サッカー日誌 / 2014年05月25日


読売クラブが急成長した理由


小見幸隆さんのお話から
日本サッカー史研究会月例会
(5月19日 JFAハウス会議室)

★技術と戦術も変えた
 日本サッカー史研究会の5月例会に、小見幸隆さんを招いてお話を聞いた。
 小見さんは元日本代表選手であり、日本代表ユースのコーチなども務めたが、もともとは、いまの東京ヴェルディの前身である読売サッカークラブの生え抜きである。
 読売クラブの創設3年目に高校生で会員になり、選手、コーチ、ヴェルディの監督を勤めた。クラブ在籍の「最長記録保持者」である。「読売クラブ」の初期の実態を語ってもらえる人は他にはいない。
 1969年創設の読売サッカークラブは、日本で初めての会員制のクラブで将来のプロサッカーを目指していた。
 そういう意味で、日本のサッカーの構造を変えるために重要な役割を果たした。しかし、それだけでなく技術、戦術面でも日本のサッカーを大きく変えた。

★外の風を入れる
 そのころ、すぐれた素材は大学や企業のチームが集めていたので身分の安定しないクラブに加わったのは「規格外」のプレーヤーだった。「優秀選手」は誘っても来なかった。
 にもかかわらず、読売クラブは創設から10数年で日本のトップクラスへ駆け上がった。
 なぜか?
 その理由を、小見さんは三つ指摘した。
 第一は、外国人の監督を次ぎつぎに招いたので、海外のサッカーのトレーニングや戦い方を現場で身につけることができたことである。当時の大学や企業のチームは、自分たちのチームが築いてきたやりかた、つまり「伝統」から脱け出すことができなかった。
 外国から監督を招いたのは「いい選手は来てくれないから指導者を呼ぼう」と考えたからである。
 「外の風を入れよう」というのが、苦し紛れの方針だった。

★ジョージ与那城の功績
 読売クラブ躍進の原因として、小見さんがあげた二つめはジョージ与那城の影響である。
 国内からは、いい選手が来てくれないので、外国の選手を呼ぼう。しかし資金がないから安い報酬の無名選手を探すしかない。というわけで、ブラジルの日系人リーグの得点王を招いたのがジョージだった。
 与那城のテクニックとアイデアによるプレーは、そのころの日本のサッカーにないものだった。読売クラブの若いプレーヤーは、それを見よう見真似で身に付けた、
 与那城は、日本のサッカーを変えた功労者である。
小見さんが挙げた三つめの理由は意外だった
 そのころ、読売クラブは資金稼ぎのために一軍の選手も動員して各地で少年サッカー教室を開いた。ここで子どもたちを教えた経験が選手たちを伸ばしたという。
きわめて示唆に富む小見さんのお話だった。

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サッカー日誌 / 2014年05月14日


国立競技場、もう一つの可能性


メーンスタンドだけを改築
新国立競技場緊急シンポジウム
(5月12日 東京千駄ヶ谷・津田ホール)

★伊東豊雄さんの新提案
 神宮外苑に巨大なドームの「新国立競技場」を建設する計画が強引に進められている。これに反対する緊急シンポジウムにいってみた。
 建築家の伊東豊雄さんが新しい提案をし、それを中心に話が進んだ。
 伊東さんの案は、現在の国立競技場のメーンスタンド部分だけを増改築し、バックスタンドは、そのまま残そうというものである。
 2020年東京オリンピックの陸上競技を行なうことを前提にするのであれば合理的で現実的な案だと思った。
 オリンピックのためには、約5万人収容のスタンドを8万人収容にしなければならない。また現在、8レーンの陸上競技トラックを9レーンにしなければならない。
 そのため全体の規模が大きくなるが、外苑側のバックスタンドは広げないので外苑の景観破壊の心配はない。

