サッカー日誌 / 2012年07月31日


男子U-23、初戦チャレンジの成功


ロンドン五輪テレビ観戦記(2)

男子D組
日本 1-0 スペイン
(7月26日 グラスゴー:NHK総合)

★優勝候補スペインを破る
 ロンドン・オリンピック、サッカー男子の初戦は日本が優勝候補のスペインを破る金星だった。
 「グラスゴーの奇蹟」と呼びたいところだが「奇蹟ではない。いい準備をし、それを実行した結果だ」という声が、現地から伝えられている。
 勝因の一つは、日本が初戦に照準を合わせて準備をしたことだろう。一方、スペインは優勝をめざしているので、個人の体調も、チームとしてのまとまりも、まだ仕上がり途上のように見えた。
 組み合わせと日程が決まったとき、初戦はスペインに敗れることを覚悟して、第2戦のモロッコとの試合にピークを持っていく手もあると思った。グループ2位でもベスト8に進出することができるからである。
 しかし、チャレンジする立場であれば、初戦に照準を合わせるのは常道である。

★科学的な体調管理
 関塚隆監督も、選手たちも、初戦のスペインとの戦いに賭けたようだ。
 上位をめざしていれば、どこかの段階で強敵に当たるはずである。それが初戦であっても、そこでチャレンジすることに意義がある。初戦で勝負したのは一つの決断だった。
 初戦で全力を出せるように、日本は「よい準備」をしただろうと思う。
 準備の一つはコンディショニングである。初戦に体調のピークを持って行くように、トレーナーの協力で綿密な調整をしたはずである。
 2年前の南アフリカ・ワールドカップのときに、日本代表チームは、疲労度の測定などに科学的な検査を導入した。
 今回のオリンピックでは日本オリンピック委員会(JOC)が、スポーツ科学による支援体制を準備している。サッカーには、それを有効に活用する下地があったはずだ。

★関塚監督の功績と課題
 もう一つの「よい準備」は相手チームの偵察である。
 相手の大会前の準備試合をスカウトが見て報告する。あるいはビデオを見て、くわしく分析する。ビデオを適切に編集して選手たちに見せる。そういう、いろいろな準備が行われている。
 周到な準備のためには、経費も必要だし、専門のスタッフも必要である。この点でも、日本のサッカーは世界でもトップクラスの恵まれた体制を持っている。
 もちろん、こういう支援体制を活用するのは監督である。
 その意味では、スペイン戦の勝利は、関塚隆監督の功績だと言っていい。
 ただし、問題は「これから」だ。
 初戦にピークをもってきたのであれば、第2戦以降、調子は下り坂になる。それを、どう持ちこたえて、次の勝負どころに持って行くか?それが関塚監督の本当の課題である。

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サッカー日誌 / 2012年07月29日


「なでしこ」初戦、理想の先制点


ロンドン五輪テレビ観戦記(1)

女子F組 
日本 2-1 カナダ
(7月24日 コベントリー:NHK-BS)

★「遊び心」のゴール
 「なでしこJapan」は、ロンドン・オリンピックのトップバッターだった。開会式の3日前にサッカー競技の女子が始まり、日本はグループリーグF組でカナダと対戦して、2対1で勝った。
 「なでしこ」の1点目は、夢のような、みごとな組み立てだった。
 前半33分、左サイドで澤穂希がスローイン。大野忍が受けて澤に折り返し、相手の守りの間を抜けて、その背後に走り込む。そこへ澤が絶妙の浮き球のパスを出した。
 大野は相手の守りを背にしながら持ちこたえる。その外側を回って川澄奈穂美が走り込む。
 大野は、足の裏を使った引き技で、背中側に走り込んだ川澄に渡す。川澄が走り込みざま、的確に右上隅を狙った。
 テレビ解説の宮本恒靖が「遊び心のあるゴールですね」とコメントした。

