サッカー日誌 / 2016年04月16日


ヨハン・クライフの思い出(下)


1974年西ドイツ・ワールドカップ

肺がんで死去。68歳。
(3月24日、バルセロナ)

★メディア・ガイド
 クライフがどんなプレーヤーであるかを初めて知ったのは、1974年のワールドカップ西ドイツ大会のときである。
 オランダ代表チームの「メディア・ガイド」に、簡潔で要を得た紹介が掲載されていた。
 「メディア・ガイド」は、マスコミの取材者ための小冊子である。各国のチームが、それぞれ作ってメディア・センターなどで配布する。
 大会のたびに、いろいろなチームの「メディア・ガイド」をもらうが、その中でも、1974年大会のときのオランダ代表チームの「メディア・ガイド」は、もっともよく出来ていた。
 手のひらよりも少し大きいくらいの持ち運びに便利な作りで、上質なアート紙の1ページの裏表に、一人ひとりの選手の紹介と顔写真が掲載されていた。
 インターネットのない時代に、資料や写真を、すぐに印刷物で使える形で手に入れることができたのが便利だった。

★西ドイツとの対決
 クライフの洞察力(Insight)を強調して紹介していたのは、このメディア・ガイドである。
 ぼくのクライフへの関心は、このメディア・ガイドから、始まっている。
 すでに大スターだったベテランのベッケンバウアーと、新進のクライフとの対決が、この大会の焦点だった。
 この焦点に合わせたように大会は展開し、西ドイツ対オランダの決勝戦になった。
 この試合を、現地で、自分の目で見ることができたのは、ぼくのサッカー記者人生の中での最大の幸福の一つである。
 決勝戦のキックオフ直後、チームのトップにいるクライフは、するすると後ろに下がった。
 西ドイツは、ベルティ・フォクツを、クライフに密着マークさせる作戦だった。クライフは、後ろに下がることによって、フォクツを前に引き出したのである。

★切手になった名場面
 キックオフとともに後ろに下がったクライフは、すぐに反転して、再び前線に飛び出した。
 クライフについて、前に引きずり出されていたフォクツは置き去りにされた。
 クライフが、ペナルティエリアに飛び出したところで、ヘーネスがタックル。
 クライフは、足を引っ掛けられた形で前に倒れ、ペナルティキックを得た。
 このPKで、オランダが先行したが、西ドイツが前半のうちに、PKとミュラーのゴールで逆転する。
 優勝したのは西ドイツだが、この大会の主役は「クライフとオランダのサッカー」だった。
 とくに、クライフが、へーネスに倒されてペナルティキックを得た場面は脳裏に焼きついている。
 郵便切手にもなった名場面である。



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サッカー日誌 / 2016年04月12日


ヨハン・クライフの思い出(中)


インタビューのギャラ

肺がんで死去。68歳。
(3月24日、バルセロナ)

★スタンド下の立ち話
 ヨハン・クライフと話をしたのは、1980年にワシントン・ディプロマッツの一員として来日したときである。
 地方のスタジアムのスタンド下で、たまたま1対1になり、英語で話しかけたら答えてくれた。
 立ち話に気軽に応じてくれたのは意外だった。
 というのは、その当時、クライフにインタビューするには、かなりのお金を払う必要があると言われていたからである。
 日本の大新聞のサッカー記者が、単独インタビューを申し込んだら仲介者からギャラを要求された。
 その当時、日本の新聞社では、インタビューに、お金を払う習慣はなかった。
 そのため、ギャラを要求された記者は憤慨して、単独インタビューを断念した。
 その話を聞いていたので、クライフが、即席のインタビューに応じてくれたのに驚いた。

★代理人の要求
 この経験から思うと、インタビューのギャラ要求は、クライフ本人の意思ではなかったようだ。 
間に立っている代理人による要求である。
 クライフの代理人は、クライフの父親だというのが、当時、流布していた話だった。
 ぼくは「インタビューについて報酬を要求するのはよくない」という考えではない。
 しかし、インタビューがマスコミで報道されることは、本人のPRになる。だから、報酬を求めないでインタビューに応じるのが、ふつうだった。
 クライフも、試合前後の共同記者会見などには、きちんと応対していた。出席できるのは取材登録している記者に限られるが、無料である。
 しかし、クライフの代理人は、1対1の独占インタビューについては、ギャラを要求していたのである。

★マラドーナも
 マラドーナも代理人(これも親族)が、インタビューに金銭を要求するという話だった。
 クライフにしろ、マラドーナにしろ、共同記者会見などで話を聞く機会は多い。
 だから独占インタビューをしなくても、おおよそのことは分っている。
 また自国の雑誌などには、詳しいレポートや自伝が掲載されているので、独占インタビューをしても、特別に新しい話を聞ける可能性は少ない。
 そういうわけで、高額のギャラを払って、話を聞く必要はないと、ぼくは思っている。
 しかし、クライフが来日したときに、たまたまの「立ち話」で「戦術眼」についてのユニークな話を聞くことができたのは貴重だった。
 立ち話の雑談だったからこそ、聞き出せたのだと思う。



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サッカー日誌 / 2016年04月09日


ヨハン・クライフの思い出(上)


4通りのイメージ

肺がんで死去。68歳。
(3月24日、バルセロナ)

★「インサイト(洞察力)」
 20世紀のサッカーを代表するスーパースターだったヨハン・クライフが亡くなった。
 アヤックスのストライカーとして台頭し、1974年のワールドカップで決勝に進出したオランダ代表の中心選手だった。
 その後、スペインのバルセロナの監督として、1992年に欧州チャンピオンズ・カップ優勝へ導いている。
 1974年ワールドカップのオランダは、決勝戦で地元の西ドイツに敗れたが、クライフを軸にした「トータル・フットボール」は、世界のサッカーを変えた新しいサッカーだった。
 プレーヤーとしては、突破の速さと巧みさを高く評価されている。
 しかし、ぼくの考えでは、クライフのもっともすぐれていた点は「洞察力(insight)」である。
 それは、ゲームの展開を読む力である 次にどういう攻めが生まれるかを予測してプレーする能力である。

★次のプレーがひらめく
 プレーをしながら、その瞬間、その瞬間に、次のプレーがひらめく。
 その「ひらめき」が、クライフの武器だった。
 そういうふうに見ていたから、クライフに次のように訊いたことがある。
 「ゴールに結びつくパスを出す秘訣は何か?」
 答えは、こうだった。
 「多くのプレーヤーは、自分にボールが来たとき、どういうプレーをするかについて、3通りのイメージを持っている。しかし、ぼくは4つのイメージを持っている」。
 その4つイメージのなかで、他の味方のプレーヤーが、イメージしているものを感じとり、それを選択する。それがゴールに結びつく。
 そういう趣旨の話だった。

★知力が決定的
 当時の日本のサッカーのレベルは、あらかじめ次のプレーをイメージするレベルでは、なかったように思う。
 パスが自分の足元に来てから、きょろきょろと周囲を見回し、パスを出す先を探すようなレベルだった。
 そういうわけで、クライフの話に驚いた。
 この話は、その後、いろいろな機会に、いろいろなメディアに書いたが、クライフが亡くなった機会に、改めて書き残しておきたい。
 サッカー選手に必要なのは、技術と体力だけではない。トップレベルでは、知力が決定的だということである。
 クライフは、技術と知力で抜群だったが、体力に任せてグラウンドを走り回るプレーヤーではなかった。
 そのため、当時の日本のジャーナリズムには、クライフを評価しなかった記者もいた。日本のスポーツでは「がんばる」ことへの評価が高すぎたためである。


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