ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2008年09月22日
米沢の「ビバ仲間」宍戸義一さんを悼む
アビーカ米沢理事長、9月15日逝去
★アイデアと実行の人
山形県米沢市でユニークな活動を続けていた宍戸義一さんが9月15日に亡くなられた。56歳。NPO法人「アビーカ米沢スポーツクラブ」理事長で、ビバ!サッカーのメンバーだった。
小学校のサッカー・スポーツ少年団「米沢南部キッカーズ」からスタートし、文部科学省が「総合型スポーツクラブ」を推奨しはじめると「待ってました」とばかりに、欧州や南米にあるような、サッカーを中心にした多世代、多種目の地域クラブをめざして動き出した。広く世界に目を配り、鋭く世の中の流れを感じとることのできる人だった。
まず必要なのは、みなが集まれる場所である。近くの「南米沢」駅が無人駅になって、広い待合室が空いているのに目をつけ、JRに交渉して借り受けることに成功した。意外なことを思いつき、すぐ実行に移す人である。
★ビバ!サッカーとの出会い
クラブ名の「アビーカ」も宍戸さんが考えた。地元名産の「りんご」(アップル)、米沢牛(ビーフ)、鯉(カープ)の英語を組み合わせたものである。
ビバ!サッカーと出会ったのは2003年である。当時「読売・日本テレビ文化センター北千住」で開いていた「ビバ!サッカー講座」で各年代のプレーヤーの育て方を取り上げていた。それを「サッカー・マガジン」で読んで参加を申し込んできた。
月2回の講座に米沢から東京まで新幹線日帰りで通った。講座のあと「延長戦」と称して飲み会をするが、新幹線の最終で帰るため出られないのを残念がっていた。泊りがけで参加したこともある。
当時、すでに骨髄の病気にかかっていた。難病と戦いながら、地方の中都市にスポーツクラブを根付かせるには、どうしたらいいかを考え、試み続けていた。
★ドイツ・ツアーに申込んでいたが……
2006年のドイツ・ワールドカップに、ぼくたちの仲間といっしょに観戦に行こうと計画していたが果たせなかった。2年後のことし「クラマーさんを訪ねるドイツ・ツアー」にも申し込んでいた。
この二つのツアーでドイツのクラブ運営を視察したのは、もともと宍戸さんの希望でありアイデアだった。今回のツアーはクラマーさんのアレンジのおかげで収穫が多かった。それだけに「無理しないでください」と宍戸さんを止めたのがよかったのかどうか、悔やまれる思いもする。
9月19日の葬儀・告別式に、仲間といっしょに東京から出かけて参列した。地元のサッカー関係者の弔辞は、志なかばで去った同志を思って、みな涙ながらだった。米沢にスポーツクラブが根付くために、なんとか協力できないものかと思っている。
★アイデアと実行の人
山形県米沢市でユニークな活動を続けていた宍戸義一さんが9月15日に亡くなられた。56歳。NPO法人「アビーカ米沢スポーツクラブ」理事長で、ビバ!サッカーのメンバーだった。
小学校のサッカー・スポーツ少年団「米沢南部キッカーズ」からスタートし、文部科学省が「総合型スポーツクラブ」を推奨しはじめると「待ってました」とばかりに、欧州や南米にあるような、サッカーを中心にした多世代、多種目の地域クラブをめざして動き出した。広く世界に目を配り、鋭く世の中の流れを感じとることのできる人だった。
まず必要なのは、みなが集まれる場所である。近くの「南米沢」駅が無人駅になって、広い待合室が空いているのに目をつけ、JRに交渉して借り受けることに成功した。意外なことを思いつき、すぐ実行に移す人である。
★ビバ!サッカーとの出会い
クラブ名の「アビーカ」も宍戸さんが考えた。地元名産の「りんご」(アップル)、米沢牛(ビーフ)、鯉(カープ)の英語を組み合わせたものである。
ビバ!サッカーと出会ったのは2003年である。当時「読売・日本テレビ文化センター北千住」で開いていた「ビバ!サッカー講座」で各年代のプレーヤーの育て方を取り上げていた。それを「サッカー・マガジン」で読んで参加を申し込んできた。
月2回の講座に米沢から東京まで新幹線日帰りで通った。講座のあと「延長戦」と称して飲み会をするが、新幹線の最終で帰るため出られないのを残念がっていた。泊りがけで参加したこともある。
当時、すでに骨髄の病気にかかっていた。難病と戦いながら、地方の中都市にスポーツクラブを根付かせるには、どうしたらいいかを考え、試み続けていた。
★ドイツ・ツアーに申込んでいたが……
2006年のドイツ・ワールドカップに、ぼくたちの仲間といっしょに観戦に行こうと計画していたが果たせなかった。2年後のことし「クラマーさんを訪ねるドイツ・ツアー」にも申し込んでいた。
この二つのツアーでドイツのクラブ運営を視察したのは、もともと宍戸さんの希望でありアイデアだった。今回のツアーはクラマーさんのアレンジのおかげで収穫が多かった。それだけに「無理しないでください」と宍戸さんを止めたのがよかったのかどうか、悔やまれる思いもする。
9月19日の葬儀・告別式に、仲間といっしょに東京から出かけて参列した。地元のサッカー関係者の弔辞は、志なかばで去った同志を思って、みな涙ながらだった。米沢にスポーツクラブが根付くために、なんとか協力できないものかと思っている。
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サッカー日誌 / 2008年09月21日
こんな充実したツアーは2度とできない
クラマーさんへの感謝の旅(12)
9月2日(火)ミュンヘン空港から帰国の途へ
★ガウティングホフ
2泊した「ガウティングホフ」は、ミュンヘンの中心から電車(Sバーン)で約30分の郊外。欧州の町によくある朝食付きの家族的小ホテルのちょっと大きめといったところである。
管理者はドイツ人と結婚している日本人のご婦人。日本語ができるので安心だ。このご婦人のお嬢さんが、ぼくたちが日本を出発する前に来日していて、ビバ!サッカー研究会のある渋谷の事務所で「企業実習」をしていた。先にドイツに戻っていたお嬢さんは、今回、ツアー・メンバーの買い物の案内などをしてくれた。
実は、このホテルは中条一雄さんと明石真和さんが2年前にクラマーさんを取材に来たときに泊まったことのあるところだった。今回のツアーを企画したとき、ミュンヘン市内のホテルがみな満員で困っていたら、明石さんが紹介してくれたのである。
★縁は異なもの、有益なもの
ちょっとした縁が、どんどんつながって、いいほうへ広がっていく。今回のツアーはその連続だった。ミュンヘンでいいホテルに世話になれたのも、その一つである。
このツアーを計画したとき、ドイツ国内を列車で移動するつもりだった。ところが、同じ渋谷の事務所で旅行業「国際力.COM 」をやっている仲間が「プロの添乗員のいない団体旅行で列車は無理」と大型バスを借り切ることにしてくれた。これも大正解だった。
現地の旅行業者を紹介してくれたのはドイツ文化協会の方だった。2年前のワールドカップの前にビバ!サッカー研究会に招いてお話を聞いた縁だった。ライト・イム・ヴィンクルでのバスは、クラマーさんが自分で手配してくれた。
バイエルン・ミュンヘンの試合観戦の手配も、クラマーさんが「ルンメニゲに話しておく」と引き受けて切符を取り寄せてくれていた。
★充実した7泊8日の旅
