サッカー日誌 / 2012年11月27日


金子勝彦アナ、二重の功績


殿堂入りを祝う会
(11月22日 横浜ホテルニューグランド)

★放送界から初選出
 金子勝彦さんのサッカー殿堂入りを祝う会が横浜のホテルで開かれた。幹事3人のうち2人がテレビ東京のOB、司会はテレビ東京のアナウンサー、参加者の多くもテレビ東京の関係者だった。
 金子さんはテレビ東京のスポーツ・アナウンサーだった。
 「放送界から初めての殿堂入りです」と司会者が紹介した。
 マスコミからの殿堂入りは、これまでにもあったが、いずれも新聞関係だった。金子さんとともに殿堂入りした奈良原武士さんは共同通信社の記者だった。確かに放送関係では初めてである。
 放送関係からの選出は初めてだけでなく、新しい要素を含んでいる。
 それは、放送番組の作成は一人の仕事ではなく、大勢の人の共同作業だということである。だから、金子さんの殿堂入りは、テレビ東京の殿堂入りだということもできる。

★「ダイヤモンド・サッカー」
 テレビ東京(当時の名称は東京12チャンネル)が1960~80年代に放送した「三菱ダイヤモンド・サッカー」は、日本のサッカーの改革に言葉に尽くせない影響を与えた。世界のトップレべルのプレーを動く映像で伝えたからである。その功績は空前絶後だと言っていい。
 この番組の成り立ちには、多くの人が関係している。
 スポンサーになった三菱の功績は大きい。これを推進したのは、三菱化成役員の篠島秀雄さんだった。金子さんの祝賀会に、あと4ヵ月で100歳になるという篠島夫人が出席していた。
 番組を制作したプロデューサー、ディレクターの寺尾皖次さんは祝賀会の発起人だった。当時の運動部長の白石剛達さんも出席していた。こういう人たちを含めた「三菱ダイヤモンド・サッカー」の代表として、画面に映っていた金子アナが殿堂入りしたのだろうと思った。

★「ワン・ツー・リターン」
 サッカー番組のアナウンサーとして、金子さん個人の功績も大きい。映像と連動しながら、新しい表現を日本のサッカーに持ち込んだ。
 たとえば金子さんの代名詞のようになっている「ワン・ツー・リターン」である。当時は耳慣れない英語だったが、そのプレーが画面に映っているので、見ている人に,すぐ理解できた。
 活字で「壁パス」などと翻訳していたのにくらべて、生き生きと躍動した表現だった。
 金子さんの殿堂入りには二重の意味があったと思う。
 「ダイヤモンド・サッカー」の集団的功績とサッカー・アナウンサーとしての個人的功績である。
 もう一つ付け加えれば、金子さんの場合は「プロとして」の初めての表彰だった。
 これまでの表彰は、本来の職業を離れてボランティアとしてサッカーに貢献したことが認められたものだった。
 金子さんは仕事としてサッカーに貢献したのだった。


祝賀会で挨拶する金子勝彦さん。

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サッカー日誌 / 2012年11月26日


2012年に実った遺産と理念


ビバ!サッカー研究会11月例会
(11月16日 東中野テラハウス)

★W杯開催10年、Jリーグ20年
 ビバ!サッカー研究会は仲間が集まって、サッカーの話をし、話を聞く会である。毎月、原則として第3金曜日の夜に例会を開き、特定のテーマについて、メンバーに報告してもらったり、ゲストを招いてお話を聞いたりしている。
 しかし、11月の例会では趣向を変えて、参加者に、それぞれ「2012年のサッカー」を語ってもらった。
 実はオマーンのワールドカップ予選か、タイのフットサル・ワールドカップを見に行った人の報告を聞く予定にしていたのだが、帰国が間に合わないことが分かったので、行かなかった人たちで、お互いの話を聞くことにしたのである。
 12月は年末なので例会は休むことにしている。それで、ちょっと早いが「2012年を回顧」をテーマにした。
 日本のサッカー史にとって「節目」の年だった。2002年の日韓ワールドカップ開催から10周年だった。Jリーグは20周年だった。それぞれ、いろんな記念行事があった。

