サッカー日誌 / 2015年01月28日


賀川浩さんの功績(下)


関西からの批判的発信

FIFA会長賞受賞
(1月12日 FIFA表彰式、チューリッヒ)

★大阪クラブの雑誌
 FIFA会長賞を受けた賀川浩さんの主な功績は「技術重視の評論」だと、ぼくは考えている。
 それがFIFA表彰の根拠ではないにしてもである。
 もう一つ注目したいのは、それが「関西発」のジャーナリストによるものだったことである。
 大阪朝日の大谷四郎、大阪毎日の岩谷俊夫、それに大阪産経の賀川浩の「神戸一中トリオ」は、当時の精神主義、体力主義、団体主義の風潮に対して、テクニック重視、インテリジェンス重視の議論を展開していた。
 ぼくが啓発されたのは、1950年代に、大阪サッカー協会の川本泰三さんを中心とする大阪クラブが発行していた「キックオフ」という雑誌である。そのなかで、神戸一中トリオによる、テクニック重視のサッカー評論が展開されていた。

★中央への対抗意識
 その背後には、関西のサッカーの中央への批判があったように思う。
 当時の日本サッカー協会は関東の大学OBが中心だった。それに対する関西側の反発があった。
 ただし、学閥の対立だったとはいえない。
 関西側の技術面批判の中心は早稲田OBの川本泰三だったが、関東の早稲田のサッカーは別の考え方だった。
 中央での技術面の中心は東大出の竹腰重丸だったが、関西での理論家は同じ東大出の大谷四郎だった。
 また、関東のサッカーがテクニック軽視だったわけでは、もちろんない。
 ただ、チームのスタイルとしては、関東の大学チームのほうが、力強さやスピードに傾いていた。
 地方対中央の対立という面があったのかもしれないが、異なった考えがあり、それを言論の場で発信したのは、すばらしい。これは賀川さんたち、関西のサッカー・ジャーナリストの功績である。

★中央に寄り添う
 ただし、関西からの発信のなかでは、賀川さんはもっとも中央寄りだったように思う。
 神戸一中トリオのなかで大阪朝日の大谷四郎さんは、特にサッカー協会の「在り方」について批判をしていた。
 大阪毎日の岩谷俊夫さんは、技術指導者(コーチ)として起用されながらも批判は鋭かった。
 その点では、賀川さんの発信には、中央批判は少なかったように思う
 ひところ、日本サッカー協会の「キャプテン」が、批判をする記者の発信に圧力をかけたと聞いたことがある。
 しかし、賀川さんは、その圧力の圏外だった。
 賀川さんは、結果的には中央に寄り添う形になったのではないだろうか。

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サッカー日誌 / 2015年01月19日


賀川浩さんの功績(中)


テクニック重視の評論

FIFA会長賞受賞
(1月12日 FIFA表彰式、チューリッヒ)

★長年の功績の内容
 FIFA会長賞を受賞した賀川浩さんの功績は、90歳になるまでジャーナリストとして活動を続けていることだけではないはずである。
 長年の努力、尽力は、もちろん大きいものではあるが、評価しなければならないのは、その中身である。
 賀川さんの功績の、もっとも大きな部分は、テクニック重視の評論を続けてきたことだと、ぼくは思っている。
 「テクニックが重要なのは当たり前ではないか?」と、現在の若い人は思うだろう。
 しかし、1960年代、70年代の日本のスポーツ・ジャーナリズムの世界では、そうではなかった。
 がんばること(精神力)、動き続けること(労働力)、チームプレー(団結力)が特別に重視されていた。
 精神力、労働力、団結力は、もとより重要ではある。
 しかし、サッカーでは、その前に、ボールを自在に扱える個人のテクニックがなければならない。