たまたまドイツへ短期留学中の八林秀一さんが無理をして現地で加わってくれた。八林さんは,東大サッカー部の後輩で専修大学教授、ドイツ経済史が専門である。明石さんに協力してクラマーさんの長い演説の通訳を手伝ってくれた。
ツアーの中にはお医者さんもいた。これは役に立たないほうが望ましかったが、働きすぎた明石さんに軽い痛風が出て最後にお世話になった。
「こんな豪華スタッフに面倒を見てもらえるツアーを2度はできないな」と思う。クラマーさんのおかげ、中条さんのおかげが大きいが、ビバ!サッカーのまわりに、有能で、いい人ばかり集まってくれている。幸運というほかはない。
ドイツ滞在最後の日。午前中は思い思いに出かけたり、ホテルで荷作りしたり。昼過ぎに専用バスでミュンヘン空港へ。充実した7泊8日の旅だった。
9月2日(火)ミュンヘン空港から帰国の途へ
★ガウティングホフ
2泊した「ガウティングホフ」は、ミュンヘンの中心から電車(Sバーン)で約30分の郊外。欧州の町によくある朝食付きの家族的小ホテルのちょっと大きめといったところである。
管理者はドイツ人と結婚している日本人のご婦人。日本語ができるので安心だ。このご婦人のお嬢さんが、ぼくたちが日本を出発する前に来日していて、ビバ!サッカー研究会のある渋谷の事務所で「企業実習」をしていた。先にドイツに戻っていたお嬢さんは、今回、ツアー・メンバーの買い物の案内などをしてくれた。
実は、このホテルは中条一雄さんと明石真和さんが2年前にクラマーさんを取材に来たときに泊まったことのあるところだった。今回のツアーを企画したとき、ミュンヘン市内のホテルがみな満員で困っていたら、明石さんが紹介してくれたのである。
★縁は異なもの、有益なもの
ちょっとした縁が、どんどんつながって、いいほうへ広がっていく。今回のツアーはその連続だった。ミュンヘンでいいホテルに世話になれたのも、その一つである。
このツアーを計画したとき、ドイツ国内を列車で移動するつもりだった。ところが、同じ渋谷の事務所で旅行業「国際力.COM 」をやっている仲間が「プロの添乗員のいない団体旅行で列車は無理」と大型バスを借り切ることにしてくれた。これも大正解だった。
現地の旅行業者を紹介してくれたのはドイツ文化協会の方だった。2年前のワールドカップの前にビバ!サッカー研究会に招いてお話を聞いた縁だった。ライト・イム・ヴィンクルでのバスは、クラマーさんが自分で手配してくれた。
バイエルン・ミュンヘンの試合観戦の手配も、クラマーさんが「ルンメニゲに話しておく」と引き受けて切符を取り寄せてくれていた。
★充実した7泊8日の旅
たまたまドイツへ短期留学中の八林秀一さんが無理をして現地で加わってくれた。八林さんは,東大サッカー部の後輩で専修大学教授、ドイツ経済史が専門である。明石さんに協力してクラマーさんの長い演説の通訳を手伝ってくれた。
ツアーの中にはお医者さんもいた。これは役に立たないほうが望ましかったが、働きすぎた明石さんに軽い痛風が出て最後にお世話になった。
「こんな豪華スタッフに面倒を見てもらえるツアーを2度はできないな」と思う。クラマーさんのおかげ、中条さんのおかげが大きいが、ビバ!サッカーのまわりに、有能で、いい人ばかり集まってくれている。幸運というほかはない。
ドイツ滞在最後の日。午前中は思い思いに出かけたり、ホテルで荷作りしたり。昼過ぎに専用バスでミュンヘン空港へ。充実した7泊8日の旅だった。
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サッカー日誌 / 2008年09月20日
ベッケンバウアーの生家を訪ねる
クラマーさんへの感謝の旅(11)
9月1日(月)午後、ミュンヘン市内
★買い物と見物の予定を変更して
「クラマーさんに感謝するドイツの旅」で、ずっとドイツ語の通訳をしてくれたのは明石真和さんである。駿河台大学のドイツ文学、ドイツ語の教授で『栄光のドイツサッカー物語』(大修館書店)の著者だ。中条一雄さんが『デットマール・クラマー、日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社)を書くための取材で、クラマーさんを訪ねてインタビューしたとき、2回にわたって1週間ずつ同行して協力した。そのおかげで、今回のツアーの企画が生まれ、実行できたのである。
その明石さんが「ベッケンバウアーの育った家が、そう遠くないところにあるはずだから探してみる」という。バイエルン・ミュンヘンのクラブを訪ねたあとである。
市の中心部に出てもう少し見物や買い物をする予定の人もいたのだが、みな「それは面白い」とぞろぞろ、ついて行った。
★赤煉瓦の壁に「くぼみ」があるか?
これには、ちょっとした伏線がある。クラマーさんが、こんな話をしたことである。
「ベッケンバウアーが18歳のころ、知り合ったばかりだったが、自分の家に案内してくれたことがある。近くに赤煉瓦の壁があった。子どものころ、小さなボールを蹴って、1か所に当てる練習を毎日繰り返したために、壁にくぼみができていた」
ほんとだろうか? いまでも赤煉瓦の壁に「ベッケンバウアー苦辛の跡」のくぼみがあるだろうか?
明石さんが本で読んで覚えていた通りの名前を頼りに市街電車で出かけた。
「オストフリートホフ」という市電の交差点で降りて、ちょっと歩くと、その通りはすぐ見つかった。ツークシュピッツ通り6番地。歩いていたおじさんに尋ねたら「それはここだよ。今は住んでいないけどね」と、すぐ教えてくれた。
★少年時代のクラブの跡も
別に表示があるわけではない。なんの変哲もない4階プラス屋根裏部屋の白い壁の市街地アパートだった。昔は「聖ボニファティウス広場」という地名だったという。
通りの向かい側に小さな公園のようなスポーツ施設があった。あとで明石さんが調べてくれたところによると、ベッケンバウアーが初めて所属したクラブ、SC(ギージング)1906のあったところだという。少年フランツは、ここからバイエルン・ミュンヘンへ移籍したのである。
近くの別の通りに長い赤煉瓦の壁があった。霊園の塀の外側だった。「くぼみ」があるかどうかは確かめられなかった。
ぼくたちツアーの一行は、平凡な街のアパートを背景に、ぱちぱち写真を撮って、おおいに満足した。
9月1日(月)午後、ミュンヘン市内
★買い物と見物の予定を変更して
「クラマーさんに感謝するドイツの旅」で、ずっとドイツ語の通訳をしてくれたのは明石真和さんである。駿河台大学のドイツ文学、ドイツ語の教授で『栄光のドイツサッカー物語』(大修館書店)の著者だ。中条一雄さんが『デットマール・クラマー、日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社)を書くための取材で、クラマーさんを訪ねてインタビューしたとき、2回にわたって1週間ずつ同行して協力した。そのおかげで、今回のツアーの企画が生まれ、実行できたのである。
その明石さんが「ベッケンバウアーの育った家が、そう遠くないところにあるはずだから探してみる」という。バイエルン・ミュンヘンのクラブを訪ねたあとである。
市の中心部に出てもう少し見物や買い物をする予定の人もいたのだが、みな「それは面白い」とぞろぞろ、ついて行った。
★赤煉瓦の壁に「くぼみ」があるか?
