サッカー日誌 / 2007年10月30日


日本サッカーリーグの創設(上)


西村章一さんに聞く
9月3日JFAハウス 日本サッカー史研究会

◆クラマー提言の具体化
 現在のJリーグのもとになったのは、1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)である。このJSLの発足が、クラマーさんの5項目提案の一つだったことは、よく知られている。しかし、その具体化は、そう簡単ではなかった。その間の関係者の苦労を記録にとどめておきたい。そういう趣旨で、後藤健生さんとぼくが主宰している「日本サッカー史研究会」の9月例会で日本リーグの創設当時の事情を取り上げた。
 クラマーさんは、1964年の東京オリンピックへ向けての日本代表チーム強化のために、ドイツから日本に来て、日本のサッカーを根本的に改革した。そして東京オリンピックが終わって帰国する前に、日本のサッカーに5項目の提言を残した。その中の一つが「トップレベルのチームによるリーグを作れ」というものだった。他の4項目は、なかなか進展しなかったが、トップ・チームによるリーグは、すぐ翌年に実現した。

◆リーグ創設の功労者
 クラマーさんの指導のもとで監督、コーチを勤めた長沼健、岡野俊一郎、平木隆三らが、すぐに動いた。それが第一の原動力である。ところが趣旨には賛成でも、具体的な方法になると障害続出だった。それを、一つ一つ解決したのは、当時、古河電工の広報部長だった西村章一さんである。西村さんは、日本サッカーリーグの初代総務主事になった人だが、その功績はあまり知られていない。
 そこで「日本サッカー史研究会」では、西村さんを招いて、お話を伺うことにした。幸いなことに、80歳を越えてもすこぶる、お元気で、夜の会合にもかかわらず喜んで出席してくださった。
 西村さんの功績は、ほかに古河電工サッカー部の黄金時代実現、1970年代の日本サッカー協会改革の推進などがあるが、ここでは日本リーグ創設への功績を取り上げる。

◆大学と実業団がいっしょに
 リーグ制についてのクラマー提言の趣旨は「強いチーム同士の試合を増やそう」ということだった。同じレベルのチーム同士の試合経験を多く積まなければ、日本のサッカー全体のレベルアップは望めない、というのがクラマーさんの主張だった。
 当時、日本のトップレベルのチームは大学と実業団(企業チーム)に分かれていて、それぞれリーグ戦を行ってはいたが、大学と実業団が対戦する機会は天皇杯しかなかった。天皇杯は勝ち抜きのトーナメントだから、敗退したチームの試合数は少ない。
 大学、実業団を併せてリーグ戦を組めば、強いチーム同士の試合数が増える。「勝ち抜きのトーナメントよりもリーグの試合を」というのが、クラマーさんの提言である。
「日本サッカーリーグ」は現実には実業団チームだけで発足したが「実業団リーグ」という名称にしなかったのは、大学でもクラブでも加入できるという趣旨だからである。

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サッカー日誌 / 2007年10月28日


八重樫茂生の体験したサッカー


10月22日JFAハウス 日本サッカー史研究会10月例会

◆メルボルンからメキシコまで
 後藤健生さんとぼくの主宰で「日本サッカー史研究会」を月に1回、開いている。
 10月は八重樫茂生さんに来てもらって、主として1956年メルボルン・オリンピックから1968年メキシコ・オリンピックまでの日本代表チームについて話してもらった。
 八重樫さんは、メルボルン・オリンピック予選のときに初めて日本代表に入った。戦前、戦中の選手で構成していた全日本を一挙に若返らせたときに選出されたのである。
 1960年代に日本のサッカーを改革したドイツのデットマール・クラマーさんは、当時「日本でもっともすぐれた選手であり、もっとも伸びた選手だ」と絶賛している。
 1964年東京オリンピックのときの中盤のかなめだった。1968年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したときの主将である。メキシコでは、第1戦でケガをして、その後は試合には出られなかったが、チームの精神的支柱だった。