★女子U-20W杯開催
 7月には女子U-20のワールドカップが日本で開かれた。開催予定だったウズベキスタンが返上したので、急に引き受けさせられたものだった。
 「準備の時間が少なかったのに、よく運営されていた」という意見が出た。2002年の男子ワールドカップの経験が生かされたのだろう。10年前の遺産は活用されている。
 J2プレーオフの話が出た。出席者のなかにジェフ千葉のサポーターがいる。J2で4位になれば地元の千葉フクアリで準決勝のはずだったので、そちらの切符を抑えていたが、横浜FCが4位になり、会場は相手のホームのニッパツ横浜三ツ沢になった。ニッパツの入場券は売り切れだという。
 J1への昇格権を争うトーナメントの準決勝である。そのレベルの試合が満員になるという話に驚いた。
 スタンドを埋めるのは地域のサポーターである。Jリーグ20年。その理念は実を結んでいる。
★フットサルW杯の運営
 ビバ!サッカーでは、午後8時50分に例会が終わったあとに、近くの居酒屋「呑兵衛」で延長戦をする。仕事の都合などで延長戦から参加する者もいる。
 タイのフットサル・ワールドカップに行って日本代表を応援して来た石井啓太くんが延長戦に駆けつけて、大会の様子を報告した。28歳の若者である。
 45歳で選手として参加したカズ、4点差を追い上げて引き分けに持ち込んだポルトガルとの試合など、新聞でも伝えられていたトピックが話題になったあと「大会の運営はどうだったか?」という質問が出た。
 「入場券は100バーツ、200バーツ、300バーツと分かれていたんですがスタンドではどの席にでも潜り込めました」
 スター選手の動向や日本代表の勝敗だけでなく、サッカーを取り巻く、いろいろな問題にも興味を持つ。これが、わがビバ!サッカー仲間のいいところである。


ビバ月例会の延長戦。奥の右から2番目が石井啓太くん。



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サッカー日誌 / 2012年11月25日


女子サッカーと鈴木良平


日本サッカー史研究会月例会
(11月19日 JFAハウス会議室)

★ドイツ留学から帰って
 日本サッカー史研究会の11月例会に鈴木良平さんをお招きした。良平さんは、ドイツのサッカーについてのテレビ解説者として知られているが、実は日本の女子サッカーの組織化に大切な役割を果たした人である。
 良平さんは大学を出てすぐ、サッカーのコーチになることを志してドイツに行き、ボルシア・メンヘングラッドバッハでバイスバイラー監督の指導を受けながら、ケルン体育大学のサッカー・コーチ養成コースに通って、ブンデスリーガのコーチ・ライセンスを取った。
 帰国して三菱養和クラブのコーチとして働いているときに女子サッカーのチームが出来た。それが女子サッカーとのかかわりのはじまりだった。
 良平さんは女子サッカー連盟の創設に加わり、その事務局長になり、さらに日本代表女子チームの監督になった。

★複雑な事情があった時期
 良平さんのお話は非常に興味深かった。
 日本の女子サッカーの初期に三菱のサッカーが役割を果たしたこと、東京、神奈川、兵庫などで、いろいろな形で女子サッカーチームが生まれたこと、それを組織化するときに日本サッカー協会との関係は必ずしもスムーズではなかったらしいこと、海外との交流については中国と台湾との関係が微妙だったこと……。
 そういう複雑な事情が入り組んでいた時期に鈴木良平さんが女子サッカーの組織作りにかかわったのは、大きなプラスだったのではないかと推測した。
 ドイツ帰りの鈴木さんが欧州の事情に通じていることは、当時、非常に貴重だった。
もちろん三菱は強力な後ろ盾だった。
 もう一つ、当時の日本サッカー協会の事務局長、中野登美雄さんが都立駒場高校の先輩だった。