これには、ちょっとした伏線がある。クラマーさんが、こんな話をしたことである。
「ベッケンバウアーが18歳のころ、知り合ったばかりだったが、自分の家に案内してくれたことがある。近くに赤煉瓦の壁があった。子どものころ、小さなボールを蹴って、1か所に当てる練習を毎日繰り返したために、壁にくぼみができていた」
ほんとだろうか? いまでも赤煉瓦の壁に「ベッケンバウアー苦辛の跡」のくぼみがあるだろうか?
明石さんが本で読んで覚えていた通りの名前を頼りに市街電車で出かけた。
「オストフリートホフ」という市電の交差点で降りて、ちょっと歩くと、その通りはすぐ見つかった。ツークシュピッツ通り6番地。歩いていたおじさんに尋ねたら「それはここだよ。今は住んでいないけどね」と、すぐ教えてくれた。
★少年時代のクラブの跡も
別に表示があるわけではない。なんの変哲もない4階プラス屋根裏部屋の白い壁の市街地アパートだった。昔は「聖ボニファティウス広場」という地名だったという。
通りの向かい側に小さな公園のようなスポーツ施設があった。あとで明石さんが調べてくれたところによると、ベッケンバウアーが初めて所属したクラブ、SC(ギージング)1906のあったところだという。少年フランツは、ここからバイエルン・ミュンヘンへ移籍したのである。
近くの別の通りに長い赤煉瓦の壁があった。霊園の塀の外側だった。「くぼみ」があるかどうかは確かめられなかった。
ぼくたちツアーの一行は、平凡な街のアパートを背景に、ぱちぱち写真を撮って、おおいに満足した。
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サッカー日誌 / 2008年09月18日
GKカーンが 引退試合に備え練習中
クラマーさんへの感謝の旅(10)
9月1日(月)午後、バイエルン・ミュンヘン
★お土産にも対抗意識
TSVミュンヘン1860のレストランで昼食をとったあと、もう一つの有名クラブヘ。歩いて10分ほどである。
皆さん、TSVミュンヘン1860のショップで、お土産をどっさり買い込んで、青と白の縦じまの袋をぶら下げている。バイエルン・ミュンヘンのクラブの入り口でたむろしている人に「来た場所が違うんじゃないか」とからかわれた。「ここへ来るなら赤い袋だろ」というわけである。
90分後、バイエルン・ミュンヘンのショップでもお土産を買い、赤い袋もぶら下げて外へ出たら、二つの袋を見比べて「不公平だ」と言う。先に行ったほうで大量に買ったので、赤い袋が小さいのは、やむをえないところだった。
ミュンヘン2大クラブの対抗意識は相当のものである。
★元代表同士の豪華GK練習
道路に沿ったクラブハウスは、さらに新しい建物が継ぎ足されていて、以前に訪ねたときよりも、もっと細長くなっていた。その裏側に5面のグラウンドがある。ここも1面は人工芝になっていた。
午後だったので一軍の練習はすでに終わっていたが、翌日に引退試合を控えた元ドイツ代表GKのオリバー・カーンが居残り練習をしていた。その相手を務めているGKコーチは元ドイツ代表のゼップ・マイヤーだった。
豪華なGK練習を見ていると、3日前にブンデス・リーガ3部で試合を見た2軍のメンバーが練習に出てきた。監督のゲルト・ミュラーが、また、にこやかに握手してくれた。
翌日のカーンの引退試合では、6万9千人がスタンドを埋めたと報道されていた。ドイツ選抜を相手に1対1だった。
★ファンがカーンを相手にPK
カーンが練習を一時、中断してファンサービスをした。
カーンがゴールを守り、中年のおじさんがペナルティキックを蹴る。あきらかにプレー経験のないシロートで、ゆるいボールを蹴っても、枠を大きく外れる。
枠に向かってくるとカーンはわざと反対側に飛んで入れさせてやる。
引き分け後のシュートアウトのように5本蹴らせるのかと思って見ていたら、7本蹴らせて2本入った。おじさんは「カーンから2点とった」と大喜びだった。
「募集して抽選で当たった人じゃないか」と仲間の一人が推察していた。
あとで聞いた話だが、引退試合でもサポーターがカーンを相手にPKを蹴る余興があり、10人が1本ずつ蹴って、入れた人には賞金を渡し、はずした人の分の賞金は社会事業に寄付したという。面白いファンサービスである。
9月1日(月)午後、バイエルン・ミュンヘン
★お土産にも対抗意識
TSVミュンヘン1860のレストランで昼食をとったあと、もう一つの有名クラブヘ。歩いて10分ほどである。
皆さん、TSVミュンヘン1860のショップで、お土産をどっさり買い込んで、青と白の縦じまの袋をぶら下げている。バイエルン・ミュンヘンのクラブの入り口でたむろしている人に「来た場所が違うんじゃないか」とからかわれた。「ここへ来るなら赤い袋だろ」というわけである。
90分後、バイエルン・ミュンヘンのショップでもお土産を買い、赤い袋もぶら下げて外へ出たら、二つの袋を見比べて「不公平だ」と言う。先に行ったほうで大量に買ったので、赤い袋が小さいのは、やむをえないところだった。
ミュンヘン2大クラブの対抗意識は相当のものである。
★元代表同士の豪華GK練習
道路に沿ったクラブハウスは、さらに新しい建物が継ぎ足されていて、以前に訪ねたときよりも、もっと細長くなっていた。その裏側に5面のグラウンドがある。ここも1面は人工芝になっていた。
午後だったので一軍の練習はすでに終わっていたが、翌日に引退試合を控えた元ドイツ代表GKのオリバー・カーンが居残り練習をしていた。その相手を務めているGKコーチは元ドイツ代表のゼップ・マイヤーだった。
豪華なGK練習を見ていると、3日前にブンデス・リーガ3部で試合を見た2軍のメンバーが練習に出てきた。監督のゲルト・ミュラーが、また、にこやかに握手してくれた。
翌日のカーンの引退試合では、6万9千人がスタンドを埋めたと報道されていた。ドイツ選抜を相手に1対1だった。
★ファンがカーンを相手にPK
カーンが練習を一時、中断してファンサービスをした。
カーンがゴールを守り、中年のおじさんがペナルティキックを蹴る。あきらかにプレー経験のないシロートで、ゆるいボールを蹴っても、枠を大きく外れる。
枠に向かってくるとカーンはわざと反対側に飛んで入れさせてやる。
引き分け後のシュートアウトのように5本蹴らせるのかと思って見ていたら、7本蹴らせて2本入った。おじさんは「カーンから2点とった」と大喜びだった。
「募集して抽選で当たった人じゃないか」と仲間の一人が推察していた。
あとで聞いた話だが、引退試合でもサポーターがカーンを相手にPKを蹴る余興があり、10人が1本ずつ蹴って、入れた人には賞金を渡し、はずした人の分の賞金は社会事業に寄付したという。面白いファンサービスである。
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サッカー日誌 / 2008年09月13日
