サッカー日誌 / 2012年04月25日


クラブ育ちを生かした湘南の快進撃


東京ヴェルディ 1対2 湘南ベルマーレ
J2第9節 (4月22日 駒澤競技場)

★激しいJ2上位対決
 東京ヴェルディ対湘南ベルマーレの試合を駒澤競技場に見に行った。この時点で湘南は7勝1引き分けで負けなしの首位。ヴェルディは5勝1引き分け2敗で3位。J2の上位対決である。
 この2チームには、共通点がある。
 ともにJ1から降格したあと、なかなか再昇格できないでいる。しかし、今シーズンはチャンスである。
 ともに、有力な親会社から見放され財政難に苦しんでいる。そのために、年俸の高いスター選手とは契約できない。
 ともに、自分のクラブで育てた、いわゆる「育成組」を主力に起用している。下部組織のジュニアユースとユースに力を入れてきたのが役立っている。

★菊池大介の突破
 激しい中盤の競り合いで、スリルにあふれた好勝負だったが、後半25分、湘南のPKによる先取点が分かれめとなった。 
 ハーフライン付近で高く上がったボールに、菊池大介がすばやく反応して胸で止め、そのまま右サイドをドリブルで突破した。マークしていた一人を振り切り、迎えうった次の相手をすばやい切り返しで抜いて、ゴール前へ食い込もうとした。
 ペナルティエリアに入る前のところで、クロスをあげたボールが3人目のディフェンダーの手に当たってPKとなった。
 ヴェルディのディフェンダーは故意に手を使ったわけではない。しかし、タックルに入ろうとして広げた手に当たった。ヴェルディにとっては不運なPKだったとは言えるが、菊池の速さとテクニックはすばらしかった。

★首位争いから抜け出す
 殊勲の菊池大介はベルマーレのユース育ち。一時、ザスパ草津に出されて戻ってきた。ユースのころから注目されていた選手である。
 この日の先発メンバー11人のうち、菊池を含め5人がベルマーレのユース育ちだった。そのうち4人は、いったん他のチームに出て出場機会を得て戻ってきている。
 財政難だからスター選手を補強できない。そこで下部組織育ちの若手を起用しているのだが、いったん、出場機会のある他のJ2などのチームに出して経験を積ませたのが、良かったのではないか、と推測した。せっかく若手を育てても、J1のチームに引きぬかれ、売り渡してしまうのでは、もったいない。
 ベルマーレは勝ち点25となり、2位に上がった山形と勝ち点6差。首位争いから一歩抜け出した。2位以下は勝ち点1差でひしめく混戦である。


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サッカー日誌 / 2012年04月24日


宮市亮の「Jスルー移籍」


小澤一郎さんの語る海外移籍事情

ビバ!サッカー4月例会
(4月20日 東中野・テラハウス)

★Jクラブを経ないで海外へ
 「Jスルー」という言葉がある。いや、作られたらしい。
 日本の学校でサッカーをしたあと直接、欧州のクラブと契約する。つまり、Jリーグを経ないで海外に移籍する。それを「Jスルー」と呼ぶようだ。Jリーグを通らないのだから「スルー」ではなくて「スキップ」かもしれない。
 用語としての詮索は英語に強い人に任せるとして、欧州のサッカーが直接、日本のサッカーの「苗床」に手を伸ばしはじめた現象にスポットを当てたのはいい。
 日本の学校やクラブで手塩にかけて育てた若いプレーヤーが欧州のクラブに引き抜かれる。それで日本のサッカーに何が残るのだろうか?
 一方、プレーヤー個人にとっては、若いうちに高いレベルでプレーするチャンスに恵まれるのは、大きく伸びるために、いいのではないか?