★女子サッカーの組織化
 良平さんを協会の仕事に引き込んだのは中野さんだったらしい。そういう、いろいろな「しがらみ」が、女子サッカーの発展に関係している。
 「なでしこ」の栄光のルーツに、多くの人たちの努力があったことを忘れてはならないと思った。
 もう一つ、気がついたことがある。
 それは、サッカーの組織は協会が作るのではなく、チームが作るのだ、ということである。
 1970年代に東京、神奈川、静岡、兵庫などで女子のサッカーチームが生まれた。そういうチームが試合をするために「京浜女子リーグ」や「チキン・リーグ」が始まった。それをまとめて「日本女子サッカーリーグ」が結成された。
 そういう既成事実を、日本サッカー協会が認めて「なでしこ」に発展した。「協会」が先ではなく「チーム」が先であることを改めて認識した。


左、鈴木良平。右、牛木。

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サッカー日誌 / 2012年11月21日


学校のスポーツを考える


セルジオ越後の痛烈な批判と提案
(11月18日 サロン2002番外編・筑波大附属高校)

★耳を洗われる思い
 筑波大学附属高校の中塚義実先生が主宰しているスポーツ文化の研究会「サロン2002」で学校の部活を考える集まりがあった。毎月1度の例会のほかに開催したので「番外編」と銘打っていた。
 大学と高校のサッカー部の活動の事例が、それぞれ報告され、それに対して、ゲストのセルジオ越後さんがコメントするという試みだった。
 二つの大学のサッカー部についての報告は、内容が、この集まりの趣旨に沿っていなかった。率直に言えば、つまらなかった。
 高校についての報告は中塚義美先生が実践しているDUOリーグの紹介だった。これは内容の濃いものだったが、ぼくにとっては、すでに知っている話だった。
 セルジオ越後さんのコメントは痛烈で、ユニークだった。ぼくは目を、いや耳を洗われる思いがした。
 
★「補欠スポーツ」批判
 セルジオ越後の「部活批判」は、よく知られている。
 日本の学校スポーツでは、一つの学校から一つのチームだけが出場する。そのため一握りのレギュラー以外は「補欠」で試合に出られない。
 「プレーしなければ意味がないじゃないの。ブラジルには補欠はないよ」というのがセルジオの口癖である。
 また、日本の学校スポーツ大会は、ほとんどが勝ち抜きのトーナメントである。負ければ、あとは試合がないから、1回戦で負けたチームは1試合しかできない。1年を通じて活動していても、一握りの常勝チーム以外は、まともな試合をする機会は非常に少ない。
 「試合しないで練習ばかりじゃ、楽しくないよ」というのもセルジオの口癖だ。
 それだけではない。この日のセルジオは、さらに突っ込んだ提案をした。

★スポーツ部が社会活動を!
 「甲子園野球や高校サッカーで、アナウンサーが4500校の頂点に立つなんていっているけど、あれはウソだね。いい選手を特別に入学させてスポーツばかりやっている16校ぐらいの頂点に立っているだけだよ。ほかの学校は別のグループだよ」
 大部分の「ふつうの学校」のスポーツが、特別の「スポーツ学校」と争って頂点をめざす意味はないという。
 それでは「ふつうの学校」のスポーツに何ができるか?
 セルジオは、意表をついた提案をした。
 「運動部が年間に一つの社会活動のプログラムを組んではどうか。学校の外に出てビジネスにかかわるとか、世の中の役に立つ活動をするとか。子どものサッカー教室をやっている例はあるけど、スポーツ以外のことも経験したらいい」
 他のスポーツと手をつないでやったらいい。学校内だけ、自分のスポーツだけ、という考え方は「古くて、狭いよ」という意見だった。

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サッカー日誌 / 2012年11月18日


猛暑を凌いだザック用兵


W杯アジア最終予選
オマーン 1-2 日本
(11月14日 マスカット:テレビ朝日、NHK-BS1)