歴史を誇る名門のビジネス
クラマーさんへの感謝の旅(9)
9月1日(月)午前、TSVミュンヘン1860
★36年ぶりのクラブ訪問
ドイツ・ツアーも残り2日。最終日は空港へ行くだけなので、この日はお土産などの買い物に充てられるように終日「自由行動」にしていたが、ミュンヘン市内のスポーツ・クラブ訪問を計画したら、ほとんど全員が参加した。
まず、もっとも古い歴史を誇る「TSVミュンヘン1860」を訪ね、次に人気の強豪チーム「バイエルン・ミュンヘン」の施設を覗いてみようというというプランである。
ぼくは1972年の3月、その夏に行われるミュンヘン・オリンピックの準備取材で来たときに、まったく同じコースで2つのクラブを訪問したことがある。
そのときは土曜日だったので、チームは試合があり、練習していたのは少年たちだった。「TSVミュンヘン1860」では、おそらく戦傷者だろう、片腕のない人が混じって中年の「おじさんチーム」が試合をしていたのを憶えている。
★レストランと記者会見室も
「TSVミュンヘン1860」は、1860年に体操クラブとして創立されたミュンヘンの名門である。サッカーの1軍は、現在はブンデス・リーガの2部だが、生粋のミュンヘンっ子の間では1部のバイエルン・ミュンヘン以上に根強い人気がある。
サッカー練習場の配置は36年前と同じだった。ただし5面のフィールドのうち一面は人工芝になっている。
入口のところは、大きく変わっていた。
前に来たときは、入口の左側に小さな屋台が一つあって、ビールとソーセージを売っているだけだった。いまは、そこに素朴だが、ちゃんとしたレストランができている。
入口の右側に木造の小屋があって中にシューズの乾燥室があったが、その場所にクラブハウスがあり、その隣に「メディア・ハウス」ができていた。小規模な記者会見室である。
★大量の買い物でクラブ財政に貢献
今回は月曜日だったので、「TSVミュンヘン1860」の1軍、ジュニア(U-23)、ユース(U-18)が、それぞれ、練習していた。練習を一通り眺めて、レストランで白ソーセージを食べ、それから買い物である。
これも入口の近くに、新しいきれいな「グッズ・ショップ」ができていた。サッカー仲間へのお土産だから町へ出かけなくても、ここで十分だ。ナプキンから腕時計まで多種多様なクラブのロゴとマークの入った記念品を売っている。
抱えきれないほど買い込んだ仲間もいた。クラブ・カラーの青と白の縦じまの模様の袋をぶら下げて門を出ると、入れ違いに入ってきたクラブの会員らしいおじさんが「ダンケ」と笑顔で声をかけてくれた。グッズを大量に買って、クラブ財政に寄与してくれて「ありがとう」というつもりらしい。
9月1日(月)午前、TSVミュンヘン1860
★36年ぶりのクラブ訪問
ドイツ・ツアーも残り2日。最終日は空港へ行くだけなので、この日はお土産などの買い物に充てられるように終日「自由行動」にしていたが、ミュンヘン市内のスポーツ・クラブ訪問を計画したら、ほとんど全員が参加した。
まず、もっとも古い歴史を誇る「TSVミュンヘン1860」を訪ね、次に人気の強豪チーム「バイエルン・ミュンヘン」の施設を覗いてみようというというプランである。
ぼくは1972年の3月、その夏に行われるミュンヘン・オリンピックの準備取材で来たときに、まったく同じコースで2つのクラブを訪問したことがある。
そのときは土曜日だったので、チームは試合があり、練習していたのは少年たちだった。「TSVミュンヘン1860」では、おそらく戦傷者だろう、片腕のない人が混じって中年の「おじさんチーム」が試合をしていたのを憶えている。
★レストランと記者会見室も
「TSVミュンヘン1860」は、1860年に体操クラブとして創立されたミュンヘンの名門である。サッカーの1軍は、現在はブンデス・リーガの2部だが、生粋のミュンヘンっ子の間では1部のバイエルン・ミュンヘン以上に根強い人気がある。
サッカー練習場の配置は36年前と同じだった。ただし5面のフィールドのうち一面は人工芝になっている。
入口のところは、大きく変わっていた。
前に来たときは、入口の左側に小さな屋台が一つあって、ビールとソーセージを売っているだけだった。いまは、そこに素朴だが、ちゃんとしたレストランができている。
入口の右側に木造の小屋があって中にシューズの乾燥室があったが、その場所にクラブハウスがあり、その隣に「メディア・ハウス」ができていた。小規模な記者会見室である。
★大量の買い物でクラブ財政に貢献
今回は月曜日だったので、「TSVミュンヘン1860」の1軍、ジュニア(U-23)、ユース(U-18)が、それぞれ、練習していた。練習を一通り眺めて、レストランで白ソーセージを食べ、それから買い物である。
これも入口の近くに、新しいきれいな「グッズ・ショップ」ができていた。サッカー仲間へのお土産だから町へ出かけなくても、ここで十分だ。ナプキンから腕時計まで多種多様なクラブのロゴとマークの入った記念品を売っている。
抱えきれないほど買い込んだ仲間もいた。クラブ・カラーの青と白の縦じまの模様の袋をぶら下げて門を出ると、入れ違いに入ってきたクラブの会員らしいおじさんが「ダンケ」と笑顔で声をかけてくれた。グッズを大量に買って、クラブ財政に寄与してくれて「ありがとう」というつもりらしい。
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サッカー日誌 / 2008年09月11日
ブンデス・リーガ1部の試合を見る
クラマーさんへの感謝の旅(8)
8月31日(日)夜
バイエルン・ミュンヘン 4対1 ヘルタ・ベルリン
★ベンチ近くの特等席で
3泊したライト・イム・ヴィンクルに別れを告げ、専用バスでミュンヘンへ。クラマーさんがホテルへ来て見送ってくれた。郊外の「ガウティング・ホフ」に荷物を置き、2年前、ワールドカップ準決勝の会場だった「アリアンツ・アリーナ」に向かう。
VIP用の入口にバスが横づけ。座席はメーンスタンド最前列で選手たちの出入り口のまうしろ。ホーム・チームのベンチのすぐそばである。すべてクラマーさんの手配のおかげだ。
試合前、座席の前に張り出しているベンチの屋根の上に子どもたちがあがって、レプリカのユニフォームなどを広げている。かわいい女の子が「ユニフォームちょうだい」と書いた小さなプラカードを掲げている。試合中は引っ込んでいたが、試合が終わると、また上がってきて、サインもユニフォームも、ちゃんともらっていた。
★テレビと新聞写真に写る
ベンチの屋根に上がる子どもを頭ごなしに取り締まらないのがいい。選手たちが試合後に愛想よくサービスするのもいい。
