サッカー日誌 / 2013年11月25日


続ザック・ジャパンの現在地(上)


柿谷、大迫のワントップ争い

日本 2対2 オランダ(11月16日 ベルギー・ゲンク)
日本 3対2 ベルギー(11月19日 ブリュッセル)
(2試合ともテレビ朝日)

★ベルギーでの2試合で
 日本代表チームが11月にベルギーで2試合をした。10月の東欧遠征に続いて今度は西欧である。海外の親善試合でもテレビ中継があるのはありがたい。
 今回の遠征で注目されたのは大迫勇也だった。
 大迫は10月の遠征ではメンバーに選ばれなかった。同じ23歳の柿谷曜一朗が選ばれてワントップを勤め、大迫は置いていかれた形になった。
 しかし、柿谷はセルビアとの試合でも、ベラルーシとの試合でも、先発しながら得点を挙げることができなかった。
 ザッケローニ監督は11月の遠征では、柿谷とともに大迫を加え、ワントップを若手2人で争わせる形にした。
 柿谷が今度こそゴールを挙げて地位を確保するか? 大迫が活躍してワントップの座を奪い取るか? 2人のポジション争いに関心が集まった。

★大迫の瞬時の判断力
 結果は「引き分け」だった。
 大迫はオランダとの試合に先発、柿谷はベルギーとの試合に先発して、ともに1ゴール、1アシスト。2人にとっても、ザッケローニ監督にとっても「いい結果」だった。
 大迫はオランダとの試合で44分にゴールをあげた。
 オランダの2点のリードに対し、前半のうちに1点差にすることができた。
 並んでいる相手の2人のディフェンダーの間に走り込んで長谷部からのパスを受けたもので、走り込んだ場所とタイミングの判断がよかった。
 後半15分には本田圭佑のゴールをアシストした。
 ゴールでパスを受け、サイドから入り込んできた本田にバックパスをした。
 こまかく、スピーディーな組み立てのなかで、一瞬の判断で、みごとにポストの役を果たした。

★柿谷のしっかりした技術
 柿谷はベルギーとの試合に先発して、37分にシュートを決めた。
 相手の先制点に前半のうちに追いつくゴールだった。右からの送球に合わせたヘディングだった。
 後半18分には、日本の3点目をアシストした。
 長谷部誠からのパスを受け、相手守備ラインの裏側に走り込んだ岡崎慎司に浮き球のパスを合わせた。
 しっかりした技術を身につけていることを示したゴールとアシストだった。
 大迫は瞬間の判断の連続による組み立ての中で判断力を生かし、柿谷はよくある形の攻めの中で技術を生かした。
 タイプの違う2人のストライカーが、欧州のトップクラスの相手に「良さ」を見せることができたのは、ザッケローニ監督にとっても収獲だっただろう。

(お断り)11月25日付で掲載した記事のなかで得点経過を間違えていたので訂正して差し替えました。全体の論旨には変わりありません(牛木)。

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サッカー日誌 / 2013年11月15日


女性パワーのフットサル


牛木杯フットサル秋季大会
(11月10日 千住・ミズノフットサルプラザ)

★牛木杯の由来
 「牛木杯フットサル大会」を春秋2回、開いている。
 協会主催の公式大会ではない。仲間が集まって、その場でグループ分けしてチームを作って楽しむ。
 まったくの「遊び大会」である。
 「牛木杯」と名がついているが、ぼくが創設したわけでもなければ、ネーミング・ライツを買ったわけでもない。仲間が冗談でつけた呼び名が長続きしているだけである。
 ぼくが主宰している「ビバ!サッカー研究会」は、もともと読売・日本テレビ文化センター北千住の「サッカー講座」からはじまった。
 その参加者の一人が突然、フットサルに目覚めた。それが「牛木杯」の起源である。
 北千住の講座からはじまったから、牛木杯の参加者も、その近くの住人が多い。
 会場は京成関屋駅近くのフットサル場である。

★講座仲間がはじめる
 講座仲間が勝手にはじめたイベントだが、自分の名前を冠しているのだから、知らぬ顔をしているわけにはいかない。
 ほとんど毎回、東京の西側の三鷹市の自宅から東北部の千住まで出かけて顔を出す。
 「カップ代」として僅かだが寄附もする。
 イベントのあとに、北千住駅近くの居酒屋で行う延長戦と称する懇親会にも、できるだけ参加する。
 そういうことを続けて今回(2013年)の秋季大会で第22回だそうである。ただし、最初のころは永続するイベントとして行う意識はなかったので、回数の記録は明確ではない。
 いつもは50人ほどの参加だが、今回の秋季大会は、参加者が20人余と少なかった。
 会場の都合で日程が変わったり、秋の日曜日でそれぞれ本来の所属チームの試合と重なったり、当日、天候不順の予報だったりと、いろいろ理由があった。

