サッカー日誌 / 2015年09月30日


東京五輪2020への追加競技


IOCに迎合した日本案

5競技18種目を一括提案
(9月28日、大会組織委員会)

★野球・ソフトボールなど
 2020年東京オリンピックで実施するスポーツは、すでに28競技が決まっているが、さらに数競技を追加できることになっている。
 その候補として日本が提案する競技を、大会組織委員会が決定した。
 「野球・ソフトボール」など5競技18種目である。
 これで「決まり」というわけではない。
 開催都市の東京からの希望として、主催者のIOC(国際オリンピック委員会)に提案するもので、最終的にはIOCが2016年8月の総会で決定する。
 しかし、開催都市が希望しないスポーツを追加することは考えられないので、今回、落とされたボウリング、スカッシュ、武術が復活する望みはないだろう。
 ぼく(牛木)は、東京が強く希望する競技は「野球・ソフトボール」だと予想していた。

★空手とテコンドー
 男女の種目数を同じにするのがIOCの方針なので、野球を男子種目、ソフトボールを女子種目として、二つを1競技2種目として扱う。野球は日本で、もっともポピュラーなスポーツである。また女子のソフトボールは、日本がメダルを取れる可能性が高い。
 そういうわけで「野球・ソフトボール」の実施を求めるには当然である。
 空手は日本古来の競技だし、各国に多くの道場がある。だから、日本としては加えたいところである。
 しかし、すでにオリンピック競技に入っているテコンドー(韓国の空手)と競合するので、IOCで認められない可能性がある。
 そこで「野球・ソフトボール」と「空手」の2競技だけを提案して「野球・ソフトボール」の採用を確実にするとともに空手採用の可能性を残す。
 それが、日本の方針だろうと予想していた。

★テレビとIOCの圧力
 ところが…。
 「野球・ソフトボール」と「空手」とともに、スケートボード、クライミング、サーフィンも加えての提案となった。
 スケートボード、クライミング、サーフィンは、それほど競技人口が多いわけではない。日本に縁の深いわけでもない。
 それを加えたのは、なぜだろうか?
 報道によるとIOCの意向に迎合したらしい。
 ローラースケートについては、元選手だったサマランチ元会長の影響力があり、サーフィンについては、国際陸連のネビオロ元会長の秘書だった人物がコンサルタントを務めて運動したという(読売)。
 また、スリリングな動きが多いテレビ向きのスポーツを加えることを、IOCが求めていたという。
 またも「権威とテレビへの迎合」である。
 開催都市からの提案としては「野球・ソフトボール」と「空手」の2競技にしぼるべきだったと思う。


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サッカー日誌 / 2015年09月28日


新国立競技場問題の責任者


JSCを懲戒せよ!

第三者委員会報告書公表
(9月24日 文部科学省)

★河野理事長の責任を明記
 「新国立競技場」建設計画が白紙撤回になった問題について、その経緯を検証する文部科学省の第三者委員会が、報告書を発表した。
 よく調べた客観的な報告だと思う。
 ポイントは、この問題を起こした責任者は誰かである。
 報告書は、日本スポーツ振興センター(JSC)の河野一郎理事長の責任を明記している。
 これは重要である。
 マス・メディアは、文科省の担当局長や文部科学大臣の責任を大きく取り上げていた。
 担当局長は更迭され、下村博文文科相も内閣改造のさいに再任されないことになった。
 しかし、官庁の局長や大臣は、しばしば変るポジションである。問題が起きたときに、たまたま、責任をとる立場にあったのが「不運」だったということもできる。

★10億円以上の無駄遣い
 実質的に責任を負うべき個人は、国立競技場の改装を担当し、推進した実務部門の責任者である。
 それが、JSCの河野一郎理事長である。
 河野理事長も、9月いっぱいの任期切れのあと退任するという。
 大きな問題を起こした担当部門の責任者だから、再任されないのは当然である。
 しかし、任期満了を理由に辞めるのであれば、責任をとったことにはならない。
 新国立競技場計画は、報道された限りでも、合計10億円以上のムダで不当なお金を使っている。
 設計公募に要した費用、採用した案のデザイナーに支払ったギャラ、建設会社に支払った見積もり経費などである。