◆主将がユニフォームを洗う
 メキシコ・オリンピックの第1戦でケガをして、以後の試合に出られなくなったあと、選手たちのユニフォームを洗濯した話は、いまや伝説になっている。
「あのころは、洗濯機がないからね。みな、自分で洗うんだけど、試合で疲れ果てたあとに洗うのはつらいんだ。だから洗ってやったんだ」という。
 現在は、大会でも合宿でも、いろいろな雑用は、用具係など、いろいろな人たちが、すべてやってくれる。若い選手たちは、それを当たり前だと思っている。
 メキシコ・オリンピックのころの選手たちは「自分のことは自分でする」のがあたり前だった。それを、いちばんの年長者で、いちばんすぐれた選手で、主将の立場にある八重樫が代わりにやってくれる。「八重さんのために戦わなければ」と、選手たちが燃え立ったのはもちろんである。

◆クラマーさんの伝令
 メキシコ銅メダルへの貢献で、いちばん重要だったのは、八重樫主将が「クラマーさんの伝令」だったことである。
 クラマーさんはFIFAの 技術委員としてメキシコに来ていた。日本の試合のときは、ベンチには入れないからスタンドで見ていた。ケガで試合に出られない八重樫は、クラマーさんの隣に座っていて、クラマーさんの考えを日本のベンチに伝える役目をした。たとえば準々決勝の対フランスで「杉山は疲れてもう限界だ。松本に代えろ」というクラマーさんの指示を、八重樫がスタンドから降りて行ってベンチの長沼監督に伝えた。
 「日本のサッカーで、コーチといえるのはクラマーさんが最初でしょう。それまでの監督は自分の経験から語るだけだった」。八重樫は自分が指導を受けた歴代の先輩監督について、かなり辛口で語った。


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サッカー日誌 / 2007年10月25日


フットサルとサッカーは別のスポーツ


10月22日 ビバ!サッカー研究会10月例会 赤坂区民センター

◆アンドレアノさんの話
「ビバ!サッカー研究会」(ビバ研)は、テーマを決めて月に1度、例会を開く。ゲスト講師を招いて話を聞き、そのあと「延長戦」と称する飲み会で歓談する。2007年10月は、フットサルのアンドレアノ・ケイト・デ・レモスさんを招いて「日本とブラジルのフットサル事情」を聞いた。
 アンドレアノさんは、日系三世である。母方のおじいさんが日本人、父方はイタリア系だそうだ。
 子どものころからフットサルをやっていて、パルメイラスなど有名なクラブで活躍した。19歳のときに日本に来て以来、日本のフットサルにかかわってきた。
 ビバ研で話をしてくれたのは、Fリーグ・チームの監督に就任がきまる直前だった。「延長戦」にも付き合ってくれて楽しい時間をすごした。

◆フットサルはサッカーに役立つが…
 アンドレアノさんの経験では「フットサルとサッカーは別のスポーツ」である。
 芝生と体育館の床では、ボールの扱い方が違う。狭いところで、すばやくボールを扱うテクニックは、11人制のサッカーにはない独特のものがある。その技術を身につけるには、子どものときからフットサルをやっている必要がある。
 フットサルをやっていた者が、17~18歳くらいになって、プロのサッカー選手になることはできる。しかし、ふつうのサッカーしかしていなかった者がフットサルの一流選手になることは難しい。つまりフットサルはサッカーに役立つが、サッカーの技術だけでは、フットサルには不十分だというわけである。
 アンドレアノさんは、11人制サッカーのプロになるチャンスもあったが、たまたまフットサルの環境に恵まれていたので、フットサルのプロになったという。

◆人工芝のはミニ・サッカー
 日本では、いま、フットサルのコートが急速に増えている。その多くは人工芝である。ここで多くの人がやっているのは、フットサルというより「ミニ・サッカー」といったほうが適切だろう。コートもボールの弾み方も違う。タイムキーパーもいない。フットサルに似た「少人数サッカー」である。
 人工芝の「ミニ・サッカー」は、11人制のサッカー選手を育てるのに役立つだろうと思う。しかし、本格的な「フットサル」のトップレベルの選手を生み出すのに貢献できるかどうかは分からない。アンドレアノさんの話を聞いて、そう思った。
 とはいえ、人工芝のミニ・サッカー・コートが増え、そこでボールを蹴って楽しむ人たちが増えているのはすばらしい。その中から、将来、11人制のサッカーや5人制のフットサルを志す人が出てくるだろう。


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サッカー日誌 / 2007年10月21日


大久保嘉人は「ほんもの」か?