★夢のコンビネーション
 試合のあとで佐々木則夫監督は「あのプレーは選手たちのイマジネーションです」と話した。
 そのときの状況に応じて、複数の選手たちの頭の中にひらめいたアイデアによるプレーだ、という意味である。
 スローインを投げるとき、澤、大野、川澄は、それぞれ次の展開をイメージしている。ボールが動き出したあと、その瞬間、その瞬間のアイデアがひらめく。
 3人のイメージが、ぴたりと合い,それがつぎつぎに続くことによって、あの夢のコンビネーションが生まれた。
 テレビに繰り返し映し出される再現映像を見ながら、3人の脳のなかで光る「ひらめき」が見えるような気がした。
 こういうプレーを生みだすために、一人一人のテクニックや日常の練習は、もちろん必要である。
 そのうえで、一人一人のクリエーティブな想像力、それを生みだすインテリジェンスが欠かせない。

★後半の失点は「玉に傷」
 インテリジェンス、アイデア、クリエーティブなどカタカナ英語を並べて考えているなかで、テレビ解説の宮本恒靖が使った「遊び心」という表現は、おもしろかった。
 こういうプレーは、練習のなかで教え込んで、できるものではない。
 足の裏を使って後ろにパスを出すプレーなどは、おそらく、練習の前後の仲間同士の「遊び」のなかで試みられていたものだろう。それを、試合のなかで「とっさ」に使いこなす。それがインテリジェンスである。
 「サイドから低いクロスを通す」とか、「相手守備の裏側にスルーパス出す」というような型にはまったサッカーを教え込むだけでは、インテリジェンスは育たない。
 2点目は前半終了間ぎわ、コーナーキックから宮間あやのヘディングだった。
 後半10分に1失点。これは「玉に傷」だった。

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サッカー日誌 / 2012年07月27日


ロンドン五輪、行かざるの記


テレビ観戦に徹しよう。
記者登録には問題も。

★年齢相応、無理は慎む
 このところ「ロンドン・オリンピックを見に行かないんですか?」とよく聞かれる。
 前の年に女子ワールドカップを初めて見に行ったら、思いもかけず「なでしこJapan」が優勝した。「お前が行くのは縁起がいい。オリンピックに行って女子サッカーを応援しろ」ということらしい。
 もともと大混雑のオリンピックは好きでない。しかし、地方都市で行われるサッカーだけを見に行く手はあった。
 だけど、ロンドン・オリンピックを見に行かないことは、前から決めていた。
 理由は個人的なことである。
 6月に満80歳になった。元気なつもりだが、自分のことは自分では分からないものである。現地で倒れたりしたら、ひとびとに迷惑をける。これからは、年齢を考えて無理はしないことに決めている。
 
★記者登録の手続き
 数ヵ月前にFIFAからオリンピック取材登録の案内がメールで来た。FIFAのメディア・チャンネルに登録しているジャーナリストには取材の案内が届くことになっている。
 ただし、オリンピックの場合は、取材承認はFIFAではなく、IOC(国際オリンピック委員会)の権限である。
 IOCからJOC(日本オリンピック委員会)に対して、人数の割り当てが来る。 JOCが主として日本新聞協会を通じて各新聞社への割り当てを決める。
 大手の新聞社では、おそらく20枚以上の取材カードの割り当てを受けているだろう。
 これは、オリンピック全体を取材するための登録である。
 サッカーなど、いくつかの競技では、それ以外に、その競技だけの取材カードが発行される。FIFAからメールが来たのは、この個別カードを申請するための案内である。これも最終的にはIOCの権限である。

★専門記者のための個別カード
 ぼくは、はじめからオリンピックに行かないことに決めていたので、FIFAのメールはもらったが申請はしなかった。
 ぼくの仲間のサッカー専門のフリーランスのライターたちは、もちろん申請をした。ところが、ほとんどは取材カードを認められなかった。新聞社の仕事をしている数人だけが、なんとかカードを手に入れたということだった。
 一つの競技だけしか取材できない個別カードは、もともと、そのスポーツ専門のフリーランス・ライターのために設けられたものである。
 しかし日本では、大手の新聞社が多数の記者をオリンピックに送り込む。割り当てられたカードでは足りない。そこで個別カードも新聞社がとったのだろうと思った。
 ネットやテレビ中継が発達しているので、カードがなくても報道の材料を得られないわけではない。
 ぼくは、今回はテレビ観戦に徹っすることにしている。