★ラグビー・トリオの権力
 一般の企業で、これほどの損害を出した責任者を「退職」で済ませることが、あるだろうか?
 懲戒解雇して退職金を出さないのが、ふつうではないだろうか?
 さらに、背任や損害賠償が問題になるのではないか?
 そういう河野理事長の責任を、これまで、マス・メディアは指摘してこなかった。
 形式的な文部大臣の責任を見出しに掲げながら、実務の責任者を追及しないのは不思議である。
 河野理事長は、ラグビーのメディカル・トレーナーの出身である。
 背後には、同じラグビー出身の森喜朗元首相、遠藤利明オリンピック担当相がいると言われている。
 ラグビー出身トリオとして、スポーツ界を握っていた権力に、マス・メディアが遠慮していたのではないかと疑われる。



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サッカー日誌 / 2015年09月26日


クラマーさんの功績


Jリーグの基礎を提案

90歳でガンのため死去
(9月17日 ドイツ・ライトインビンクル)

★読売新聞から知らせ
 デットマール・クラマーさんの死去は、読売新聞社からの電話で知った。
 その時点では、外国通信社による「未確認情報」だったが、確認されたら「追悼原稿を」という依頼だった。
 間もなく、FC バイエルン・ミュンヘンが発表し、日本サッカー協会もドイツ・サッカー協会に確認して公表した。
 90歳という年齢だし、前年に入院されたという情報を得ていたから、意外ではなかった。なにごとにも終わりがあるのは、やむを得ない。
 日本代表チームを指導して、1964年東京と1968年メキシコのオリンピックの成果に導いたことは、新聞がニュース記事のなかで取り上げるだろう。
 だから、当時のサッカー担当記者だったぼく(牛木)としては、それ以外の功績を紹介したいと思った。

★日本サッカーの構造
 日本代表チーム指導以外の功績としては、日本のサッカーの基礎技術を大きく変えたことがある。
 キックやヘディングのフォームと、その指導法である。
 また、コーチの公認資格制度の導入を推進し、コーチングコースを実施した。これも画期的なことだった。
 以上は、当時の西ドイツ・サッカー協会の施策を日本に導入したものだった。
 読売新聞へ寄稿する追悼記事では、それ以外の功績に焦点を当てたいと思った。
 それは、日本サッカーの「構造改革」の提案である。
 クラマーさんは、1960年に来日してすぐに、日本のサッカーの二つの欠陥に気がついた。
 一つは、当時の日本のサッカーのトップレベルが、大学と実業団(企業チーム)に分かれていて、強いチーム同士の対戦が少ないことである。

★リーグ戦の提唱
 クラマーさんが気付いた日本のサッカーの構造の欠陥が、もう一つある。
 当時の日本の選手権大会が、すべて短期間の「勝ち抜きトーナメント」で、総当りの「リーグ」でないことである。
 クラマーさんは、日本に来たとき、すぐに、この問題に気付いた。 
 そして、ことあるごとに「勝ち抜き戦でなく、リーグを」と説いた。
 それが、実を結んだのが、クラマーさんが帰国した翌年にスタートした「日本サッカー・リーグ」(JSL)である。
 JSLが「Jリーグ」につながった。
 そういうわけで、いまの日本のサッカーの隆盛は、クラマーさんの提案からはじまっている。
 読売新聞への寄稿(9月19日付け、スポーツ面)は「構造改革」への貢献にしぼって書いた。


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サッカー日誌 / 2015年09月24日


2015年度サッカー殿堂入り(6)


数字に表れない功績を

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★投票による競技者表彰
 日本サッカー殿堂の表彰は2種類ある。
 競技者(選手)表彰と特別表彰である。
 2015年度に日本サッカー殿堂入りした4人は、特別表彰だった。今回は「競技者表彰なし」だった。
 競技者表彰はプレーヤーとしての活躍が対象である。
 競技者表彰には難しい問題がある。
 殿堂委員会で候補者を推薦し、協会役員とマス・メディア関係者(サッカー担当記者など)によるメンバーが投票して、一定割合以上の票を得た者が選ばれる。
 まず、投票対象になる候補者を選ぶ基準が問題である。
 ある程度、評価の定まった者を候補者にする必要がある。
 現役のプレーヤーだと、その時点での一時的な活躍だけで評価され兼ねない。
 そのために「物故者を除き、60歳以上になってから」という規定がある。これが、なかなか、やっかいである。

