サッカー日誌 / 2008年05月31日


国立競技場の改築計画


簡素で機能的なサッカー場を期待
(5月29日・文部科学省の有識者会議)

★五輪招致とは切り離して
 東京の国立競技場(霞ヶ丘競技場)改築がタイムテーブルにのり始めたようだ。文部科学省が5月29日に「今後のあり方」について意見を聞く有識者会議を発足させた。いまのスタジアムは50年たって耐用年限が切れかけているから取り壊すほかはない。そのあと、どうするかの問題である。
 有識者のなかにサッカー関係者は入っているが、東京都からは招かれていない。2016年オリンピック招致とは関係ないことを示すためだろう。
 五輪招致から切り離して考えるのは非常にいい。国民のための施設を作って、それがたまたま国際大会に役立つのならいいが、オリンピックにしろ、ワールドカップにしろ、あるいは国民体育大会にしろ、一時的なお祭りイベントを目的に施設を作って、それをあとで日常のスポーツにも利用しようというのでは話が逆である。
 
★陸上競技場は無理
 新しい陸上競技場に改装するのは不可能だという話である。現在のトラックは8レーンだが、国際競技会を開くには現在の規則では9レーン必要である。しかし周辺の敷地に余裕がないので、レーンの増設は無理である。また選手たちがウォーミングアップするためのサブ・トラックを作る敷地もない。
 神宮外苑は、明治天皇の遺徳を記念し、青少年の心身鍛錬のために作られた施設である。歴史と伝統を踏まえて、新しい施設もスポーツのためでなければならない。
 そう考えると、改築後の施設はサッカーなどの球技場として作り直すことになるだろう。陸上競技のトラックがなければ、スタンドとフィールドが近くなって試合は見やすいし、観客席にも余裕が出てくる。競技や観客のための付帯設備も作りやすい。都心に近く、交通の便もいいので、大観衆を集めるサッカー場に最適である。
 
★維持、管理の考え方
 考えておかなければならない問題は、建設後の管理である。
 豪華な施設を作り、複雑な設備をして、維持にお金がかかりすぎるようでは、持ちこたえられない。
 最近のスタジアムは外観の豪華さや奇抜さを競うものが多い。建築家のアイデア優先で、使いにくい競技場もある。ドームにしたり、開閉式の屋根をつけたりして維持にお金がかかりすぎたり、故障が多かったりする例もある。
 運営費を稼ぐために、いろいろな目的に使えるようにと、いろいろな設備をして、かえって、お金がかかることもある。スポーツだけに使えというつもりはない。音楽など文化的な事業に利用するのもいい。しかし、お金儲けのための施設にするべきではない。
 その点を考えて、新しい施設は、簡素で機能的なものにして欲しいと思う。

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サッカー日誌 / 2008年05月27日


新しい大学スポーツのあり方を


東大五月祭の公開パネル討論
(5月24日・東大本郷キャンパス )

★日本は世界のトップクラス
 東大五月祭にサッカー部(ア式蹴球部)主催で開いたパネル討論会「大学サッカーの未来を考える」は、予想以上に中身の濃いものになった。サッカーだけでなく、日本の大学スポーツ全体を考えるきっかけになって欲しいと思った。
 現役サッカー部員の望月進司くんが登壇し、サッカー協会の役員であり大学教授である他のパネリストと肩を並べて、米国の大学スポーツについて報告し、堂々と意見を述べた。望月くんは、米国生まれで、高校卒業まで米国で育ち、サッカーもしていた。いま、東大法学部3年生である。
 「日本の大学サッカーは、大学生のオリンピックであるユニバーシアードで4度も優勝している。大学生では世界のトップなんだから、競技レベル点では、心配することはない」というのが彼の意見の一つだった。

★選手育成は役割ではない
 瀧井敏郎さん(東京学芸大教授)と加納樹里さん(中大教授)は「大学がエリート選手育成の役割を担う必要があるとは考えない」という趣旨の意見を述べた。
 たしかに、日本の大学サッカーは、外国の大学サッカーにくらべて、ずいぶん盛んだし、レベルも高い。Jリーグ・チームの主力選手もおおぜい出している。
 トップクラスの選手養成はJリーグのクラブでもできるので、必ずしも大学が全面的に引き受ける必要はない。現状で十分である。「なるほど」と思った。
 しかし、現在の日本の大学サッカーに問題がないわけではない。
 日本の大学サッカーのレベルはけっこう高いのに、人気がない。米国では、大学のフットボールやバスケットボールは、プロと並ぶ人気があり、けた違いのテレビ放映権収入がある。教育や研究とは別に、大学スポーツの地位が認められている。
 