6万人のスタンドは超満員。ゴール裏席に熱狂的な赤い軍団が陣取って歌い続けているのは、Jリーグの埼玉スタジアムに似ているが、人数は浦和レッズの軍団ほど多くはなく、うるさくもない。全体としては、お客さんがくつろいで試合を楽しめる雰囲気である。
試合はバイエルン・ミュンヘン対ヘルタ・ベルリン。強豪対名門だ。ブンデス・リーガ開幕後、バイエルンは2引き分けと調子が出ていなかったが、この日は快勝だった。
ゴールのたびにクリンスマン監督がベンチから飛び出して大喜びする。その背後にいるぼくたちが、夜のテレビ・ニュースでは全員ばっちりと、翌日の新聞写真では一部がちらりと写っていた。
★Jとはスピードが格違い
試合を見てのツアー仲間の感想は「Jリーグとは格が違うな」である。どこが大きく違うかと言えば「スピード」だ。
日本のサッカーの良いところは「スピード」だとよく言われる。クラマーさんもそう言っていた。
しかし「スピード」にもいろいろある。一般的に言えば100㍍競争は日本人は得意ではない。しかし最初の10㍍のダッシュでは負けていない。スタートを切るときの判断と反応の「はやさ」では、欧州や南米の選手に勝るとも劣らない。
ところがブンデス・リーガ1部の試合を見た印象では、判断と反応の速さでも、彼らはJリーグの選手たちに勝っている。疾走速度は、体格のいい選手が全力で走るのをまじかで見たせいもあるが、段違いのように思えた。
8月31日(日)夜
バイエルン・ミュンヘン 4対1 ヘルタ・ベルリン
★ベンチ近くの特等席で
3泊したライト・イム・ヴィンクルに別れを告げ、専用バスでミュンヘンへ。クラマーさんがホテルへ来て見送ってくれた。郊外の「ガウティング・ホフ」に荷物を置き、2年前、ワールドカップ準決勝の会場だった「アリアンツ・アリーナ」に向かう。
VIP用の入口にバスが横づけ。座席はメーンスタンド最前列で選手たちの出入り口のまうしろ。ホーム・チームのベンチのすぐそばである。すべてクラマーさんの手配のおかげだ。
試合前、座席の前に張り出しているベンチの屋根の上に子どもたちがあがって、レプリカのユニフォームなどを広げている。かわいい女の子が「ユニフォームちょうだい」と書いた小さなプラカードを掲げている。試合中は引っ込んでいたが、試合が終わると、また上がってきて、サインもユニフォームも、ちゃんともらっていた。
★テレビと新聞写真に写る
ベンチの屋根に上がる子どもを頭ごなしに取り締まらないのがいい。選手たちが試合後に愛想よくサービスするのもいい。
6万人のスタンドは超満員。ゴール裏席に熱狂的な赤い軍団が陣取って歌い続けているのは、Jリーグの埼玉スタジアムに似ているが、人数は浦和レッズの軍団ほど多くはなく、うるさくもない。全体としては、お客さんがくつろいで試合を楽しめる雰囲気である。
試合はバイエルン・ミュンヘン対ヘルタ・ベルリン。強豪対名門だ。ブンデス・リーガ開幕後、バイエルンは2引き分けと調子が出ていなかったが、この日は快勝だった。
ゴールのたびにクリンスマン監督がベンチから飛び出して大喜びする。その背後にいるぼくたちが、夜のテレビ・ニュースでは全員ばっちりと、翌日の新聞写真では一部がちらりと写っていた。
★Jとはスピードが格違い
試合を見てのツアー仲間の感想は「Jリーグとは格が違うな」である。どこが大きく違うかと言えば「スピード」だ。
日本のサッカーの良いところは「スピード」だとよく言われる。クラマーさんもそう言っていた。
しかし「スピード」にもいろいろある。一般的に言えば100㍍競争は日本人は得意ではない。しかし最初の10㍍のダッシュでは負けていない。スタートを切るときの判断と反応の「はやさ」では、欧州や南米の選手に勝るとも劣らない。
ところがブンデス・リーガ1部の試合を見た印象では、判断と反応の速さでも、彼らはJリーグの選手たちに勝っている。疾走速度は、体格のいい選手が全力で走るのをまじかで見たせいもあるが、段違いのように思えた。
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サッカー日誌 / 2008年09月10日
感動の感謝パーティー
クラマーさんへの感謝の旅(7)
8月30日(土)夜、伝記出版記念の夕べ
★山の中腹のレストランで
村のサッカー試合を前半だけ見て「クラマーさんの本の出版記念会」に向かった。会場は、かなり急な山道を登った道の突き当りにある。「チュッヒャー」である。看板に「ベルク―ガストホフ」と書いてあった。「山の小ホテル」といったところか。クラマーさんが目をかけていた平木隆三さん(元オリンピック選手、コーチ)が訪ねてきたとき、ここに泊まったという。レストラン兼ホテルのご主人が車でグラウンドまで迎えに来てくれた。乗り切れないので2往復である。
中条一雄さんが『デットマール・クラマー、日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社)を書いた。著者の中条さんをリーダーにクラマーさんを訪ね、その出版記念会をクラマーさんへの感謝の会を兼ねて開くのが、ぼくたちのツアーの目的だった。
つまり、この夜がツアーのハイライトである。
★五月飾りの兜を贈る
屋外のテラスで食事をしてから室内に移って、一つのテーブルをみんなで肩を寄せ合うようにして囲んで「セレモニー」をした。
中条さんが代表してクラマーさんに五月飾りの小さな兜を贈った。クラマーさんへの感謝の言葉を書いたカードに全員が署名して添えた。
1960年10月にクラマーさんが最初に日本に来て12月にいったん帰国するとき、サッカー担当の記者たちがお金を出し合って鯉のぼりを贈った。季節外れだからデパートなどでは売っていない。中条さんが浅草の問屋さんまで行って探してきた。本物の大きな鯉のぼりで、クラマーさんは当時、主任コーチを務めていたデュイスブルクのスポルト・シューレに掲げたという。半世紀近く前からのクラマーさんの功績が現在に結びついている。それを象徴しようと五月飾りを選んだのである。
★クラマーさんも涙ぐむ
1960年ごろの日本のサッカーは世界から大きく遅れていた。それをクラマーさんが根本から改革した。それが現在のJリーグの基礎になっている。中条さんが、その思い出を語り、感動に声を詰まらせながら熱い感謝の言葉を述べた。
続いてクラマーさんが、かなり長いスピーチをした。自分を日本派遣コーチに指名した当時の西ドイツ代表ヘルベルガー監督と、招くことを決断した当時の日本サッカー協会・野津譲会長の功績をたたえ、日本のサッカーの未来を憂え、友情と愛を忘れないと述べ、最後に「こうして、皆さんが感謝してくれるのは私の誇りだ」と結んだ。クラマーさんも珍しく涙ぐんでいた。
クラマーさんを招いて「感謝する会」だったが、会のアレンジはクラマーさん自身がしてくれた。食後の「ゼクト」(ドイツ・シャンペン)はクラマーさんの「おごり」だった。
