サッカー日誌 / 2014年10月30日


スポーツ・ボランティア考(中)


ラグビーW杯の場合

第48回「みなとスポーツフォーラム」
(10月23日 東京・港区「リーブラ」ホール)

★45日間に全国分散で開催
 「みなとスポーツフォーラム」は、2019年に日本で開かれるラグビー・ワールドカップをPRするためのベントで、毎月1度、開かれている。
 10月例会は「スポーツ・ボランティア」がテーマだった。
 パネリストは、長野冬季オリンピックや東京マラソンの例をあげて話をした。
 しかし、ラグビーのワールドカップの場合は、マラソンや冬季五輪とは事情が違う。
 ラグビーのワールドカップは、9月から10月にかけて45日間(予定)にわたる長期のイベントである。また、会場は8~12くらいの全国各都市に分散することになっている。
 期間が長く、会場が分散しているので、純粋のボランティアが大会期間を通して付きっきりで協力するのは難しい。
 日本では、仕事を持っている人が6週間以上も続けて会社を休むのは、ほとんど無理である。
 
★地方で人材を集められるか?
 スポーツ・ボランティアの出番は、分散している各地の会場ごとの仕事になるだろう。
 一つの都市で3~4試合が行われる。そこでスポーツ・ボランティアが必要になる。観客の誘導整理や関係者の案内や受付など、さまざまな仕事がある。
 一つの地方都市で、6週間ほどの間に分散して3~4回の機会がある。
 しかし、これには難しい問題があるだろうと考えた。
 地方都市で、スポーツ・ボランティアの経験のある人材を大勢、集めることが出来るだろうか?
 志望者はいるだろう。国際的な大イベントに参加できるのは、地方都市では貴重な機会だからである。
 しかし、外国語を操り、異文化の人たちの要望に対応する経験をもっている人は地方都市には、ほとんどいないのではないか?

★スポーツ普及の機会
 2019年ラグビー・ワールドカップの会場都市は、2015年3月に決まる。その後に会場ごとのボランティアを募集することになるだろう。
 毎年行われている都市マラソンとは事情が違う。地方には国際大会のボランティア経験者は、ほとんどいない。
 それでも……。
 地方の会場でスポーツ・ボランティアを活用して欲しいと思った。
 スポーツ・ボランティアは単なる競技会の「お手伝い」に留まらない意義がある。
 それは一般大衆が、トップレベルのスポーツに参画する機会になることだ。
 ラグビー・ワールドカップに協力した人たちは、ラグビーだけでなく、ほかのスポーツにも関心を持つようになるのではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月29日


スポーツ・ボランティア考(上)


商業化と大衆化が変えた

第48回「みなとスポーツフォーラム」
(10月23日 東京・港区「リーブラ」ホール)

★さまざまなイベントに協力
 「みなとスポーツフォーラム」の例会を聞きに行った。
 港区スポーツふれあい文化健康財団と日本ラグビーフットボール協会が共催しているイベントである。
 今回は「スポーツ・ボランティア」がテーマだった。
 スポーツ・ボランティアの経験豊富な2人がパネリストとして話をした。
 堤容子さんは、学生のころライフセービングをしていて、その講習会のお手伝いをしたのがきっかけで、ボランティア活動の世界に入り、長野冬季オリンピックや海外の大会に協力してきているという。
 荒木吉雄さんは、市民マラソンにボランティアとして協力し続けていて、自分も刺激されて「走る方」に参加したこともあるというお話しだった。
 スポーツ・ボランティアは、競技別の枠を超え、さまざまな形で行われているのだと改めて認識した。

★1984年ロス五輪の体験
 かつては、多くのスポーツ・イベントの運営は、無償で自発的に協力する役員で運営されていた。つまり、全員が「ボランティア」だった。
 「スポーツ・ボランティア」という分野に初めて気がついたのは、1984年ロサンゼルス・オリンピックを取材したときである。
 現地で「記者登録」の手続きしたとき、受け付けの前で案内をしてくれたおじさんがボランティアだった。
 「会社経営者だが、オリンピックに協力できるのは一生に一度の機会だと思って、会社を休業にして応募した」ということだった。
 スポーツ団体の役員や自治体などの職員のほかに、一般から協力者を公募していることを始めて知った。
 1964年の東京オリンピックのときは、こういう仕事をする人たちは「補助役員」と呼ばれていた。みなボランティアだが、スポーツ団体や自治体の関係者だった

