サッカー日誌 / 2010年12月29日


スポーツ発展のカギとなった人物


日本フットボール学会シンポジウム
「日本フットボールのルーツを考える」
(12月24日 立教大学池袋キャンパス)


◇三つのフットボールを並べて
 「日本フットボール学会」という大学の先生方を中心とした学会があって、毎年、12月に総会を開いている。2010年度は2日間のイベントの最後に「日本フットボールのルーツを考える」というシンポジウムがあり、ぼくもパネリストとして協力した。
 フットボールはサッカーだけではない。ラグビーも、アメリカン・フットボールも、19世紀前半までさかのぼれば、もともと同根である。それが、どのようにして分かれ、それぞれ、どのようにして日本に入ってきたか。また、その移入の時期や方法の違いによって、その後の日本での発展が、どのように違ったか。そういうことをテーマにしたシンポジウムだった。
 サッカーとラグビーとアメリカン・フットボールにから一人ずつパネリストを出して、それぞれ20分ずつ説明し、そのあと司会者(中塚義実さん)のリードで討論した。
 三つのスポーツを同じ土俵に上げて考えてみようという試みはユニークで有意義だった。

◇日本サッカーのルーツを考える
 サッカーは明治の初期から日本へいろいろなルートで紹介されているが、本格的に導入され、普及し始めたのは、1903年(明治36年)から1904(明治37年)にかけてである。東京高師の生徒だった中村覚之助が指導書を編纂し、仲間を募ってチームを編成し、横浜外人クラブと日本最初の試合をした。それから急速に主として中学校(旧制)に伝わった。サッカーについては、ぼく(牛木)が、そう説明した。
 明治の初期から紹介されているのに、なぜ明治の後期になって、やっと広まり始めたのか? しかも太平洋戦争が終わった後まで、なかなか大衆のスポーツとして発展しなかったのはなぜか? そういうことについて考えを述べた。
 ラグビーについては、慶大出身の元日本代表選手で、フジテレビ・スポーツ局ゼネラルプロデューサー上田昭夫さんが話をした。ラグビーの日本への移入は1899年(明治32年)に英国留学から帰国した慶応義塾の田中銀之助が教員のクラークと共にチームを作ったのが始まりだとされている。

◇発展には志ある人物が不可欠
 アメリカン・フットボールについては、日本協会専務理事の金氏真さんが説明した。京都大学出身で鹿島ディアーズ監督として日本一を達成したことのある人である。アメリカン・フットボールの日本への導入は、ずっと遅れて1934年(昭和9年)だという。立教大学のポール・ラッシュという米国人教師が、米国育ちの松本瀧蔵・明大教授(戦後に衆議院議員)らの協力を得て大学リーグの組織を作った。しかし間もなく戦争が激化し、本格的な普及は戦後のことになった。
 ラグビーも、アメリカン・フットボールも、それぞれ以前から導入の機会はあったらしいのだが、ともに特定の熱意のある人物の努力で、はじめて普及への道が開けた。スポーツの発展には、志ある人物が不可欠であり、また、その人物の登場するタイミングが重要なのではないか、と思った。
 サッカーが、明治の終わりに中村覚之助という人物を得たのは幸いだったと思う。ぼくは覚之助の貴重な写真を映写して、及ばずながら、その功績を紹介しておいた。


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サッカー日誌 / 2010年12月21日


サッカー協会のガバナンス


スポーツ団体運営をめぐる法的諸問題
(12月18日 日本スポーツ法学会)