8月30日(土)夜、伝記出版記念の夕べ
★山の中腹のレストランで
村のサッカー試合を前半だけ見て「クラマーさんの本の出版記念会」に向かった。会場は、かなり急な山道を登った道の突き当りにある。「チュッヒャー」である。看板に「ベルク―ガストホフ」と書いてあった。「山の小ホテル」といったところか。クラマーさんが目をかけていた平木隆三さん(元オリンピック選手、コーチ)が訪ねてきたとき、ここに泊まったという。レストラン兼ホテルのご主人が車でグラウンドまで迎えに来てくれた。乗り切れないので2往復である。
中条一雄さんが『デットマール・クラマー、日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社)を書いた。著者の中条さんをリーダーにクラマーさんを訪ね、その出版記念会をクラマーさんへの感謝の会を兼ねて開くのが、ぼくたちのツアーの目的だった。
つまり、この夜がツアーのハイライトである。
★五月飾りの兜を贈る
屋外のテラスで食事をしてから室内に移って、一つのテーブルをみんなで肩を寄せ合うようにして囲んで「セレモニー」をした。
中条さんが代表してクラマーさんに五月飾りの小さな兜を贈った。クラマーさんへの感謝の言葉を書いたカードに全員が署名して添えた。
1960年10月にクラマーさんが最初に日本に来て12月にいったん帰国するとき、サッカー担当の記者たちがお金を出し合って鯉のぼりを贈った。季節外れだからデパートなどでは売っていない。中条さんが浅草の問屋さんまで行って探してきた。本物の大きな鯉のぼりで、クラマーさんは当時、主任コーチを務めていたデュイスブルクのスポルト・シューレに掲げたという。半世紀近く前からのクラマーさんの功績が現在に結びついている。それを象徴しようと五月飾りを選んだのである。
★クラマーさんも涙ぐむ
1960年ごろの日本のサッカーは世界から大きく遅れていた。それをクラマーさんが根本から改革した。それが現在のJリーグの基礎になっている。中条さんが、その思い出を語り、感動に声を詰まらせながら熱い感謝の言葉を述べた。
続いてクラマーさんが、かなり長いスピーチをした。自分を日本派遣コーチに指名した当時の西ドイツ代表ヘルベルガー監督と、招くことを決断した当時の日本サッカー協会・野津譲会長の功績をたたえ、日本のサッカーの未来を憂え、友情と愛を忘れないと述べ、最後に「こうして、皆さんが感謝してくれるのは私の誇りだ」と結んだ。クラマーさんも珍しく涙ぐんでいた。
クラマーさんを招いて「感謝する会」だったが、会のアレンジはクラマーさん自身がしてくれた。食後の「ゼクト」(ドイツ・シャンペン)はクラマーさんの「おごり」だった。
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サッカー日誌 / 2008年09月09日
村のクラブにも専用サッカー場
クラマーさんへの感謝の旅(6)
8月30日(土)午後、チロルの村の試合を見る
★ドイツ地方リーグの公式戦
ドイツ・ツアーの4日目、クラマーさんの住む村に来て3日目。午後5時から村のサッカーチームの試合を見た。FCライト・イム・ヴィンクル対SVアールシュタット。相手もチロル街道沿いの村のクラブ・チームだということだった。14チームによるリーグで、夏の間にホーム・アンド・アウェーで26試合をする。
全国リーグのブンデス・リーガに今年から3部ができた。その下に3ブロックに分かれた地域リーグがあり、さらに地方リーグが枝分かれしている。この村のチームが属しているのは、6部まである地方リーグの4部で、ブンデス・リーガ1部から数えると8番目のランクに当たるそうだ。
会場は村の中心部に近い広っぱだが、一流の競技場よりもすばらしい質の芝生で、正規の広さのフィールドがある。スタンドやフェンスはなく、40人ほどの村の人たちがタッチラインのわきで立ったまま、あるいはベンチに腰をおろして応援していた。
★ラインズマン(副審)がいない?
「ラインズマンがいないんじゃないか?」とぼくたちの仲間の一人が気づいた。よく見ると両側のタッチラインに一人ずつ立っている。旗は巻いたまま抱え込み、まったく走らない。どうも、そのあたりのシロートに頼んで形だけ副審を置いたらしい。
前日見たブンデス・リーガ3部の試合では「第4の審判」がいなかった。選手交代はメーンスタンド側の副審が扱っていた。日本では草サッカー・レベルでも資格のある審判員を揃えたがるが、ドイツでは試合ができさえすれば、公式戦でもこだわらないのだろうか?
試合のさいちゅうに若者が小さな袋をもって回ってきた。試合を見ている人が小銭を投げ入れる。これが入場料徴収である。フィールドの向こう側には、これは立派な広告看板が並んでいた。大手のビールから街のスポーツ用品店まで19枚あった。
★スキーと兼用の専用グラウンド
フィールドのそばに木造の小屋があって、そこで飲み物などを売っている。クラブのメンバーのたまり場である。裏手に掲げてあった小さな看板には「FCライト・イム・ヴィンクル」「ライト・イム・ヴィンクル冬季スポーツ連盟」と並べて書いてあった。アルプスに近い山間だから冬は雪が積もってサッカー場はスキーのクロスカントリー会場になる。小さな村で専用のスポーツ施設を管理しているのはたいしたものだ。
サッカー選手も冬季はスキー選手になる。いや、スキーではオリンピックの金メダリストを出したこともある村だから、スキー選手が夏はサッカーをするというのが正しいかもしれない。「選手たちは仕事の余暇に週に3日の練習をしている。サッカーが好きだからこそできることだ」とクラマーさんが解説してくれた。しかし、東京の会社チームの選手は近くに専用グラウンドがないのだから、もっとたいへんだろう。
8月30日(土)午後、チロルの村の試合を見る
★ドイツ地方リーグの公式戦
ドイツ・ツアーの4日目、クラマーさんの住む村に来て3日目。午後5時から村のサッカーチームの試合を見た。FCライト・イム・ヴィンクル対SVアールシュタット。相手もチロル街道沿いの村のクラブ・チームだということだった。14チームによるリーグで、夏の間にホーム・アンド・アウェーで26試合をする。
全国リーグのブンデス・リーガに今年から3部ができた。その下に3ブロックに分かれた地域リーグがあり、さらに地方リーグが枝分かれしている。この村のチームが属しているのは、6部まである地方リーグの4部で、ブンデス・リーガ1部から数えると8番目のランクに当たるそうだ。
会場は村の中心部に近い広っぱだが、一流の競技場よりもすばらしい質の芝生で、正規の広さのフィールドがある。スタンドやフェンスはなく、40人ほどの村の人たちがタッチラインのわきで立ったまま、あるいはベンチに腰をおろして応援していた。
★ラインズマン(副審)がいない?