★スポーツ・ボランティアの始まり
 1984年のロサンゼルス・オリンピックは、商業化した大会として知られている。
 オリンピックが大きくなりすぎ、お金がかかりすぎるようになって行き詰まっていたのを、旅行会社の経営者だったピーター・ユベロスが会長を引き受けて立て直した。
 ユベロスは「1ドルも税金を使わないオリンピック」を掲げ、1業種1社に絞って高額の広告スポンサーを導入し、またそれまで大会側が無償で提供していたマス・メディアのための施設の使用料を徴収するなど、オリンピックを企業として運営した。
 その一方で、無償のボランティアを補助役員として公募して、タダの労働力を利用したのである。これが「スポーツ・ボランティア」の始まりではないかと思う。
 その結果、多くの人びとがスポーツに協力し、スポーツの大衆化に役立ったにではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月23日


仁川アジア競技大会の総括


集中総合大会の弊害が噴出

スポーツ政策研究会月例会
(10月20日 明治大学駿河台研究棟)

★盛り上がりの乏しい大会
 大学の先生やスポーツ記者などの有志でスポーツ政策研究会を開いている。その10月例会で、朝日新聞の中小路徹さんがインチョン(仁川)アジア競技大会の取材報告をした。
 概していえば、財政的に無理があり、熱気が乏しく、盛り上がりの乏しい大会だったようだ。
 開催の総経費はスタジアム建設費などを含めて2兆2000億ウォン(約2200億円)。これまでの広州(中国)大会、ドーハ(カタール)大会に比べると10分の1だった。
 そのためボランティアの数を予定の2万人から1万3500人に削減するなど経費節約をはかっていたという。
 市民の関心は薄く、陸上競技でもスタンドは、ガラガラだった。観客席が埋まったのは、韓国の優勝候補がいる水泳の一部種目やサッカーの韓国の試合など、ごく一部だった。
 入場料収入は、目標を大幅に下回る280億ウォン(約28億円)に止まった。

★アジア競技大会は廃止すべきだ
 運営面でいろいろな問題も起きた。
 その報告をきいて「やっぱり、総合競技大会集中開催の弊害だな」と思った。
 多くのスポーツを1都市に集めて短期間に集中開催する。そのために多額の経費と多数の要員が必要になり、運営にも施設にも宿泊や交通にも無理が出る。それがオリンピックをはじめとする総合大会集中開催の弊害である。
 「アジア競技大会は廃止すべきだ。大会の意義は失われているのではないか?」とぼくが意見を述べた。
 しかし、誰も賛成しない。それどころか、解決案を示さないで、アジア大会の意義を主張する意見が続いた。
 「問題が出たのは、オリンピックを開催する場合の反省点としていいのではないか」と述べた人がいた。アジア大会はオリンピックのリハーサルなのだろうか?

★非現実的でも主張し続ける
 「廃止論は現実的でない」という反論もあった。
 もちろん東京の片隅で少数のグループがアジア大会廃止を主張したところで当事者が耳を傾けるとは思わない。
 アジア競技大会の主催者は、OCA(アジア・オリンピック評議会)で、アジアの各国オリンピック委員会(NOC)の集りである。アジア競技大会をやめるためにはOCAを動かさなければならない。
 OCAは、総合大会集中開催の親玉であるオリンピックの信奉者たちの集まりだから、OCAに大会廃止を期待するのは、確かに非現実的である。
 ぼくは、オリンピックにも反対で、2020年東京大会は返上すべきだと思っている。この主張も非現実的である。
 集中開催に代わるスポーツ大会のあり方を、この研究会で発表したこともある。非現実的に思えても主張すべきことは主張し続けたいと考えている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月22日


メルボルン・オリンピックの時代


小澤通宏さんの思い出話

第75回日本サッカー史研究会
(10月20日 JFAハウス会議室)