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サッカー日誌 / 2012年07月25日


1970~80年代の日本サッカー


日本サッカー史研究会7月例会
(7月23日 東中野テラハウス)

★中野登美雄さんに聞く
 日本サッカー史研究会の7月例会で、元日本サッカー協会事務局長の中野登美雄さんのお話を聞いた。
 中野さんは大学を出たあと5年間、会社に勤めたが、日本サッカーリーグ(Jリーグの前身)の運営に協力したのが縁で1969年に日本サッカー協会の職員になり、1991年に退職するまで23年にわたって協会事務局の仕事を続けた。
だから、1970年~1980年代の日本のサッカーの動きを日本のサッカーの中枢で体験している。
 そのころ、ぼくは読売新聞のスポーツ記者として、サッカー協会を外側から見続けていた。
 外から見ていては、よく分からなかった事情を、内部で体験していた人の思い出話と重ね合わせれば、本当のことが分かるかもしれない。
 そんな思いもあって、中野さんの「今だから話せる」ことに期待した。

★改革を実行し大改革を準備
 日本代表チームの活躍が日本のサッカーの主要な課題だと思っている人がいる。そういう人にとっては1970~80年代は「暗黒の時代」だろう。1968年のメキシコ・オリンピック銅メダルのあと、日本代表チームは低迷を続けた。オリンピックでもワールドカップでもアジア予選で敗れて、決勝大会に出場できなった。
 しかし、日本のサッカー全体を見れば、この20年は、さまざまな改革が行われ、さらに大改革への準備をした「改革の時代」なのである。たとえば次のようなことがあった。
 学校単位だったチーム登録が年齢別の種別に改革された。
 天皇杯にすべてのチームが参加できるようになった。
 少年大会が創設され小学生年代にサッカーが普及した。
 1976年にサッカー協会の役員が大幅に入れ替わった。
 偏狭なアマチュアリズムが支配していた日本のスポーツを変える動きをサッカーが先導し、プロ導入へ踏み切った。
 女子のサッカーがはじまった。

★1990年代以降の発展の基礎
 こういう、さまざまな改革と大改革への準備があったからこそ、1990年代以降のJリーグ創設、ワールドカップ開催、日本代表チームの国際レベルへの上昇が実現したのである。
 中野さんは、その時代の出来事の「生き字引」である。
 しかし、1時間半あまりのサッカー史研究会で、そのすべてを語ってもらうことはできないから、主として次の4つのテーマを取り上げていただいた。
1.FIFA Coaching Schoolの開催(1969年)
2.日本サッカー協会の政権交代(1976年)
3.トヨタカップの日本開催(1981年)
4.ワールドカップ招致の決定(1986年)
 いずれも同時代にぼくが外側から取材していたテーマ、あるいは内側に踏み込んで関係していたテーマである。
 中野さんのお話は、その裏側を解明する興味深いものだった。記録を整理して点検し、歴史に残すべきだと思った。

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サッカー日誌 / 2012年07月24日


オリンピック直前の準備試合


男子
日本 1対0 ベラルーシ(7月18日 ノッティンガム)
日本 2対1 メキシコ(7月20日 ノッティンガム)

女子
日本 0対2 フランス(7月19日 パリ)

★結果に意味はない
 ロンドン・オリンピックの直前に、日本代表チームは男女とも欧州で国際親善試合をした。いわゆる「強化試合」である。
 ただし、この期に及んでチームを「強化」することは目的ではない。外国語の直訳だが「準備試合」と呼ぶ方がいい。
 「準備試合」の目的は2つある。
 一つは、本番で当たる相手と似たタイプのチームと試合に慣れておくことである。
 もう一つは、新たに編成したチームのコンビネーションをテストすることである。
 この種の「準備試合」では結果にはほとんど意味がない。
 勝てば「幸先はいい」が、準備試合に勝って「勢い」をつけて本番に突入することを狙うのは挑戦者の立場のチームの場合である。ベスト8以上を狙うチームであれば、勝ち負けは問題ではない。

