ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2007年09月29日
Fリーグは成功するか(上)
見るスポーツとしておもしろい
(9月23日~24日・Fリーグ開幕、東京代々木第一体育館)
◆競技スポーツとしての可能性
Fリーグ開幕シリーズを見に行った。フットサル全国リーグ創設の試みが成功するかどうかに興味を持ったからである。
スタートのようすを見た印象は「おもしろいが、不安もある」というところである。当事者たちの本音も、おそらく同じだろう。
競技スポーツとしての可能性は十分にあると思った。「するスポーツ」として楽しいことは、すでに広く知られている。草の根レベルでは急速に普及しつつある。「競技スポーツ」として、さらに発展するにはレベルを上げる必要があり、そのためには、強いチーム同士の試合が必要だろう。また、競技として全国的に普及させるためには全国リーグが役に立つ。Fリーグが成功するかどうかというより、成功させる必要があると感じた。
不安を感じたのは興行面である。開幕シリーズの運営ぶりを見る限り、プロとして維持していくための財政面の見通しは立っていないようだった。
◆緊迫の接戦も、大逆転のドラマも
フットサルは「見るスポーツ」としても、なかなかおもしろい。
発表では、入場者数は、初日は7,068人、2日目は6,157人だった。創設のお祝いシリーズだから、招待客がかなり多いようだったが、フットサルをはじめて見たらしい人たちも、チャンスのたびに歓声を上げて興奮していた。
初日の第一試合は、優勝候補とされている名古屋オーシャンズが、前半なかばに先取点をあげながら、後半にデウソン神戸に追いつかれ、1対1で引き分けた。ゴールは少なかったが、緊迫したムードがスタンドにも伝わっていた。
第二試合はシュライカー大阪の2点のリードに、東京のペスカドーラ町田が前半のうちに追いつき後半に大逆転劇を演じた。7対3のゴール量産の試合だった。得点のはいらない試合にスリルがあり、大量点の試合にドラマがある。その両方を見ることができた。
◆コートが小さいからスリルがある
11人制のサッカーと違ってコートが小さい。それがサッカーとは別のおもしろさを作り出す。攻めはたちまちゴール前にくる。しかし、点はなかなか入らない。ゴールは小さいが守っている人間の大きさは同じだから、シュートがゴールキーパーの体に当たってはね返される。
捨て身の攻め合いになると大量点になる。後半のなかばを過ぎると、リードされているほうは、ゴールキーパーを上げてパワープレーに出る。それで点が入り始めることもあるし、逆襲で点を取られることもある。
コートが小さいからシュートの機会が多い。ゴールが小さいから得点はなかなか入らない。そこで、いろいろな攻め方やすばやいテクニックを、くふうしなければならない。そこに「見るスポーツ」としてのおもしろさがあるように思った。
(9月23日~24日・Fリーグ開幕、東京代々木第一体育館)
◆競技スポーツとしての可能性
Fリーグ開幕シリーズを見に行った。フットサル全国リーグ創設の試みが成功するかどうかに興味を持ったからである。
スタートのようすを見た印象は「おもしろいが、不安もある」というところである。当事者たちの本音も、おそらく同じだろう。
競技スポーツとしての可能性は十分にあると思った。「するスポーツ」として楽しいことは、すでに広く知られている。草の根レベルでは急速に普及しつつある。「競技スポーツ」として、さらに発展するにはレベルを上げる必要があり、そのためには、強いチーム同士の試合が必要だろう。また、競技として全国的に普及させるためには全国リーグが役に立つ。Fリーグが成功するかどうかというより、成功させる必要があると感じた。
不安を感じたのは興行面である。開幕シリーズの運営ぶりを見る限り、プロとして維持していくための財政面の見通しは立っていないようだった。
◆緊迫の接戦も、大逆転のドラマも
フットサルは「見るスポーツ」としても、なかなかおもしろい。
発表では、入場者数は、初日は7,068人、2日目は6,157人だった。創設のお祝いシリーズだから、招待客がかなり多いようだったが、フットサルをはじめて見たらしい人たちも、チャンスのたびに歓声を上げて興奮していた。