★終戦直後の重要な過渡期
 サッカー史研究会の10月例会に、小澤通宏さんに来ていただいた。
 小澤さんは1956年メルボルン・オリンピックに出場した戦後の名ディフェンダーである。今年(2014年度)、サッカー殿堂に掲額された。
 サッカー史研究会も、協会の殿堂委員会も、比較的最近の出来事や戦前の古い時代には目を向ける。しかし、その間をつないだ終戦直後の十数年は、日本のサッカーが大きく変わった非常に重要な時期であるのに見過ごされがちである。
 サッカー史研究会では、その時代を知る小澤さんの話を聞きたいと、かねてから思っていたのだが、広島にお住まいなので東京の研究会にお呼びする機会がなかった。
 今回、母校の筑波大(元東京教育大)のOB会、茗友蹴球クラブの「殿堂入り祝賀会」出席のため上京されたので、その機会に滞在を延ばして、無理をしていただいたわけである。

★幻のヘルシンキ大会代表
 太平洋戦争が終わった直後は、戦前、戦中にボールを蹴っていた人たちが復帰して日本代表チームを作っていた。選手の大半は関東と関西の大学OBで会社勤めだった。
 1951年第1回アジア競技大会(インド・ニューデリー)の代表選手は全員が戦前・戦中派である。
 下調べをしていて気が付いたのだが、日本蹴球(サッカー)協会は、その年の7月に、翌年の1952年ヘルシンキ・オリンピックの代表候補31人を発表している。
 主力はニューデリー・アジア大会に派遣された戦前・戦中派だが、それに10人の大学生を加えている。
 ヘルシンキには、JOC(日本オリンピック委員会)がサッカーを派遣しなかったので「幻の代表候補」に終わったのだが、学生10人を加えたのは、若手を育てて戦前と戦後の断絶を埋めるための努力だろう。

★県立宇都宮高の出身者
 1954年ワールドカップ・スイス大会予選と1954年第2回アジア競技大会(マニラ)の代表に少しずつ戦後派の大学生を加えていって、ほとんどが戦後派に切り替わったのが、1956年のメルボルン・オリンピックだった。
 小澤さんは、メルボルン大会のアジア予選(対韓国)から代表に選ばれた。
 日本でサッカーがあまり普及していない時代だったから、若手も大半は、東京、大阪、広島、静岡などの戦前からサッカーが盛んだった学校の出身者に限られていた。
 そのなかで小澤さんは県立宇都宮高校の出身である。同じ宇都宮高出身者からフォワードの岩淵功も選ばれている。攻めと守りのかなめが宇都宮高出身だったわけである。
 終戦直後の日本のサッカーは、どんな状況だったのだろうか? 栃木県も知られざる「サッカーどころ」だったのだろうか? この時代をもっと調べなければならないと思った。


小澤通宏さん(撮影・阿部博一)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月21日


ブラジルと日本の力の差は?


国際親善試合
ブラジル 4対0 日本
(10月14日 シンガポール=TBSテレビ)

★第三国でのエキジビション
 アギーレ・ジャパンの第2シリーズ第2戦はシンガポールで行なわれた。相手はアジア遠征のブラジルである。
 単独の国際親善試合を、どちらのチームにも関係のない第三国で行うのは普通ではない。
 ブラジルにとってはアジア・ツアーのエキジビションの一つだから、どこの国に遠征してもおかしくないが、日本にとっては、本来なら日本国内で行うべき試合だろう。現在では多くの人たちはテレビで試合を見るので、試合地がどこであっても構わないのだろうか?
 アギーレ監督は、本田圭佑を先発から外し、長友佑都をベンチに置くなど、メンバーを大幅に入れ替えた。
 「来年1月のアジアカップを目標に、いろいろな選手を試している段階だ」ということである。
 そのために、世界の強豪を相手に、弱いチームがさらにメンバーを落として戦うという奇妙な試合になった。