★神戸一中トリオ
 そういう、現在では当たり前のことが、そのころはスポーツ評論の主流ではなかった。
 個人のテクニック重視を主張し続けていたのは、そのころ関西でサッカー評論を展開していた神戸一中トリオである。
大阪朝日の大谷四郎さん、大阪毎日の岩谷俊夫さん、それに産経の賀川さんである。3人とも神戸一中(現在の県立神戸高)の出身である
 そのころ、東京讀賣のサッカー担当だったぼく(牛木)は、東京朝日の中条一雄さんとともに、サッカー協会の雑誌編集をボランティアで引き受けていた。
 その中で神戸一中トリオの座談会を試みたことがある。テクニック重視をPRしようという狙いである。
 大会取材のために出張した機会に集まり、宿泊中の宿屋の座敷で座談会をした。
 中条さんが司会で、もっとも後輩のぼくが記録係だった。

★業績の中身を知ろう
 座談会の途中で、神戸一中トリオは、畳の上で立ち上がって「ボールが、こう来たらこう、ああ来たらこう」と実演を始める。
 ぼくは、文字で筆記しているのだから、手ぶり、足ぶりで実演されては、記録のしようがない。
 それほど、神戸一中トリオは、実際のボール扱いのテクニックに、こだわっていた。
 大谷さんと岩谷さんは早くに亡くなり、その後は賀川さんの孤軍奮闘となった。
 「サッカーマガジン」などに掲載された賀川さんの記事は個人技術についての指摘と分析が的確で分りやすかった。賀川さんの業績の中で、もっとも重要なのは「技術評論」だと思う。
 そういう中身をFIFAが知って表彰したのだろうか?
 日本でも広く認識されては、いないのではないか?
 この機会に、業績の中身を知って欲しいと思う。



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サッカー日誌 / 2015年01月18日


賀川浩さんの功績(上)


認められた「きっかけ」は?

FIFA会長賞受賞
(1月12日 FIFA表彰式、チューリッヒ)

★FIFAは、なぜ知ったか?
 サッカー・ジャーナリストの大先輩である賀川浩さんが、2014年度のFIFA(国際サッカー連盟)の表彰でメディアを対象とするFIFA会長賞を受けた。
 日本のサッカー・ジャーナリズムが認められたことを喜んでいる。
 これについて、いくつかの質問を受けた。
 その一つは、賀川さんの功績を、FIFAが、どのようにして知ったかである。
 日本の国内では、日本語の評論による賀川さんの貢献はサッカー界では、よく知られている。
 しかし、その仕事が国際的に知られたのは、どうしてだろうか? 
 賀川さんの仕事は日本語で書かれている。それをFIFAがどうして知ったのだろうか?
 ノーベル文学賞を日本の作家が受賞するのは難しい。作品が日本語で書かれているからである。それと同じハンディキャップがあったはずである。

★ブラジルW杯での経験
 ブラジル・ワールドカップ2014のときに、こんなことがあった。
 ブラジルのスタジアムは急勾配である。記者席は、その最上段にある。その当時、間もなく90歳になる賀川さんが、それを登るのはたいへんである。
 日本代表チームの広報担当役員が心配して「VIP用のエレベーターを賀川さんが利用できるようにしてくれ」と、FIFAに頼んだ。
 それが認められて、82歳になるぼく(牛木)も「いっしょにどうぞ」と誘われた。
 ぼくは「自力で階段を上がれるぞ」と見栄をはって、その申し出を辞退した。
 そういう経過で、FIFAは日本の90歳のジャーナリストがワールドカップを取材していることを知ったのだと思う。
 それが、今回の表彰に、つながったのではないか?
 そういうふうに、ぼくは推測している。

★「お前がカガワか?」
 大会中に、90歳になる賀川さんが、ワールドカップを取材していることを、FIFAがサイトに掲載した。
 賀川さんは、日本が敗退したあと帰国した。
 そのあと、ブラジル・ワールドカップのメディア・センターで「お前がカガワか?」と、外国のメディアから、何度も
取材を受けた。
 日本人の記者で、年寄りは賀川さんに次いでは、ぼくだったので、間違えられたのである。
 大先輩と間違えられたのは光栄ではあるが「そんなに年寄りに見られるのか?」と、ちょっと、がっかりしたのも正直なところである。
 賀川浩さんが、90歳にいたるまでジャーナリストとして仕事を続けておられるのは、すばらしい。
 しかし、その功績の内容が、本当に理解されているのだろうか? 
 賀川さんの功績は、90歳になるまで仕事を続けていることだけではないだろう。