日本代表 4対1 エジプト代表
(10月17日 大阪長居スタジアム)

◆先制の2発でヒーローに
 スペインのマジョルカから戻った大久保嘉人(ヴィッセル神戸)が、オシム・ジャパンに初めて登用されて、たちまちヒーローになった。10月17日、大阪長居スタジアムの「アジア・アフリカ・チャレンジ・カップ」である。
 前田遼一(ジュビロ磐田)とともにツートップに起用され、前半21分にペナルティエリア外でこぼれ球を拾って、相手をかわしざまミドルシュート一発。42分に右からのクロスを、長身の相手と競り合いながらヘディングで叩き込んで2発目。
 この日の大久保は動きが良く、積極的にシュートを試みていた。もともと技術はあり、バネのある筋肉の持ち主だ。気合いの入っているときは期待できる。
 スペインに行く前は調子にムラがあり、しばしばオフサイドにかかるなど、トップでの動きに自分勝手なところがあった。しかし、その点はすっかり良くなったように見えた。

◆オシム監督に質問が出ないわけ
 大久保が「ヒーロー」として報道陣に囲まれていたころ、壁一つ隔てた隣の部屋では、オシム監督が試合後の記者会見をしていた。しかし、そこでは大久保の話は、いっさい出なかった。
「大久保の活躍をどう思うか」とでも質問しようものなら「サッカーは、ストライカーひとりで勝てるのか?」と、皮肉たっぷりに逆襲されるに決まっている。だから誰も、あえてきかないのである。オシムが個人をヒーロー扱いしたくないことは分かっている。
 オシム監督は「集団的なプレーが、よくなってきた」と、繰り返して話した。日本の後半の2点は、ともにあざやかなコンビネーションとチームプレーから生まれた。前半の2点も、もちろんチームプレーのなかで、大久保の力が生かされたものである。サッカーが「個の力」だけのものでないことは当たり前である。

◆「個の力」として期待したい
 それでも、翌日の新聞のほとんどが、大久保を取り上げた。欧州組を招集しなかったので、大半はオシム監督が「中心メンバーは変らない」という見慣れた顔ぶれである。新たに登用されたトップの2人に注目するしかない試合だった。大久保が「個の力」を見せて2ゴールをあげたのだから、マスコミとしては、ヒーロー扱いが当然である。
 とはいえ、大久保が日本代表のエース・ストライカーとして定着するだろうとは、この試合だけでは言えない。相手のエジプトは、国内事情などで主力が来日していない。相手が強力だった場合に、大久保が「個の力」を発揮できたかどうかは分からない。
 オシムが「集団の力がよくなった」と言っても、「集団の力」だけでは勝てないことは、アジアカップで見せつけられた。だから大久保に「個の力」の可能性を見出したくなる。今後も大久保を使い続けてみて欲しいと思う。


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サッカー日誌 / 2007年10月19日


’80年代の日本サッカー(下)


狂会員から見た代表チーム
(10月4日「日本サッカー狂会」出版記念会)

◆『日本サッカー狂会』の本
 「1980年代の日本サッカー」を当時代表選手だった都並敏史さんが語り、それを、当時、新聞記者だったぼくは聴衆として聞いていた。そのトークショーは「日本サッカー狂会」の出版記念会だった。
 「協会」ではない、いわゆる「狂う会」は、東京オリンピックよりも、さらに前の1962年創立。日本代表チーム・サポーター団体の「超しにせ」である。
 その半世紀近い活動をまとめた本が出版された。本の名も『日本サッカー狂会』。国書刊行会発行、定価1900円プラス税。カラーのカバーで、340ページあまりの立派なものである。一般の書店で販売している。
 極め付きの有識サポーターである「狂会員」たちは、「1980年代の日本サッカー」をどう見たか。それは、この本の中に書かれている。