★ネイマールのワンマン・ショー
 ブラジルは安易にメンバーを落とすわけにはいかない。スタジアムを埋めたシンガポールの観衆は、ブラジルのスターを見に来ているからである。
 試合はネイマールが、多彩な個人技を発揮して4ゴールを挙げ、4対0でブラジルが快勝した。
 ブラジルはスパースターのワンマン・ショーで「王国」の健在をアピールできた。
 シンガポールの観衆は、すばらしいプレ―を目のあたりにして満足したに違いない。
 日本チームは、その引き立て役に過ぎなかった。
 日本のファンは、日本のサッカーがブラジルを相手に、どのくらいの勝負が出来るかを見たかっただろう。
 しかし、アギーレ監督が勝負を度外視したメンバー起用をしたので、勝負が問われるような試合にはならなかった。

★点差で評価はできない
 テレビ中継を見た日本のファンは、ブラジルと日本のレベルの差を改めて認識しただろう。
 対戦した若い日本選手は、個人の力の差を思い知っただろう。それが、この試合の収獲だったのかもしれない。
 「もし、このカードがワールドカップの決勝トーナメント一回戦だったら、どうなるだろうか」と考えた。
 日本はネイマールをしっかりマークし、守りを固めて戦うしかないだろう。
 一方、ブラジルは見せることより勝つことが重要だから、2点差をつけたら、それ以上は無理をして攻めようとはしないだろう。
 だから2対0くらいで、終わるかもしれない。しかし、その点差が両国のサッカーのレベルの差でないことは明らかである。
 親善試合の結果や点差で実力を評価できないことを知る必要がある。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月15日


決定力不足を解消するには


キリンチャレンジ国際親善試合
日本 1対0 ジャマイカ
(10月10日 新潟・デンカビッグスワン)

★アギーレJの第2シリーズ
 ジャマイカとの親善試合は「決定力不足」の見本のようだった。
9月のウルグアイ戦、ベネズエラ戦に次ぐ「アギーレ・ジャパン」の第2シリーズ第1戦である。
 日本のシュートは20本もあったが得点は1点だけ。その1点もジャマイカの「オウンゴール」だった。日本のシュートが直接入ったゴールは生まれていない。
 ただし、日本の20本のシュートのほとんどは、いい攻めからのものだった。
唯一の得点も、もとになったのはいい形の攻めだった。左から右へ揺さぶり本田圭佑の切込みから柴崎岳がシュート。それをゴールキーパーがはじいたのが、ディフェンダーに当たってゴールに入った。
 いい攻めをしながら自らのシュートでは点が取れない。だから「決定力不足」である。

★個人のシュート力不足
 試合後の会見でアギーレ監督への質問は「決定力不足」に集中した。
 「決定力不足を解消するには、どうすればいいか」という質問に、アギーレ監督は、こう答えた。
 「繰り返し、繰り返し練習することだ。世界一流のピア二ストも毎日の練習を怠らない」
 これは「個人の決定力不足」についての話である。 
 前半33分に本田圭佑がゴールキーパーと1対1になりながら、キーパーの頭越しのループシュートをはずした。
 こういう場面を見ると日本選手の「個人の決定力不足」を痛感する。持っているはずのシュート力をコンスタントに発揮できないからである。
 個人の技能の向上は選手自身の努力によるほかはない。代表チームの監督が指導して改善できる問題ではない。

★「改善の自信はある」
 「決定力不足を修正する自信があるのか?」という質問があった。
 この質問が「アギーレ監督の指導で選手個人のシュート力を向上させることができるのか?」という意味であれば、見当違いだろう。代表監督の仕事は個々の選手の技量を育てることではない。技量のある選手を選び、その力を生かしたチーム作りをすることである。
 日本代表のストライカーも決定力は持っている。欧州組の岡崎慎司、香川真司も、国内組の武藤嘉紀も、それぞれの所属クラブでゴールを挙げている。「決定力」の持ち主だから代表に選ばれているはずである。
 その技量を代表チームの試合で発揮させることが監督の仕事である。
 アギーレ監督は、こう答えた。
 「自信はある。だから監督を引き受けている」。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月05日


メンヘングラッドバッハ訪問記(下)


