サッカー日誌 / 2008年07月29日


「なでしこジャパン」仕上がり順調


北京五輪日本代表壮行試合
女子、日本代表 3対0 オーストラリア代表
7月24日、ホームズスタジアム神戸


★明快な佐々木監督の表現
 女子日本代表の佐々木則夫監督の話しぶりは明快だ。声がはっきりしているし、内容は分かりやすい。
 北京オリンピックへの壮行試合でオーストラリアに快勝したあと、記者会見で、こう話した。「いままでやってきたことを、選手たちが自主的にやってくれた」。
 この言葉は、このチームの二つの面を端的に語っている。
 一つは、監督がやらせようとしているサッカーを、選手たちがしてくれたということである。もう一つは、選手たちが、意欲を燃やしてプレーしているということである。
 その裏を言えば、これまでやってきたことに新しいものは加わっていないということであり、自主的とは言っても選手たちは「監督のサッカー」をしたということである。

★労働量によるプレスの守り
 守りは中盤からの厳しいプレスだった。労働量とコンビネーションによる守りである。それが成功して、最後まで相手にチャンスを与えなかった。オーストラリアも、同じように最初からプレスの守りをしていたが、前半の終わりごろには労働量が衰えてきた。そこで前半42分に日本の先取点がはいり、後半の立ち上がりに2点目が入った。
 日本の守りが衰えなかったのは、コンディションもチームのまとまりも順調に仕上がってきているからだろう。
 一方、オーストラリアの動きが長続きしなかったのは、南半球の冬から北半球の暑さの中へ来たからだろう。オリンピックには出場しないのでモチベーションも低かっただろう。
 オリンピックの本番で日本の守りが通用するかどうかは、まだ分からない。相手はもっと手ごわいだろうし、こちらの労働量が連戦の最後までもつかどうかも分からない。
 
★メダル狙うには、いま一歩
 澤穂希(さわ・ほまれ)は攻守の中心である。澤の資質と技術と努力には頭が下がる。しかし、このベテランが目立つのは、チームが大きく変わってはいないことを示している。
 澤以外の選手の判断力と技術はいま一歩だ。とくに守備の選手がボールを大きくはずませて止める場面が目についた。またパスの正確さにも問題があった。体格のハンデを機動力で補うためには、ボール扱いとパスの精度が重要だが、その点は十分でない。
 チームがまとまっており、意欲が高いのは、監督の力量と澤のリーダーシップによるものだろう。同等の力の相手には、十分に勝つチャンスがある。
 しかし、コンディションが悪く、相手が手ごわいときには、一人一人の選手が、自分の力と判断で局面を打開することが求められる。澤以外の選手には、それが乏しい。
 「なでしこ」は伸びてきている。しかし、メダルを狙うには、いま一歩のように思う。

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サッカー日誌 / 2008年07月26日


反町ジャパン、初の逆転勝ち


北京五輪日本代表壮行試合
男子U‐23日本代表 2対1 U‐23オーストラリア代表
(7月24日、ホームズスタジアム神戸)

★狙いどおり、監督余裕のジョーク
 北京オリンピックのサッカー日本代表の壮行試合がオーストラリア代表を相手に行われた。男女とも日本が快勝。それぞれ、準備は順調に進んでいるようである。
 男子は前半34分に先取点を奪われたが、41分に同点に追いつき、後半終了間際に決勝点。反町監督になってから、逆転勝ちは初めてだそうだ。
 同点ゴールをあげたのが神戸NKサッカークラブ出身の香川真司、決勝ゴールが瀧川二高出身の岡崎慎司。試合後の記者会見で神戸新聞の記者が「きょうの2ゴールについて、どう思うか」と質問したら、反町康治監督は「地元にかかわりのある2人が点を取ったのだから、神戸新聞は朝刊の一面で大きく扱ってください」と冗談で答えた。
 逆転勝ちは「2人のシンジ」だけの力ではないが、2点とも狙い通りのいい形で生まれたものだったので反町監督はご機嫌だった。余裕のジョークだった。
 
