サッカー日誌 / 2010年03月31日


アカデミズムのなかのサッカー(上)


植民地時代の朝鮮スポーツ事情
日本スポーツ社会学会
3月28日~29日 岩手大学

★植民地時代のスポーツとメディア
 大学の先生方や大学院の学生のスポーツ研究のなかにサッカーが出てくる割合はかなり高い。盛岡の岩手大学でおこなわれた日本スポーツ社会学会での発表にも、サッカーを取り上げたものが、かなりあった。直接サッカーを対象にしたものでなくても、スポーツについての組織や政策やメディアについての研究のなかにサッカーの事例がたくさん出てくる。サッカーが大衆的なスポーツであることの一つの表れである。
 そのなかでも、森津千尋さん(宮崎公立大学助教)が発表した「植民地下朝鮮におけるスポーツとメディア」についての研究は興味深かった。朝鮮(現在の韓国と北朝鮮の地域)は1910年から1945年まで、日本が植民地として支配していた。そのころの朝鮮のサッカーはどうだったのか?
 当時の現地の新聞記事を調べた報告のなかに、それが浮かび上がっていた。

★サッカーを統制、野球を奨励
 日本は、朝鮮半島を植民地として支配していた時代に、野球を奨励してサッカーを規制した。これは一部では知られている話だが、森津さんの発表のなかに、それを明確に示す資料があった。
 当時、日本の政策を代弁していた京城(現在のソウル)発行の日本語の新聞『京城日報』は野球の大会を主催して大々的に報道しているが、サッカー(蹴球)は主催の体育大会に加えていない。
 一方、朝鮮語(ハングルと漢字)の『東亜日報』は、当局の統制のなかでも日本の支配に抵抗する姿勢をにじませ、サッカーを中心にスポーツイベントを主催している。
 1934年の京城日報に「サッカー統制令」のニュースが載っていた。日本の本国では1932年に野球統制令が施行されたが、朝鮮ではサッカーを統制したのである。

★2002年共催の意義と成果
 日本本土での「野球統制令」は、学校対抗の野球で応援が過激になって争いがおきたり、選手の争奪があったり、選手が学業をおろそかにするなどの弊害があったので、それを矯正しようという趣旨だった。現在の学生野球憲章改正問題にも、これが尾を引いている。
 一方、植民地朝鮮での「サッカー統制」には、別の理由があった。
 一つには、サッカーでは、朝鮮が日本より強かったこと、そして人気スポーツで多くの観衆を集めていたことである。独裁的な権力者にとって、大衆が1ヵ所に集まるのは好ましくない。反体制運動の集会になりかねないからである。日本の支配者はサッカー場で「反日運動」に火がつくのを恐れたのだろう。サッカーは、もともと朝鮮の民衆のスポーツであり、野球は日本帝国主義が押し付けようとしたスポーツだった。
 歴史の傷跡を振り返って、2002年ワールドカップ共催の意義と成果を改めて考えた。

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サッカー日誌 / 2010年03月21日


「ベスト4」へのシミュレーション


日本代表が勝ち進むための条件は?
ビバ!サッカー研究会3月例会
3月19日 東京テクニカルカレッジ東中野

★ランク通りなら日本は最下位
 ビバ!サッカー月例会で3月のテーマは「ワールドカップ南アフリカ大会で、日本代表チームは、どこまでやれるか」だった。会員有志が、それぞれ意見を述べたのだが、そのなかで手島直幸さんの話がアイデア奇抜で面白かった。
 手島さんは開発途上国援助の仕事で海外出張の多い経営コンサルタントである。その仕事で使う手法を、ちょっと応用して、お遊びのシミュレーションをしてみせた。
 まず、3月発表のFIFAランキングを材料にして予想してみる。ランクが上のほうが必ず勝つと仮定して、大会全体を展望すると、ベスト4はスペイン、ブラジル、ドイツ、フランスとなる。前回優勝のイタリアとランク3位のオランダは準々決勝で敗退する。
 グループリーグE組は、オランダがランク3位、カメルーンが20位、デンマークが33位、日本は46位。このままだと日本はE組最下位で終わる。