女子サッカー普及に貢献
W杯誘致の成果とマイナス

★小学生の女子サッカー大会
 メンヘングラッドバッハ市は、2011年の女子ワールドカップ開催を機会に、女子サッカーの普及に乗り出した。
 その一つが小学校の女の子のためのサッカーである。
 市内に小学校が38校ある。そのうち18校が参加して女子サッカーの「ミニ・ワールドカップ」を開催した。
 ドイツには日本のような学校単位の「部活」はない。男の子は、学校の授業が終わったあと町のスポーツクラブでサッカーをする。
 女の子には、そういう機会がなかったから、市が呼びかけて、女の子が参加する機会を作ったのである。
 「女子ワールドカップの会場を誘致するために、FIFAにアピールする手段として始めた」ということだった。
 しかし、ワールドカップ開催後も3年間続け、およそ1000人の参加者のなかから選ばれた子どももたちを、ボルシア・メンヘングラッドのプロのコーチが指導した。

★分散開催のメリット
 「女子ワールドカップ開催の最大の成果は、女子サッカーの底辺が広がったことだ」という。これはメンヘングラッドバッハ市だけではなく、ドイツ全土について、いえることのようだ。女子ワールドカップ地方分散開催の大きなメリットだろう。
 財政面では、どうだったのだろうか?
 運営費は、大部分がFIFAとドイツ・サッカー協会から交付され、それに入場料収入と地元独自のスポンサー料を加えてまかなった。なお不足した分は市が補助した。
 「スタジアムは、ボルシア・メンヘングラッドバッハが、無償で提供した」という説明だった。スタジアムは、民間クラブの所有なのである。
 これは日本と事情が違うところである。
 日本ではスタジアムの多くは地方自治体(県や市)の所有である。民間の団体が無償で提供することはないだろう。

★FIFAのスポンサー制限
 「運営面で困ったことは?」という質問に、市とクラブの責任者は顔を見合わせてためらいながら、こう答えた。
 「FIFAにスポンサー集めを制限されたことだ」。
  「問題はビールだな」と、ぼくは推測した。
 ドイツでは、ビールは地方ごとに独自の特色があり、別の銘柄がある。その地方のビール会社が、各都市のサッカーのスポンサーになっている。
 大会のスポンサーは3種類ある。FIFAがつける国際的な大企業、その国のサッカー協会がつける国内の大企業、そして開催都市が独自に集める地元企業である。
 ビールについては、FIFAが米国のバドワイザーを国際的スポンサーにしている。ところがドイツでは、ビール会社は地域スポンサーである。
 広告スポンサーは「一業一種」だから、地元のビール会社をスポンサーに出来なかったのだろう。


インタビューに応じてくれた地元の役員。左からボランティアを担当したクリスチアン、市のスポーツ担当部長ボイテン、ボルシア・クラブのクレバーの皆さん。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月04日


メンヘングラッドバッハ訪問記(中)


クラブ優勝が生んだスタジアム
女子W杯の大観衆につながる

★中都市で5万7千人収容
 メンヘングラッドバッハは人口25万5千人余の地方都市である。日本の都市でいえば山形市くらいの規模だろうか?
 その町に「ボルシア・パーク」という豪華なサッカー・スタジアムがある。ブンデス・リーガ1部のFCボルシア・メンヘグラッドバッハの本拠地である。
 スタンドは5万7千人収容で平均入場者数は5万5千人だという。観客席の一部は相手のサポーター用だから、地元のサポーター用は常時、満員だといっていい
 クラブの会員数は6万4千人。全員が応援にくれば入りきれなくなる勘定だ。
 サポーターが多いので、町の規模には不似合な大スタジアムを建設したわけである。
 サッカーが盛んなドイツの中でも、メンヘングラッドバッハ市が特別な「サッカーの町」になった。なぜか?
 「それは、バイスバイラーのおかげだ」というのが、取材先の人たちの一致した意見だった。

★バイスバイラーの功績
 1970年代の初めに、へネス・バイスバイラーが監督としてこのチームを4度優勝させた。それが起爆剤となってドイツナンバーワンの「サッカーの町」になったのだという。
 スタジアムの前には、バイスバイラー監督の写真と、フォクツ、ネッツアーなど当時の主力メンバーの名前を掲げた記念板が建てられていた。
 バイスバイラー監督のおかげでメンヘングラッドバッハは「サッカーの町」になり、豪華な大スタジアムができた。
 現在のスタジアムが計画されたのは2002年、完成したのは2004年である。
 そこで2006年の男子ワールドカップの会場候補地に手を上げた。ワールドカップのために大スタジアムを建設したのではない。町にとって必要だからスタジアムを建設し、それを使ってワールドカップを誘致しようとしたのである。これは重要なポイントである。