★主要な設備は更新できる
 現在の国立競技場は建設から半世紀以上経っている。その間に競技会の運営方法や競技会のあり方などが大きく変わっている。現在のスタジアムのままでオリンピックを開くのは難しい。競技運営、情報通信、VIP接遇の設備などを大きく変える必要がある。
 しかし、こういう設備のほとんどはメーンスタンド側にある。メースタンドを全面的に改築することによって、この問題は解決できそうである。
 観客席の増設は、現在の一層(階)建てを二層あるいは三層にする案が示された。スタンドをそれほど高くしなくても3万人くらい増やせるという。
 バックスタンドは現在のまま一層なので、青空が広がる現在の国立競技場の開放感の良さを生かすことができる。
 1964年東京オリンピックのモニュメントである聖火台も現在の位置に残せる。

★スポーツの将来のために
 化け物のような巨大なドームを建設するのに比べて、工事費ははるかに少なくてすむだろう。開閉式の屋根をつけないから技術的な困難は、ほとんどないだろう。
 工事期間も短くてすむから慌てることはない。じっくり検討してもらいたい。
 東京オリンピックのあとの利用のためにも新提案がいい。
 維持管理費が少なくてすむから利用料を安く設定できる。
 太陽の光をいっぱいに受けて芝生を育てやすい。
 8万人収容は大きすぎるようだが、ラグビーとサッカーでは使いこなせないほどではない。
 ただし、陸上競技についてはサブトラックの問題がある。オリンピックのときには仮設するにしても、常設のサブトラックを作るには敷地が足りない。その点を考えると陸上競技場は別の場所に移したほうが陸上競技の将来のためだと思う。
 しかし、どうしても、陸上競技場として改修するのであれば、伊東案がもっともいい選択だと思った。


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サッカー日誌 / 2014年05月11日


新しいワールドカップの本(補遺)


巻末の記録の小さな食い違い
『W杯「裏表」ヒストリー』
(発行KADOKAWA 発売5月10日。本体800円)

★第3回大会の参加国数
 新著『W杯「裏表」ヒストリー』には、これまでのワールドカップの記録を簡潔にまとめて巻末に付けた。
 ワールドカップの競技記録と試合の様子については、ほかにいろいろ本が出ているので、ぼくの本では詳しくは触れなかった。それを補う意味で記録集を付けたのである。
 試合の記録は客観的なものだから、どの本でも違いはないはずだが、なかなかそうではない。
 FIFAのサイトに出ている記録を公式なものとして基準にしたが、それでも疑問が出てきた。
 たとえば、1938年フランス大会の参加チーム数は、FIFAのサイトでは「27」となっているが、大会創始者ジュール・リメの回想録では「26」となっている。
 リメはそのときの中心人物だから間違えるはずはない。
 いろいろ考えた結果、リメは、開催国である自分の国を勘定に入れていないのだろうと気が付いた。

★スウェーデン大会の開催都市
 もう一つ例をあげよう。
 1958年第6回スウェーデン大会の決勝戦が行われた場所である。
 多くの本にはストックホルムと書いてあるが、FIFAの資料ではソルナとなっている。
 地図でみると、ソルナ市はストックホルム市の北の郊外である。市街としてはひと続きだが、行政単位としては別の市らしい。しかしストックホルム県のなかである。
 思うに東京都下調布市の味の素スタジアムを「東京」とするか「調布」とするかのようなものではないか?
 スウェーデンの有力チーム「AIKソルナ」は、ストックホルムのクラブとして扱われているようだ。調布市のスタジアムをホームにしている「FC東京」が、東京のクラブとして扱われているようなものではないか?
 というわけで、スウェーデン大会決勝戦の開催地は「ストックホルム」でも「ソルナ」でも間違いではない。

★外国人名、地名の表記
 外国の人名、地名をカタカナでどう表記するかも難しいところである。
 ぼくは編集者や出版社の方針に従うことにしているが、今回の本では、United States of America は「米国」と表記させてもらった。
 「アメリカ」と表記するのが一般的なようだが、中南米のラテン・アメリカの人たちにとっては、自分たちの地域もアメリカである。
 彼らは、日本人がUSAだけを「アメリカ」と呼ぶことを奇妙に感じるようだ。
 彼らが米国をさす言葉は「エスタドス・ウニドス」、つまり合衆国である。
 日本語では「アメリカ合衆国」とすればいいのだが、長すぎるので、ぼくは「米国」と表記することにしている。


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サッカー日誌 / 2014年05月10日


新しいワールドカップの本(下)