★新しい顔ぶれによる2種類の得点 
 同点ゴールについて反町監督はこう説明した。「(右サイドでボールを持った)内田がルックアップした(ゴール前を見た)とき3人がすぐ動き出した。それがよかった」
 3人とは、相手のマークを背中に引き付けてボールをつないだ李忠成と森本貴幸、そして走りこんでシュートを決めた香川である。内田篤人からどんなボールが来るか? それによって、どんな展開の攻め手が可能か? それを瞬時に3人が読み、その通りに展開した。読みのはやさによる「モビリティ(機動力)から生まれたゴール」だった。 
 決勝点は左サイドから谷口博之があげた低いクロスを岡崎慎司がヘディングで決めた。「サイドから崩そう。しかし相手は背が高いから低いクロスを」と指示していた攻めが、後半に交代出場した2人によって土壇場で実った。2種類の狙い通りの攻めが、新しい顔ぶれで成功した。反町監督にとって設計図どおりだろう。
 
★守りは集中力持続が問題
 得点はよかったが、失点は問題だった。相手の技術や力で攻め崩されたのではなく、ミスから相手にチャンスを与え、それをカバーできなかったからである。
 相手の長い縦パスを、守備ラインの吉田麻也が胸で止めたが、大きくはずんでこぼれた。それを相手フォワードに拾われてドリブルで左サイドへ攻め込まれた。吉田があわてて追いかけたために、ゴール前の守りに穴があいた。集中力のちょっとしたゆるみがミスを生み、ミスを広げた。
 オリンピックで日本男子の第1戦は開会式前日の8月7日、天津で米国との対戦である。
 オーストラリアと似たタイプの相手だから、すばやく、低い攻めによるチャンスはあるだろう。第1戦に目標を絞って、コンディションをピークに持っていくように調整し、集中力を切らさずに90分間を戦い抜く必要がある。


 
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サッカー日誌 / 2008年07月24日


長沼健監督起用の事情


「クラマーさんを囲む会」7月18日・グランドプリンスホテル赤坂

★東京・メキシコの仲間の集い
 長沼健さんの「お別れの会」のために、デットマール・クラマーさんがドイツから駆けつけた。その会のあと、同じホテルの中のレストランに、東京とメキシコのオリンピック当時の日本代表のメンバーが集まって「クラマーさんを囲む会」を開いた。当時の選手のほか、1969年のFIFAコーチングスクールで指導を受けた人たちなどが参加した。ぼくも、半世紀近くクラマーさんを親しく取材してきたジャーナリストの一人として、末席に加えてもらった。
 「仲間たちで健さんの思い出を語り合おう」という趣旨だったのだろうが、クラマーさんは、83歳とは思えぬ大迫力で、1時間にわたる大スピーチをした。最近のトレーニング方法やスター選手の評価まで、いろいろな話をしたが、長沼健さんについては「日本代表の監督に起用されたときの事情」を説明した。

★なぜ長沼に決めたのか?
 「最近、1週間に1度くらいの割合で日本のマスコミが取材に来る」とクラマーさんはいう。クラマーさんの住まいは、ドイツ南部のアルプスのふもと、ライト・イン・ヴィンクルという村である。「彼らが決まってする質問がある。それは、なぜ長沼健を日本代表の監督にしたのか、という質問だ」
 東京オリンピックの1年10ヵ月前、1962年12月に代表チームの監督交代が行われ、古河電工の監督兼選手だった長沼健が登用された。それを決めたのは、ドイツから派遣されて日本代表チームを指導していたクラマーさんに違いない。なぜ、長沼に決めたのか、というわけである。
 「私は正直に答えることにしている。監督を決めたのは日本サッカー協会であって私ではない。私は、そのとき日本にはいなかった」
 