★宮市亮の育成費用
 「Jスルー移籍」をした選手のなかで、いま、いちばん注目されているのは宮市亮だろう。
 宮市は、愛知県岡崎市の少年サッカークラブで育ち、地元の中京大中京高校で高校選手権にも出場した。少年時代から注目されていた素材である。
 高校を出るとき、Jリーグのクラブには入らないで、イングランドのアーセナルの練習に参加した。そこでベンゲル監督に見出され、いろいろ曲折はあったが、いまボルトンで活躍している。つまり、Jリーグを経ないで欧州のトップクラスのリーグでプレーする選手になったわけである。
 この宮市のケースだけでも、いろいろ、考えなければならない問題がある。
 たとえば、宮市選手を育てた岡崎市のクラブや中京大中京高は、宮市を育てるために使った費用を回収できたのだろうか、という問題がある。

★グローバルな解決策を
 「ビバ!サッカー研究会」の4月例会で、いま売り出し中のサッカーライターの小澤一郎さんを招いて「日本人選手の海外移籍事情と育成」をテーマに、お話を聞いた。「Jスルー移籍」の問題も、そのなかに出てきた。
 選手の育成費用、保有権、契約期間と移籍金(違約金)などスポーツ選手の移籍に関係する問題は複雑である。小澤さんの話の前に、移籍に関する法律的な問題を、ぼくが15分くらい解説したが、その程度では、もちろん、意を尽くせない。
 日本では、多くの選手は学校で育てられるが、欧州、南米では、子どものころからクラブが育てる。国によって事情が違う一方、移籍は国と国の間にまたがっている。
 グローバル化が進むなかで、国内だけに通用する規則や慣習にこだわっていては、問題は解決しないだろうと考えた。



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サッカー日誌 / 2012年04月21日


本田圭佑と香川真司


オシムの見た南アW杯以後の日本
田村修一『オシム、勝つ日本』文庫版
(文春文庫 株式会社文芸春秋 2012年4月)

★文庫化で付け加えられた部分
 2年前に紹介したことのある田村修一さんの『オシム、勝つ日本』が文庫本になった。
 もとの本は、田村修一が元日本代表監督のイビチャ・オシムに長期密着インタビューしてまとめたものだった。オシムの「サッカーについての考えと仕事」がみごとにまとめられていた。初版が出たのは2010年4月で、ワールドカップ南アフリカ大会の前だった。
 この本を文庫化するにあたって、新しい部分が付け加えられている。巻頭に東日本(東北太平洋岸)大震災の被害に対するオシムの「お見舞い」が載っている。そして最後に第7章「南アフリカ・ワールドカップ以後」がある。「以後」に岡田武史監督の率いた日本代表の戦い、ザッケローニの率いた日本代表のアジアカップ優勝、さらに「なでしこJapan」の女子ワールドカップ優勝があった。それについての、オシムの批評を田村が試合ごとにインタビューして聞いている。

★香川と本田の両立は難しい
 新たに付け加えられた部分に、いろいろな話があるのだが、なかでも興味深いのは「オシムの眼/本田と香川」の項である。
 本田圭佑は、南アフリカ・ワールドカップで岡田ジャパンのキープレーヤーだった。
 香川真司は、その才能を評価する人も多かったのだが、岡田監督はメンバーに加えなかった。しかし、その後、ドルトムントで大ブレークした。
 2人には、それぞれの良さがある。しかし、おおまかに言えば、オシムは香川のほうを高く評価しているようだ。「香川は良く走り、良く戦い、ゴールをあげる」という。一方、本田は「判断にまだ多くの時間が必要だ。どこにパスを出せばいいのか。どこにシュートを打つのか。それを考えて時間を浪費している」という。
 香川と本田を日本代表でいっしょに使うのは、現状では難しいという意見である。

★オシムがいましていること
 この本に書かれていることは、田村修一がオシムに聞いて、田村修一が書いた意見である。だから、オシムの考えか、田村の見方か、境界がはっきりしないと思われるかもしれない。しかし、それはそれで、いいのではないか。オシムを離れ田村を離れた一つの独立した考え方としても参考にできる。
 巻末に「文庫版あとがき」がある。そこには、オシムがいま、何をしているかが紹介されている。一つの国であるボスニアのなかで、セルビア人(ギリシャ正教)、クロアチア人(カトリック)、ボスニア人(イスラム教)が、それぞれサッカー協会を持っていたのを統一する仕事を引き受けて成し遂げた。そして、統一された組織の事実上の代表者であるという。
 技術や戦術の話だけでなく、スポーツの背後にある世界と社会の問題にも目を配っているのがいい。


