから、設備の技術だけを表彰の対象にした。

【参考】これまでのビバ!サッカー大賞

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