★女性のレベルが急上昇
 参加者が少なかったので気付いたことがある。それは女性の技術レベル向上である。
 牛木杯の参加チームは男女混成である。女性のプレーヤーのゴールは2点とすることになっている。
 そのため女性に得点させようと、女性をゴール前に立たせて男性プレーヤーが彼女にシュートをぶつけて、その撥ね返りによる2点を狙う作戦が行われていた。
 ところが、今回……。
 男性の不参加が多く、女性の参加が増えていた。そのために1チームに女性が2人ずつ入っていた。
 そうすると、女性のアシストで女性が得点する場面がでてきた。女性が縦パスを受け、ドリブルで抜いて決めたゴールもあった。
 こういう「草の根フットサル」もおもしろい。
 金メダルを目指すのだけがスポーツではない。


牛木杯フットサルの女性参加者。

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スポーツ報道 / 2013年11月12日


日本シリーズの視聴率


プロ野球も地方の時代
(10月26日~11月3日 楽天対巨人)

★7試合全部がベスト20入り
 プロ野球日本シリーズのテレビ視聴率に注目していた。
 ここのところ、スポーツのテレビ中継視聴率では、サッカーの日本代表の試合が上位を占めていて、プロ野球が週間ベスト20に顔を出すことは、ほとんどなかった。
 しかし、今回(2013年)の日本シリーズは、過去には全国区の人気を誇っていた巨人と東北のチームとして台頭してきた仙台の楽天との対決である。
 巨人の人気と楽天の地域性とが、テレビの視聴率にどう反映されるだろうか?
 そこのところに興味を持っていた。
 予想していたとおり視聴率は高かった。
 10月終わりから11月初めにかけての2週間で、日本シリーズ7試合の視聴率は関東地区ですべてが週間ベスト20に入った。

★地元の最高は60.4%
 関東地区の視聴率だから、巨人の人気に震災被災地・東北の楽天への同情人気がプラスされたのだろう。
 さらに楽天の田中将大投手への注目度が加わった。
 7試合のうち、最高視聴率は第6戦の28.4%である。田中の登板が予告されていて、楽天が勝てば「日本一」が決まるというケースだった。
 この試合で楽天が負け、決着は最終戦に持ちこまれた。
 最終戦の平均視聴率は関東地区では27.8%だったが、仙台地区では44%だった。地元の視聴率がはるかに高い。
 地元の瞬間最高視聴率は60.4%だった。これは試合終了直後の数字である。仙台地区の視聴者の半分以上が、試合の中継は見ていなくても、地元チームの結果には関心を持っていたことを示している。
 楽天イーグルスが、仙台あるいは宮城県のチームとして大衆の支持を得ていることがわかる。

★視聴率では測れない人気
 視聴率の数字を見て二つのことを考えた。
 一つは多チャンネル時代の影響である。
 1980年代までは巨人の人気は全国区だった。原因は巨人の試合が日本テレビ系で全国に放送されていたことである。
 テレビは地上波だけでチャンネル数が少なかった。そのため日本テレビ系がプロ野球をメーンにすれば、他の局はドラマやドキュメンタリーなど、ほかの分野を売り物にした。したがって、巨人以外のプロ野球の放映は少なかった。
 しかし衛星の発達とデジタル化でチャンネル数が増え、巨人以外のチームの試合も電波にのるようになった。それで巨人の人気独占が崩れた。
 もう一つは、プロ野球もテレビも「地方の時代」を迎えていることである。テレビ中継は地元では見られていても、もはや全国区ではない。
 テレビ視聴率をスポーツの全国的な人気のバロメーターにはできなくなっている。

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サッカー日誌 / 2013年11月08日


池田恒雄社長の思い出


「週刊サッカー・マガジン」の終刊
(11月12日号 NO.1483)

★「ついにつぶれたか!」
 「週刊サッカー・マガジン」が、10月最終週発行の号でおしまいになった。
 月刊になるということで、最終号の表紙には「20年のピリオド。1058冊の歴史が終焉。そして新時代へ-」と朱色で印刷されていた。
 聞いたところによると月刊誌として引き継ぐのは別の新しい会社で、これまで発行していた株式会社ベースボール・マガジン社は『サッカー・マガジン』という題号を譲り、販売を引き受けるだけだという。
 ありていに言えば「ついにつぶれたか!」である。
 週刊になってから20年、1058冊と称しているが、週刊を月刊にするだけなら大げさに騒ぐことはない。もともと月刊で創刊され、過去にも隔週刊になったり、月2回発行になったりしてきた雑誌である。1966年創刊で47年、1483号の歴史の終わりというべきだろう。