初日の第一試合は、優勝候補とされている名古屋オーシャンズが、前半なかばに先取点をあげながら、後半にデウソン神戸に追いつかれ、1対1で引き分けた。ゴールは少なかったが、緊迫したムードがスタンドにも伝わっていた。
第二試合はシュライカー大阪の2点のリードに、東京のペスカドーラ町田が前半のうちに追いつき後半に大逆転劇を演じた。7対3のゴール量産の試合だった。得点のはいらない試合にスリルがあり、大量点の試合にドラマがある。その両方を見ることができた。
◆コートが小さいからスリルがある
11人制のサッカーと違ってコートが小さい。それがサッカーとは別のおもしろさを作り出す。攻めはたちまちゴール前にくる。しかし、点はなかなか入らない。ゴールは小さいが守っている人間の大きさは同じだから、シュートがゴールキーパーの体に当たってはね返される。
捨て身の攻め合いになると大量点になる。後半のなかばを過ぎると、リードされているほうは、ゴールキーパーを上げてパワープレーに出る。それで点が入り始めることもあるし、逆襲で点を取られることもある。
コートが小さいからシュートの機会が多い。ゴールが小さいから得点はなかなか入らない。そこで、いろいろな攻め方やすばやいテクニックを、くふうしなければならない。そこに「見るスポーツ」としてのおもしろさがあるように思った。
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AFCアジアカップ2007 / 2007年09月22日
オシム・ジャパンの課題
アジアカップ2007の日本代表(5)
「オシム・ジャパンの課題」
◆美しさでは日本がNo.1
アジアカップの準々決勝でオーストラリアと引き分けたあと、オシム監督は「われわれのほうが、よいサッカーをした」と話した。準決勝でサウジアラビアに敗れたあとも、同じことを言った。勝てなかった監督が、こういう「いいわけ」をするのは、日本的な感覚では「いさぎよく」はない。しかし、アジアカップ参加チームのなかで、日本がチームとして、もっとも質の高いサッカーをしたことは、多くの人の認めるところだった。一人一人の戦術的判断の速さとパスの正確さが、チームプレーに結びついていた。そういう点では、アジアのなかで、ぬきんでていた。
第1戦でカタールに引き分けたとき、オシム監督は「日本のサッカーは美しいが、美しさを結果に結びつけるレベルには達していない」と言っていた。この言い方のほうが正直だろう。しかし、この第1戦での課題を解決する道は、この大会では見出せなかった。
◆4位はオシム監督の責任だが
それでも、日本はアジアのなかでは優勝できる力を持っていた。それが4位にとどまったのは、やはりオシム監督の責任である。優勝へのモチベーションが高くなかったし、戦略も明確でなかった。欧州組の中村俊輔を十分に使いこなすこともできなかった。いろいろ事情はあるにしても、試合の結果に責任を持たなければならないのが監督である。日本のマスコミに、オシム監督の責任を分析する論評が少なかったのはものたりない。
しかし、だからといって「オシム監督をやめさせろ」というつもりはない。
第一に、ワールドカップ予選が始まろうという、この段階になって、監督を取り替えるのは適当でない。オシムに代わりうる人材を見出すことも難しい。
また、チーム作りの方向は理解できるものだった。速く、正確で,機動力のあるチームワークのサッカーを攻守ともにめざしていた。
◆日本の個の力を組み合わせて
これからの課題は「美しいサッカー」を結果に結びつける方法を見出すことである。
マスコミの論評では「個の力」不足が課題とされていた。しかし、外国選手並みの速さと力強さを持つ個人を、日本人のなかから見出すことは現状では難しい。したがって、解決策は別に求めるほかはない。
現在の日本チームが持っているすばやいパスワークと機動力によるチームプレーが、欧州などの高いレベルの相手でも発揮できるように、欧州できびしい試合を経験している選手を積極的に活用することが必要である。また、日本人のなかでは比較的「個の力」のある選手、つまり、すばやく、力強さのある選手を登用して経験を積ませたい。
そういうプレーヤーに「オシムのサッカー」を押し付けるのではく、そういうプレーヤーの「個の力」を組み合わせて「オシムのサッカー」を展開してほしい。
「オシム・ジャパンの課題」
◆美しさでは日本がNo.1