◆熱い応援と鋭い批判
 まだきわめて少数だった当時の日の丸サポーターたちは、混乱と過渡期の代表チームを熱い思いで、しかし鋭い目で観察し、応援している。当時の会員による長い座談会のなかにそれが出てくる。
 この座談会で語っている人たちは、熱烈なサポーターであっても、代表チームの試合結果に感情的に反応はしてはいない。オリンピック出場権をのがしても試合ぶりが未来につながるようであれば評価している。森孝慈監督のときがそうである。
しかし、おかしいと思えば、当局である「日本サッカー協会」が擁護しても、在野の「狂会」は敢然として追及する。1980年代の終わりころの「横山やめろ」のキャンペーンも、このメンバーの中からはじまったらしい。横山謙三監督が、新しい戦法を取り入れようとしたのを知っていても、成績不振が続けば立ち上がっている。

◆80年代の戦法の歴史
 『日本サッカー狂会』の座談会を読むと、日本代表チームの戦法の歴史が浮かび上がってくる。サポーターの本でありながら、戦法を語っているところがおもしろい。
 世界的に見ても、このころはサッカーの戦い方が急速に変った時代だった。そういう世界の動きに目を配ったうえで日の丸を振っている。4年に1度のワールドカップは、会社勤めの身でも無理をして見に行っている。日本代表が出場できないでいたころでも、サポーターは「世界のサッカー」を勉強に行っている。だから、歌って騒いで、自分勝手に応援を楽しんでいるサポーターとはレベルが違う。
 スタンドから見ていたわけだから、選手だった都並敏史さんとは違ってチームの内情は分からない。それは、やむをえない。でも、1980年代から15年以上もたって、都並さんを呼んで当時の内情を聞いたところにも、ぼくはおおいに感心した。


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サッカー日誌 / 2007年10月17日


’80年代の日本サッカー(中)


記者席から見た代表チーム
(10月4日「日本サッカー狂会」出版記念会)

◆1960年代は「クラマー系」
 『日本サッカー狂会』出版記念のトークショーで、都並敏史さんが「1980年代の日本のサッカー」を語ったのを聞いた。選手として代表チームの内側にいた立場からの話である。
 そのころ、ぼくは読売新聞のスポーツ記者だった。それで「記者席から見た1980年代の日本のサッカー」は、どんなものだっただろうか、と振り返ってみた。
 記者席からサッカーを見続けてきた立場からいえば、1980年代の日本のサッカーは、いろいろな意味で過渡期である。
 1960年代に、ドイツから来たコーチのデットマール・クラマーさんが、日本のサッカーを改革し、代表チームは1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを取った。
 その後、1970年代前半までは、クラマーさんのコーチとしての直弟子であった長沼健、岡野俊一郎が代表チームの監督を務めた。いわば「クラマー系時代」である。

◆実業団の日本リーグ系
 1970年後半に二宮寛、下村幸男が日本代表の監督を務める。それぞれ三菱重工、東洋工業の監督だった人で、いわば実業団(会社チーム)からの「日本リーグ系」である。どちらも、クラマーさんの影響は、それほどは受けていない。クラマーのサッカーから、さらに抜け出そうと試みているように、記者席からは見えた。
 1980年代の森孝慈監督は、選手としてクラマーの指導を受けた組である。この世代の日本代表選手は、ヨーロッパに何度も遠征して試合をして、サッカー先進国のサッカーを、当時としては数多く体験している。国内では「日本リーグ」の実業団チームでプレーした。その世代が指導者になった。いわば、当時としての「新世代監督」だった。その次の石井義信監督は日本リーグのフジタ工業を優勝に導いた「日本リーグ系」である。
 このころは、クラマー後のいろいろな試みが入り乱れた過渡期だったように思う。