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サッカー日誌 / 2012年04月19日


女子サッカー連盟創設のころ


森健児さんのお話を聞いて

日本サッカー史研究会4月例会
(4月16日 JFAハウス会議室)

★新組織創設の困難
 新しい組織を作ろうとすると、いろいろな障害がでてくる。それを乗り越えていかなければ前進しない。
 女子サッカーは、いま「なでしこブーム」で脚光を浴びているが、日本で女子サッカーがスタートしたころには、いろいろな障害があった。それを、どのようにして乗り越えたのだろうか?
 日本サッカー史研究会の4月例会では、1979年に日本女子サッカー連盟が創立されたころの事情を取り上げた。初代の理事長だった森健児さんにゲストとして来てもらって話を聞き、また初代会長だった大畠襄さんにも補足していただいた。
 ぼくの記憶では、当時の日本サッカー協会は女子連盟の創設に積極的ではなかった。
 それを押し切ることができたのには、いくつかの要因があった。

★三菱サッカーの貢献
 森健児さんの話を聞いて思ったのは、日本の女子の組織を作るために、三菱のサッカーが大きな役割を果たしたことである。
 三菱創設100年の記念事業として、三菱各社の連合で100億円を集め、そのうちの50億円ほどで東京の巣鴨に三菱養和会のスポーツクラブを作ることになった。そのとき女子サッカーを取り入れようというアイデアが出た。これは、すでに、ほそぼそとしてではあるが、女子サッカーを実践しているところが、ほかにあったからである。
 たとえば1972年にはじまった東京の「FCジンナン」である。それは小さな種(たね)ではあったが、大きく育つ見込みは乏しいものだった。しかし小さな種が苗くらいに育っていたから、三菱養和で女子サッカーを取り入れるというアイデアが出たのではないかと考えた。 新しいことを始めるには、小さくても「種」が必要だと思った。

★森健児さんの功績
 巣鴨の三菱養和クラブには、そのころに移入されたばかりの人工芝のグラウンドができた。これが数少ない首都圏の女子チームの根拠地になった。ほかのグラウンドは、ほかの男子チームが「既得権」として使っていたから女子チームが割り込むのは難しい。新設の人工芝のフィールドを女子が利用できたのは有難かった。新しい女子サッカーが、既成の組織に割り込むことができた要因の一つは、三菱養和の人工芝のグラウンドだった。
 こういう動きのなかで、女子サッカーの組織化に動いた中心人物が、森健児さんである。
 三菱養和のスポーツクラブを運営するために、三菱重工から送りこまれたのだが、そのアイデアと政治力で日本の女子サッカーの推進力となった。
 森健児さんは、協会の専務理事を勤めるなど、ほかにも、いろいろな業績があるが、女子サッカーへの功績も忘れてはならない。


(左から)、大畠襄さん、森健児さん、牛木。


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サッカー日誌 / 2012年04月17日


「なでしこJapan」の成果と課題(下)


ロンドン五輪へのチーム作り

キリン・チャレンジ・カップ2012 女子
日本 1対1 米国(4月1日 ユアスタ仙台)
米国 3対0 ブラジル(4月3日 フクアリ千葉)
日本 4対1 ブラジル(4月5日 ホームズ神戸)

★戦い方を変えた米国
 女子のキリン・チャレンジ・カップに参加した3チームは、それぞれ、ロンドン・オリンピックへ向けてのテーマを持って戦っていた。米国にとっては世界一を奪った日本に対抗する方法を探るのが課題だった。
 日本との試合で、米国は守りを重視した戦いをした。激しい出足でボールを奪い、ときどき大きく蹴って身長を生かそうとした。0対1とリードされた後半は、パスをつないで攻めに出た。ピア・スンドハーゲ監督は「日本のような(ボール扱いの巧い)テクニカルなチームに対しては、(こちらが)ボールをキープすることが必要だ」と語った。
 9ヵ月前のドイツ・ワールドカップのとき、米国は、どの試合でも、立ち上がりの10分にまず全力疾走のスピード攻撃をして勝負をかけた。そのワン・パターンの戦い方を変えようとしているように見えた。