★前半のリードを守る策
 オマーンの首都、マスカットは猛烈な暑さだったらしい。
 気温35.2度、湿度47%とテレビのアナウンサーが言っていた。画面を見ると、砂漠の国の太陽が緑のフィールドにもカンカンに照りつけている。「冬の日本や欧州から来た日本の選手はたいへんだろう」と思った。
 地元のオマーンの選手は気候に慣れているに違いない。後半は日本のほうがバテるだろう。「前半に得点して、そのリードを保てればいいのだが……」と考えた。
 危ない場面もあったが、幸運にも恵まれて前半に1対0とリードした。問題は後半をどう凌ぐかである。
 後半15分過ぎに、ベンチで酒井高徳が交代出場の用意をしている、というレポートがあった。
 テレビの解説者は「誰と代えるんですかねえ」と首をかしげているようなコメントをしていた。交代の狙いを読めなかったようだ。

★長友を中盤に上げた狙い
 後半19分に酒井高徳がピッチに出て守備ラインの左サイドに入った。退いたのはワントップだった前田遼一である。左のディフェンダーだった長友佑都は中盤に上がる。
前田に代わって、トップ下だった本田圭佑がワントップに上がる。
 この布陣変更の狙いは、こうだろう。
 第一に、長友の守りの負担を、酒井高徳を入れることによって軽くする。長友は攻めでは中盤から走り出ることになるから走る距離は短くてすむ。長友がタフだといっても酷暑の中で90分間、攻守に走り回らせるわけにはいかない。
 第二に、本田をトップに張り付かせることによって、相手の守りを下がらせる。相手の守備ラインが下がれば、中盤に余裕ができるから、ボールを回して攻めることができる。
 リードを守るには、こちらがボールを保持している時間を長くするのがいい。

★ザックの「引き出し」
 オマーンが後半32分にフリーキックから得点して1対1の同点にした。
 ザッケローニ監督は、40分に清武弘嗣に代えて細貝萌をボランチに入れ遠藤保仁をトップ下に上げた。中盤の守りを強化し、遠藤を攻めの起点にも使う狙いだろう。
 終了間際の44分、左サイドを突破した酒井高徳がゴール前にボールを送る。ゴール前で遠藤がつないで右に出たのを岡崎慎司が叩き込んだ。
 布陣変更が、みごとに当たった決勝点だった。
 ザッケローニ監督の用兵にはオリジナリティがある。
 しかし奇策ではない。見ているものにも分かりやすく納得できる。
 ザッケローニ監督は、頭の中に作戦の「引き出し」をたくさん持っていて、場面場面に応じて取り出して応用しているのではないか、と想像した。

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サッカー日誌 / 2012年11月13日


千野圭一編集長の思い出


サッカーマガジン400号の闘い
(10月31日死去、11月4日通夜・東京江東区)

★大住良之さんとの縁
 長い間、サッカーマガジンの編集長を勤めた千野圭一さんが亡くなった。58歳だった。80歳のぼくより20歳以上も若い。まだまだ、サッカーのために役立つ仕事のできる年齢である。お通夜に参列して改めて人の世の無常を感じた。
 千野さんが「サッカーマガジン」で働くことになったのは大住良之さんの「ひき」だったらしい。
 大住さんも、千野さんも、学生のときにアルバイトで、同じ少年サッカースクールのコーチをしていた。
 大住さんは大学3年のときに、サッカーマガジンでアルバイトとして編集の仕事をはじめた。その後まもなく、もう一人、アルバイトが必要ということになったので、3歳年下の千野さんを引き込んだのだという。
 大住さんは、大学を卒業してベースボール・マガジン社に正式に就職した。千野さんも大学を出ると正社員になった。
 