◆読売クラブ育ちの選手
 選手のほうは、もっと入り乱れていた。1980年代はじめの若返りで、読売クラブの選手たちが加わったからである。読売クラブは現在の東京ヴェルディ1969の前身である。会社や学校のチームでない欧米型のクラブ作りをめざしていた。実業団チームではじまった日本リーグには遅れて入ってきて、創設14年目の1983年に初優勝した。
 読売クラブでは、自由奔放に選手が育った。都並敏史や戸塚哲也などである。そういう選手たちが、代表チームに入ってきて、大学チームや会社チームの選手たちの中に混じった。それが、1980年代の代表チーム内「不協和音」の一因だったのではないか。
 そういう状況を「記者席から見ていた」と言いたいところだが、正直にいうと、ぼく自身はスポーツ記者ではあったが、必ずしも客観的立場にいたわけではない。読売クラブには、創設にも運営にも深くかかわっていた。「二足のわらじ」だった。

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サッカー日誌 / 2007年10月16日


’80年代の日本サッカー(上)


選手から見た代表チーム
(10月4日「日本サッカー狂会」出版記念会)

◆都並敏史のトークショー
 「日本サッカー狂会」は、日本代表チームのサポーター団体の元祖である。「協会」ではない。通称「狂う会」である。その会が編集した『日本サッカー狂会』という本が国書刊行会から出た。
 その出版記念の会が、10月4日の夜、神田の東京堂書店で行われた。元日本代表、元読売クラブの選手、都並敏史さんのトークショーである。テーマは「1980年代の日本サッカー」。これがなかなかおもしろかった。
 サッカー新聞「エル・ゴラッソ」取締役の浅野智嗣さんの軽妙かつ的を射た司会で、都並さんが縦横無尽に自分の体験した1980年代の日本代表チームの裏話を披露した。
 日本代表チームについて言えば、1980年代は低迷の時代だった。日本は、アジアの中で、勝てそうでいて、なかなか勝てないでいた時代だった。

◆川淵監督による若返り
 トークショーで都並さんが話したことは、いずれ主催者側から公表されるだろう。ここでは一人の聴衆としての感想だけを述べておこう。
 同じ時代をトップクラスの選手として体験した話を聞くと、スタンドから見ていたのとは、少し違った姿も見えてくる。たとえば、80年代の代表チームは、監督も選手も「混乱の過渡期」にあったことに気がつく。
 都並さんが、はじめて日本代表に選ばれたのは、1980年のワールドカップ・スペイン大会予選のときである。このときの監督は、いま日本サッカー協会会長をしている川淵三郎さんだった。渡辺正監督急死のため強化部長が兼任したもので、次の森孝慈監督に引き継ぐまでの暫定だった。その川淵監督が思い切った代表チームの若返りをはかった。読売クラブの都並選手は当時、20歳だった。

◆歴代監督への評価
 川淵強化部長兼監督が、自分の手で代表チーム若返りの「手術」をしたあと、後任に森孝慈を起用したのは、いい決断だった。スタート当時の森監督のサッカーは、「狂会」のメンバーのような、サッカーをよく知っているサポーターから高く評価されていた。
 しかし、森ジャパンも、ロサンゼルス・オリンピック予選、メキシコ・ワールドカップ予選で敗退して「結果」を残すことができなかった。都並さんは「ロサンゼルス予選のころ、チーム内は不協和音ばかりだった」という。選手として内側にいた者と外側から見ていた者では、感じ方に違いがある。
 その後の監督についての感想も率直でおもしろかった。1987年に就任した横山謙三監督のときに、都並選手は代表から外れるのだが、都並さんは「ぼくは横山さんのサッカーは好きだった」という。これも興味深い。


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サッカー日誌 / 2007年10月05日


浦和レッズ、チームの骨格


J1 浦和1対0新潟
(9月30日 埼玉スタジアム)