★「多様性」を欠く日本
 「なでしこJapan 」は、パリでフランスと準備試合をした。日本と同じレベルで上位争いのライバルである。
 フランスはグループリーグで対戦する相手と似たタイプとはいえない。しかし、上位を狙う女子の場合は、ベスト8以降の対戦相手を想定して適切なカードだったのだろう。
 0対2で日本の負けだった。
 もちろん結果は問題ではない。
 テレビ中継を見ていて、日本のサッカーの弱点は「多様性」がないことだと思った。
 フランスの2点をあげたのは、ともにアフリカ系の選手だった。1点目は逆襲速攻でスピードを生かし、2点目なコーナーキックから高さにものを言わせた。
 かつては、欧州の選手は白人ばかりだった。しかし、いまは、西アフリカやアルジェリア系の選手がいる。その多様性が強みである。

★男子は守備ラインのテスト
 男子は欧州に乗りこんでから2試合をした。
 男子のU-23日本代表は「なでしこ」とは事情が違う。
 「なでしこ」は、前年のワールドカップのときと、ほとんど同じメンバーでオリンピックに臨む。
 一方、男子のU-23はアジア予選を戦ってきたチームとは違う顔ぶれが主力である。欧州組が入り、オーバーエージの補強が加わっている。
 とくに守備ラインが問題である。
 アジア予選のときからセンターバックが問題だった。そのためオーバーエージ枠で吉田麻也と徳永悠平が加えられた。
 吉田は日本で行われたニュージーランドとの「壮行試合」にケガで出られなかった。だから欧州に来てからの2試合は、吉田を加えた守備ラインのテストだった。
 準備試合では、守備ラインはまずまずだった。ただし、本番初戦の対スペインで通用するかどうかは分からない。

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サッカー日誌 / 2012年07月23日


ロンドン五輪サッカー予想


男子はベスト8を期待
女子のベスト4は有力
(7月20日 ビバ!サッカー月例会)

★小澤一郎さんの丁寧な分析
 ビバ!サッカーの7月例会では、直前に迫ったロンドン・オリンピックの「サッカー展望」をテーマにした。
 男子については小澤一郎さんにゲストとして来ていただいて、お話を聞いた。小澤さんは筋の通った考え方で、すぐれた仕事しているサッカージャーナリストである。U-23日本代表の試合を継続して取材して来ている。そのうえ、スペインに5年間、留学した経験があり欧州の事情に詳しい。
 小澤さんは、ボランティアの集まりに過ぎないビバ!サッカーの会のためにも、しっかりと準備をしてきて内容の濃い、丁寧な分析でお話をしてくださった。
 オリンピックで日本男子の初戦の相手はスペインである。
 スペインについて特に詳しい小澤さんの解説を聞くことができたのは有益だった。
 内容については、小澤さん自身の著作やブログを見ていただきたい。
 
★男子はグループリーグ苦戦も
 オリンピックの男子サッカーについて、ぼく自身の予想は「ベスト8が精一杯」というところである。
 初戦のスペインは優勝候補で、おそらく日本とはレベルが一段違う。日本が勝つのは難しい。だから、日本は第2戦のモロッコに照準を合わせるべきではないか?
 グループ2位でもベスト8に進出できる。だから、スペイン戦は負けても、モロッコとホンジュラスから確実に白星をあげるのがいい。これが無責任なぼくの考えである。
 しかし、これは現実的ではないようだ。小澤さんによれば関塚監督も選手たちも「スペイン戦に照準を合わせている」という。それも当然のことで、初めから「負けてもいい」という試合をするわけにいかない。
 初戦のスペイン戦に全力を傾けて敗れると、第2戦のモロッコとの試合が苦しくなる。そうするとグループリーグ敗退の可能性もある。

★「なでしこ金」の可能性は30%以下
 男子がグループリーグ2位抜けでベスト8に出ると、準々決勝の相手はおそらくブラジルである。いまのU-23日本代表のレベルでは、ここで勝つのは難しいと思う。
 女子の展望については、「なでしこ」に詳しいビバ仲間のライター上野直彦さんに解説してもらう予定だった。ところが上野さんが当日の朝に発熱し参加できなくなった。
そこで、やむなく、ぼくがピンチヒッターで、多少の解説をした。
 前年の女子ワールドカップからの短い取材経験による考えだが「なでしこJapan」が金メダルを取る可能性は30%以下だと思う。最有力は米国で、そのほかは、日本、ブラジル、英国、フランス、スウェーデンなどに決勝進出の可能性が十分ある。
 「なでしこJapan」の最初の関門は準々決勝だろう。ベスト4の望みは十分だが予断を許さない。


