ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2017年01月10日
東京高師附属中学の貢献
日本サッカー史研究のうち
サロン2002シンポジウム
(12月17日、東京・筑波大学附属高)
★日本へのサッカー移入
「サロン2002」の主催で「太平洋戦争前の日本のスポーツ」をテーマにしたシンポジウムが開かれた。
「サロン2002」は、筑波大学附属高校の中塚義実先生が主催するスポーツ文化の勉強会である。
そのシンポジウムのなかで、ぼく(牛木)が講演をした。
講演のテーマは「日本へのサッカーの移入」だった。
日本へサッカーが入ってきたのは、いつとすべきか?
多くの本に、1873年(明治6年)に、築地の海軍兵学寮で、英国人のダグラス少佐が教えたのが「始まり」だと書いてある。
ぼくの考えは違う。
ダグラス少佐説が間違いだというわけではない。
しかし、ダグラス少佐が、海軍兵学寮で教えたサッカーは、その後、全国には広まらなかった。
日本のサッカーの始まりだとするのは適当でない。
★日本初のサッカー試合
ぼくの考えでは、日本にサッカーが普及し始めたのは、1904年(明治37年)である。
この年の2月6日に東京高等師範学校(現在の筑波大学)のチームが、横浜の外国人クラブに遠征して試合をした。
日本ではじめてのサッカーの対外試合である。
東京高師のチームを編成し、横浜外人との試合を実行したのは、和歌山県那智勝浦町出身の中村覚之助である。
中村覚之助が編成したチームのメンバーが、卒業後、教員として、当時の中等学校の全国に赴任し、サッカーを広めた。
というわけで、日本のサッカー普及のはじまりは、1904年2月6日とすべきだと思う。
2月6日を「サッカー記念日」にしてはどうか?
また、日本にサッカーを紹介し、普及させた功労者は、中村覚之助である。
中村覚之助の業績は、もっと広く知られるべきである
★茗荷谷から始まった
このシンポジウムの会場は、東京文京区茗荷谷の「茗渓会館」だった。筑波大学附属高校の同窓会館である。
会場の2階に、筑波大学附属中・高校のサッカー部の歴史についての展示があった。
それを見学して「日本のサッカーの発展は、ここ(茗荷谷)からはじまったとすべきではないか」と思った。
展示の中に出てくる東京高師附属中学校のサッカーOBのなかに、ぼくが個人的に恩になった先輩の名前が出ている。
一人は新田純興さんである。新田さんは東大サッカー部の創設者で、日本サッカー普及の元祖だと言っていい。
フランス文学の研究者として有名な中島健蔵さんも、高師附属のサッカー部OBである。大学で中島先生の講義を受講したことがある。
日本のサッカー普及のもととなった大先輩が、いまの筑波大附属で育ったことに、改めて気がついた。
サロン2002シンポジウム
(12月17日、東京・筑波大学附属高)
★日本へのサッカー移入
「サロン2002」の主催で「太平洋戦争前の日本のスポーツ」をテーマにしたシンポジウムが開かれた。
「サロン2002」は、筑波大学附属高校の中塚義実先生が主催するスポーツ文化の勉強会である。
そのシンポジウムのなかで、ぼく(牛木)が講演をした。
講演のテーマは「日本へのサッカーの移入」だった。
日本へサッカーが入ってきたのは、いつとすべきか?
多くの本に、1873年(明治6年)に、築地の海軍兵学寮で、英国人のダグラス少佐が教えたのが「始まり」だと書いてある。
ぼくの考えは違う。
ダグラス少佐説が間違いだというわけではない。
しかし、ダグラス少佐が、海軍兵学寮で教えたサッカーは、その後、全国には広まらなかった。
日本のサッカーの始まりだとするのは適当でない。
★日本初のサッカー試合
ぼくの考えでは、日本にサッカーが普及し始めたのは、1904年(明治37年)である。
この年の2月6日に東京高等師範学校(現在の筑波大学)のチームが、横浜の外国人クラブに遠征して試合をした。
日本ではじめてのサッカーの対外試合である。
東京高師のチームを編成し、横浜外人との試合を実行したのは、和歌山県那智勝浦町出身の中村覚之助である。
中村覚之助が編成したチームのメンバーが、卒業後、教員として、当時の中等学校の全国に赴任し、サッカーを広めた。
というわけで、日本のサッカー普及のはじまりは、1904年2月6日とすべきだと思う。
2月6日を「サッカー記念日」にしてはどうか?
また、日本にサッカーを紹介し、普及させた功労者は、中村覚之助である。
中村覚之助の業績は、もっと広く知られるべきである
★茗荷谷から始まった
このシンポジウムの会場は、東京文京区茗荷谷の「茗渓会館」だった。筑波大学附属高校の同窓会館である。
会場の2階に、筑波大学附属中・高校のサッカー部の歴史についての展示があった。
それを見学して「日本のサッカーの発展は、ここ(茗荷谷)からはじまったとすべきではないか」と思った。
展示の中に出てくる東京高師附属中学校のサッカーOBのなかに、ぼくが個人的に恩になった先輩の名前が出ている。
一人は新田純興さんである。新田さんは東大サッカー部の創設者で、日本サッカー普及の元祖だと言っていい。
フランス文学の研究者として有名な中島健蔵さんも、高師附属のサッカー部OBである。大学で中島先生の講義を受講したことがある。
日本のサッカー普及のもととなった大先輩が、いまの筑波大附属で育ったことに、改めて気がついた。
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