アジアカップの準々決勝でオーストラリアと引き分けたあと、オシム監督は「われわれのほうが、よいサッカーをした」と話した。準決勝でサウジアラビアに敗れたあとも、同じことを言った。勝てなかった監督が、こういう「いいわけ」をするのは、日本的な感覚では「いさぎよく」はない。しかし、アジアカップ参加チームのなかで、日本がチームとして、もっとも質の高いサッカーをしたことは、多くの人の認めるところだった。一人一人の戦術的判断の速さとパスの正確さが、チームプレーに結びついていた。そういう点では、アジアのなかで、ぬきんでていた。
第1戦でカタールに引き分けたとき、オシム監督は「日本のサッカーは美しいが、美しさを結果に結びつけるレベルには達していない」と言っていた。この言い方のほうが正直だろう。しかし、この第1戦での課題を解決する道は、この大会では見出せなかった。
◆4位はオシム監督の責任だが
それでも、日本はアジアのなかでは優勝できる力を持っていた。それが4位にとどまったのは、やはりオシム監督の責任である。優勝へのモチベーションが高くなかったし、戦略も明確でなかった。欧州組の中村俊輔を十分に使いこなすこともできなかった。いろいろ事情はあるにしても、試合の結果に責任を持たなければならないのが監督である。日本のマスコミに、オシム監督の責任を分析する論評が少なかったのはものたりない。
しかし、だからといって「オシム監督をやめさせろ」というつもりはない。
第一に、ワールドカップ予選が始まろうという、この段階になって、監督を取り替えるのは適当でない。オシムに代わりうる人材を見出すことも難しい。
また、チーム作りの方向は理解できるものだった。速く、正確で,機動力のあるチームワークのサッカーを攻守ともにめざしていた。
◆日本の個の力を組み合わせて
これからの課題は「美しいサッカー」を結果に結びつける方法を見出すことである。
マスコミの論評では「個の力」不足が課題とされていた。しかし、外国選手並みの速さと力強さを持つ個人を、日本人のなかから見出すことは現状では難しい。したがって、解決策は別に求めるほかはない。
現在の日本チームが持っているすばやいパスワークと機動力によるチームプレーが、欧州などの高いレベルの相手でも発揮できるように、欧州できびしい試合を経験している選手を積極的に活用することが必要である。また、日本人のなかでは比較的「個の力」のある選手、つまり、すばやく、力強さのある選手を登用して経験を積ませたい。
そういうプレーヤーに「オシムのサッカー」を押し付けるのではく、そういうプレーヤーの「個の力」を組み合わせて「オシムのサッカー」を展開してほしい。
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AFCアジアカップ2007 / 2007年09月21日
なぜ「個の力」が足りないか
アジアカップ2007の日本代表(4)
「なぜ『個の力』が足りないか」
◆サウジアラビアの決勝点
アジアカップで日本が4位に終わったあと、日本の新聞各紙の総評には「個の力不足」を指摘したものが多かった。
準決勝の後半11分、サウジアラビアに奪われた決勝点の場面が、とくに「個の力」の差を感じさせたのだろうと思う。マレク・ハサウイが左から力強いドリブルで食い込み、阿部と中澤を一気に抜き去り、加地がカバーに入るひまもなく、シュートを決めた。22歳の若い選手が、速さと強さと技術とを兼ね備えていて、個人の力でチームの守りを崩したのが印象的だった。
ほかにも、相手チームの「個の力」が、日本のチームの守りを脅かした場面が何度もあった。逆に日本の攻めは、正確にすばやくパスをつないでチームとしては優勢でありながら、相手の守りを、なかなか攻め崩せなかった。「個の力不足」という指摘は当然である。
◆力不足の遺伝的要因
日本の選手の「個の力不足」について、ここでは、ぼくの仮説を提起しておきたい。
一つは遺伝的要因である。
「個の力」は、テクニックとそれを裏打ちする筋肉の強さである。
筋肉を構成する筋繊維に「速筋」(白筋)と「遅筋」(赤筋)がある。「速筋」はすばやく強い力を出すが持久力に乏しい。つまり短距離型である。「遅筋」はゆっくり収縮するが持久力がある。これはマラソン型である。一瞬に相手を打ち負かす「個の力」を左右するのは、短距離型の「速筋繊維」ではないか?