◆過密日程を戦い抜く
 浦和レッズが9月30日に埼玉スタジアムでアルビレックス新潟に勝った。Jリーグ終盤戦に入り、首位を確保し続けたい浦和にとって貴重な白星だった。しかし、選手たちには疲労の色が濃く、終了間じかに、やっと決勝点がはいって、引き分けを免れた
 レッズは、前年のリーグ・チャンピオンとしてアジア・クラブ・チャンピオンズ・リーグ(ACL)に出ている。その試合が3日前にあった。このところ週に2試合の過密日程が続いている。
 しかし、レッズは、メンバーを変えて選手を休ませる策はとらなかった。ACLの試合もJリーグの試合も、ほぼ同じメンバーで戦った。
 新潟との試合のあと、オジェック監督は、その理由を聞かれて「チームには骨格がある。いまのレッズの骨格を変えるべきではない」と答えた。

◆基本のメンバーは固定
 今季のACL参戦が決まった時点で、過密日程は予想できたことである。だから、レッズのフロントは補強に力を入れて、2チーム編成できるほどの選手を揃えたのだろうと思っていた。
 しかし、オジェック監督は2通りのチームを編成する策はとらなかった。豊富な人材は、ケガや出場停止の穴を埋めるには役立ったが、ほとんどのメンバーは固定していた。
 守りの中心の闘莉王がしばしば前線まで進出しても、守備ラインが崩れない。呼吸の合った顔ぶれが、そのあとを埋めているからである。
 トップについては「すばらしいFWを3人持っている」とオジェック監督は自慢する。ワシントン、田中達也、永井である。そのうちの2人が出場する形だが、どのコンビもトップ下のポンテとの相性がいい。

◆温存策の川崎は敗退
 浦和と同じくACLに出場している川崎フロンターレは、 9月19日にイランで行われたACL準々決勝第1戦から帰国したあと、23日の柏レイソルとの試合で、主力をはずして8人を入れ替えた。結果は0対4の完敗。ベストメンバーで戦わなかったことに批判が出た。その3日後のACL準々決勝第2戦はPK戦で敗退した。
 川崎のとった策は、批判は受けたが、やむをえないことではある。海外での試合を含めて週2試合ずつの連戦は、あまりにも過酷である。
 浦和の選手たちも、新潟との試合では動きが悪く、運動量が少なかった。引き分けに終わっていれば、疲労の色濃い選手を休ませなかったことを、批判されたかもしれない。
 浦和のオジェック監督は、川崎については「他のチームのことだから」とコメントを避けた。しかしチームの骨格を崩さなかった方針の正しさを確信したに違いない。

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サッカー日誌 / 2007年10月03日


Fリーグは成功するか(下)


地域での地道な運営を
(9月23日~24日・Fリーグ開幕、東京代々木第一体育館)

◆審判の笛が甘い
 Fリーグ開幕シリーズを見て、フットサルに詳しい友人が「ふつうの試合より笛が甘いな」と感想を述べた。敵味方の体が接触したときに「反則をきびしくとっていない」というのである。日本サッカー協会の審判関係者に聞いたら「たしかに、そういう印象はあった」という。
 そこで、疑り深く考えた。「プロをめざすFリーグだから、おもしろくショウアップしようと、プレーの中断を避けて笛を控えたのではないか?」
「そんなことはない」と審判関係者は、すぐ否定した。それならばいいが「トップ・リーグは一般の試合とは違う」と別の基準で笛をふいたのであれば問題である。トップクラスの全国リーグも地域の底辺の試合も「同じフットサル」だという考えで、Fリーグを運営すべきだと思う。審判の基準も同じでなければならない。

◆底辺と同じフットサルを
 プロスポーツの「あり方」には2通りある。
 一つは米国型である。「プロは興行ないしはショウだから、アマチュアの試合と違って当然」という考え方である。おもしろくするために、激しさやスピードを強調する演出をする。野球やバスケットボールのプロはそうで、組織としてもアマチュアとは別である。
 もう一つは欧州型である。プロもアマチュアも「同じスポーツ」だという考え方である。サッカーはその代表で「トップクラスの試合は、草の根スポーツのお手本だ」だと考える。競技団体の組織は「プロアマ共存」である。
 フットサルはサッカーをもとに生まれたスポーツで、国際的にはFIFA(国際サッカー連盟)の管轄下にある。国内では日本サッカー協会の管轄下にある。サッカーと同じ欧州型で運営すべきだと思う。