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サッカー日誌 / 2015年01月14日


日本女子サッカーの誕生


クラブの組織が可能にした
(1月7日付けの時評の訂正)

★実業団スポーツ
 皇后杯決勝について書いた、ぼくのブログ(ビバ!サッカー時評)の記事について、二つのご意見をいただいた。
 一つは、浦和レッズ・レディースの前身は、三菱重工サッカー部ではなく民間のクラブだった、という指摘である。
 この点は、ぼくの書き方が、不十分だった。
 ぼくの考えは、ベレーザもレッズ・レディースも「始まりの背景には人工芝のグラウンドとクラブ組織があった」ということである。
 1980年代ころまでの日本のスポーツは、学校チームと実業団(企業)チームによって成り立っていた。
 多くの場合、実業団が新たに女子の社員チームを作るのは、難しかった。
 三菱が会社の組織外の女子サッカーを受け入れることができたのは、三菱養和会が、三菱グループの範囲内ではあるが会社単位ではなく、クラブ組織だったからである。

★三菱養和のクラブ組織
 三菱重工の男子のサッカー部は、東京の本社と神戸の三菱造船所のチームから始まったと記憶している。
 一つの会社の社員によって構成されたチームという意味で当時の典型的な実業団(社員チーム)だった。
 しかし、三菱養和会は三菱系列の各社がお金を出し合って所有、運営している「クラブ」である。だから、利用者は一つの会社の従業員に限られてはいなかった。
 そのために三菱関係の会社の従業員ではないメンバーを含む民間のメンバーを入れることが出来たのではないか?
 ちなみに、現在の浦和レッズ・レディースの前身である三菱女子サッカーの初代監督は、ぼくの出身大学のサッカー部の1年後輩である。彼は、れっきとした三菱重工のエリート社員で経理部門の担当だった。三菱の財政支援を期待して、彼を監督にしたという話を聞いている。

★勘違いを訂正
 というわけで、浦和の女子サッカーの始まりは、クラブ組織と関係があるというのが、ぼくの考えである。
 もう一つ、ぼくのブログの誤りを指摘されたのは「皇后杯の名称が2014年度から始まった」という記述である。
 これは、まったく、ぼくの勘違いによる間違いである。
 決勝戦の会場が、2014年度から「味の素スタジアム」に変ったのと混同してしまった。
 慎んで、お詫びして、訂正する。
 2015年6月には、カナダで女子サッカーのワールドカップがある。
 この機会に「なでしこジャパン」の歴史を、ベレーザとレッズ・レディースを含めて本にまとめたい。
 印刷物にして残すことが、記憶に頼る勘違いを防ぐ重要な方法だと思う。
 関係の皆さまのご協力をお願いする。

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サッカー日誌 / 2015年01月10日


アギーレ監督の「八百長疑惑」


契約を守って続投は当然
(2014年12月27日 釈明記者会見)

★疑わしきは罰せず
 日本代表チームのハビエル・アギーレ監督の「八百長疑惑」が問題になっている。
 スペインのクラブ・チームの監督だったときに、2部降格を免れるために金銭の授受があったのではないか、という嫌疑をスペインで受けている。
 そういう人物に「日本代表チームの監督を続けさせて、いいのか」という問題である。
 日本サッカー協会は「嫌疑(疑い)の段階で解任することはできない」という考えで、1月のアジアカップの指揮を引き続き任せた。
 この決定は正しい。
 本人は疑惑を否定している。
 スペインの検察当局が調べているが、この時点では、起訴されたわけではない。まして有罪が確定したわけではない。
 「疑わしきは罰せず」である。

★「身体検査」をしたのか?
 「日本サッカー協会は契約前に身体検査をしなかったのか?」という質問を受けた。
 「身体検査」は政治の世界で使われている表現である。
 内閣を組織するときに、大臣の候補者に選挙違反や収賄の疑惑がないかを事前に調べる。それを「身体検査」といっている。
 協会が、アギーレ監督と契約する前に、そういう疑惑について調査しなかったのか?
 そういう質問である。
 協会がアギーレ監督と契約したのは2014年の7月である。
 スペインで「八百長疑惑」が表沙汰になったのは、1ヵ月後の8月である。
 地元でも知られていないものを、外国で見つけるのは難しいだろう。
 協会があらかじめ「身体検査」をしたとしても、疑惑を発見できたとは思えない。