★守り方を変えたブラジル
 ブラジルは、ドイツ・ワールドカップのときは特殊な守り方をしていた。
 マンツーマンで守る2人のセンターバックの背後に、もう一人、予備のディフェンダーを置くスイーパー・システムである。男子では1960年代後半から70年代にかけて使われたことのある守り方だ。「ブラジルの女子選手は守るのが好きでないから、守りを厚くするのだ」ということだった。
 今回のキリン・チャレンジ・カップでは、一転して4人のディフェンダーによるライン・ディフェンスだった。不慣れな守り方のために、対日本戦では2人のセンターバックにミスが出てオウンゴールで1点を献じた。
 しかし、攻撃の主力マルタが来日せず、ベストメンバーではないなかでも、新しい試みをしてみたのだろうと思った。

★日本の新しい攻め方
 ドイツ・ワールドカップのとき「日本はもっとも完成度の高いチームだ」と思った。完成度が高いだけ、これからの伸び率は小さい。米国やブラジルは能力がありながら、それを十分に生かしていないので、伸びる余地が多い。そう思った。
 その考えは変わらないのだが、しかし、伸びる余地が多くても、それまでの「やり方」を大きく変えて伸びるのは、なかなか難しいものだということを知った。
 日本は現在持っている良さを保ちながら、新しいものを確実に付け加えようとしている。ポジションを変えながらの攻め、サイドからの速い攻め、低くゴール前を横切るクロスなどである。
 すべてが、うまくいっているわけではないが、少しずつ変わってきている。オリンピックのメダルへ向けて、日本のやり方は堅実である。


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サッカー日誌 / 2012年04月16日


「なでしこJapan」の成果と課題(中)


対ブラジル、交代出場の菅澤が殊勲

キリン・チャレンジ・カップ2012 女子
 日本 1対1 米国(4月1日 ユアスタ仙台)
 米国 3対0 ブラジル(4月3日 フクアリ千葉)
 日本 4対1 ブラジル(4月5日 ホームズ神戸)

★米国対ブラジルを見損なう
 女子サッカー国際大会、キリン・チャレンジ・カップの第2戦、米国対ブラジルの試合を楽しみにしていた。
 米国もブラジルも、日本に対しては世界チャンピオンとの対戦だから、いろいろ策をめぐらせてくるだろう。それは、それで面白いが、外国同士の試合では、両方の国のサッカーの別の顔が見えるのではないか。それを見たいと思った。
 ところが試合当日は、日本海で急激に発達した低気圧の影響で、全国的に暴風雨だった。
 そのため、午後8時試合開始を、風雨が強くなる前にというので午後4時からに繰り上げた。それを知ったのが午後3時ころだった。それから東京の家を出て千葉まで行っても間に合わない。それで行くのを断念した。かりに出かけたとしても、JRの電車が停まっていたので、千葉県の蘇我まで行き着くことはできなかっただろう。

★「なでしこ」に3点差の課題
 米国対ブラジルは3対0で米国の勝ちだった。そのため、日本は優勝するためには最終戦でブラジルに3点差以上をつけて勝たなければならないことになった。
 親善試合の大会だから「優勝」に大きな意味があるわけではない。しかし「3点差以上で勝つ」という課題を与えられたのは「なでしこJapan」にとって「いい勉強」である。
 日本は前半16分に先制点を挙げた。中盤のフリーキックからゴール前へ上げたボールを、ブラジルのセンターバックの一人がヘディングしてクリアし損ね、もう一人がそれをさらにヘディングし損ねてオウンゴールになった。
 ところが、ブラジルが前半の追加時間に入ってから同点にした。ゴール正面のフリーキックを22歳のフランシエリが、みごとに叩き込んだ。
 日本は前半、動きが悪かった。立て直して後半45分の間に3点をあげなければならない。