★クラマーさんが環境つくり 
 「ケンが監督になったのは自然の流れだ。彼のリーダーシップは、みなが認めていた。協会は前から彼をドイツに派遣してコーチの勉強をさせていた」
 クラマーさんの言うとおりだが、もう少し付け加えなければならない。
 ケンさんのリーダーシップを、まっ先に認めたのはクラマーさんである。1961年に新潟で行われた実業団選手権で古河電工が優勝したときのことだ。そのことは、前に書いたことがある。また、ケンさんの西ドイツへのコーチ留学のとき面倒をみたのはクラマーさんである。長沼監督のもとでコーチになった岡野俊一郎や主将になった八重樫茂生とは、日本代表のあり方について、よく話し合っていたという。
 推薦したのも決定したのもクラマーさんではないにしても、環境つくりをしたのは、クラマーさんだった。


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サッカー日誌 / 2008年07月22日


長沼健さんの「お別れの会」


7月18日・グランドプリンスホテル赤坂

★しめやかに、明るく
 長沼健の「お別れの会」が、7月18日に行われた。日本体育協会の副会長だったから、実行委員長は元総理大臣の森喜朗・体協会長である。日本サッカー協会側は岡野俊一郎さんと川淵三郎さんが実行副委員長だった。
 6月2日に亡くなったときには「葬儀は家族だけで行うから、参列は遠慮してほしい」という連絡がきた。それでも、東京、メキシコの両オリンピックの選手たちは、遠隔地からも駆けつけたらしい。
 「お別れの会」は、東京の大きなホテルの大きなホールで行われた。それでも、入りきれないだろうと、特に縁の深かった人たちを招待して正午から第1部を行い、午後2時からの第2部で一般の方が献花した。第1部ですでに大ホールは、ぎっしりの人だった。ケンさんの人柄にふさわしい、しめやかだが、明るい、盛大な会だった。
 
★クラマーさんもドイツから参列
 式場に入る前のロビーに、いろいろな写真が大きなパネルにして展示されていた。選手、監督としてオリンピックで活躍し、また協会の会長として、ワールドカップを招致した。
 体育協会ではスポーツ少年団の本部長だった。サッカーのレベルアップに貢献し、スポーツの普及に努力した。そういう業績が心に響いてくるいい企画だった。
 岡野俊一郎さんが弔辞を述べた。プレーヤーとしては中学(旧制)のころからのライバルであり、オリンピックでは監督、コーチとして盟友だった。途中で声を詰まらせたのは無理もない。
 1960年代に日本のサッカーを指導し、改革したクラマーさんも、ドイツから飛んでこられた。83歳だが、すこぶるお元気である。ケンさんは77歳だった。「いくのがはや過ぎる。(宮本)輝紀も征勝も渡辺(正)も先にいってしまった」と嘆いておられた。

★業績検討の研究会を開きたい
 全国から、いろいろな分野の人が「ケンさんを偲ぶ」という一つの気持ちで一堂に会する機会になった。ケンさん自身が、そのことを喜んだことだろう。
 「だけど」と考えた。「こういう会もすばらしいけど、少人数でケンさんを偲びながら、冷静にその業績を考える機会も作りたいな」
 「プレーのカンの鋭さはどのようにして身に付いたのか」「オリンピックの監督として成功した理由は?」など、いろいろな人の見方を聞いてみたい。
 マイナス面も検討していい。「2002年ワールドカップが、なぜ韓国との共催になったのか?」
 「長沼健の業績を考える」研究会を、メキシコ五輪銅メダル40年記念に、やってみたらと思っている。

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サッカー日誌 / 2008年07月16日


犬飼新会長は新しい時代の始まり


日本サッカー協会の政権交代(下)

★クラブ時代を象徴する人事
 2008年6月の会長交代は、日本サッカー協会の歴史に一つの転換点を刻むものではないかと、ぼくは思っている。端的に言えば、実業団時代が終わりクラブの時代が始まっていることが、会長人事に表われたのである。
 犬飼基昭新会長は、浦和レッズを背景にJリーグ専務理事になり、Jリーグを土台に協会会長になった。
 慶応出身だが慶大閥で足場を築いたのではない。三菱出身だが実業団(会社チーム)を背景に選ばれたのではない。初めてのJリーグ出身、クラブ出身の会長である。
 日本のサッカーは、大学リーグ中心の時代から、実業団が強くなった時代に移り、Jリーグができてからクラブが中心の時代に入った。そのクラブ時代の始まりを犬飼新会長が象徴している。