★「ベースボール・マガジン」の生き残り
 「サッカー・マガジン」創刊のとき株式会社ベースボール・マガジン社の社長は池田恒雄さんだった。
 池田さんは戦後、博文館発行の「野球界」から独立して「ベースボール・マガジン社」を創立した。
 敗戦直後、野球雑誌が40くらい乱立していたが、間もなく次つぎにつぶれた。相次いで創刊されたスポーツ新聞と競争できなかったからである。
 そのなかで「ベースボール・マガジン」だけが、月刊から週刊への切り替えが成功して生き残った。
 当時の池田社長の方針の一つは「技術ものを残せ」ということだった。プロ野球のファンが読者の大多数である。しかし、アマチュア野球の人たちに役立つ記事が、野球雑誌の原点だという信念だった。
 「スター選手ばかりを取り上げるな」とも言っていた。スター選手を表紙にしたら売れるという考えは取らなかった。

★「売り家と唐様で書く三代目」
 「週刊サッカー・マガジン」がつぶれた原因は、いろいろあるだろう。
 インターネットの発達などで印刷メディアは軒並み、発行部数が落ちている。
 スポーツ雑誌は広告が取れなくなっている。
 プロ野球もJリーグも、チームは地方に根を降ろすようになり、全国向けの雑誌は売りにくい。
 いろいろなスポーツの雑誌を出しているなかで、野球に次いで規模の大きいサッカー・マガジンは、それだけ編集部員も多く、経費がかかり、赤字も大きかっただろう。
 そういう苦難の時代を乗り切るアイデアや信念が、経営陣に乏しく、とりあえず尻尾を一つ切ったのではないか?
 ベースボール・マガジン社の社長は3代目である。
 初代社長のやり方が現在も通用するは思わないが「売り家と唐様で書く三代目」という川柳を思い出した。



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サッカー日誌 / 2013年11月06日


新潟県サッカー史の刊行


記録を歴史に残すこと
(10月21日 日本サッカー史研究会)

★種田和義さんを招く
 日本サッカー史研究会の10月例会では、先に紹介した新潟県サッカー史の本、『輝く未来へ-新潟県サッカーの歩み-』を取り上げ、中心になって編纂した種田和義さんに新潟から来ていただいた。
 種田さんは新潟日報の元運動部長、論説委員長である。
 種田さんは新潟県サッカー協会から依頼を受けたとき、資料や記録は残っていて、ライターとしてまとめればいいのだろうと思っていた。
 ところが、戦前と終戦直後の資料と記録は、まったくといっていいほど残っていなかった。どこから手をつけていいかわからなかったという。
 地元紙の新潟日報の出身なので、まず戦前の地元の新聞記事を探すことからはじめた。

★地元紙の資料と『銀蹴』
 新潟は太平洋戦争中の爆撃は受けなかったが、戦後に大火と地震にあっている。新潟日報の社屋も被害を受けている。そのため、それ以前の多くの資料が失われている。
 そこで新潟日報社は各地に残っていた古い新聞を捜して過去の資料を再集積したという。それが新潟県サッカー史の編纂に役立ったのである。
 もう一つ、戦前の新潟のサッカーを調べるために役立った資料がある。
 それは『銀蹴-旧制新潟高等学校蹴球部60年のあゆみ』という記念誌である。
 この本を作ったのは、竹内至さんである。
 竹内さんは東京高師(現在の筑波大)附属小・中学を出て、旧制新潟高、京大、東京瓦斯でプレーし、サッカー部に貢献した人である。

★竹内至さんの志
 竹内さんは、旧制高校蹴球大会記念誌『インターハイ・サッカー 若き血潮は燃える』を1985年(昭和60年)に編纂して出している。旧制高校OBの間に配られたので、ある程度の部数が出ている。
 そのときに竹内さんは、自分の出身校の旧制新潟高等学校蹴球部誌を別に作っていた。これは、ごく少部数だったようだ。
『銀蹴』というタイトルのこの本を、ぼくがたまたま県立新潟図書館の書棚で見つけて、種田さんに紹介した。種田さんが調べて新潟大学の図書館にも保存されていることがわかった。
 竹内さんは、自費出版の私家版であるにもかかわらず、関係の図書館に納本していたのである。
 後世に残すために記録を印刷物にすること、それを図書館などに寄贈しておくこと。
 竹内さんの志の高さを知ることができる。

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サッカー日誌 / 2013年11月05日


ザック・ジャパンの現在地(下)


ファウルで守るな!