日本人の筋肉は、おおむね遅筋繊維の割合が多い。これは遺伝的に決まるという。島国で混血のほとんどない日本では、遺伝的要因が短期間に変わる可能性は乏しい。
とすれば、日本選手の「個の力不足」には避けがたい原因もあるわけだ。
◆個を伸ばせない社会的要因
「個の力不足」の別の要因も考えてみた。
それは「出る杭は叩かれる」という日本の社会の慣わしである。
「おれが、おれが」と自己を主張し、飛びぬけた個性を発揮することは、日本では歓迎されない。謙譲が美徳であり、みんなで協力して仕事をすることが尊ばれる。特に学校スポーツの世界では、個人プレーよりも、チームワークが、たいせつにされる。
もちろん、サッカーでもチームワークは重要である。しかし、一つのボールをめぐる局面は1対1の戦いであり、個の力のせめぎあいである。チームワークは、最終的には「個の力」を発揮させるためのものである。
日本の社会の良い慣わしを変える必要はないし、難しいかもしれない。しかし、サッカーの世界で「個の力」を伸ばす教育を心がけることはできるだろうと思う。
「なぜ『個の力』が足りないか」
◆サウジアラビアの決勝点
アジアカップで日本が4位に終わったあと、日本の新聞各紙の総評には「個の力不足」を指摘したものが多かった。
準決勝の後半11分、サウジアラビアに奪われた決勝点の場面が、とくに「個の力」の差を感じさせたのだろうと思う。マレク・ハサウイが左から力強いドリブルで食い込み、阿部と中澤を一気に抜き去り、加地がカバーに入るひまもなく、シュートを決めた。22歳の若い選手が、速さと強さと技術とを兼ね備えていて、個人の力でチームの守りを崩したのが印象的だった。
ほかにも、相手チームの「個の力」が、日本のチームの守りを脅かした場面が何度もあった。逆に日本の攻めは、正確にすばやくパスをつないでチームとしては優勢でありながら、相手の守りを、なかなか攻め崩せなかった。「個の力不足」という指摘は当然である。
◆力不足の遺伝的要因
日本の選手の「個の力不足」について、ここでは、ぼくの仮説を提起しておきたい。
一つは遺伝的要因である。
「個の力」は、テクニックとそれを裏打ちする筋肉の強さである。
筋肉を構成する筋繊維に「速筋」(白筋)と「遅筋」(赤筋)がある。「速筋」はすばやく強い力を出すが持久力に乏しい。つまり短距離型である。「遅筋」はゆっくり収縮するが持久力がある。これはマラソン型である。一瞬に相手を打ち負かす「個の力」を左右するのは、短距離型の「速筋繊維」ではないか?