★川淵前会長は実業団出身
 「川淵会長は、どうなんだ」という声が聞こえてきそうである。たしかに、川淵前会長は、Jリーグを創設し、Jリーグを発展させるのに貢献した。しかし、クラブ組織を作ったことはないし、運営したこともない。
 川淵前会長がサッカー界に役員として登場したときの足場は古河電工だった。
 Jリーグの前身である日本サッカーリーグ(JSL)は、1965年に実業団チームが集まって結成された。そのときの中心は古河電工だった。川淵前会長は、古河電工の選手として活躍し、古河電工を代表してJSLと日本サッカー協会の役員になった。そういう目で見ると、川淵前会長は実業団時代の申し子だったということもできる。。
 実業団時代にサヨナラしてJリーグ時代を作ったのは、川淵前会長の功績の一つだが、歴史的に見ると、実業団出身の最後の会長だった、ということになるかもしれない。

★歴史の転換点を刻む
 日本サッカー協会の歴史を振り返ってみると、役員の交代が時代の変わり目を刻印しているときがある。
 1921年(大正10年)に大日本蹴球協会が結成されたときの中心は東京高師(現在の筑波大)だった。簡単にいうと学校の教員が中心だった。
 1929年(昭和4年)の役員改選では、東大、早大などの大学チームOBが高師勢を圧倒し、大学リーグ中心の時代が役員構成に反映された。
 1976年(昭和51年)に野津謙会長をはじめ旧世代の首脳部が総退陣し、古河電工の長沼健さんたち若手が協会を動かすようになった。大学時代から実業団時代への転換だった。
 今回の川淵-犬飼の政権交代は、おだやかな人事のように見えるが、後になってみると、日本サッカーの転換点として記憶されることになるのかもしれない。

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サッカー日誌 / 2008年07月15日


犬飼新会長に何を期待するか?


日本サッカー協会の政権交代(中)

★「操り人形」にはならない
 「犬飼さんは川淵さんの傀儡(かいらい)になるんでしょうかね?」
 日本サッカー協会の新会長に犬飼基昭さんが決まると、ある週刊誌の記者から、こんな質問を受けた。「キャプテン」と称した川淵三郎前会長は、強烈な個性で、ばりばり仕事をして来た。その勢いで、名誉会長になっても、後任者を「操り人形」にして「院政」を敷くのではないか? そういう質問である。
 「そんなことはないだろ」というのが、ぼくの答えだ。
 「院政」を敷くのは、そう簡単ではない。平安時代に白河法王の院政が続いたのは、旧勢力の藤原氏に対抗する地方の新興勢力を背景にしていたからで、支える背景がなければ院政は続かない。後任者が新しい勢力を背景にし、しっかりした識見と実行力を持っていれば、そうそう前任者の言いなりにはなるはずはない。
 
★劣らぬ個性と実行力に期待
 ぼくは、犬飼新会長の人柄や能力を個人的には知らない。
 しかし、マスコミの報道を見る限り、経歴や実績からみて期待はできそうである。
 三菱の現地法人の社長として欧州で仕事をした経験がある。そのときに、欧州のクラブ経営の実際を勉強したという。PR会社の作文のような理念を振りかざすのではなく、地域の現実に則した仕事ができるだろう。
 浦和レッズの社長としても、実績を残している。一時は二部落ちを経験したチームを立て直し、自分の出身地でもある地元浦和に貢献するクラブ作りをめざした。志は大きく、実行は地についている。
 個性と実行力は前任者に劣らないのではないか?
 そして、地域のクラブという新しい勢力を背景にしている。 