★新しい組織で新しい役割を
 日本の大学スポーツは、一部では大学のPRの手段に使われているが、マスコミに大きく取り上げられないから宣伝効果は乏しい。財政的にも、それほど恵まれていない。
 数万人単位の学生を抱える大学で、試合に出るのは原則として1チームだけである。一握りの選手のために体育会系のスポーツ部があるのは何のためだろうか?
 米国のNCAA(全米大学スポーツ協会)のような各種のスポーツを含んだ組織を作って、テレビ放映権料などを得て、スポーツ振興の資金に使えないだろうか?
 あるいは、大学スポーツの施設と人材を活用して、地域に門戸を開放したスポーツクラブを運営できないだろうか?
 パネル討論では、いろいろな意見や疑問が出た。古い伝統や組織にとらわれないで、新しい大学スポーツのあり方を求めるべきだと思う。

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サッカー日誌 / 2008年05月24日


日本最初の対外試合の記念写真


第18回日本サッカー史研究会
(5月19日・JFAハウス会議室 )

★明治37年の“国際試合”
 いまから100年以上前の1904年(明治37年)2月6日に横浜公園で、日本最初のサッカー国際試合が行われた。国際試合といっても、国の代表チーム同士による試合ではない。ようやく本格的なサッカーが日本で始まろうとしていたころの話である。
 いまの筑波大学の前身である東京高等師範学校のチームが横浜外人クラブと対戦した。外人クラブは、明治の初期から在留外人同士の試合をしていたが、高等師範の生徒たちは、外国の本を読んでゲームの方法を学んでいた程度。これが最初の対外試合だった。結果は9対0の大敗である。
 横浜から戻った東京高師の選手たちは翌日、東京神田淡路町の「江木本店」という写真館で記念撮影をした。試合をした11人はユニホーム姿で、他の3人は学生服で写っている。
 日本サッカー史研究会の5月例会で、この写真が紹介された。

★中村覚之助の決意
 例会に和歌山から来ていただいた中村統太郎さんが、この写真の提供者である。
 東京高師サッカー部(当時フットボール部)を最初に組織した功労者に那智勝浦町出身の中村覚之助という人がいる。日本最初の指導書『アッソシエーション・フットボール』を執筆・編集した人である。統太郎さんは覚之助の長兄のお孫さんにあたる。つまり本家の子孫である。それで遺品として、この写真を持っていたのである。
 写真の裏には「誌」として、墨で試合のことが記されている。
 「彼ハ之百年老練ノ士、我ハ即初陣の若武者勝敗ノ決固ヨリ期スル所何ゾ患フルニ足ランヤ今日以後吾人ノ期スル所ノモノ只遠カラズシテ彼我其位置転ズルニアルノミ」。
 「今回は初めてだから大敗はやむをえないが、近い将来に追い越すぞ」という決意の表明である。実際に5年後の1909年(明治42年)に、東京高師は横浜外人を東京大塚のグラウンドに迎えて3連破している。
 
★日本サッカーの記念日 
 この写真を見て、100年以上前に、日本サッカーのスタートラインに立った若者たちの「志」を思った。
 写真に写っている20歳前後の学生たちは、自分たちのした試合の重要な意味を自覚していたに違いない。だからこそ、9対0の大敗ではあったが、翌日にうち揃って写真舘に行き、改めてユニフォームを着て、その映像を留めたのである。
 むかしは写真機も写真技術も普及していなかったから、専門の写真館へ行ってスタジオで撮影してもらったものである。だから、なにかの記念日ででもなければ写真はとらなかった。東京高師の選手たちは、この日が100年後に、日本のサッカーの記念日になることを期していたかのように思える。
 写真は中村家から寄贈を受けて、いま、日本サッカー・ミュージアムに展示されている。