★若い世代が投票
 プレーヤーが現役を引退するのは30~40歳代である。
 60歳以上となると、引退から20年以上たっていて、現役時代の活躍は忘れられかけている。
 一方で、投票するマス・メディアのサッカー担当記者の多くは、候補者の現役時代を見ていない若い世代である。
 というわけで、投票する人の多くは、候補者の現役時代のプレーを知らない。
 そのために、投票の根拠を、記録に残っている「数字」に頼ることになる。
 これが問題である。
 新聞社のスポーツ記者だったときに「野球の殿堂」入りの投票をしたことがある。
 野球の場合は「数字」を参考にしても、それほど見当違いにはならない。投手であれば200勝、通算防御率、打者であれば2000本安打、通算打率などである。

★選考基準と方法を見直そう
 サッカーでも、得点数、アシスト数、出場試合数などの「数字」はあるが,野球の場合ほどには、業績を反映しない。 
 中盤や守備のプレーヤーの貢献は数字になりにくい。
 それが「競技者表彰」を難しくしている一因ではないか?
 サッカーでは「数字にならない功績」を重視する必要がある。
 現在の時点で「競技者表彰」をするとすれば、創設50周年を迎えた日本サッカーリーグ(JSL)のころのプレーヤーが対象だろう。
 JSLのころのプレーヤーの業績を、当時を知る人によって、改めて検討してはどうか。
 JSL当時、日本のサッカーを変えたプレーヤーで、殿堂入りの候補になっていない人が、たくさんいるように思う。
 選考の方法と基準を見直して「数字にならない功績」を、歴史に残して欲しい。
(この項終わり)


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サッカー日誌 / 2015年09月22日


2015年度サッカー殿堂入り(5)


鬼武健二さんの思い出

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★広島出身、関西で活躍
 2015年度に日本サッカー殿堂入りした4人のうち、2人は慶応出身、2人は広島出身だった。
 慶応は松丸貞一さんと二宮寛さん、広島は下村幸男さんと鬼武健二さんである。
 慶応も、広島も、日本のサッカー史の中で重要な役割を果たしてきている。
 ぼく(牛木)個人としては、4人のなかでは、鬼武さんとの付き合いが、もっとも少なかった。
 というのは、鬼武さんは、広島出身で、主として関西のヤンマーで活躍されたからである。
 ぼくは、東京の新聞社のサッカー担当記者だったから、鬼武さんとの接触の機会は少なかった。
 しかし、早大のすぐれたプレーヤーとして、また、黄金時代のヤンマーの監督として、取材する機会はあったし、お世話になったこともある。

★多くの分野でユニークな功績
 今回の殿堂入りを機会に鬼武さんの業績を振りかえって、その業績が多くの分野にわたっていて、しかも、それぞれの分野でユニークな仕事をしていることを、改めて認識した。
 その中でも、1967年から1978年までヤンマーの監督を勤めていたときの業績は大きい。
 12年間に日本リーグで3回、天皇杯で3回優勝、リーグで
174試合に93勝している。日本リーグの最多勝記録である。
 当時のヤンマーは「新興チーム」だった。
 1965年に「日本サッカーリーグ」を創設するとき、関西からは手を挙げるチームがなかった。
 そこで、それほど有力チームではなかったヤンマー・ディーゼルに、無理に加盟してもらったのである。
 そのため日本リーグ1年目の1965年は8チーム中7位、2年目の1966年は最下位と成績は悪かった。

★ブラジルから選手を招く
 3年目の1967年に鬼武さんが監督になった。
 そして、釜本邦茂などの新人を多量に補強した。
 また後期からブラジル出身のネルソン吉村を加えた。
 ブラジル選手の移入は、日本のサッカーで初めての、画期的なことだった。
 この強化でヤンマーは5位にあがり、1971年にブラジルからジョージ小林も加わって、初優勝する。
 こういう成果は、当時のヤンマーのオーナーだった山岡浩二郎さんと鬼武監督の協力によるものだったと、ぼくは推察している。
 そのほかにも、鬼武さんは、セレッソ大阪の創設、Jリーグ・チェアマンのときの若手育成システム作りなど、いろいろな立場で、それぞれユニークな仕事を残している。
 そういう業績の裏にあったはずの苦労が、あまり知られていないように思う。
 殿堂入りのパーティーの席上で「自叙伝を書いて歴史に残すべきだよ」と言ったら「そんな」と苦笑いしていた。