オリンピックとの大きな違い
『W杯「裏表」ヒストリー』
(発行KADOKAWA 発売5月10日。本体800円)

★アマチュアリズム批判
 サッカーのワールドカップは、オリンピックの理念に反対して生まれ、まったく違う方式で育った。
 今度書いた本、「W杯『裏表』ヒストリー』の基本的なテーマは、これである。
 オリンピックの基本理念は「アマチュアリズム」だった。
 スポーツによって、お金や物質的利益を得ないことが正しいという考えである。1980年までは、オリンピックに参加できるのはアマチュアに限られていた。
 サッカーのワールドカップは、こういうオリンピックの理念に反対して生まれた。プロもアマチュアも、ともに参加して「本当の世界一」を競う。そういう「プロアマ共存」の考えを基にワールドカップが創設された。
 今ではアマチュアリズムは崩壊し、オリンピックにプロ選手も参加している。オリンピックの理念は、ワールドカップの理念に敗れたのである。

★分散開催の利点
 オリンピックは「集中開催」が基本方針である。
 一つの都市に、多くのスポーツを集め、2週間余の短期間に開催する。そのために、交通難や宿泊難などの多くの問題が生まれる。
 ワールドカップは「分散開催」である。
 多くの都市に会場を分散し、サッカーだけが行われる。期間は1ヵ月余である。そのために、交通や宿泊の問題も分散され、運営は難しくない。
 いまでは、オリンピックは「テレビのためのショウ」である。人気のあるスポーツだけがテレビで取り上げられる。
 サッカーのワールドカップは、世界中の人びとが、その熱狂に参加して楽しむ。日常の生活のなかで楽しんでいるサッカーが、トップレベルの大会に結びついている。
 ワールドカップの方式がオリンピックより合理的である。

★大衆が「参加」するW杯
 日本中が2020年東京オリンピックに便乗しようとバタバタしているときに、あえてオリンピック批判の本を書いた。
 それを出版してくれたKADOKAWAに感謝している。
 この本の後半は、足掛け45年にわたる、ぼくのワールドカップ取材の珍談奇談集である。
 珍談奇談ではあるが「オリンピック至上主義批判」が背景にある。
 オリンピックは世界のトップレベルの競技を「鑑賞」する大会だが、ワールドカップは、世界のトップレベルのプレーヤーとともに大衆が「参加」して楽しむ大会である。
 エリートの大会よりも大衆の大会のほうがいい、とぼくは考えている。
 「オリンピック至上」で凝り固まっている日本では理解してもらえないのではないかと心配したが、原稿の段階で仲間に読んでもらったところ、けっこう面白がってくれた。



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サッカー日誌 / 2014年05月07日


新しいワールドカップの本(中)


「ワールドカップ」という呼称
『W杯「裏表」ヒストリー』
(発行KADOKAWA 発売5月10日。本体800円)

★『ワールドカップの回想』
 『W杯「裏表」ヒストリー』を書きながら、知らないことが、まだいろいろあることに気がついた。
 たとえば「ワールドカップ」という呼称についてである。
 この言葉は、いつ生まれたのか? 
 これがサッカーの「世界選手権」の呼称として採用されたのはなぜか? 
 ワールドカップ創設の「いきさつ」は、創設者ジュール・リメの回想録(1955年)のなかに具体的に書いてある。
 この回想録は『ワールドカップの回想』(ベースボール・マガジン社、1986年)として日本語版が出ている。フランス語からの翻訳を、ぼくがリライトして監修したものである。
それを読み返してみたが、明確でない。

★世界的な大会は無理?
 リメは「1914年のFIFA(国際サッカー連盟)創設の主な理由の一つは国際選手権開催という共通の願いだったことをはっきりさせておきたい」と書いている。
 「世界選手権」ではなく「国際選手権」だったのは、当時は欧州内しか視野になかったからである。
 1927年2月のFIFA理事会で、国際選手権を開催するための三つの案が討議された。
 そのなかに南米を含めた国際選手権を想定して「世界選手権」という言葉とともに「ワールドカップ」という呼称が出てくる。「公式文書にワールドカップの名称が現れたのは、これが最初のことだった」とリメは書いている。
 しかし、この三案は1927年6月のヘルシンキ総会では審議できなかった。
 世界的な大会の開催は無理だという考えが強かったのだろうと想像できる。