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サッカー日誌 / 2008年05月23日


菊原志郎コーチの少年育成論


東京ヴェルディのビバ講座 第3週
(5月9日 読売・日本テレビ文化センター新宿)

★クラブ育ちの模範生
 「東京ヴェルディのビバ!サッカー講座」第3週の講師に菊原志郎コーチを迎えた。
 菊原さんは、ヴェルディの前身の読売サッカークラブで、小学4年生のときから育ち、中学、高校、大学で勉強はしたが、サッカーはずっとクラブで続けた。高校、大学ではサッカー部には属さないのだから、体育系の推薦入学で特待生になるわけにはいかない。実力で入試に合格し、大学は経済学部を卒業した。
 サッカー選手としては、高校1年生のときにトップチームにあがり、日本リーグとその後身であるJリーグでプレーした。ヴェルディのほかに、一時、浦和レッズでもプレーした。日本代表にも選ばれた。
 選手生活を終えてからは、ヴェルディのコーチとして、ジュニアユースやユースの指導をし、いまはトップチームのコーチである。きっすいのクラブ育ちの模範生だ。
 
★勝負にこだわらず、いろいろなスポ―ツを
 そこで、自分自身の体験を踏まえて、若手育成の話をしてもらうことにした。
 「小学生のとき全国少年サッカー大会の東京都予選の試合が、空手(からて)の試合とぶつかって、ぼくは空手のほうに行った。そしたら、サッカーチームは負けちゃってた」
 このエピソードには、二つの示唆が含まれている。
 一つは、小学生年代では、サッカーだけでなく、いろいろなスポーツをやったほうがいい、ということである。菊原少年は、ほかに水泳や卓球もやっていたという。
 もう一つは、少年チームは優勝することにこだわる必要はない、ということである。「試合は、子どもなりに勝ちたいと思ってやってたけど、優勝しなければいけない、などいう、プレッシャーは感じなかった」という。だから、サッカーのだいじな試合があっても、自分が行きたいスポーツのほうに行けたわけである。
 
★のびのびと失敗を重ねて育つ
 いまは、なかなか、そうはいかない。親が勝つことを望んでプレッシャーをかける。指導者も、勝たなければ評価されないから「将来大きく育ってくれればいい」などとのんきなことを言ってはいられない。
 「少年チームが試合に勝とうと思ったら守りをかためればいい。ヴェルディでも、森本貴幸(現イタリア・カターニャ)が少年だったとき、攻めは森本に任せて、守りを固めて勝ったことがある」
 でも、おとなの思い通りに試合をしたら、チームは勝っても、子どもたちは楽しくない。
 自分のアイデアで、のびのびと楽しんでプレーし、自分でトライして失敗を重ねているうちに、オリジナリティが生まれ、個性が育つ。
 菊原少年は、そのようにして育った。それができたのは、学校チームではなく、クラブチームだったからである。そのクラブのよさが、いま失われつつあるのだろうか?
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サッカー日誌 / 2008年05月05日


「クラシコ」に思うこと


Jリーグ第10節
東京ヴェルディ 3-2 横浜F・マリノス
(5月3日・東京国立競技場)

★15年前の開幕カード
 国立競技場の記者席に座るまで、このカードに特別の意味がこめられていることに気がつかなかった。キックオフの直前、電光掲示板に、1993年5月15日に、同じスタジアムで行われた同じカードの映像が映し出された。Jリーグが創設されたときの開幕試合である。それで、はじめて気がついた。
 Jリーグ前身の日本リーグ最後のころは、読売クラブと日産自動車の2強時代だった。それで、この2チームの後身のヴェルディ対マリノスが、記念すべき試合のカードに選ばれたのだった。という歴史を踏まえて、この試合を「伝統の一戦」としてPRしたらしい。
 しかし15年後の観衆は、ぼくと同じように、それほど、この「クラシコ」に意義を感じなかったのではないか。
 観客も、選手も、サッカーの中身も、かなり変わっているのだから。