◇講演とシンポジウム
 日本スポーツ法学会という団体があり、ぼくは縁あって創立以来の会員である。特別に法律に詳しいわけではないが、12月の総会に、ほぼ毎年顔を出している。
 今回は「スポーツ団体の自立、自律とガバナンスをめぐる法的諸問題」というテーマで講演とシンポジウムがあった。「コーポレート・ガバナンス」という言葉があり、会社を正しく経営することについて、いろいろ議論がある。それをスポーツの団体に当てはめて考えてみようという趣旨だった。
 取り上げられた事例は高校野球と大相撲だった。高校野球では特待生の問題がからんで学生野球憲章の改正があり、大相撲では野球賭博や暴力団との関係が大きなニュースになったからである。
 しかし、アマチュアの高校チームだけが対象の高校野球連盟と、プロの力士とそのOBの親方による相撲協会は、それぞれ特別な団体である。
 日本サッカー協会のような一般的なスポーツ団体についても考えてみる必要があると思った。

◇利害関係者と社会的責任
 まず「誰のため」のガバナンスか、という問題がある。株式会社なら資本を出している「株主」のためだろうと思ったが、そう単純ではないようだ。会社は従業員を抱えている。また、その製品やサービスを買っている顧客がいる。株主に配当するために従業員を安い給料で酷使するようでは良い経営とは言えない。欠陥商品を製造して社会にばらまくのは悪い経営である。したがって、従業員をはじめ会社に利害関係のある人たち全体を見る必要があり、また企業の社会的な責任も考えなければならない。
 スポーツ団体の場合はどうだろうか? 
 日本サッカー協会は、地方のサッカー協会を通じて登録している多くのチームから成り立っている。だから、底辺の多くのチームに役立つような運営をしなければならない。日本代表チームが勝つことだけしか念頭になく、日本代表チーム強化のためにJリーグのシーズンを冬に持っていって雪国のチームを犠牲にするようなことを考えるようでは、良い運営(ガバナンス)とは言えない。

◇ガバナンスの責任者
 しかし、一方では日本代表チームの国際的活躍を期待している多数の国民大衆がいる。Jリーグの各クラブのサポータ―もいる。また、協会に登録しないでボールを蹴って楽しんでいる子どもたちもいるし、OBの草サッカーもある。そういう、いろいろな利害関係者に配慮し、サッカーを健全に普及させるのも、サッカー協会の社会的責任である。
 アマチュア主義を掲げる高校野球や、プロだけで運営されている大相撲と違って、サッカー協会はプロもアマチュアも包括しているから、ガバナンスは、より複雑である。
 ガバナンスの責任者は、どのようにして選ばれるのだろうか。会社の経営責任者は株主総会で選任されるが、その人は株主だけでなく他の利害関係者や広く社会に対しても責任を負わなければならない。それを監視する仕組みも必要である。日本サッカー協会の会長は、わけのわからない仕組みでコロッと代わった。権力者が独断専行しないように、チェック機能は働いているのだろうか。


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サッカー日誌 / 2010年12月19日


外国人居留地でのフットボール


日本の国土内で行われた最初のゲーム
(12月11日、12日。横浜開港資料館で調査)

◇居留地の新聞を調べる
 日本フットボール学会で行うシンポジウム(12月24日、立大池袋)の準備を兼ねて横浜開港資料館を訪ねてみた。
 幕末から明治中期にかけて横浜や神戸に外国人居留地があり、ここでいろいろなスポーツが行われていた。もちろんフットボールも行われていた。シンポジウムのテーマが「日本フットボールのルーツを考える」ということなので、日本の国土内でもっとも古くフットボールが行われた居留地について知識を確かめておこうと思ったわけである。
 横浜開港資料館には、居留地で発行されていた英語やドイツ語などの新聞が保存されている。複製を製本して開架式で公開されており、コピーをとることもできる。その中から「フットボール」についての記事を探し出せば、ある程度のことは分かる。ただし、保存されている新聞は、かなり膨大な量なので、その中からフットボールの記事を探し出すのは1日や2日でできることではない。