★豪腕を地方クラブ育成に
 いいウワサだけが耳に入っているわけではない。
 犬飼新会長をよく知っている人からは、心配する声も聞いている。浦和レッズの社長としても、Jリーグの専務理事としても、仕事ぶりが強引だったという話である。
 しかし、思い切った仕事をするには強引さも必要だ。問題はその豪腕を何のために、どう使うかである。
 これからの日本サッカー協会の重要な課題は、全国各地域のサッカークラブを、どう育てていくかである。まず、そのために実情を調べた上で綿密な計画を立て、経験を生かして豪腕を振るって欲しい。
 もっとも、いちばん最初の仕事は事務局の活性化だろう。どうも、最近のサッカー協会の事務局は、組織が大きくなって、お役所のようになっている。

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サッカー日誌 / 2008年07月14日


犬飼新会長をめぐる報道合戦


日本サッカー協会の政権交代(上)

★朝日のスクープが的中
 日本サッカー協会会長の交代をめぐるマスコミの報道競争は興味深かった。7月2日に次期役員候補推薦委員会が開かれた翌日付朝刊で、朝日新聞は「次期会長に犬飼基昭氏」と一面で特報。他の新聞は「小倉副会長有力」としたところが多かった。最終的に12日の評議員会で犬飼新会長が承認されたから、朝日のスクープが的中した。
 朝日の特報は、ぼくにとっては意外ではなかった。「犬飼じゃないか」という情報を耳にしていたからである。海外で行われた国際会議に、川淵キャプテン(会長)がJリーグ専務理事の犬飼氏を帯同した。その時点で犬飼新会長説が一部で囁かれていたのである。
 逆に小倉有力説が報道されたのは意外だった。それよりもずっと以前に、小倉純二副会長は辞退したという確実な情報を得ていたからである。この時点で小倉説が流れたのは、意図的な情報操作ではないか、とさえ思った。
 
★週刊誌では大仁副会長の昇格説 
 一般紙が報道する前から、週刊誌などでは、いろいろな憶測が飛び交っていた。
 副会長の中から昇格させるのが、ふつうなら順当なところである。小倉副会長の人柄と能力を買って推す人が多い。しかし、小倉氏はFIFA理事の仕事に専念したいと辞退した。Jリーグ・チェアマンの鬼武健二氏も、就任して間もないJリーグの仕事を続けたいと辞退した。釜本邦茂氏は国際的な名選手だったからネームバリューは十分だが、前回の会長選で川淵キャプテンの続投に反対したから、はずされるだろう。そうなると4人の副会長で残るのは女子サッカーやフットサルを担当していた大仁邦弥氏だけである。大仁氏もその気になっている。川淵キャプテンは、大仁を後任にして、名誉会長として院政を敷くつもりだ。
 これが、ある週刊誌の憶測記事だった。
 
★内部の投票で選考?
 6月の理事会で、後任役員候補推薦委員会を設けることを決め、川淵会長が自ら、その委員長になった。そのときも大揉めだったという報道もあった。 
 推薦委員会で委員長が特定の人物を後任に推そうとしたので、投票をして役員の意向を確かめるべきだという意見が出たという。小倉説がマスコミで復活したのは、投票で一番人気だったからだろうか? と、これは、あまり根拠のない、ぼくの憶測である。釜本、大仁説が出なかったのも、投票の結果が影響したのだろうか?
 こうして、消去法で4人の副会長の名前が消えた。その結果、副会長でない犬飼氏が浮上した。ぼくは、結果的には「いい人選だった」と思っている。
 犬飼氏の名前が出たとき、ある週刊誌の記者が電話で意見を聞いてきた。「犬飼さんは川淵さんの傀儡(かいらい)になるんでしょうか?」


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サッカー日誌 / 2008年07月07日


「箱根を変えるな」


梅田明宏『スポーツ中継』(現代書館)を読んで(下)