★女子W杯でも満員に
 2006年の男子ワールドカップの会場には選ばれなかったが、2011年の女子ワールドカップに再び立候補した。
 ただし、このときは5万7千人収容のボルシア・パークを会場にする予定ではなかった。別の小規模なスタジアムを使うつもりだった。女子サッカーで大観衆を集める見込みがなかったからである。
 しかし、小スタジアムはFIFAの基準に合わなかったので、ボルシア・パークに変更した。
 結果的には、これが大成功だった。
 ボルシア・パークで3試合が行なわれ、どの試合も大スタンドがほとんど埋まった。
 「観客動員のために、かなりの努力をした。しかし、人気はしだいに盛り上がり、準決勝は超満員だった」
 市役所のスポーツ担当責任者、ハラルド・ボイテンさんの話である。
 地元にとっては入場料収入が重要な財源だったので、5万7千人収容の大スタンドは強力な武器になった。
 1970年代の地元クラブ優勝がサッカーの「町づくり」に結びつき、大スタジアム建設につながり、40年後の女子ワールドカップ運営の成功になって実ったのである。


スタジアム前のバイスバイラー監督の記念碑。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2014年10月02日


メンヘングラッドバッハ訪問記(上)


中都市が女子W杯の会場に

★人口25万の地方都市
 ドイツ北西部のメンヘングラッドバッハ市を訪ねた。ふつうの旅行案内書には載っていない程度の地方都市である。
 オランダとの国境に近く、ケルンとデュッセルドルフをつないだ線を底辺にした三角形の頂点に当たる場所にある。
人口25万5千人余。第2次世界大戦前は、石炭が生産されていたルール鉱業地帯の繁栄を享受していた。しかし戦後は中東の国からの石油が石炭にとって変わって衰退した。
 その後、服飾産業で持ち直したが、それも近年は労働力の安い中国などにとって代わられた。
 最近の統計では町の失業率は14%。ドイツ全国平均の11%より高い。いわば「パッとしない」地方の中都市である。
 そんなメンヘングラッドバッハ市が2011年にサッカーの女子ワールドカップドカップを誘致して会場になった。
 「なぜ?」というのが、ぼくの疑問である。

★町を有名にするために
 そのメンヘングラッドバッハを訪ねて取材した。
 「サッカーの世界大会を誘致したのは町の宣伝のためだ」というのが関係者の答えだった。
 取材先は、地元の新聞社のスポーツ記者、市役所のスポーツ部門の責任者、ボルシア・メンヘングラッドバッハの役員などである。
 いずれも2011年の女子ワールドカップ開催のときに重要な仕事をした人たちだった。その人たちが口をそろえて「大会を誘致したのは、町を有名にするためだ」と語った。
 ドイツのサッカー界ではメンヘングラッドバッハ市は、とっくに有名である。ボルシア・メンヘングラッドバッハがブンデス・リーガの有力チームだからである。
 しかし、ワールドカップの開催地になれば、町の名前はさらに世界中に知れわたる。それが狙いだったのだという。
 そのために、2006年の男子ワールドカップの開催地に立候補したが落選した。

★施設と運営能力は十分
 町の規模からみれば男子のワールドカップを開催するのは無理がある。落選したのは、はやむを得なかっただろう。
 そこで、2011年の女子ワールドカップのときに再び会場都市に名乗り出た。
 「ベルリンとフランクフルト以外は中小都市で開催することになっていた。メンヘングラッドバッハは施設や運営能力からみて十分に資格があると思った」という。
 その通りだった。2011年の女子ワールドカップのときに、この町へ取材に訪れたのだが、町の人びとの運営ぶりは、すばらしかった。
 そこで、中小都市での国際大会開催の実際を知りたいと、3年後になって改めて取材に行ったわけである。
 唐突な取材の申し入れに、地元の関係者は快く協力してくれた。


ボルシア・メンヘングラッドバッハの本拠スタジアム


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
     

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.