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サッカー日誌 / 2015年09月20日


2015年度サッカー殿堂入り(4)


二宮 寛さんの思い出

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★バイスバイラーを紹介
 2015年度に日本サッカー殿堂入りした4人のなかで、二宮寛さんには、とくに深い関わりがある。
 メキシコ・オリンピックの日本代表チーム主将だった八重樫茂生さんの著書『サッカー』の出版記念会を開いたとき、パーティーの席上で、当時、三菱重工サッカー部の監督だった二宮さんが「自分も本を出したい…」と話しかけてきた。
 『サッカー』は、八重樫さんがデットマール・クラマーから教えられたノートをもとにして、ぼくが協力してまとめ、講談社から出版したものだった。
 二宮さんはへネス・バイスバイラーから学んで、その詳細なノートを取っていた。それをもとに本を書きたいということだった。
 それがきっかけで、二宮寛、バイスバイラー共著『サッカーの戦術』を、同じ講談社のスポーツシリーズで出すことになった。

★『サッカーの戦術』
 二宮さんは、週に1~2度くらいの割合で、ぼくの自宅に車で通ってきて、2人で原稿を検討した。
 二宮さんの原稿は、内容的には、ほぼ完全で、ぼくは専門的すぎるところを、シロート向けの文章に直す程度だった。
 八重樫の『サッカー』は、基礎技術が中心だったので、二宮さんの本は『サッカーの戦術』とした。
 このタイトルは、ぼくが講談社の編集者と相談してつけたものだが、内容には戦術だけでなく、基礎技術も含まれている。
 むしろ、基礎技術について、クラマーの指導とバイスバイラーの指導の違いを明らかにしたところに特徴があったということもできる。

★クラマー方式との違い
 クラマーは、インサイドキックやヘディングで足首や首を固定することを指導した。
 そのころの日本のサッカーが、あまりにも「正確さ」を欠いていたので、ボールを正確に受け渡しするための技術を強調したのである。
 それに対して、二宮・バイスバイラーの本では、基本技術の「変化形」を強調した。
 足首を動かすキックや方向を変えるヘディングを取り上げた。
 クラマーもバイスバイラーも、ともに当時のドイツのサッカーを教えたのだから、本質的に大きな違いがあったわけではない。
 しかし、クラマーの指導が日本のサッカーを圧倒的に支配していたなかで、あえて、そのアンチテーゼを求め、それを三菱のサッカーで結実させたのは、二宮寛の、もっとも大きい功績だと思う。


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サッカー日誌 / 2015年09月18日


2015年度サッカー殿堂入り(3)


下村幸男さんの思い出

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★「第3の動き」
 2015年度の日本サッカー殿堂に表彰された4人うちの1人が下村幸男さんだった。
 下村さんは、ぼく(牛木)と同じ1932年(昭和7年)生まれだが、誕生日は1月25日で、6月12日生まれのぼくより、年齢的には、半年、先輩である。
 ぼくがサッカー担当記者になったころ、日本代表チームのゴールキーパーだった。
 しかし、ぼくには、選手としての活躍よりも、指導者としての業績が記憶に残っている。
 1965年から始まった日本サッカー・リーグでは、東洋工業(のちのマツダ、現在のサンフレッチェ広島)の監督として、初年度から4年連続優勝した。
 そのころに話題になったのが「第三の動き」である。

★ほとんど戦術練習
 2人一組でショート・パスで攻め込む。 
 そのときに、直接にはパスに関係していない「第三の男」が空いたスペースに走り込む。
 それが「第三の動き」である。
 そう、ぼくは理解していた。
 現在の用語で言えば「フリーランニング」だろう。
 日本リーグ4連覇のころ、下村監督に「東洋工業では、どんな練習をしているのですか?」と質問したことがある。
 「ほとんど、第三の動きの練習ですよ」という答えだった。
 そのころ、こういう質問をすると「走り込んでいる」とか、「体力を鍛えている」と答える指導者が多かった。