★虚虚実実の駆け引き
 マリノスは、立ち上がりから、右サイドへサイドチェンジのパスを振って攻めた。ヴェルディ守備ラインの左サイドは和田のはずだったが、腹痛と発熱で使えなかったので、センターバックが本職の冨澤が代役だった。マリノスは、すかさず、そこをついてきたのである。和田が体調不良を訴えたのは前夜だったそうだが、マリノスはたちまち、その情報を生かして作戦を立てたわけである。
 ヴェルディは、フッキらブラジル人選手3人で攻め、残りの7人で厚く守る布陣だった。マリノスの桑原監督は、もちろんヴェルディの作戦をとっくに読んでいた。外人3人をきびしくマークしながら、攻めに転じると、すばやいパスをつないで崩そうとした。
 このような情報戦や戦法は、15年前のJリーグ発足当時にくらべると、ずいぶん進歩している。虚虚実実の駆け引きである。

★柱谷監督には因縁のカード 
 後半は点の取り合いになリ、やや劣勢だったヴェルディがリード、マリノスが終盤に攻勢に出て、スリリングな試合になった。
 1点差で終了間際になると、ヴェルディの柱谷哲二監督はタッチラインの近くまで出て行って、自分の腕時計を振りかざしながら「タイムアップだ! タイムアップだ!」と叫んでいた。もちろん主審に聞こえるわけはなく、聞こえても従うはずもなく、表示されたアディショナル・タイム3分が、しばらく過ぎてから終了の笛が鳴った。柱谷監督は地面にひざをつき、両手を上げて感動を表現した。
 試合後の記者会見で、柱谷監督は「15年前に1対2で負けて悔しかったから、今度は、ぜひ、いい試合をして勝ちたかった」と話した。15年前にはヴェルディの選手として戦った立ち場からは、因縁の「クラシコ」だったわけだ。

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サッカー日誌 / 2008年05月01日


読売クラブからヴェルディへ


4月25日・「ヴェルディのサッカー講座」第2回

★ゲスト講師に読売の塩見さん
 東京新宿の読売・日本テレビ文化センターで始めた「東京ヴェルディのビバ!サッカー講座」は順調に滑り出した。毎週第2、第4金曜日の夜、月2回である。
 ヴェルディのスタッフに、次つぎに講師として来てもらって「Jクラブ提供のサッカー学講座」にするのが、ぼくの計画である。ヴェルディは積極的に協力を約束してくれているのだが、問題は翌日の土曜日に試合があるときである。とくに翌日がホームゲームの場合は、スタッフは準備に追われているので講師を出せない。そこで、そういう日は、他の関係者にゲスト講師をお願いすることにした。「仏の顔は3度だが、牛木の顔は1度だけだから……」と言ってお願いするのだが、実は、他の会合で、お忙しい方に4度も5度も顔を立てていただいたりしている。
 4月25日の第2回は、読売新聞の塩見要次郎さんに来ていただいた。

★Jリーグ初期の問題
 塩見さんは、Jリーグがはじまった1990年代のはじめころにサッカーを担当していたベテランのスポーツ記者である。
 ヴェルディの前身は、1969年創設の「読売サッカークラブ」で、そのころは、毎年のように優勝している黄金時代だった。強いだけでなく、人気の点でも No.1 だった。
 読売クラブは、クラブ組織によるプロ化をめざしていた。その台頭に、古河電工、三菱重工などの会社チームが危機感を抱いた。それが、Jリーグ結成の動機の一つだったと、ぼくは考えている。
 それだけに、Jリーグ結成を主導した会社チーム出身者と読売の関係者の間で、対立する問題が多かった。それを取材していた塩見さんは、間に立って苦労したはずである。今回の講座で、塩見さんは当時の経過を裏話をまじえて話してくれた。
 
★ホームタウン移転と呼称
 取り上げた問題は「読売ヴェルディ」という呼称の問題と、川崎から東京へのホームタウン移転問題だった。
 話の著作権は塩見さんにあるわけだし、特定少数の講座だから話してくれたこともあるだろう。だから、ここに詳しく紹介するわけにはいかない。ただ、ぼくが感じたのは「読売クラブは、いまだに誤解されっぱなしなんだなぁ」ということである。
 問題はすでに解決されていて、ヴェルディは東京への本拠地復帰をはたしている。チームの名称には「東京」と地域名がはいり、略称も「東京V」になっている。
 だから、こだわることはないのだが「読売クラブ」は、もともと他に先駆けて「東京のクラブ」として設立され「健全なプロ」をめざしていた。そういう歴史を、すべての人に知ってもらいたいと思う。

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