◇初期のルールは不明確
 実は、ラグビー史研究家の秋山陽一さんが、居留地の新聞を、すでに克明に調べておられる。その秋山さんにお話を聞いたことがある。2007年1月の「日本サッカー史研究会」にゲストとして来ていただいたのである。ぼくは、そのときに聞いた新聞名と日付のメモを持って行って原文を探してコピーしてきただけである。
 秋山さんが教えてくださった記事は、どれも正確に存在していた。そのころの新聞には、大きな見出しは付いていない。内外のいろいろなニュースを積木を並べるように詰め込んで掲載してある。その中からフットボールの記事を探し出すのは、積み藁の中から針数本を探し出すようなものだっただろう。ぼくは、改めて秋山さんの克明な努力に敬意を表した。
 居留地で初期に行われていたフットボールが、どのようなものであったかは、新聞記事では、はっきりしない。秋山さんは「ラグビー、あるいはラグビーに近いルールのフットボールだった」というご意見だったが、明確な根拠はない。

◇ルール統一以前のフットボール
 1866年(慶応2年)に「横浜フットボール・クラブ」が結成されたという記事が、もっとも古い。
 ラグビーの統一ルールを決めたイングランドの「ラグビー・ユニオン」(RFU)創設は、それより後の1871年(明治4年)だから、日本の国土で行われた最初のフットボールが、ユニオン・ラグビーのルールによるものでないことは明らかである。
 サッカーのルールを統一した「フットボール・アソシエーション」の創設は1863年だから、年代としてはサッカーだった可能性はあるが、そのだいぶ後になって「今年度はアソシエーション・ルールを採用することになった」という記事があるから、居留地初期のフットボールは、サッカーでもなかったと思われる。
 というわけで、明治初期の居留地のフットボールは、サッカーでもラグビーでもなく、ルール統一以前のもので、ルールは試合のつど、協議して決めていたのではないかと、ぼくは考えている。


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サッカー日誌 / 2010年12月18日


坪井玄道の功績を調べる


日本サッカーのはじまりに二重にかかわる
(12月10日 市川歴史資料館で調査)

◇日本の体操と卓球の元祖
 千葉県市川市にある市川歴史資料館に行ってみた。ここに坪井玄道の資料が保管されているというので一度、訪ねてみたいと思っていた場所である。
 坪井玄道は、日本にサッカーを紹介した功績で、日本サッカー殿堂に掲額されている。1885年(明治18年)に出版された「戸外遊戯法」という本のなかで「フートボール」としてサッカーを紹介している。また1902年(明治35年)に欧米スポーツ視察留学から帰国したさいに持ち帰ったサッカーの文献を、東京高等師範の生徒だった中村覚之助に翻訳・編纂させ、これが日本初の試合を行うきっかけとなった。つまり坪井玄道は、二重に日本サッカーの始まりにかかわっている。だからこそ、サッカーの殿堂入りをしたわけである。
 しかし、市川の資料館の展示を見て、坪井玄道はサッカーよりも、主として「体操」の日本への導入と普及に大きな功績を残しており、また「卓球」を移入した功績で知られていたことを改めて認識した。

◇殿堂入りで新しい光を
 市川の資料館の展示にはサッカーに関するものも含まれている。しかし、それはサッカーの殿堂入りによって付け加えられたもののようである。つまりサッカー殿堂入りが「体操と卓球に関する業績に、加え、さらに大きな功績を顕彰した」と言えるのではないか。
ぼくは、当時のサッカー殿堂委員会委員として坪井玄道を表彰することを提案し、採用された。というわけで、ぼくは自分の提案が通ったことの意義を再確認して、おおいに満足した。
 市川の資料館には坪井玄道の写真や手紙が保管されている。それは坪井家から寄託されたもので一般に公開はされていない。あらかじめ研究目的で許可を求めれば、坪井家の了承を得て閲覧することもできるようだが、ぼくは予告なしに訪ねたので目録を見せてもらっただけだ
 目録だけでも興味あることが、いくつかあった。一例をあげれば、日本体育協会の創始者の一人である岸清一が寄付を求めた手紙があることである。