セルビア  2対0 日本(10月11日=NHK-BS1)
ベラルーシ 1対0 日本(10月15日=日本テレビ)

★今野と長谷部に警告
 日本代表の東欧遠征第2戦、ベラルーシとの試合の前半なかばに、ディフェンダーの今野泰幸とボランチの長谷部誠が、立て続けにイエローカードをもらった。
 「ファウルで守るなよ!」というのが、テレビを見ていた、ぼくの感想である。
 どちらも左サイドの長友佑都が攻めあがって日本が押しこんでいるとき、ベラルーシがボールを奪って逆襲に出ようとしたのを止めた場面だった。
 このままでは、ゴールまで一直線にカウンターの速攻を食うおそれがある。それで逆襲の起点を止めたのである。しかし、それがファウルだった。
 前半26分には、クリアのボールを受けたベラルーシの選手の背中に今野が後ろからぶつかった。
 スローの再生映像で見たところでは、身体全体で相手の背中に当たりながら、左手でも押し倒したようだった。

★逆襲を止める反則
 その2分後には、ボールを奪ってドリブルで逆襲に出ようとした相手を、長谷部が後から右手で相手の右肩をつかんで引き倒した。
 決定的なピンチになりそうな場面を止めようとして反則をしてしまうことは時にはある。しかし意図的な反則で止めるのは、いいことではない。
 今野の反則の場面で、テレビの解説をしていた城彰二が「カウンターを受けるところなので(反則で守ったのは)正解だと思いますね」と話した。
 少年たちも見ているテレビ放送で、良くないプレーを奨励しかねない発言をしたのは適当でない。
 そこで鈴木健アナウンサーがフォローした。
 「強くいけということですね。ファウルをしろというわけではなくて……」
 さすが高校サッカーの日本テレビである。

★正しく守る練習を
 この試合の場合は逆襲を反則で止めたことに、もう一つ別の問題がある。
 東欧遠征の2試合の目的は翌年のワールドカップのための強化である。タイトルに関係のない、いわば練習のための親善試合である。
 そういう試合で、反則で守ることに何の意味があるだろうか?
 ピンチを招いてでも、正しい方法で守る経験をつんだほうがいい。
 本番のワールドカップでは、中盤の反則からのフリーキックで失点する可能性はかなり高い。
 また警告の累積は、主力選手を大事な試合で使えなくする。
 10月の東欧遠征は、ザック・ジャパンの抱えるいろいろな問題を見せてくれた。

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サッカー日誌 / 2013年11月04日


ザック・ジャパンの現在地(中)


なぜ柿谷曜一朗を使うのか?

セルビア  2対0 日本(10月11日=NHKテレビBS1)
ベラルーシ 1対0 日本(10月15日=日本テレビ)

★トップの人材は豊富
 ザッケローニ監督は10月の東欧遠征2試合を、これまでとほとんど同じ顔ぶれで戦ったが、ワントップだけは23歳の柿谷曜一朗(セレッソ大阪)を起用した。
 本田圭佑をトップ下に、香川真司、岡崎慎司を両翼に配した布陣にすると、これまでのメンバーには適当なワントップの人材がいない。そこで、このポジションだけ新戦力を使ったのだろう。
 見渡すとトップの人材はたくさんいる。
 Jリーグのクラブからは齋藤学(横浜FM)も東欧遠征に加えられている。ほかに川又堅碁(新潟)、大迫勇也(鹿島)、工藤壮人(柏)などもいる。
 欧州組の乾貴士とハーフナー・マイクも招集されている。
 それぞれ優れた技術ときわだった特徴の持ち主である。

★本田圭佑との相性
 トップ候補の豊富な人材のなかから、柿谷が選ばれた理由を考えてみた。
 ザッケローニ監督が今回の東欧遠征で試みようとした攻めに、柿谷のスタイルが向いていたのではないか?
 中盤でパスをつないでキープし、チャンスを作って、相手の守備ラインの背後をスルーパスで突く。
 そのためには、走り出て、そのパスを受けるストライカーが必要である。
 タイミングの判断がよく、相手を振り切るダッシュの速さがあり、走りながらすばやくボールを受けて捌くテクニックがいる。
 柿谷は、そういう資質ですぐれている。それを生かそうとしたのではないか。
 本田圭佑が出すパスとの相性がよさそうである。

 ★一つの選択肢
 東欧での2試合で、柿谷が走り出ていいパスを受けたチャンスが、テレビで見た限り、それぞれ1度はあった。しかしいずれもゴールキーパーに防がれた。
 スルーパスに合わせて走り出るのをゴールキーパーは見ている。一対一だから、できるだけ前へ出てシュートの角度を狭めて防ごうとする。ディフェンダーも追いかけて詰めてくる。したがって、狭いスペースで相手をかわしてシュートできる技術も必要である。
 柿谷もそういう技術を持っているだろう。しかし欧州の守りに対する経験は少ない。今回は大きく、速く、強い守りに対する攻めを経験する機会になった。
 ただし、来年のワールドカップで柿谷が起用されるとは限らない。
 あと半年以上。この時点でザッケローニ監督が考えているのは選択肢を増やすことである。柿谷は、その選択肢の一つである。

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