「ラインズマンがいないんじゃないか?」とぼくたちの仲間の一人が気づいた。よく見ると両側のタッチラインに一人ずつ立っている。旗は巻いたまま抱え込み、まったく走らない。どうも、そのあたりのシロートに頼んで形だけ副審を置いたらしい。
前日見たブンデス・リーガ3部の試合では「第4の審判」がいなかった。選手交代はメーンスタンド側の副審が扱っていた。日本では草サッカー・レベルでも資格のある審判員を揃えたがるが、ドイツでは試合ができさえすれば、公式戦でもこだわらないのだろうか?
試合のさいちゅうに若者が小さな袋をもって回ってきた。試合を見ている人が小銭を投げ入れる。これが入場料徴収である。フィールドの向こう側には、これは立派な広告看板が並んでいた。大手のビールから街のスポーツ用品店まで19枚あった。
★スキーと兼用の専用グラウンド
フィールドのそばに木造の小屋があって、そこで飲み物などを売っている。クラブのメンバーのたまり場である。裏手に掲げてあった小さな看板には「FCライト・イム・ヴィンクル」「ライト・イム・ヴィンクル冬季スポーツ連盟」と並べて書いてあった。アルプスに近い山間だから冬は雪が積もってサッカー場はスキーのクロスカントリー会場になる。小さな村で専用のスポーツ施設を管理しているのはたいしたものだ。
サッカー選手も冬季はスキー選手になる。いや、スキーではオリンピックの金メダリストを出したこともある村だから、スキー選手が夏はサッカーをするというのが正しいかもしれない。「選手たちは仕事の余暇に週に3日の練習をしている。サッカーが好きだからこそできることだ」とクラマーさんが解説してくれた。しかし、東京の会社チームの選手は近くに専用グラウンドがないのだから、もっとたいへんだろう。
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サッカー日誌 / 2008年09月06日
ブンデス・リーガ3部の試合を見る
クラマーさんへの感謝の旅(5)
8月29日(金)夜
バイエルン・ミュンヘンⅡ 2対1 イエナ
★昔ながらの旧ミュンヘン・スタジアム
ツアー3日目の夜はミュンヘンでブンデス・リーガ3部の試合を見た。3部は地域リーグの上位を集めて、ことし(2008年)結成されたばかりである。
この日のカードは、1部の名門、バイエルン・ミュンヘンの2軍と旧東ドイツの有力チームだったカール・ツアイス・イエナだった。イエナは、前シーズン2部だったが陥落してきた。
試合場はグリュンバルト通りの古いミュンヘン・スタジアム。1972年にオリンピック競技場ができる前までは、ここで1部の試合が行われていた。
市街地のなかにありゴール裏の低いスタンド越しにメーン・ストリートの建物が見える。施設はほとんど昔のまま。メーン・スタンドの中央部はプラスチックの座席になっていたが左右は木のベンチである。ゴール裏のやや高いところにあるスコアボールドも、箱の中に人が入っていて手で数字を変える昔懐かしいものだった、
★ゲルト・ミュラーが現われる
クラマーさんにVIPルームに案内された。スタンド下の薄暗い部屋である。お茶をごちそうになっていると、ホーム・チームの更衣室に通じるドアから白髪で白いひげを蓄えた男性が柔和な笑顔で現れた。1970年メキシコ・ワールドカップの得点王で、バイエルン・ミュンヘンのスーパースターだった「爆撃機」ゲルト・ミュラーである。
いま2軍の監督をしていて、ぼくたちツアー一行のためにクラマーさんが呼んでくれたら、試合前だったが気軽に顔を出してくれたのである。
クラマーさんがミュラーの偉大な記録を紹介するスピーチをした。照れくさそうに聞いていたミュラーが最後に一言。「この人(クラマーさん)は作家だよ」
紹介されるまでもなく、ツアー一行はミュラーの偉大な記録がフィクションでないことを知っている。紹介が終わるとサインをもらう、記念写真を撮るの大騒ぎになった。
★3部リーグの意義
試合はイエナのほうが比較的組織的なプレーをして、まとまっていた。しかし結果はバイエルン2軍が前半に2点を入れ、後半終了近くに1点を返されただけで勝った。
バイエルン2軍には、17~18歳の選手が5、6人入っているということだった。本来はユースのメンバーだが、十分に成長しているので経験を積ませるために加えたという。
バイエルンのような大都市の強豪クラブは若手育成の場として3部を利用できる。地方都市のチームは下部へ落ちても全国レベルに試合ができる。そういうところにブンデス・リーガ3部を作った意義があるのだろうか、と思った。
クラマーさんの話では、アマチュアの地域リーグでは、選手の受け取る報酬は600ユーロ(約10万円)に制限されている。全国リーグになるとプロフェッショナルとしての契約で多くの報酬を払える。そこにも違いがあるということだった。
8月29日(金)夜
バイエルン・ミュンヘンⅡ 2対1 イエナ
★昔ながらの旧ミュンヘン・スタジアム
ツアー3日目の夜はミュンヘンでブンデス・リーガ3部の試合を見た。3部は地域リーグの上位を集めて、ことし(2008年)結成されたばかりである。
この日のカードは、1部の名門、バイエルン・ミュンヘンの2軍と旧東ドイツの有力チームだったカール・ツアイス・イエナだった。イエナは、前シーズン2部だったが陥落してきた。
試合場はグリュンバルト通りの古いミュンヘン・スタジアム。1972年にオリンピック競技場ができる前までは、ここで1部の試合が行われていた。
市街地のなかにありゴール裏の低いスタンド越しにメーン・ストリートの建物が見える。施設はほとんど昔のまま。メーン・スタンドの中央部はプラスチックの座席になっていたが左右は木のベンチである。ゴール裏のやや高いところにあるスコアボールドも、箱の中に人が入っていて手で数字を変える昔懐かしいものだった、
★ゲルト・ミュラーが現われる
クラマーさんにVIPルームに案内された。スタンド下の薄暗い部屋である。お茶をごちそうになっていると、ホーム・チームの更衣室に通じるドアから白髪で白いひげを蓄えた男性が柔和な笑顔で現れた。1970年メキシコ・ワールドカップの得点王で、バイエルン・ミュンヘンのスーパースターだった「爆撃機」ゲルト・ミュラーである。
いま2軍の監督をしていて、ぼくたちツアー一行のためにクラマーさんが呼んでくれたら、試合前だったが気軽に顔を出してくれたのである。
クラマーさんがミュラーの偉大な記録を紹介するスピーチをした。照れくさそうに聞いていたミュラーが最後に一言。「この人(クラマーさん)は作家だよ」
紹介されるまでもなく、ツアー一行はミュラーの偉大な記録がフィクションでないことを知っている。紹介が終わるとサインをもらう、記念写真を撮るの大騒ぎになった。
★3部リーグの意義