★イベントの本質を伝えよう
 『スポーツ中継』は、サッカーだけの本ではない。ほかのスポーツの話もいろいろ出てくる。
 正月の箱根駅伝は、テレビ中継の歴史の上で非常に重要な出来事だった。その話にも、かなりのページが割かれている。
 日本テレビのプロデューサーだった坂田信久さんは、この中継を始める前に「箱根を変えてはいけない」とスタッフに言い続けてきたという。
 箱根駅伝には、長年、培われてきた伝統があり、参加してきた人たちの歴史があり、いま走っている人の戦いがある。そういう、いろいろな人びとの「思い」が、このイベントの本質を形作っている。それを、番組を作る側が、いい映像ををつくりたいと思うあまりに、あるいは視聴者受けを狙うあまりに、変えて伝えてはいけない、ということだろう。

★過剰な演出が増えている
 テレビは、おきている出来事をそのまま見せてくれているような錯覚を、見る者に与える。しかし、実際には生中継であっても「作られた映像」である。
 サッカーの試合の場合、最近では十数台のカメラがプレーを追っている。その映像の中から、ディレクターが、一つの映像をつぎつぎに選び取り、組み合わせて一連の映像にして視聴者に送り出す。組み合わせ方によって、視聴者の受ける印象は非常に違う。中継映像は、ディレクターたちの主観を通して伝えられるものである。
 新聞やラジオでも同じようなことはある。純粋の客観報道は不可能である。しかし、テレビの場合は、映像が生々しいだけに、錯覚の程度が、はるかに大きい。
 それどころか、最近のスポーツ中継は、タレントを動員したり、アナウンサーが絶叫したりと、演出が極端になってきている。
 
★テレビ中継とは何か
 演出のないテレビのスポーツ中継はない。しかし、その演出が何のために行われているのかは問題である。
 「箱根を変えるな」という言葉は「演出をするな」という意味ではない。箱根駅伝の本質を伝えるような演出をしろといいう意味だろう。
 そういうことを視聴者が理解するには、テレビ中継のいろいろな面を知る必要がある。電波中継やスロービデオなどの技術、映像をつなぐスイッチングの技法、、番組編成、スポンサーとの関係など……。
 梅田明宏さんの『スポーツ中継』は、テレビ中継のいろいろな側面を、歴史を追い、人物を追って紹介しながら、テレビ中継とは何かを考えさせる。
 サッカーの中継に不満を並べる前に読んでおくべき本である。

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サッカー日誌 / 2008年07月05日


高校選手権と民放テレビの真実


梅田明宏『スポーツ中継』(現代書館)を読んで(中)

★坂田信久さんの大きな仕事
 サッカーの高校選手権を日本テレビを中心とする民放グループで引き受けるようになったのは、プロデューサーだった坂田信久さんの大きな仕事だった。『スポーツ中継、知られざるテレビマンたちの矜持』は、この話に、かなりのページを割いている。
 高校サッカー選手権は、毎日新聞社主催で、戦前の中等学校大会から長年、関西で開かれていた大会である。それを1971年から日本テレビを中心とする民放テレビが引き受け、1976年に開催地を関西から首都圏に移した。これは、その当時のサッカー界では、いろいろ物議をかもした「事件」だった。
 著者の梅田明宏さんは、その間の秘話を坂田さんから詳しく取材しただけでなく、当時の関係者をしらみつぶしに訪ねて裏付けを取っている。だから書いてある事実に、ほとんど間違いはない。

★電通、TBSがからむ放映権獲得競争
 正月の高校サッカーのテレビ放映権をめぐって、1960年代の後半に日本テレビ、TBS、電通が絡んで複雑な動きがあった。それぞれ高校サッカーを将来有望なソフト(番組)とみて、権利獲得を争ったのである。
 そのころ、東京のテレビ各局は、全国各県の地方局を系列下に置いて全国的なネットワーク作りを急いでいた。高校サッカーは、各地で予選をし、それが全国大会に結びつく。民放テレビの全国ネット系列化には、うってつけのイベントだった。
 坂田さんは、いろいろな努力をして、日本サッカー協会や高校側に働きかけ、放映の権利を獲得した。そして、その中継の全国ネットワーク化に成功した。
 そういう背景があるから、高校サッカーの民放テレビによる全国中継はテレビの歴史の上でも重要な出来事だといえる。