日本人の筋肉は、おおむね遅筋繊維の割合が多い。これは遺伝的に決まるという。島国で混血のほとんどない日本では、遺伝的要因が短期間に変わる可能性は乏しい。
とすれば、日本選手の「個の力不足」には避けがたい原因もあるわけだ。
◆個を伸ばせない社会的要因
「個の力不足」の別の要因も考えてみた。
それは「出る杭は叩かれる」という日本の社会の慣わしである。
「おれが、おれが」と自己を主張し、飛びぬけた個性を発揮することは、日本では歓迎されない。謙譲が美徳であり、みんなで協力して仕事をすることが尊ばれる。特に学校スポーツの世界では、個人プレーよりも、チームワークが、たいせつにされる。
もちろん、サッカーでもチームワークは重要である。しかし、一つのボールをめぐる局面は1対1の戦いであり、個の力のせめぎあいである。チームワークは、最終的には「個の力」を発揮させるためのものである。
日本の社会の良い慣わしを変える必要はないし、難しいかもしれない。しかし、サッカーの世界で「個の力」を伸ばす教育を心がけることはできるだろうと思う。
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サッカー日誌 / 2007年09月20日
シニアのサッカー大会を見る
第14回スーパーエイジサッカー大会 in 刈谷
(9月15日、16日、刈谷市港町グラウンド)
◆プレーのスタイルは昔ながら
愛知県の刈谷市で開かれた60歳以上のサッカー大会を見に行った。
大会といっても優勝を争うわけではない。60歳以上のプレーヤーを集めたチームが、自由に参加して試合をする「親善大会」である。
この種の大会が、あちこちで開かれていることは聞いていたが、見に行ったのは初めてだ。感想は「年々歳々人相似たり、年々歳々花同じからず」である。昔の中国の詩とは、「人」と「花」が逆だね。
今回の参加は21チーム。参加選手の中に懐かしい顔ぶれが何人もいた。メキシコ五輪銅メダルで、殿堂入りしたばかりの鎌田光夫さん(中大出、元古河電工)も来ていた。
サッカー人口が少なかった時代に現役だった人たちだから昔なじみが多いわけである。もちろん、みな歳はとっている。しかしプレーのスタイルは昔ながら。相似たりである。
◆サッカー環境は変った
中国の詩人は「花は昔と同じように美しく咲くが、人は歳老いて変る」と嘆いた。しかし、日本のサッカーの場合は、人よりも自然環境のほうが大きく変っている。
会場の刈谷市営港町グラウンドは、広い敷地に4面のサッカー場が並んでいる。全面芝生である。しかも、これは刈谷市総合公園が改修工事中のために仮に使ったものだそうだ。
つまり、もっといい芝生のグラウンドが、ほかにもあるということだ。
Jリーグの前身である日本サッカーリーグが、1965年にスタートしたとき、この刈谷市を本拠に豊田自動織機のチームが参加した。しかし刈谷市には、まともなサッカー・グラウンドがなく、刈谷市営野球場の外野にゴールを置いてホームゲームをした。外野は芝生というより雑草がまばらに生えていて、でこぼこだった。40年以上たってサッカー環境は、がらりと変った。正確に言えば「草同じからず」だね。
◆芝生でなけりゃ参加しないよ
シニア大会の2日目は雨だった。全面芝生だから、ぬかるみにはならない。水溜りもできなかった。老童たちは、ずぶぬれになりながら、楽しそうにボールと戯れた。グラウンドの脇には、仮設ながら更衣室がある。試合のあとは、そこでシャワーを浴びることができる。
「いまは芝生の会場でなきゃ参加しないよ」と、半世紀前の仲間の一人が、ぜいたくを言った。その昔は、晴れの日はサンドペーパーになり、雨の日は泥田のようになる東大御殿下グラウンドで大学リーグをしていたのだが……。その御殿下もいまは人工芝である。
高齢者のサッカーに問題もあることも聞いている。これから、すこし精を出して調べたり、取材をしたりしてみたいと思う。
しかし、刈谷の大会を見た限りでは、シニアのサッカーもなかなかいいものである。
(9月15日、16日、刈谷市港町グラウンド)
◆プレーのスタイルは昔ながら
愛知県の刈谷市で開かれた60歳以上のサッカー大会を見に行った。
大会といっても優勝を争うわけではない。60歳以上のプレーヤーを集めたチームが、自由に参加して試合をする「親善大会」である。