★企業チームの練習
 だから、下村監督が「ほとんど戦術練習ばかりしている」とこたえたのに、ちょっとびっくりした。
 技術の練習や体力トレーニングは、もちろん重要である。
 しかし、それは個人でもできることである。
 グループ戦術の練習は、チームを組まなければできない。
 企業チームでは、選手たちは会社勤務のあとでグラウンドに集まるのだから、一緒に練習する時間は限られている。
 個人でできる技術練習やコンディショニングは選手たちが自主的に行ない、みなが集まることの出来る貴重な時間は、主として戦術練習に当てたのだろうと推測した。
 半世紀前の東洋工業のサッカーについて、下村さんに、じっくり話してもらう機会を得たいものだと思っている。



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サッカー日誌 / 2015年09月17日


2015年度サッカー殿堂入り(2)


松丸貞一さんの思い出

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★戦後の協会幹部として
 2015年度の日本サッカー殿堂の表彰に、松丸貞一さんが選ばれた。
 戦前、慶応大学が関東大学リーグに4連覇したときの監督であり、ヨーロッパの新しいサッカーを取り入れ,日本に紹介した人である。
 その経歴と業績からみれば遅すぎる表彰である。
 実は、ぼく(牛木)は、生前の松丸さんに親しくしていただいたにも関わらず、その功績を認識していなかった。
 ぼくがサッカー記者になったころ、松丸さんは、日本サッカー協会の審判担当の常務理事で審判委員長だった。
 審判は、うまくいって当たり前で、ミスがあれば厳しく批判される。松丸さんは、そういう、損な仕事の責任者だった。
 サッカー担当記者としては、ふだんは審判に関心がなく、ミスが起きたときだけ取材するという関係だった。

★四十雀クラブ
 そういうわけで、新聞記者にとっては、それほど重要な取材先ではなかった。
 しかし、個人的には親しくしていただいた。
 「四十雀倶楽部」というチームがあった(いまでもある)。
 当時は、40歳以上になった協会役員のチームだった。
 松丸さんは、四十雀クラブの運営に熱心だった。
 ときどき、サッカー担当記者の寄せ集めチームと「遊び」の試合をした。
 必ずしも、サッカー出身者ではない記者たちに、サッカーの面白さを知ってもらおうという趣旨である。
 ぼくは、若いころは「記者クラブ」のメンバーとして、松丸さんの「四十雀クラブ」に遊んでもらった。
 40歳になると「四十雀クラブ」のほうに入れてもらえた。
 つまり、松丸さんを相手に試合をしたこともあり、松丸さんと一緒にプレーしたこともある。

★「海行かば」を歌わせる
 当時は、日本のチームが海外に出ることは珍しかった。
 ユース代表がアジア・ユース大会に参加するときに、三菱のクラブで、協会役員との昼食会の形で「壮行会」が行われた。
 なぜ「昼食会形式」だったかというと、若い選手たちに、ナイフとフォークの使い方を教えるためだった。
 外国に行けば、ナイフやフォークで食事をしなければならないだろう。「そのために」という目的である。
 昼食会の最後に、松丸さんが立って、全員に「海行かば」を歌わせた。
 「海行かば」は、戦時中に出征兵士を送るときに歌われた歌である。戦死を恐れないで戦おうという歌詞である。
 松丸さんは「外国に行っても恐れずに戦え」というつもりだったのだろう。
 洋食の食べ方を教えなければならない戦後派の若者に歌わせるのは「時代離れ」で「場違い」の感じだった。



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サッカー日誌 / 2015年09月16日


2015年度サッカー殿堂入り(1)


日本を変えた独自の業績

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★「記録」では表せない
 日本サッカー殿堂の表彰が9月10日(木)に行われた。
 9月10日は、日本サッカー協会の創立記念日である。表彰式のあと記念のパーティーもあった。
 2015年度のサッカー殿堂掲額者は、松丸貞一、下村幸男、二宮寛、鬼武健二の4人だった。
 4人とも、ぼく(牛木)が、新聞記者だったころに、選手あるいは役員として取材した相手であり、また個人的にも、お付き合いいただいた方である。
 だから、その業績は十分に知っているつもりだったが、表彰式で配られた資料を見て、改めてその功労を認識した。
 4人とも、日本代表選手として活躍し、日本代表チームの監督を勤め、また単独チームの選手、監督として優勝に貢献している。そういう業績は「記録」として残っている。
 しかし、数字や記録には書き表せない「独自の仕事」を日本のサッカーに残している。それが重要だと思った。