★メノッティ1353日の闘い
 1978年のアルゼンチン・ワールドカップのあと、優勝したアルゼンチンの監督、セサル・ルイス・メノッティの手記をサッカーマガジンに20回にわたって連載した。現地の雑誌「エル・グラフィコ」の連載を、スペイン語ができてサッカーの好きな世古俊文さんに翻訳してもらい、ぼく(牛木)が書き換えた。タイトルは「メノッティ、1353日の闘い」だった。これは、まだアルバイトだった千野さんが考えた。
 編集部にあった電卓に変わった機能があった。始まりと終わりの年月日を、それぞれ入力すると、その期間の日数が出てくる。千野さんは電卓を、ぽんぽんと叩いて、このタイトルを考え出した。スペイン語の原題は「いかにしてワールドカップを得たか」だった。よく覚えていないのだが、ぼくは「世界一への道」という平凡な題をつけていたらしい。
 連載を終わってみると、日本語のタイトルは、すばらしい内容に、ぴったりだった。千野さんには「あのタイトルは、ぼくが変えたんだ」と、いつまでも自慢された。

★陽の当たる時代への貢献
 千野さんは、1982年のスペイン・ワールドカップのあとに編集長になった。前任の大住さんが退社したあとを引き継いだ就任だった。
 ここまでは、大住さんの後を追ってきた経歴だが、そのあとは大きく違う。
 大住さんは編集長4年でライターに転じたが、千野さんは1998年フランス・ワールドカップまで16年間も編集長を続けた。月刊、週刊、旬刊と発行の形が変わるなかで、400号以上の責任者だった。
 雑誌の編集者のなかには、自分で書いたものを掲載したがる人がいる。しかし、これは本筋ではない。
 いい企画を考え、いいライターを育て、面白くて役に立つ雑誌を作るのが、いい編集者である。
 千野さんは、サッカーが日本ではまだ陽の当たらないスポーツだった時代に、いい雑誌を作り続けた。そしてJリーグ創設によって脚光を浴びる時代を迎えるのに貢献した。


「サッカーマガジン」1978年11月10日号(No.202)の表紙。この号からメノッティ(写真左)の手記連載がはじまった。


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サッカー日誌 / 2012年11月10日


鹿島とブラジルのサッカー文化


ヤマザキナビスコ・カップ決勝

鹿島 2対1(延長) 清水
(11月3日 東京・国立競技場)

★勝負に強いメンタリティ
 第20回ヤマザキナビスコ・カップで鹿島アントラーズが優勝した。2年連続5度目である。運の要素も多いカップ戦で20回のうちの4分の1を勝ち抜いたのは驚くべき記録だ。この20年間に天皇杯でも4度優勝している。
 リーグでも7度優勝しているから「カップ戦に強い」とばかりはいえないのだが「勝負に強い鹿島」が伝統になっていることは確かである。
 20年間に選手は入れ替わっている。監督も変わっている。クラブを経営するスタッフにも異動がある。それでも「勝利のへメンタリティ」が受け継がれている。
 共通しているのは、16冠はすべてブラジル人監督によってもたらされた、ということだ。ブラジルのサッカー文化が、鹿島のサッカー文化として根付いているのだと思う。

★ジョルジーニョの采配
 今回の監督はジョルジーニョだ。ブラジル代表として1994年のワールドカップ米国大会に優勝、翌年から4年、鹿島でプレーし、プレーヤーとしてリーグ、天皇杯、ナビスコ杯のタイトルに貢献した。14年ぶりに古巣に戻って、今度は監督としてのタイトルである。
 決勝戦での采配はみごとに適中した。
 まず守りからスタートした。
 昌子源(しょうじ・げん)を左サイドのディフェンダーとして起用した。これまで、ほとんどサブだった19歳である。相手の清水エスパルスのエース、大前元紀が右のウイングなので、それを押さえるための起用である。
 そして中盤も引いて守り、大迫勇也をトップに残して前線へ大きく蹴り返す試合運びだった。
 いきおい中盤は清水が支配し、すばやいパスをつないで攻め続けた。鹿島は守りに追われた。