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サッカー日誌 / 2012年07月21日


新聞報道の移り変わり


オリンピックとメディア(下)
(スポーツ・メディア論断章)

★元選手を解説に起用
 ロンドン・オリンピック2012を前に朝日新聞が、ページ全面を使って「報道体制」についての記事を出した。
 主要な競技について、それぞれ元有名選手を解説者として依頼し、現地から専門家としてのコメントを掲載するという「お知らせ」である。
 テレビでは、これはふつうである。元有名選手を解説者として起用している。
 新聞でも、そういう前例が、まったくないわけではないが、これほど大掛かりにPRして外部の元選手を起用するのは、一般紙では珍しいのではないかと思った。
 もう20年以上前、ぼくが読売新聞のスポーツ記者だったときの話だが、そのころはオリンピックに派遣する記者の数は運動部(スポーツ部)からは数人だった。したがって、それぞれ日常の仕事では担当していない競技を、オリンピックのときだけカバーするのがふつうだった。
 
★専門家利用の試み
 水泳や体操のような、当時の日本のメダル期待種目を、いわばシロートが担当するわけである。そのため「見当違い」の報道が行われたこともある。
 オリンピック報道のキャップを務めていたとき、そういう「見当違い」を防ぐために、それぞれの競技について協力者を求めることを考えた。
 主要なメダル期待競技について、その競技の出身者で現地に見に行く元選手に特別に協力してくれるように依頼したのである。
 しかし、うまくいかなかった。というのは、観戦に行っている元選手は、日本が出場しているときは現場で夢中になっている。一方、新聞記者のほうは、一刻一秒を争う速報が重要だから、スタンドにいる協力者のところへ行って解説をじっくり聞いている時間の余裕がない。
 というわけで、元選手利用の試みは効果をあげなかった。

★新聞報道がテレビ並みに
 現在は事情がまったく違う。オリンピックに派遣するスポーツ記者は主要な一般紙では数十人単位である。
 したがって、メダルを期待されるような競技については、それぞれ、日常その競技を担当している記者が派遣される。たとえば「なでしこJapan」の担当は、ふだんから女子サッカーの担当記者である。
 新聞社のスポーツ記者は必ずしも担当競技の出身者ではない。しかし、ある程度の期間、その競技を担当していれば、かなりの専門的知識があるはずである。
 そうであれば、元有名選手の解説者を依頼するよりも、自社のスタッフライターの取材実績と筆力を使うほうが、いいのではないかと考えた。
 おそらくは、これは技術的に必要なのではなく、元有名選手のネームバリューの利用だろう。
 新聞報道もテレビのようになってきたと思う。 

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サッカー日誌 / 2012年07月20日


テレビ・カラー中継のはじまり


オリンピックとメディア(中)
(スポーツ・メディア論断章)

★東京五輪のバレーボール中継
 最近公開された映画のなかに、次のような場面があったらしい。ぼく自身は、その映画を見ていない。新聞の記事で読んだ話である。
 1964年の東京オリンピックのときに、女子バレーボールで日本が金メダルを取った。決勝でソ連を破った劇的な試合に多くの人びとが熱狂した。映画には、その試合のテレビ中継を見るために、人びとが街頭のカラーテレビに集まる場面があるらしい。東京オリンピックでは開閉会式とバレーボールなど8競技がカラーでテレビで中継された。
 「そのころ、まだ街頭テレビがあったのかな?」と、ちょっと疑問がわいた。日本でテレビ放送が始まったのは1953年である。その初期には、テレビの受信機を持っている家庭は、ほとんどなかった。そこで、駅前広場などにテレビを置いて多くの人たちが見ることのできるようにした。これが「街頭テレビ」である。