◆各地の苗木を育てよう
 日本サッカー協会が上から落下傘を降ろして、各地に芽生えていたフットサルのクラブを拾い上げ、植木鉢に移してショウウインドウに並べた。Fリーグの開幕シリーズは、そういう形だった。
 しかし将来は、各チームが自分のホームゲームを、それぞれの地域で自立して運営できるようでありたい。地元の人たちの支援を求め、多チャンネル化を利用して地域からのテレビ放映をめざすのがいい。財政的に多くは望めないにしても、それが現実的である。
 協会あるいは広告企業主導で大樹を植えようとするよりも、各地に根を下ろした多くの苗木を、見守って育てるようにしよう。大樹に果物は実らない。大地に根を下ろしている木々を、手塩にかけて育てることによって豊かな収穫が得られる。
 当面、開幕シリーズのような集中開催は、PRのための役割を果たせるだけである。

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サッカー日誌 / 2007年10月02日


Fリーグは成功するか(中)


プロ興行の将来には不安
(9月23日~24日・Fリーグ開幕、東京代々木第一体育館)

◆スポンサーが少ない
 代々木体育館でFリーグ開幕シリーズを見て意外に思ったのは、スポンサーの広告が少ないことだった。メーンのスポンサーと思われるのは、食品の「ウイダー in ゼリー」で、これはコート周辺に看板が4つあった。あとは用具などを提供するスポーツ用品・施設の企業と、メディアとして協力する読売新聞のウェッブ・サイト yorimo である。読売新聞には直前に「協賛」の社告は出ていたが、開幕翌日のスポーツ面での扱いは小さかった。紙面で見る限り、急に協力することになったという感じである。
 メーン・スポンサーを1社に絞るという手法もないわけではない。しかし、この場合はおそらく、そうではないだろう。広告企業の交渉が難航した結果だろうと想像した。
 テレビの生中継もなかった。10月に録画で特集番組が放映されるとのことだが、テレビ中継がなければ、競技場の看板の広告効果は限定される。

◆入場料収入は期待できない
 体育館で行うスポーツだから万単位の観客数は望めない。今回の会場の代々木体育館は、1964年の東京オリンピックのときに建設された施設でスタンドの収容能力は9,079人である。開幕シリーズ初日は7千人以上の観衆で、ほぼ埋まっていたが、特別招待客も、かなり多かった。
 今回は、東京に全8チームが集まる集中開催方式だった。Fリーグは集中開催とホーム・アンド・アウェーの併用で、各チームは、それぞれのホームで7試合を行うことになっている。地方都市に代々木のような大体育館はほとんどない。それに地方都市で有料2千人以上の入場者を集めることは当面は困難だろう。東京並みの入場料金では地元の人は二の足を踏む。
 集中方式の開催は7回行われる。長野や北九州での集中開催もある。しかし、地元チームのないところで、大観衆を望むのは無理である。

◆テレビ収入は期待できるか?
 入場料収入に多くを望めないとすれば、テレビ放映権をあてにすることになる。
 しかし放映権料高騰のピークは過ぎたように思う。多チャンネル時代に向かって放送番組が不足してきているので、スポーツ中継の争奪戦が続いてきたが、結局はワールドカップやオリンピックなどの人気スポーツに偏り、しかも他国の番組も入ってきて、人気番組としての新規参入は難しくなってきた。
 デジタル化と放送衛星のおかげでチャンネル数が増えるから、電波にのせてもらう機会はできるだろうが、視聴率が取れない限り、高額の放映権料は期待できない。
 Fリーグの集中開催にテレビ中継がつき、高い視聴率を上げて、その放映権料でFリーグ全体の運営をまかなおうという計算があるのかもしれない。でも、いまのところは「皮算用」に過ぎないようである。

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