この種の大会が、あちこちで開かれていることは聞いていたが、見に行ったのは初めてだ。感想は「年々歳々人相似たり、年々歳々花同じからず」である。昔の中国の詩とは、「人」と「花」が逆だね。
今回の参加は21チーム。参加選手の中に懐かしい顔ぶれが何人もいた。メキシコ五輪銅メダルで、殿堂入りしたばかりの鎌田光夫さん(中大出、元古河電工)も来ていた。
サッカー人口が少なかった時代に現役だった人たちだから昔なじみが多いわけである。もちろん、みな歳はとっている。しかしプレーのスタイルは昔ながら。相似たりである。
◆サッカー環境は変った
中国の詩人は「花は昔と同じように美しく咲くが、人は歳老いて変る」と嘆いた。しかし、日本のサッカーの場合は、人よりも自然環境のほうが大きく変っている。
会場の刈谷市営港町グラウンドは、広い敷地に4面のサッカー場が並んでいる。全面芝生である。しかも、これは刈谷市総合公園が改修工事中のために仮に使ったものだそうだ。
つまり、もっといい芝生のグラウンドが、ほかにもあるということだ。
Jリーグの前身である日本サッカーリーグが、1965年にスタートしたとき、この刈谷市を本拠に豊田自動織機のチームが参加した。しかし刈谷市には、まともなサッカー・グラウンドがなく、刈谷市営野球場の外野にゴールを置いてホームゲームをした。外野は芝生というより雑草がまばらに生えていて、でこぼこだった。40年以上たってサッカー環境は、がらりと変った。正確に言えば「草同じからず」だね。
◆芝生でなけりゃ参加しないよ
シニア大会の2日目は雨だった。全面芝生だから、ぬかるみにはならない。水溜りもできなかった。老童たちは、ずぶぬれになりながら、楽しそうにボールと戯れた。グラウンドの脇には、仮設ながら更衣室がある。試合のあとは、そこでシャワーを浴びることができる。
「いまは芝生の会場でなきゃ参加しないよ」と、半世紀前の仲間の一人が、ぜいたくを言った。その昔は、晴れの日はサンドペーパーになり、雨の日は泥田のようになる東大御殿下グラウンドで大学リーグをしていたのだが……。その御殿下もいまは人工芝である。
高齢者のサッカーに問題もあることも聞いている。これから、すこし精を出して調べたり、取材をしたりしてみたいと思う。
しかし、刈谷の大会を見た限りでは、シニアのサッカーもなかなかいいものである。
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AFCアジアカップ2007 / 2007年09月19日
俊輔をどう生かしたか
アジアカップ2007の日本代表(3)
「俊輔をどう生かしたか」
◆取られてから取り返す
アジアカップ2007の準々決勝で、日本はオーストラリアに対し主導権を握って試合を進めていたにもかかわらず、なかなか相手ゴールを割ることができず、後半25分に先取点を奪われた。しかし、その2分後に左サイドからの攻めで相手を崩し、高原のゴール前での巧みなプレーで同点にした。延長戦の末、1対1で引き分け、PK戦をものにして準決勝に進んだが、勝てたはずの内容だった。
準決勝のサウジアラビアとの試合も、同じような形勢だった。前半34分に先取点を奪われたが、すぐ2分後に同点にした。後半立ち上がりに再びリードされたが、7分にコーナーキックを生かして2対2にした。
このあと、サウジアラビアが3点目をあげたが、今度は日本の点をとられたあとの反撃は実らず「4度目の正直」にはならなかった。
◆自分のやりたいことを始める
それにしても「ちゃんと点をとることができるのなら、リードされる前にとって欲しいな」というのが、見ている者の勝手な感想である。
隣の席で見ていた大住良之さんが「なぜ点を取られたあとには、点を取れるのでしょうかね」ときいてきた。そんなこと、ぼくにも分からない。でも「点をとられると俊輔が、自分のやりたいことをやり始めるように思うね」と答えておいた。
欧州でプレーしている中村俊輔は、この大会で本格的に「オシム・ジャパン」に加わった。オシム監督は「選手たちが自分の考えでプレーするように」と言いながらも、自分のサッカーでチームを作ろうとしていた。俊輔はオシム監督のサッカーに合わせようと努力をしていた。しかし、リードされると、捨て身で自分のサッカーを試みようとしたのではないか?