◇フットボール学会のシンポ
 12月24日に東京池袋の立教大学キャンパスで日本フットボール学会のシンポジウムがある。「日本フットボールのルーツを考える」というテーマである。サッカー、ラグビー、アメリカン・フットボールの三つのスポーツの日本への導入と普及を取り上げることになっており、そのうちのサッカーを、ぼくがパネリストとして担当する。その準備のために、坪井玄道の足跡を改めてたどってみたいと思ったわけである。
 坪井玄道は、卓球やサッカーのほかに、どんなスポーツを日本に紹介したのだろうか? また、そのうちのどれを、特に日本で役に立つものと考えていたのだろうか? これが、ぼくがいま知りたいと思っているテーマである。
 「サッカーを奨励すべきだ」と考えていたことは、書き残した文章があって明らかである。しかし、大衆のスポーツとしてのサッカーの普及は、日本ではかなり遅れた、その理由も考えてみたい。


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サッカー日誌 / 2010年12月16日


浅見俊雄さんの功績


審判向上のグランド・デザイン

サッカー殿堂入り祝賀会
(10月29日 東大山上会館)
(11月24日 東京ガーデンパレス「築地植むら」)

◇審判についての功績
 2010年度にサッカー殿堂入りをした賀川浩さんの功績を書いたので、同じく殿堂入りした浅見俊雄の功績についても紹介しておこう。
 賀川さんは,ジャーナリストだから、書いたものがサッカーの愛好者の間では広く知られている。その評価を、ぼくが紹介する必要はなかったかもしれない。僭越だったかもしれない。
 しかし、浅見表彰の対象になった審判についての功績は、サッカーの関係者以外では、あまり知られていないだろう。そういう業績を広く世に知らせることこそジャーナリストの仕事である。
 浅見は学生時代からの仲間である。4年生のときに彼がア式蹴球部(サッカー部)の主将でぼくが主務だった。その後は、新聞記者とその取材先として半世紀以上にわたる付き合いである。
 だから、お互いに名前を呼ぶときは呼び捨てとあだ名である。だから、ここでも呼び捨てで紹介することにする。

◇いろいろな分野で業績
 浅見は県立浦和高校3年生のとき全国高校選手権で優勝している。東大に入って1年生のとき全国大学選手権に優勝し、ずっとレギュラーで選手生活を送った。Jリーグも、その前身である日本リーグも生まれる前で、大学が日本のサッカーの中心だった時代である。
 スポーツ科学の研究者になり、母校の教授になり、東大サッカー部の監督も長く勤め、御殿下グラウウンドで少年サッカースクールの組織、運営もした。協会では日本ユース代表の監督を務め、スポーツ科学委員会の運営もした。
 審判員の経歴も長かった。1964年東京オリンピックのとき、秩父宮ラグビー場で試合中にフィールドの一部が陥没して穴があく珍事があった。その試合で浅見が線審(いまの副審)を務めていた。旗を持って穴を覗いている写真が新聞に掲載された。功績とは関係のない話だが、長い間、仕事をしていると面白い経験もするというわけで、祝賀会の席で、その写真も披露された。

◇数字に表せない功績
 国際審判員として国際試合の笛を何試合吹いたというような数字に表せる記録も大事にしたい。しかし、数字に表せない業績も重要である。
 浅見は、審判委員長として、審判技術向上のための大きな設計図を書いて後継者に実行させた。
 審判員の資格を認定するための方法と組織を作った。日本だけでなくアジア連盟の役員として、悪い習慣のはびこっていたアジアの審判の規律を正し、体力検定などを導入してレベル向上の基礎を作った。
 南アフリカのワールドカップで、日本の西村雄一さんをはじめ、アジアの審判員がいい仕事をしたのは、浅見の描いたグランド・デザインの結実である。
 浅見の殿堂入りを祝って東大関係で2つの祝賀会を開いた。一つは東大の関係者全体のフォーマルなパーティーだった。もう一つはサッカー部でいっしょに過ごした仲間が集まって「浅見をサカナに飲む会」をした。どちらの会でも、ぼくが数字に表れない功績を紹介した。