★終了間際の得点で辛くも優勝
 後半13分に「なでしこ」は、お家芸の宮間あやのコーナーキックで勝ち越した。走り出た永里優季のヘディングにぴたりと合った
 そのあと、16分に3点目、終了近くの44分に4点目と、日本は、きわどいところで3点差を達成した。
 殊勲の4点目を決めたのは後半から出場した菅澤優衣香である。菅澤は3点目にも絡んでいる。アルガルベ・カップの対デンマーク戦でも1点を挙げている。佐々木則夫監督の話では「いま、いちばん伸びてきている」という。国際試合の経験を積んで自信をつけているのがいい。
 ただし、ブラジルはベスト・メンバーではなかった。また風雨のなかの対米国戦から中1日だった。日本の後半の3点を手放しで評価することはできない。


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サッカー日誌 / 2012年04月15日


「なでしこJapan」の成果と課題(上)


対米国、互角以上の戦いに自信

キリン・チャレンジ・カップ2012 女子
 日本 1対1 米国(4月1日 ユアスタ仙台)
 米国 3対0 ブラジル(4月3日 フクアリ千葉)
 日本 4対1 ブラジル(4月5日 ホームズ神戸)

★有意義だった女子の国際大会
 「キリン・チャレンジ・カップ」として行われた女子代表の国際大会は「なでしこJapan」にとって、非常に有意義だった。
 第一に、世界のトップレベルを相手に互角に戦える自信がついた。
 第二に、昨年のワールドカップのときより、さらに伸びている点が確認できた。
 第三に、澤穂希ぬきでの戦いを試みることができた。
 この成果は7~8月のロンドン・オリンピックへ向けて役に立つだろう。
 日本の観衆に女子の世界レベルの戦いを「なま」で見てもらうことができたのも良かった。これは、米国とブラジルが招待に応じてくれおかげである。
 「キリン・チャレンジ・カップ」として女子の国際大会を開いたのは、いいアイデアだった。
 
★澤穂希ぬきでの引き分け
 第1戦で日本は米国に前半32分のゴールで先制、後半27分に同点にされて引き分けた。
 前年7月のドイツ・ワールドカップの決勝戦ではPK戦でカップは獲得したが、試合は延長引き分けだった。
 しかし、この2つの引き分けは意味が違う。
 ワールドカップ決勝のときの「なでしこJapan」は、実力世界一の米国に「チャレンジャー」として立ち向かった。その結果の引き分けで、いわば「善戦健闘」だった。
 今回の「なでしこJapan」は、世界チャンピオンとして米国を迎え撃った。リードを守り切れなかったのは反省点だろうが、互角以上に渡り合っての引き分けである。
 また、ワールドカップのときは、澤穂希のリーダーシップがものを言ったが、今回は澤が病気ということで欠場した。澤抜きで互角の戦いができたのが収穫だった。
 
★ロンドン五輪が楽しみ
 3月にポルトガルで行われたアルガルベ・カップでは、日本が1対0で米国に勝っている。
 この対米国戦の初白星が今回の自信にあふれる試合ぶりにつながったのだろう。ロンドン・オリンピックでの対決が楽しみになってきた。決勝戦で当たるとは限らないが、どの段階で当たっても、事実上の「金メダル争い」になりそうだ。
 ただし「なでしこJapan」の金メダルが、非常に有望であるとは必ずしも言えない。
 日本のテレビや新聞の取り上げ方をみると、金メダルが確実なような錯覚に陥るが、力の差はない。今回、日本には澤の欠場があったが、米国もベストの状態でキリン・チャレンジ・カップに臨んだわけではない。
 また日本対米国の対決になる前に、どちらかが他のチームに足をすくわれる可能性もある。実力接近だからこそ、女子サッカーはロンドン・オリンピックの一つの焦点である。



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サッカー日誌 / 2012年04月10日


クラブ運営責任者の重要性


松本育夫さんに聞く
日本サッカー史研究会3月例会
(3月26日 JFAハウス会議室)