★柴崎岳がMVP
 若い清水が懸命に攻め続ける。その疲れを待ち、ジョルジーニョは小出しの選手交代で攻めのチャンスをうかがう。
 後半28分にPKで先取点。しかし、その4分後に清水にもPKが与えられて同点。延長に入ってすぐ、見事な攻めで決勝点が生まれた。
 MVPには、2点をあげた柴崎岳(しばさき・がく)が選ばれた。「またゴールをあげた選手か」と思ったが、試合後の記者会見で、ジョルジーニョ監督は柴崎を高く評価した。
 「若いけれども冷静すぎるくらい落ち着いている。だから、PKを蹴るように指示した。彼の指導者であることを誇りに思う。いますぐ日本代表に選ばれてもおかしくない。やがて欧州に行って活躍することになるだろう」
 ジョルジーニョ監督の評価通りだとすれば、2012年のナビスコ杯決勝は、柴崎岳を世に出した試合として記憶されることになるかもしれない。

(写真)選手入場のときバックスタンドに描かれたヤマザキナビスコ・カップ



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サッカー日誌 / 2012年11月07日


セルジオ越後の40年


日本を変えた大きな功績

来日40周年記念パーティー
(10月29日 第一ホテル東京)

★プロ級選手の初来日
 サッカー評論で活躍しているセルジオ越後さんが日本に来て40年になった。それを祝って「セルジオ越後、来日ありがとう」のパーティーが東京新橋のホテルで行われた。セルジオのおかげを蒙っている、いろいろな関係者が400人ほど参加、異色の、盛大なパーティーだった。
 この40年の間に、セルジオは日本のサッカーに多くの新しいものを持ち込んだ。その功績を改めて考えた。
 セルジオは1972年に日本サッカーリーグ(JSL)の藤和不動産の選手として来日した。ぼくの考えでは、外国のプロ・レベルのプレーヤーが来日した第1号である。ただし、その当時、日本のスポーツは、日本体育協会の偏狭な「アマチュア規程」に縛られていたので、プロのプレーヤーとして、大々的に紹介することはできなかった。
 しかし、セルジオは、サッカーのプロフェッショナルとしてのあり方を、身をもって日本で示してくれたと思う。

★自由自在なボール扱い
 セルジオが、まず日本のサッカーを驚かせたのは、そのボール扱いの巧みさだった。
 そのころ、日本のサッカーでは曲芸のようにボールを扱うテクニックは評価されていなかった。蹴って、走って、がんばるサッカーが主流だった。
 ところが、来日したセルジオは自由自在にボールを操り、当意即妙の多彩なフェイントで活躍した。
 曲芸のようなボール扱いが単なる「見世物」ではなく、アイデアと結びついて実戦で威力を発揮することを示した。これは日本のサッカー技術の革命だった。
 セルジオはプレーヤーとしてのキャリアを終えたあと、子どもたちのサッカー教室指導者として大きな仕事をした。
 ここでは、軽業のようなテクニックが「ショウ」として役立った。子どもたちは「ボールでこんなことが出来るんだ」とセルジオのデモンストレーションに目をみはった。

★辛口の中のユーモア
 評論家としてのセルジオは「辛口」で知られている。しかし厳しい指摘と口ぶりの裏には、温かい心とユーモアがある。
 来日して間もなくのころ、インタビューしたことがある。
 世界最大だったリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムに話が及んだ。
 フィールドを囲む座席が全部、ぐるりと屋根で覆われている。フィールドのま上にぽっかりと丸く空が見える。
 「ブラジル人は、よくタバコを吸うからね。屋根の下は煙でもうもうとなる」と、セルジオは真面目な顔で話した。
 「だからハーフタイムには、ヘリコプターが飛んできて、屋根の端に停まって煙を吸い出すんですよ」
 本当だと思って、あわや記事にするところだった。
 「煙(けむ)に巻かれた話」である。

(写真)パーティーで記念品の一つとして配られた「日刊スポーツ」の特製号外?


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