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サッカー日誌 / 2010年12月11日


賀川浩さんの功績


サッカー殿堂入り祝賀会
(12月7日 東京・グランドプリンスホテル新高輪)

◇東西で大掛かりなパーティー
 サッカー・ジャーナリストの長老、賀川浩さんが2010年度に日本サッカー殿堂に掲額され、そのお祝いの会が開かれた。11月25日に賀川さんの地元の神戸で、12月7日に東京でと、東西で大掛かりに呼びかけた盛大な会だった。
 殿堂入りは、賀川さんの長年にわたるサッカー記者活動に対する表彰だが、実を言えば、ジャーナリストの仕事に日本サッカー協会のような「権威」からお墨付きをもらう必要はない。賀川さんが新聞や雑誌に書いた記事は、読者大衆が厳しい目できちんと評価している。また業績は、活字になっているから後世まで残される。
 とはいえ、賀川さんがサッカーの技術的な評論で独自のスタイルを開拓したのは大きな功績である。また歴史に残すべき人びとの評伝を書き続けているのは貴重な資料である。そういう仕事は、殿堂入りの機会に改めて評価していい。

◇技術に裏付けられた評論
 賀川さんが、いろいろな分野で数多くの文章を書いているなかで、もっとも独創性が高いのは技術論だろう。ボールの持ち方、相手を抜く方法、パスの出し方など、さまざまなテクニックを、プレーの内容に即しながら具体的に文章で解説する。そういう面で賀川さんの右に出る者はいない。
 賀川さんの技術評論が光っているのは、賀川さん自身がテクニシャンだったからだろう。小柄な体を足技とすばやさで補って一流プレーヤーになった。その経験を生かして技術を論じている。
 「背が低いほうがサッカーはうまいんだよ」と言われたことがある。同じように小柄なぼくを慰めて言ってくれたのだが、残念ながら、ぼくは小柄でも下手くそだった。
 しかし、記者クラブのチームで協会の長老役員と試合をしたとき、賀川さんとのコンビでいいプレーができた思い出がある。賀川さんがボールをとったとき、ぼくが傍に寄ると、すぐパスを出してくれて「ほい、前へ」といって、いい場所に走り出て、ぼくからのリターンパスを受けてくれた。

◇神戸一中のサッカー記者トリオ
 賀川さんは、若いころから個人の技術重視のサッカーを説いていた。同じ記者仲間として、その点はもっとも教えられた点である。「蹴って走る」が主流だった時代である。
 技術重視は、賀川さんの出身校の神戸一中(旧制)の伝統だろうと、ぼくは思っていた。神戸一中出身の新聞記者が3人いた。大阪朝日の大谷四郎さん、毎日の岩谷俊夫さん、それに賀川さんである。揃って技術重視を説いていた。このトリオが、全部サッカーの殿堂入りした。これもすばらしい。
 東京での祝賀会のとき、元日本代表の細谷一郎さんに会った。神戸一中の後身である神戸高校を出て、早大、三菱で活躍した人である。「ぼくが入学したころの神戸高校のサッカーにはテクニック重視の神戸一中の面影はなかったですね。先輩の岩谷さんが来てクラマーさんの方法を教えてくれて、またテクニック重視に変わりました」
 賀川さんたちを生んだ神戸一中の伝統を、改めて調べてみたいと思う。


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サッカー日誌 / 2010年12月06日


ワールドカップ開催国決定(下)


招致の決め手になったのは?
(12月2日 FIFA理事会・チューリッヒ)