★後任決定を急ぎすぎた
 ただし、ブラジル・ワールドカップで敗退したあと、代表監督の後任人選を急ぎすぎたのは、日本サッカー協会の失敗であり、責任であると思う。
 その当時、ぼくが書いた意見は、当面の2年間は、日本人監督を起用すべきだ、というものだった。
 結果論ではあるが、ぼくの考えは正しかった。
 日本人が候補なら、倫理的に信頼できる人物かどうかを判断しやすかったはずである。
 「疑わしい」というだけの状態で、アギーレ監督との契約を解除することは、契約に明文の条項がない限り難しい。
 かりに、1年2億円で4年契約をしていたとする。4年間で8億円である。1年目で契約を解除すれば、残り3年分の報酬、6億円を支払わなければならないのは当然である。
 日本人監督で、2年契約をしていれば、こういう問題は避けられたのではないか?

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サッカー日誌 / 2015年01月07日


女子を育てたレッズとベレ-ザ


皇后杯女子日本選手権決勝
日テレ・ベレーザ 1対0 浦和レッズ
5年ぶり、11度目の優勝
(1月1日 味の素スタジアム)

★人工芝で育った
 2014年度から「皇后杯」となった女子日本選手権の決勝は日テレ・ベレーザ対浦和レッズ・レディースの対決だった。
 ともに、日本の女子サッカーの歴史を作ってきたチームである。
 「この2チームは、人工芝のおかげで生まれ、育ったのではないか?」とぼくは考えている。
 浦和レッズの女子チームは、三菱養和会の人工芝のグラウンドで生まれ育った。
 三菱商事が米国のモンサントと提携して、モンサントの開発した人工芝を移入した。それを、巣鴨と調布の三菱のグラウンドで試験的に使用した。
 このグラウンドを使用していた三菱重工のサッカー部が女子サッカーを始めることを考えた。
 三菱重工のサッカーがJリーグ創設にともなって浦和レッズになり、その女子チームが浦和レッズ・レディースになったのである。

★グラウンドの競合を解決
 一方、ベレーザは、讀賣クラブの女子チームとして「よみうりランド」の人工芝で生まれ育った。讀賣クラブは三菱より少し遅れて人工芝を移入した。そこで讀賣クラブの女子チームとして「ベレーザ」が生まれた。
 讀賣クラブがヴェルディになり、女子チームは現在の「日テレ・ベレーザ」になった。
 どちらも人工芝の移入とともに生まれた。その理由は、男子チームの使っている天然芝のグラウンドを傷めないですむようになったからではないか?
 これが、 ぼくの仮説である
 そのころは、サッカーはもっぱら男子のスポーツと考えられていたので「そこに女子が割り込んでくるのは厄介だ」という思いがあったことは十分に想像できる。
 そういうなかで、三菱と讀賣は、グラウンドの競合の問題が解決したので女子を受け入れることができた。

★「男女共存」のクラブ
 もう一つ。
 三菱と讀賣が女子を受け入れることができた原因は、両方とも学校や企業のチームではなく、当時としては目新しいクラブ組織だったからだと思う。既成のチームの枠にとらわれないで、欧州のクラブの「あり方」を学んでいた結果だろう。
 男女が同じ組織に属することによって、新たにできた女子は、男子に学ぶことができた。
 そのおかげで、三菱も讀賣も、女子サッカーについては、まったくゼロから選手を育てることができた。「男女共存」のおかげである。
 2013度の女子サッカーを制したINAC神戸は、既成の選手を引き抜いてきて強いチームを作った。それも、一つのやり方かもしれないが、サッカーの向上、発展には、あまり役立たないと思う。
 ゼロから出発して選手を育てた浦和とベレーザの歴史を見直して評価したい。


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