★新しい技術と戦術を紹介
 たとえば、松丸貞一さんは、戦前に慶応大学の監督として関東大学リーグで4連覇している。
 これは「数字」で残っている業績である。
 慶応の4連覇は、ドイツのオットー・ネルツの著書を「慶応サッカーのバイブル」として実行した結果だとされている。
 ネルツの本をドイツ語から翻訳したのは、慶応サッカー部の別のひとだが、それを生かして4連覇に結びつけた。
 と同時に、その当時のヨーロッパの新しい技術と戦術を日本に紹介した。
 自ら技術と戦術の解説書を書いている。

★功績の「中身」にスポット
 下村幸男さんは、日本リーグ(Jリーグの前身)のスタートのときに東洋工業の監督として4連覇した。
 これは「数字」に残っている業績である。
 当時の東洋工業は「第三の動き」が武器だった。
 2人がショート・パスをつないで、相手陣内に攻め込む。
 そのとき、パスに直接には関係していない「第三のプレーヤー」が、空いたスペースに走り込む。
 そこから、新しい展開が生まれる。
 それが「第三の動き」である。
 そういう「動き」が、それまでになかったわけではない。松丸さんの教えた「慶応のサッカー」でも、そういう「フリーランニング」が強調されていたらしい。
 それを意識的に取り入れ、4連覇として実らせたことが、下村監督の功績の「中身」だった。
 二宮寛さんと鬼武健二さんの功績にも、それぞれ「中身」がある。
 今回の表彰理由の解説では、数字だけでなく、その「中身」にスポットを当てていたのがよかった。
 いまから見れば、その中身は「当たり前」のことではあるが、新しいことを取り入れて成功したから、それが「当たり前」になったのである。


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サッカー日誌 / 2015年09月13日


ファン・バルコムの思い出


2つのJクラブの基礎作りに貢献

オランダで死去
(9月2日、東京都)

★読売クラブへの招聘
 フランツ・ファン・バルコムが、9月2日にガンで死去したという知らせを電話で受け取った。74歳だった。
 新聞社に知らせるべきだろうかと迷ったのだが「バルコムを知っている人は、それほどいないだろうから、新聞には載らないだろうな」と思って、そのままにしておいた。
 ところが、翌日の新聞各紙に「バルコム死去」の記事が掲載されていた。
 アルビレックス新潟が、マスコミに広報したらしい。
 日本のサッカーに対するファン・バルコムの貢献が、ぼくの予想以上に知られていることを改めて認識した。
 ファン・バルコムを日本に連れて来たのは、ぼく(牛木)である。
 1972年、当時、日本リーグの2部だった読売サッカー・クラブ(現在の東京ヴェルディ)のコーチとして、ドイツから招聘した。

★外国の血を入れる
 読売サッカークラブは、本格的クラブ組織として、また将来のプロ化を目指して、1969年に設立された。
 そのチームが「日本リーグ」(Jリーグの前身)の2部に上がったとき「これまでの日本のサッカーの枠のなかでやっていては、トップクラスの企業チームには勝てない。外国の血を入れよう」と、当時、読売新聞の記者だった、ぼくが提案して、外国人コーチを探すことになった。
 当時の西ドイツ西部サッカー協会のベッカー事務局長に人選を依頼して、推薦されたのが、フランツ・ファン・バルコムである。
 「高い給料は払えないから、有名でなくていい。自分でやってみせることのできる若い指導者が欲しい」
 これが、ベッカー事務局長に対する、ぼくの注文だった。
 ファン・バルコムは、オランダ人で、プロ選手として、最後はオーストラリアでプレーした。 

★アルビレックス新潟へ
 足の怪我でプレーヤーとしては挫折したため、指導者をめざし、ドイツのケルン大学のサッカー・コーチ養成コースで、ブンデス・リーガのコーチの資格を取った。
 しかし、もともとオランダ人で、国籍はオーストラリアになっていたため、なかなかドイツでは仕事がない。
 しかし、ユース・チームの指導などで実力を見せていたので、ベッカーさんが、ぼくに売り込んだのである。
 ファン・バルコムは、読売クラブで実績を作り、それをもとに、香港、インドネシア、中東で仕事をした。
 また、Jリーグが発足したとき、東京ヴェルディの松木安太郎監督を助けて優勝に導いた。
 そのあと、アルビレックス新潟設立のために紹介したのも、ぼくである。
 そういうわけで、ファン・バルコムについては、書ききれないほどの思い出がある。


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