★Jリーグ・クラブのフロント
 日本サッカー史研究会の3月例会には、松本育夫さんに来ていただいた。もっと早くにお願いしたかったのだが、佐賀県の鳥栖にいたのでお呼びすることができなかった。東京に戻ったので、お招きしたわけである。
 松本さんはメキシコ・オリンピックに日本代表として出場、その後、日本代表ユースの監督、高校チームの監督、川崎フロンターレの社長、サガン鳥栖の監督、ゼネラル・マネージャー(GM)など、実にいろいろな仕事をしてきた。
 その経験を聞くことができて興味深かったのだが、ぼくが特に関心を持ったのは、Jリーグ・クラブの運営スタッフ(フロント〉の役割である。
 たまたま、その日に、ガンバ大阪がJリーグ3連敗で、今年から契約したばかりのセホーン監督と呂比須(ワグネル・ロピス)ヘッドコーチらをクビにした。

★ガンバ大阪の監督交代劇
 呂比須(ワグネル・ロピス)は、ブラジルから来日して、いろいろなクラブでプレーし、日本国籍をとって日本代表にもなった。その後、ブラジルに戻って、クラブチームのヘッドコーチなどを勤めている。
 ところが、呂比須のブラジルでのコーチのライセンスを、Jリーグが日本の「S級」に当たるものとは認めなかった。S級でないとJリーグチームの監督になれない。ライセンスについて調べていなかったのが、まずフロントの失敗だった。
 そこで、ブラジルのジョゼ・カルロス・セホーンを監督に据えた。資格のある者を名目的に監督にして、実際にはヘッドコーチが指揮をとるというケースも、ときにはある。しかし、セホーン監督の場合は、そうではなかったようだ。セホーンは、ブラジル国内の多くのクラブや韓国などで指導歴のある61歳のベテランである。実績では呂比須を上回っている。呂比須ヘッドコーチと2頭立ては難しかった。これもフロントの失敗である。

★フロントの内部事情
 松本育夫さんは、「Jリーグのクラブで、いちばん重要なのはフロントですよ。サッカーを知っている人でなければうまく行きません」と言う。
 ガンバの山本浩靖強化本部長は、呂比須ら解任とともに責任をとって強化本部長を辞任した。大阪商大出身、ガンバの前身の松下電器の選手だった人である。「サッカーを知らない」とは言えないが、「選手だった」ということと「サッカーを知っている」こととは別かもしれない。ただし、この種の人事には複雑な内部事情がつきものだから、必ずしも表に出た強化本部長だけの責任ではない可能性もある。
 監督として、フロントとして、社長として、いろいろなケースを経験してきた松本育夫さんに、Jリーグ・クラブの運営事情を、もっと詳しく聞いてみたい。そう思って、5月のビバ!サッカー研究会に来ていただくようお願いしている。


松本育夫さん(左)と牛木。

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サッカー日誌 / 2012年04月09日


女子ワールドカップを日本で(11完)


スポーツの構造を変える

★「五輪中心主義」の精算
 サッカー女子ワールドカップの日本開催を提案するのは、これを日本のスポーツ構造を変える「きっかけ」にしたいからである。
 どのように、変えるのか?
 端的に言えば「オリンピック中心主義」から抜け出すことである。
 1911年(明治44年)に嘉納治五郎が「大日本体育協会」を作ったのは、翌年のストックホルム・オリンピックに参加するためだった。それから100年、日本のスポーツは、オリンピックを理想として発展してきた。1964年の東京オリンピック開催は、その頂点だった。しかし、いまや「オリンピックの時代」は終わったと思う。
 オリンピックが重要だったのは、世界的な交通網が発達していなかった時代である。世界のスポーツマンを集めるのが難しかったので4年に1度の祭典に意義があった。