◇施設や運営能力は無関係
 2018年と2022年のワールドカップ開催地に、ロシアとカタールがそれぞれ選ばれた。なぜだろうか? 
 施設や運営能力が評価されたのでないことは明らかである。ロシアは13会場、カタールは9会場を、これから建設するという。
 ロシアでは交通網も課題だ。広い国土に分散する会場をつなぐのには航空機が頼りである。カタールは暑さが問題である。競技場を冷房する計画で収容500人のミニ・スタジアムを作って調査団に見せたらしい。客席の足元から冷気が噴き出す仕掛けだという。しかし、それをワールドカップ会場の大スタジアムに設備するのは、これからである。
 「未開催の地域を」という大義名分があるにしても、もう少し準備が整ってから選んだほうがリスクは少ないはずだ。

◇賄賂にならない招致費用ばらまき
 実際に22人の理事の票を動かしたのは、おそらくは、施設などの調査報告書でも、大義名分でもない。ロシアとカタールの招致工作の結果だろう。
 「招致に成功したらODA(政府開発援助)じゃないけど、何か物資を大量に買うとかを平気で発言しているようだ。それは賄賂でも何でもない」
 日本の招致関係者が、こう語っていたという報道があった(12月3日付 読売新聞夕刊一面)。
 22人の理事個人を金で買収しようとすれば「賄賂」である。しかし、別の方法で金をばらまく方法もある。
 「たとえば」の話である。理事のいる国の代表チームを招待して親善試合をする。その国のサッカー協会に対してギャラを支払う。日本もそういう国のチームを招待していた。そのときに払う金額は直接の招致費用ではないが、実際には招致工作の一部である。

◇不公正な「ばらまき合戦」
 そういう形で、間接的にばらまく「招致費用」を、どう調達するかが問題である。
 日本が招致費用として計上した金額は、1年足らずで約9億円。「2002年招致のときの90億円に比べて少なすぎた」という論評が各紙にあった。そうだろうか?
 日本の開催能力をPRする経費として9億円は多すぎるくらいだ。ただし、間接的買収に使うのであれば、カタールやロシアに、とても敵わないだろう。
 新しいインフラを建設する工事、スタジアムの冷房設備を作る工事などは、いわば公共事業である。ダムや農道を作る事業と似ている。その工事を請け負う業者に間接的費用を負担してもらうことは、ありそうである。どこかの国でも聞いたことのある話だ。
 日本サッカー協会には、そういう意味で自由に使える資金はなかった。でも、それが健全である。不公正な「ばらまき合戦」に参入してワールドカップ開催を争う必要はない。


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サッカー日誌 / 2010年12月05日


ワールドカップ開催国決定(中)


ロシアとカタール、開催の意義
(12月2日 FIFA理事会・チューリッヒ)

◇未開催の地域が選ばれた
 ワールドカップの開催国は2018年がロシア、2022年がカタールに決まった。予想外だったが、決まってみると「選ばれて当然」という気もする。「これまでに開催したことのない地域だからである。「ワールドカップを世界のものに」という考え方からすれば、筋の通った選択である。
 ヨーロッパでは、これまでに10度、6カ国で開かれているが、みな西側で東ヨーロッパでは一度も開かれていない。東欧からアジアにまたがる未開催国のロシアが選ばれて不思議はない。
 アジアでは2002年に日本と韓国が共催したが、アジアは広い地域である。東アジアの日韓と中東のアラブ諸国を同じ地域だとするには無理がある。大アジアの中から選ぶのなら、開催経験のある日本あるいは韓国よりも、カタールにチャンスを与えるのが公平だろう。

◇旧社会主義国での開催(ロシア)
 2018年大会のロシアは、旧社会主義圏宗主国での開催ということにも意味がある。1989年、ベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦終結から30年である。その間に旧ソ連がどう変わったか? それを示すワールドカップになるかもしれない。
 ソ連は1980年にモスクワ・オリンピックを開いている。このオリンピックは米国、日本などが、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難してボイコットした。大会はモスクワ市をソ連全体から隔離したような厳重な警備のもとで開かれた。
 ワールドカップはオリンピックとは違う。広いロシアの各都市に分散して試合を行うから、一つの都市に閉じ込めて厳重管理のもとに開催するようなことはできない。だから、ワールドカップのロシア開催は、開放されつつある旧ソ連のロシアを、さらに世界へ向けて開かせることになるだろう。