◆自主性を生かしきれなかった
あとで日本の新聞を読んだら、俊輔の話が載っていた。「点をとられたあとは、早めに勝負球をゴール前に入れたほうがいい」という趣旨だった。
ぼくが記者席で受けた印象は「当たらずと言えども遠からず」であったようだ。
オシム監督は、就任後、欧州でプレーしている選手たちがスーパースターとして持ち上げられないように、マスコミの前で、ことさらに厳しい「語録」を繰り返していた。しかしアジアカップでは俊輔を攻撃の起点に据えて戦うほかはなかった。
そうであれば、もっと早くから俊輔を評価する「語録」に切り替えて、本人の自主性を発揮させることを狙ったほうが良かったかもしれない。
「欧州帰りの俊輔をどう生かすか」が、アジアカップでのオシム監督の課題だったが、結果としては俊輔を生かしきったとはいえない。
「俊輔をどう生かしたか」
◆取られてから取り返す
アジアカップ2007の準々決勝で、日本はオーストラリアに対し主導権を握って試合を進めていたにもかかわらず、なかなか相手ゴールを割ることができず、後半25分に先取点を奪われた。しかし、その2分後に左サイドからの攻めで相手を崩し、高原のゴール前での巧みなプレーで同点にした。延長戦の末、1対1で引き分け、PK戦をものにして準決勝に進んだが、勝てたはずの内容だった。
準決勝のサウジアラビアとの試合も、同じような形勢だった。前半34分に先取点を奪われたが、すぐ2分後に同点にした。後半立ち上がりに再びリードされたが、7分にコーナーキックを生かして2対2にした。
このあと、サウジアラビアが3点目をあげたが、今度は日本の点をとられたあとの反撃は実らず「4度目の正直」にはならなかった。
◆自分のやりたいことを始める
それにしても「ちゃんと点をとることができるのなら、リードされる前にとって欲しいな」というのが、見ている者の勝手な感想である。
隣の席で見ていた大住良之さんが「なぜ点を取られたあとには、点を取れるのでしょうかね」ときいてきた。そんなこと、ぼくにも分からない。でも「点をとられると俊輔が、自分のやりたいことをやり始めるように思うね」と答えておいた。
欧州でプレーしている中村俊輔は、この大会で本格的に「オシム・ジャパン」に加わった。オシム監督は「選手たちが自分の考えでプレーするように」と言いながらも、自分のサッカーでチームを作ろうとしていた。俊輔はオシム監督のサッカーに合わせようと努力をしていた。しかし、リードされると、捨て身で自分のサッカーを試みようとしたのではないか?
◆自主性を生かしきれなかった
あとで日本の新聞を読んだら、俊輔の話が載っていた。「点をとられたあとは、早めに勝負球をゴール前に入れたほうがいい」という趣旨だった。
ぼくが記者席で受けた印象は「当たらずと言えども遠からず」であったようだ。
オシム監督は、就任後、欧州でプレーしている選手たちがスーパースターとして持ち上げられないように、マスコミの前で、ことさらに厳しい「語録」を繰り返していた。しかしアジアカップでは俊輔を攻撃の起点に据えて戦うほかはなかった。
そうであれば、もっと早くから俊輔を評価する「語録」に切り替えて、本人の自主性を発揮させることを狙ったほうが良かったかもしれない。
「欧州帰りの俊輔をどう生かすか」が、アジアカップでのオシム監督の課題だったが、結果としては俊輔を生かしきったとはいえない。
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