★カラーのための街頭テレビ
 東京オリンピックのころには、各家庭にテレビがかなり普及していたはずである。もう「街頭テレビ」の時代は終わっていたのではないか、と思った。
 ぼくが結婚したのは、東京オリンピックの3年前である。そのとき、妻の嫁入り道具の目玉は「テレビ受信機」だった。そのころから、テレビは急速に普及したように記憶している。1964年には、かなり多くの家庭にテレビ受信機があったはずである。ただし、ほとんど白黒である。
 街頭に多くの人びとが集まってオリンピックの中継をいっしょに見たのだとすれば、それはカラーで見るためだったのだろうか?
 日本でカラー放送が始まったのは1960年だが、カラーの受信機は高価だったから、なかなか普及しなかった。
 家庭にあるのは白黒の受信機だから、カラーで見るための「街頭テレビ」が設置されたのだろう。

★メキシコ五輪の衛星中継
 ぼくの家庭でカラーの受信機を入れたのは、1968年メキシコ・オリンピックのあとである。
 当時、読売新聞の運動部で「受けデスク」をしながら、日本テレビのオリンピック番組でサッカーの解説をした。日本が銅メダルまで進んだおかげで出番が予定より多くなった。
 毎日のようにテレビ局のスタジオに行って、メキシコから送られてくるカラーの映像が美しいのに目を丸くしていた。それで、オリンピックが終わってから、思い切ってカラー受信機に買い替えた。このころから、カラーテレビが一般に普及し始めたのだと思う。
 東京オリンピックでは、一部の競技だけカラーで中継された。また米国へ向けて初の衛星中継が行われた。
 メキシコ・オリンピックでは、世界へ向けてカラーの衛星中継が全面的に行われた。メキシコ五輪は「カラー時代のはじまり」だったと言えるかもしれない。

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サッカー日誌 / 2012年07月19日


ラジオが伝えた「前畑がんばれ」


オリンピックとメディア(上)
(スポーツ・メディア論断章)

 1993年から2006年まで関西の大学に勤めていた。その間に本務校の兵庫大学のほかに、関西大学、龍谷大学、和歌山大学などで「スポーツとメディア」についての講義をした。新聞社での長年のスポーツ記者としての経験を中心に話をしたのだが、一方で、その分野の学会などにも、こまめに参加して本職の研究者の話も聞いた。
 そのときに思ったのは、アカデミズムとジャーナリズムの考え方には、かなりの差があることである。
 「どちらかが正しい」ということではない。しかし、メディア現場の出身者が、自分たちの経験をアカデミックな研究者に伝えるのも必要なことではないかと思った。
 というわけで、新聞記者として考えた「スポーツ・メディア論」の「きれぎれ」(断章)を、思いついたときに書き残しておくことにする。

★新聞漫画「江戸っ子健ちゃん」
 大学で「スポーツとメディア」について講義することになったとき、突然、思い出したのは、子どものころに見た新聞連載の4コマ漫画である。
 漫画の内容は覚えていたものの現物を探し出すのには苦労した。
 朝日新聞に連載されていた横山隆一の「フクちゃん」だと記憶していたが、ネットで検索しても見つからない。広島の「漫画博物館」に行けば分かるだろうと言われて、わざわざ広島に出かけた。その結果「フクちゃん」の前身の「江戸っ子健ちゃん」というタイトルの連載だったことが分かった。最初は健ちゃんが主人公だったのだが、副主人公のフクちゃんのほうに人気が出て、のちにタイトルが変わったらしい。
 広島の博物館には単行本として出版されたものが保存されていた。ところが、その本はガラスのケースのなかに展示されていて貸し出してくれない。
 
★深夜の五輪ラジオ中継
 しかし、掲載されている本を特定できたので、古書店のネットで探してもらい購入することができた。たしか2万5千円くらいしたと思う。子供向けの古本は思いのほかに高価なのである。発行部数は多かったはずだが、子どもたちが読むので破損する。そのため、ちゃんと保存されて残るのが少ないのだろうと思った。
 さて、その4コマ漫画の内容である。
 1936年(昭和11年)の夏である。健ちゃんの「おじいちゃん」がラジオを聞いている。クーラーのない時代だから、風通しの良い縁側で聞いている。
 ベルリンからのオリンピックの中継である。「前畑がんばれ、前畑がんばれ」とアナウンサーが絶叫している。
 時差があるので、ベルリンからの実況中継は真夜中だ。
 「おじいちゃん。深夜ですよ。ご近所の迷惑ですから、ボリュームを下げて」と家族が注意する。