★連続「奇跡の番狂わせ」を期待
 これだと岡田監督のめざす「ベスト4」はありえないから、日本がグループリーグを勝ち抜けるケースを想定して別のモデルを作った。
 手島さんのモデルでは、E組で日本は第1戦にカメルーンに勝ち、第2戦でオランダに敗れるが、第3戦でデンマークと引き分ける。1勝1分け1敗、勝ち点4、E組2位でベスト16に進出する。カメルーンが第2戦でデンマークに勝つ必要があるのだが、可能性のありそうな想定である。
 決勝トーナメントに入ると、まず前回の優勝国イタリアに勝たなければならない。そして準々決勝ではランク1位のスペインを撃破する。それで、めでたく「ベスト4」である。
 手島さんが、まじめくさって、ここまで説明すると、会場から失笑がおきた。しかしボールは丸いのだ。連続して「奇跡の大番狂わせ」のほうに転がらないとは限らない。

★奇策「ツープラツーン・システム」
 とはいえ、まともにぶつかって「奇跡の連続」に恵まれることは考えにくい。そこで手島さんは「奇策」を考えた。それは、日本代表を「山」チームと「海」チームに分けて戦う「ツープラトーン・システム」(2小隊作戦)である
 「山」チームは、これまで岡田監督が主力にしていたメンバーで中村俊輔中心である。海抜1400メートルのブルームフォンテーンでの第1戦、対カメルーンでは「山」チームが出場する。「海」チームは鹿島アントラーズ主力で稲本潤一と森本貴幸を補強する。海沿いにあるダーバンでの第2戦、対オランダには「海」チームが出場する。
 というように、2チームを交互に使って、休養させながら強敵にチャレンジしようというアイデアだ。イタリアには「海」、スペインには「山」チームが当たることになる。
 ちなみに手島さんは「アントラーズびいき」である。

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サッカー日誌 / 2010年03月20日


松永3兄弟を知っているか?


戦前、戦中、戦後をつなぐ名選手
日本サッカー史研究会
3月15日 JFAハウス会議室

★日本サッカー史の「結び目」
 俊輔やメッシを知っているサッカーファンの皆さん、カズやマラドーナを知っているサッカー通の皆さん、「松永3兄弟」を知っていますか?
 松永3兄弟は、1930年~50年代に日本代表だった名選手である。
 「日本サッカー史研究会」の3月例会に33兄弟の末弟、松永碩(せき)さんに来ていただいた。そのお話の面白かったこと! 午後7時からの2時間が、あっという間に過ぎてしまった。さらに、そのあと、お茶の水駅近くの居酒屋で1時間半にわたる延長戦でも、談論風発だった。81歳とはとても思えない。すこぶる、お元気である。
 戦前、1936年のベルリン・オリンピックから、戦後、1951年ニューデリー・アジア競技大会まで、松永3兄弟が残した足跡は、日本サッカー史上、戦前と戦後の「結び目」と言っていい。
 
★3兄弟それぞれ国際大会に出場
 「3兄弟」の長兄、松永行(あきら)さんは、1936年ベルリン五輪の対スウェーデン戦「奇跡の勝利」の3点目(決勝点)をあげた。太平洋戦争中、ガダルカナル島で戦死した。
 次兄の松永信夫さんは、戦中の1942年、当時の満州国(現在の中国東北部)で行われた東亜競技大会に出場、戦後に1954年の第2回アジア競技大会(マニラ)などに日本代表として出場している。2007年9月に85歳で亡くなった。
 松永碩さんは、戦後初めての海外遠征だった1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)に参加した。東京高師、文理大を出てから早大に進み、日立製作所に入社して、日立のサッカー(現在の柏レイソル)の基礎を作った。また、1952年に読売新聞社の正力松太郎社主にサッカーのプロを作る相談を受け、将来のプロ化を展望して東京クラブを編成、読売が創設した全国都市対抗大会で優勝した。

★鯖の一夜干を持って東西対抗に参加
 松永碩さんのお話の中で、戦中、戦後の苦難の時代を知らない人たちが、目を丸くして聞いたのは敗戦4年目の1948年、東西対抗(西宮)に参加したときのエピソードである。
 兄の信夫さんとともに東軍のメンバーに選ばれたが、お金がない。出身地静岡県の漁港、焼津でサバ(鯖)の一夜干を大量に買い込んで、兄と一緒に持っていったら大阪の闇市で飛ぶように売れた。他の選手たちは、お寺に泊めてもらって、ろくなものも食べられなかったのだが、懐が豊かになった松永兄弟は別行動で宝塚の温泉で悠々と過ごしたという。
 食糧難の時代で東京や大阪には食べ物がない。主食は配給で満足には行き渡らない。地方には多少あっても輸送手段が戦争でやられているから流通しない。
 そういう時代でもサッカーを復興しようとした苦労を面白く話されたのだが、現在の恵まれたサッカー環境しかしらない若い人には、冗談だと思われたかもしれない。