◇イスラムの国での開催(カタール)
 2022年大会のカタール開催は、中東で初めて、アラブの国で初めて、イスラムの国で初めてということになる。砂漠のなかのオイルマネーによる人工的都市でのワールドカップになる。
 2006年のアジア競技大会など国際大会を何度も開いているから、開催能力には不安はないだろう。暑さなどの問題もオイルマネーで強引に解決するだろう。なにしろ人口一人あたりでは世界一の富裕国である。
 しかし、石油はいずれ枯渇する。そのときに備えて、観光資源を蓄え、観光立国で未来を築く考えだという。国際スポーツ大会の誘致も、そのための戦略らしい。
 2022年の時点で中東の情勢がどうなっているかは分からない。しかし、イスラムの国が、ほかの宗教の国と協調していけることをワールドカップで示してほしいと思う。


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サッカー日誌 / 2010年12月04日


ワールドカップ開催国決定(上)


日本の落選は当然だ
(12月2日 FIFA理事会・チューリッヒ)

◇辛うじて最下位を免れる
 ワールドカップの開催国が、2018年はロシアに、2022年はカタールに決まった。2022年に立候補していた日本は落選した。
 22人のFIFA理事による投票を繰り返し、最下位になった立候補国を次つぎに落としていく方式だった。2022年については、最初にオーストラリアが最下位になり、次に日本が最下位になったという。続いて韓国が落ち、最後はカタールと米国の決選投票だった。
ぼくは、日本が最初に最下位になるだろうと予想していた。その最悪の想定よりは、ちょっとだけ良かったわけである。日本が当てにしていた数人の理事が最初は義理立てして入れてくれたおかげだろう。アジアのなかで、カタール、韓国、日本が、それぞれ、お金をかけて招致運動をし、オーストラリアは出遅れていたと思う。日本に義理立てした数票は、最終的には米国支持に回るだろうと推測していたので、カタールの当選は意外だった。

◇もともと無理な立候補
 日本サッカー協会が2度目の開催を狙って立候補したのは2年前。犬飼基昭会長のときだった。国内的にも国際的にも大義名分のない立候補だったから、その当時から無理だと思っていた。落選は当然である。
 「2002年は日韓共催だったから今度は単独で」という理由も、同じ立場の韓国が立候補したので説得力がなくなった。2002年の招致のときにも使った「バーチャル・スタジアム」の構想を、また引っ張り出してPRしていたが、いまのテクノロジーはグローバルなものだから、技術的に可能になれば、どこの国でもできる話である。
 最後のプレゼンテーションで、2002年生まれの8歳の女の子を使って「2022年には私は20歳です」と前回の開催から十分に間隔があいていることを訴えた。女の子は可愛かったが、こんな小細工で招致の大義名分のなさを埋められるわけはない。

◇次の機会、2034年は中国?
 2002年のときも今回も日本と韓国が、ともに立候補して争った。1988年のオリンピックは名古屋とソウルが争った。1988年オリンピックは韓国のソウルが勝ち、2002年ワールドカップは「痛み分け」の共催となり、今回の2022年ワールドカップは「共倒れ」になった。
 こういう例が続くのをみると、国際大会を誘致するかどうかは、まず足元を固め、回りを見、先のことを考えて決めるべきだと思う。
 今後のワールドカップを例にとれば、東アジアでまだ開催していない大国の中国に立候補を促し、日韓が協力して支持する形にすればいい。その見返りに日本が何を得られるか、東アジアのサッカーの将来に、どう役立てることができるかを考えたらいい。
 ただしワールドカップを同じ地域で開催するには、間に2大会を置かなくてはならないことになっているから、アジアの次のチャンスは2034年ということになる。

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