★時代の流れに応える方法
 しかし、いまでは航空路線のネットワークで世界は一つに結ばれている。陸上競技でも、テニスでも、スキーでも、トップレベルの選手たちは、毎週のように世界各地で開かれるツアーの競技会を転戦している。4年に1度、多くの選手を1都市に集めて世界一を競う必要はまったくない。
 一方で、スポーツは各国の隅々に普及し、それぞれの地域で人びとが日常生活のなかでスポーツを楽しむようになっている。そういう「草の根」のスポーツとトップレベルのスポーツを、どのように結び付けるかが課題になっている。
 そういう時代の流れに応えられる一つの方法を、2011年のドイツ女子ワールドカップで見出した。世界一を争う大会の試合が、中規模の地方都市に分散して行われている。それを地域の人びとが、自分たちの大会として支え、支えることを楽しんでいる。

★新しい理念による国際大会
 オリンピック中心主義から抜け出し、日本のスポーツの新しいあり方を求めるために、ドイツの女子ワールドカップの方式を日本でやってみよう。
 これが、2023年女子ワールドカップの日本開催を提唱する趣旨である。
 オリンピックや男子ワールドカップのような大会で、新しいことを試みるのは難しい。比較的小規模の女子ワールドカップで試みるのが適当ではないだろうか?
 キーワードは「地方分散」、「地域の自主運営」「ネットワーク」の三つである。
 女子サッカーだけではない。ほかの、いろいろなスポーツの国際大会を、この考えに沿って日本で開催し、日本のスポーツの構造を変えるための「きっかけ」にしたい。
 日本スポーツ構造改革の具体的な方策を、いま頭の中で温めている。多くの方々からの建設的な批判あるいは提言を、お聞きしたい。


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サッカー日誌 / 2012年04月07日


女子ワールドカップを日本で(10)


スポーツ・ツーリズム

★観光立国推進策
 サッカー女子ワールドカップの日本開催を「観光政策」と結び付けて考えている。
 4月1日に「日本スポーツ・ツ―リズム推進機構」(JSTA)が発足した。政府の観光庁が後ろ盾である。その前々日に政府は「観光立国推進計画」を閣議決定している。外国からの観光客を2020年までに年間2500万人に増やすことを目標に、その方法の一つとしてスポーツの国際大会誘致を掲げている。女子ワールドカップを、その一つとして組み込むといい。
 ドイツは、2011年の女子ワールドカップ開催を観光客誘致に結び付けていた。開催9都市とその周辺の観光スポットを紹介したパンフレットを数種類、各国語で作り、開催前に参加国に使節を送ってPRした。もちろん日本語版もあった。元女子ドイツ代表主将のシュテフィー・ジョーンズさんが大会組織委員会会長として来日し、説明会を開いた。 

★五輪よりも個別の大会で
 日本政府の基本計画は、2020年オリンピックの東京招致を視野に入れているが、実はオリンピックは「観光立国」のためのイベントとしては適当でない。オリンピックは、一つの国では、半世紀あるいは1世紀に1度くらいしかめぐってこない「一過性」のお祭りだからである。
 スポーツを「観光立国」に組み込むなら、いろいろなスポーツの世界選手権あるいはワールドカップを個別に、各地で毎年開催したほうがいい。いろいろな国から、いろいろな人びとを毎年、呼び込むことができる。観光客は、毎年、毎年、少しずつでも増やしていかなければならない。
 また、オリンピックは1都市集中開催だから全国区各地の観光地とのタイアップには効果的でない。地方分散のワールドカップのほうがいい。

★公共企業による協力
 ドイツの女子ワールドカップでは、ドイツのJRである「ブンデスバーン」(連邦鉄道)が、国内スポンサーの一つだった。各駅には大会の広告看板があり、列車の外側には大会マークが貼ってあった。大会期間中通用の「全線乗り放題」の観光客用割引パスが発行された。列車のなかでは、大会マークの形をしたチョコレートを車掌さんが配っていた。
 大会の国内スポンサーは、ほとんどが「ブンデスバーン」のような公共企業だった。協賛スポンサーの形で政策として女子ワールドカップを支えているのだと思った。
 スポーツの大会のときに、ほかの文化的な催しや見本市を組み合わせ、総合的な観光イベントを計画してはどうか。中都市地方分散開催の女子ワールドカップを、そういう試みのモデルにしてみてはどうかと思う。


ドイツ女子W杯の観光誘致パンフレットとスポンサーのロゴ入りのチョコ。


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