試合はイエナのほうが比較的組織的なプレーをして、まとまっていた。しかし結果はバイエルン2軍が前半に2点を入れ、後半終了近くに1点を返されただけで勝った。
バイエルン2軍には、17~18歳の選手が5、6人入っているということだった。本来はユースのメンバーだが、十分に成長しているので経験を積ませるために加えたという。
バイエルンのような大都市の強豪クラブは若手育成の場として3部を利用できる。地方都市のチームは下部へ落ちても全国レベルに試合ができる。そういうところにブンデス・リーガ3部を作った意義があるのだろうか、と思った。
クラマーさんの話では、アマチュアの地域リーグでは、選手の受け取る報酬は600ユーロ(約10万円)に制限されている。全国リーグになるとプロフェッショナルとしての契約で多くの報酬を払える。そこにも違いがあるということだった。
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サッカー日誌 / 2008年09月05日
ドイツ政府と州政府のスポーツ援助
クラマーさんへの感謝の旅(4)
8月30日(土)午後、ミュンヘン近郊のスポルト・シューレ
★大都市近郊の大規模施設
ドイツ・ツアーの3日目。クラマーさんの住むライト・イム・ヴィンクルを昼ごろ貸切バスで出発してミュンヘンに向かった。夜のサッカー試合を見るためだが、ミュンヘンの郊外に差しかかったところで、オベールハッヒングのスポルト・シューレに立ち寄った。
ツアー最初の日に1泊したデュイスブルクと同じような、全ドイツに20ほどあるという総合型のトレーニング・センターの一つである。バイエルン州のサッカー協会とスポーツ連盟が共同で所有している。
もとは市内の住宅街グリュンバルトにあったのだが、15年前に郊外に広大な土地を購入し新しい施設を建設して移転した。建築の国際コンクールで金賞を得たというモダンな建物に244ベッドの宿泊施設、4つの大体育館、トレーニング、リハビリの設備などがあり、戸外に4面のサッカー場と陸上競技の練習場などがある。
★土地買収に補助、所有はスポーツ団体
「すばらしい施設だな、東京・西が丘の国立トレーニング・センターやサッカーのJビレッジでは、とてもかなわないな」というのが仲間たちの感想である。
大都市近郊の広大な土地をスポーツ団体が、どのようにして手に入れることができたのかと聞いてみた。地価の高い日本では不可能に近い話である。
「この場所は、もとは石切り場(砂利採取場)でした。11人の地主から買いとりました。施設の建築費と合わせて860万ユーロ(当時はマルク、約14億円)かかりました。連邦政府が3,500万マルク、バイエルン州政府が3,000万マルクを援助してくれ、残りはグリュンバルトの旧施設の土地売却でまかないました」とブルナー事務局長が説明してくれた。
土地買収に補助をして、その後の所有と管理はスポーツ団体に任せているわけである。
これも日本では、ちょっと考えにくいことである。
★ドイツ代表の合宿も、一般市民の利用も
次の週からドイツ代表チームが合宿するということで、フィールドの周りに金網のフェンスを張る作業をしていた。練習をファンにも公開するのだそうだ。
同行したクラマーさんが「自分は世界中の国を回ったが、ドイツほどスポーツ施設が整っている国はない。その割にはオリンピックなどで成績が振るわない。それは、スポーツ指導者の人間関係が悪いからだ」と嘆いていた。
トップクラスのチームだけでなく、市民にも有料で開放されている。一般の人が子どもを連れてプールを利用していた。一般向けの卓球台やビリアードの部屋もあった。
年間450万ユーロ(約7億2,000万円)の予算で、広告スポンサーはつけているが、補助金はいっさいもらっていない。86%の稼働率で運営は順調だという。大都市近郊のスポーツ・センターの一つのあり方だろうかと思った。
8月30日(土)午後、ミュンヘン近郊のスポルト・シューレ
★大都市近郊の大規模施設
ドイツ・ツアーの3日目。クラマーさんの住むライト・イム・ヴィンクルを昼ごろ貸切バスで出発してミュンヘンに向かった。夜のサッカー試合を見るためだが、ミュンヘンの郊外に差しかかったところで、オベールハッヒングのスポルト・シューレに立ち寄った。
ツアー最初の日に1泊したデュイスブルクと同じような、全ドイツに20ほどあるという総合型のトレーニング・センターの一つである。バイエルン州のサッカー協会とスポーツ連盟が共同で所有している。
もとは市内の住宅街グリュンバルトにあったのだが、15年前に郊外に広大な土地を購入し新しい施設を建設して移転した。建築の国際コンクールで金賞を得たというモダンな建物に244ベッドの宿泊施設、4つの大体育館、トレーニング、リハビリの設備などがあり、戸外に4面のサッカー場と陸上競技の練習場などがある。
★土地買収に補助、所有はスポーツ団体
「すばらしい施設だな、東京・西が丘の国立トレーニング・センターやサッカーのJビレッジでは、とてもかなわないな」というのが仲間たちの感想である。
大都市近郊の広大な土地をスポーツ団体が、どのようにして手に入れることができたのかと聞いてみた。地価の高い日本では不可能に近い話である。
「この場所は、もとは石切り場(砂利採取場)でした。11人の地主から買いとりました。施設の建築費と合わせて860万ユーロ(当時はマルク、約14億円)かかりました。連邦政府が3,500万マルク、バイエルン州政府が3,000万マルクを援助してくれ、残りはグリュンバルトの旧施設の土地売却でまかないました」とブルナー事務局長が説明してくれた。
土地買収に補助をして、その後の所有と管理はスポーツ団体に任せているわけである。
これも日本では、ちょっと考えにくいことである。
★ドイツ代表の合宿も、一般市民の利用も
次の週からドイツ代表チームが合宿するということで、フィールドの周りに金網のフェンスを張る作業をしていた。練習をファンにも公開するのだそうだ。
同行したクラマーさんが「自分は世界中の国を回ったが、ドイツほどスポーツ施設が整っている国はない。その割にはオリンピックなどで成績が振るわない。それは、スポーツ指導者の人間関係が悪いからだ」と嘆いていた。
トップクラスのチームだけでなく、市民にも有料で開放されている。一般の人が子どもを連れてプールを利用していた。一般向けの卓球台やビリアードの部屋もあった。
年間450万ユーロ(約7億2,000万円)の予算で、広告スポンサーはつけているが、補助金はいっさいもらっていない。86%の稼働率で運営は順調だという。大都市近郊のスポーツ・センターの一つのあり方だろうかと思った。
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