★電波メディアの登場
 おじいちゃんが、あわててボリュームを落とす。
 すると、暗闇の中から、ご近所の人たちが叫ぶ。「音を大きくしろ!」
 この4コマは、いろいろなことを教えてくれる。
 第一に、1936年にラジオがオリンピック報道に大きな役割を果たしていたことである。短波放送で聞きとりにくかったはずだが、それでも、多くの人びとがラジオによってスポーツに大きな関心を持ったのである。
 第二に、そのころはまだラジオがあまり普及していなかったことが分かる。健ちゃんの家の近所では、ラジオを持っている家庭は少なかったのである。
 第三に、活字メディアの新聞が、電波メディアのラジオの登場に重大な挑戦を受けていたことが想像できる。ラジオの同時性と速報性に新聞はどう対応したのだろうか?
 これは、スポーツ・メディア論の重要なテーマだろう。



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サッカー日誌 / 2012年07月16日


川淵三郎の業績評価


「百年構想」の路線を敷く

★満塁本塁打の強打力
 まず、お詫びして訂正をさせていただきたい。
 7月5日掲載の「サッカー協会の新体制(7)」の中で「川淵三郎元会長が強打力で大量点をあげた」と書いたのは勘違いだった。川淵が豪腕をふるって成果を挙げたのはJリーグ創設当時である。日本サッカー協会の会長になるより前の話だった。
 1989年から1991年にかけて、川淵は日本サッカー協会のプロリーグ検討委員会委員長、プロリーグ設立準備室長などを務め「プロ化」にあたっての、さまざまな抵抗や困難を強引に乗り越えた。これは川淵の「強打力」によるもので、それがJリーグ創設という満塁本塁打になった。
 もちろん、川淵選手が打席に立つ前に、他の選手が、こつこつと相手投手を打ち崩していたことを無視することはできない。満塁本塁打になったのは、先行の打者が安打や四死球で塁を埋めていてくれていた「おかげ」である。

★Jリーグのチェアマンとして
 とはいえ、決勝打を放った人が、はなばなしく大見出しになるのは世の常である。Jリーグ創設のときの突破力は大見出しの価値があった。
 そのあと、川淵は1991年から2002年まで足掛け12年にわたってJリーグのチェアマン(会長)を務めた。
 チェアマンの主要な任務は「リーグの運営」である。その点の業績については評価が分かれるところだろう。
 スタートしたばかりのプロリーグ運営を軌道に乗せ、プロ野球に並ぶイベントにしたのは大きな功績である。
 一方、個人的な思いこみを性急に押しつけたのはマイナス面だった。
 「決着がつかないのは嫌いだ」と引き分けをやめさせ、延長サドンデスやPK戦をリーグで試みた。世界のサッカーの伝統的な考え方や実情に無知だったとしか思えない。結局は欧米のリーグ先進国と同じ方式に落ち着いた。

★JFA会長として
 日本サッカー協会(JFA)の会長は2002年から2008年まで3期6年務めた。日韓ワールドカップのあとである。
 このときの課題は「ワールドカップ日本開催の遺産を日本のサッカーの将来につなぐ」ことだった。結果としては「課題は実行されつつある」と言っていいだろう。
 Jビレッジなどトレーニング施設の整備や「Jリーグ百年構想」の打ち出しなどは、長沼健、岡野俊一郎が会長のころのことだが、当時、JFA副会長だった川淵チェアマンがリーダーシップを発揮したと思う。
 「Jリーグ百年構想」は、川淵がJリーグのチェアマンだったときのスローガンである。
 芝生のグラウンド作りやスポーツクラブの提唱は川淵チェアマンのオリジナリナルではない。しかし文部科学省や日本体育協会がやるべき仕事をJリーグで先取りして実行に移そうとしているのは「川淵突破力」によるものだろうと思う。

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