★サッカー協会の窮状を救う
 実は日本サッカー協会にとっては、テレビ側の申し出は「渡りに舟」だった。
 高校選手権は、毎日新聞が長年にわたって関西で主催していたが、1965年度を最後に手を引いた。その後、サッカー協会が、財政面でも、運営面でも、非常に苦しい思いをしながら、独力で開催しなければならない破目になっていた。そのときに、民放テレビが争って引き受けたいと申し出てきたのである。民放テレビの動きが、サッカー協会の窮状を救ったわけである。
 この問題については、坂田さんとぼくが、研究会でいっしょに話をしたことがある。2007年6月29日、筑波大学附属高校の中塚義実先生が主宰している「サロン2002」の月例会のときである。「サロン2002」のホームページで、その記録を見ることができる。関心のある方は『スポーツ中継』の本とともに、ご覧いただきたい。

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サッカー日誌 / 2008年07月04日


坂田信久さんが主役の本


梅田明宏『スポーツ中継』(現代書館)を読んで(上)

★テレビを通じてサッカー興隆の基礎作り
 サッカーが中心テーマではないが、最近出た本を1冊取り上げたい。『スポーツ中継』というタイトルのノン・フィクションである。
 日本テレビのスポーツ中継がテーマだが、歴史を追ったストーリーの主役は坂田信久さんである。坂田さんはヴェルディの元社長で、現在は国士舘大学教授だが、日本テレビのディレクター、プロデューサーだったころに、プロ野球、箱根駅伝、世界陸上など、いろいろなスポーツで、すぐれた仕事を残している。テレビ・スポーツの世界で、文句なしに歴史を作った人だと思う。
 しかし、なんといっても、サッカーについての功績は、もっとも大きい。読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)、高校サッカー、トヨタカップなど、テレビを通じて、現在の日本サッカー興隆の基礎を築いた仕事をしてきている。

★テレビを志望した動機
 この本のはじめのほうに、坂田さんがテレビ会社に就職した動機の話が出てくる。
 東京教育大学(現筑波大学)体育学部2年生のときに、デットマール・クラマーさんが大学に来た。クラマーさんは、1964年東京オリンピック日本代表チーム強化のために招かれたドイツ人のコーチである。1960年から1964年にかけて日本代表チームをコーチするほか、全国各地を回って実技指導と講演をした。
 教育大学での講演のなかで、クラマーさんは「教師もすばらしい仕事だが、報道機関もサッカー発展のために重要だ」と話した。教育大学の学生は大半が、学校の先生をめざしている。坂田さんも体育教員志望だった。
 しかし、クラマーさんの話を聞いて「マスコミの仕事もおもしろそうだ」と思った。それが日本テレビの入社試験を受けた動機だったという。

★クラマーがテレビを変える
 「風が吹けば桶屋が儲かる」と似たような話だが、クラマーさんが日本のテレビ・スポーツ中継を変えたのだと思った。クラマーさんが教育大学で講演しなければ、坂田さんはマスコミを志望しなかっただろう。坂田さんが日本テレビに入社しなければ、トヨタカップも、高校サッカーも、箱根駅伝も、民放テレビによって、あれほどみごとに中継されることはなかっただろう。トヨタカップや高校サッカーの中継がなければ日本のサッカーの興隆は、ずっと遅れただろう。そういう、いきさつが梅田明宏さんの『スポーツ中継』の中にくわしく描かれている。
 読売新聞に勤めていたぼく(牛木)と坂田さんは長い付き合いで、サッカーに関する多くの仕事に、いっしょにかかわってきた。坂田さんが日本テレビに入社したのは、ぼくにとっても幸運だった。


 
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