★選手権か、カップか
 1928年5月26日にアムステルダムのFIFA総会で、前年の三案を踏まえたフランスの提案が承認され、全加盟国が参加できる大会を1930年に開催することが決まった。
 ところが、決議された文章には、大会の名称も、開催国も含まれていない。
 大会の名称を「世界選手権」とするか「ワールドカップ」とするかについては、かなりもめたようである。『ワールドカップの回想』の序文で、リメは「将来生まれてくる子どもの名前で、つまらぬいさかい」をしたと書いている
 1929年5月のバルセロナ総会で、開催地をウルグアイのモンテビデオとすること、大会名称を「ワールドカップ」とすることが決まった。
 しかし、1930年第1回ウルグアイ大会の名称はスペイン語でEl Canpeonato Mundial footballだった。第2回イタリア大会ではCampionati Mondiali de Calcio だった。
 ともに「サッカー世界選手権」である。
 フランスで開かれた第3回大会ではじめてCoupe du Monde(ワールドカップ)となった。
 その後、時代によって、あるいは国によって、いろいろな呼び方が使われている。
 現在の正式名称は「FIFAワールドカップ」である。


『ワールドカップの回想』表紙

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サッカー日誌 / 2014年05月04日


新しいワールドカップの本(上)


ライフワークを締めくくる
『W杯「裏表」ヒストリー』
(発行KADOKAWA 発売5月10日。本体800円)

★久しぶりに本を書いた
 昨年(2013年)9月、「サロン2002」(中塚義実さん主宰のサッカーとスポーツ文化の勉強会)の月例会のあとの延長戦(飲み会)で、たまたま隣に座ったのが「アップルシード・エージェンシー」の宮原陽介さんだった。
 「サッカーではなく作家のエージェントです」というダジャレで自己紹介を受けた。作家に本を書かせ、それを出版社に売り込むのが仕事だという。そこで「ワールドカップの本を書きませんか」と勧められた。
 サッカーの本は書店の棚から溢れるほど出ている。いまさら年寄りの出番じゃないだろうと思ったが、「でも牛木さんじゃなければ書けない話もあるでしょ」とおだてられて、その気になった。
 この前に本を出したのは2002年日韓大会のあとの『ワールドカップのメディア学』(大修館書店)である。でも、この本は他の先生との共著だった。今回は久しぶりの単著である。

★W杯を日本に紹介
 振り返ると、ワールドカップを日本に紹介するのは、ぼくの生涯の仕事だった。
 駆け出しのスポーツ記者だったころ「最大の観衆、最大の熱狂」という見出しで、スウェーデン大会を紹介する記事を書いた(1958年6月9日付、東京新聞)。のちになって教えられたのだが、これはワールドカップの内容を日本に初めて紹介した新聞記事だった。
 1970年メキシコ大会で初めてワールドカップを現地取材した。日本のライターが報道のIDをとって取材した初めての大会だった。
 1970年メキシコ大会のあと講談社から『サッカー世界のプレー』という本を出した。日本で初めてのワールドカップの単行本だった。
 そして現地取材は2014年ブラジル大会で12回連続になる。

★歴史と取材の裏話
 というわけで、ワールドカップ報道の「初めて尽くし」は、ぼくの自慢である。
 意図していたわけではなく、振り返ってみると結果的にワールドカップが、ぼくのライフワークになった。
 それを締めくくる意味で、もう1冊、本を残しておくのもいいか、と考えたわけである。
 とはいっても、ものものしい大冊ではない。
 新書版で軽い読み物にするつもりで書いた。
 前半はワールドカップの歴史の裏話、後半は半世紀以上にわたるぼくの取材の珍談奇談である。
 『取材歴59年の記者が見たW杯「裏表」ヒストリー』という書名は「アップルシード・エージェンシー」の宮原さんと出版社のKADOKAWA(角川書店)の編集者、菊地悟さんがつけた。
 ぼくの提案は「ワールドカップの裏表」だったが、売る側としては、著者が「年寄り」であること以外にセールスポイントが見つからなかったのかもしれない。


新著の表紙と帯


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