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サッカー日誌 / 2010年03月08日


大きく変わった世界のラグビー


サロン2002シンポジウム
3月6日(土)東京・青学会館アイビーホール

★2019年ラグビーW杯の日本開催
 ワールドカップといっても、サッカーの話ではない。2019年に日本で開催されることが決まったラグビーの第9回ワールドカップの話である。
 サッカー文化を語るネットワーク「サロン2002」の主催で「2019年ラグビー・ワールドカップ日本大会を語る」と題するシンポジウムが開かれた。ビバ!サッカー研究会も「後援」に加わった。それで、Jリーグの開幕日だったにもかかわらず、ラグビーの話を聞きに行ったのだが、同じフットボールの仲間の話として、なかなか興味深かった。
 シンポジウムの本筋のテーマではなかったのだが、世界のラグビーが大きく変わったという話が出た。英国では、サッカーは大衆のスポーツ、ラグビーは上流階級のスポーツとされていたのだが、いまやラグビーも大衆化しているという。

★ラグビーの大衆化
 フットボール・ライターの島田佳代子さんが、1999年から2007年まで9年間、英国に滞在していたときのサッカーとラグビーの取材経験を写真を見せながら語った。それによると、最近のラグビーの観客のようすは、悪名高いサッカーのサポーターとあまり変わらない。上半身裸で旗を担いで競技場外を放歌高吟しながら、うろついている。とても「上流階級のスポーツ」とは言えないようである。
 1973年に日本のラグビー代表チームが初めて欧州に遠征したとき、英国で取材したことがある。試合のあとのレセプションで、日本チームの団長だった金野滋さんが、こんな挨拶をした。「私は昨日、良くないことをしました。実はサッカーの試合を見に行ったのです」。
「ラグビーの人間はサッカーのような下賤なスポーツは見に行かない」という前提のジョークだった。そのころとは大きな変わりようである。

★構造改革のとき
 アマチュアリズムに凝り固まり、「紳士のスポーツ」をもって任じていたラグビーが変わり始めたのは、1995年に南アフリカで開かれたワールドカップのころからだという。
 1980年代にテレビの多チャンネル化がはじまり、それに伴ってスポーツの放映権料が高騰し、スポーツイベントの商業化が進んだ。それとともにオリンピックのアマチュアリズムが崩壊した。そういう時代の波が、10年ほど遅れてラグビーを襲ったようだ。現在ではラグビーにもプロ選手が生まれている。それで観客層も大衆化したのだろう。
 「歴史の流れだ」と受け入れる人いるだろうし、「古き良きラグビーが失われた」と嘆く人もいるだろう。だが、日本のラグビー界の現状を見ると、この流れについて行くのは、たいへんだろうと思う。2019年のラグビー・ワールドカップ開催が、日本のラグビーの構造を変える機会にしなければならないのではないだろうか。

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サッカー日誌 / 2010年03月06日


本田圭佑は南アフリカに行けるか?


AFCアジアカップ2011カタール 予選A組最終戦
日本 2-0 バーレーン
3月3日(水)豊田スタジアム

★重要なチャンスに良さが出た
 アジアカップ予選最終戦は、日本もバーレーンもともに決勝大会への進出を決めたあとだった。この「お花見試合」が、のちのちにまで記憶されるとすれば「本田圭佑(ロシア、チェスカ・モスクワ)がスーパースターになるきっかけになった試合」としてだろう。ただし、本田が今後ワールドカップの日本代表に選ばれ、南アフリカで活躍すれば――の話である。そうなる可能性が強いかどうかは、まだ分からない。
 本田が日本代表の試合に出場するのは、これが12試合目だった。先発は6試合目、フル出場はこの日を含めて3試合である。
 そのなかで、本田の良さが、もっとも生かされたのは、この試合だっただろう。また、本田の将来にとって、もっとも重要な機会だったのは、この試合だった。本田は1点目の起点になり、2点目をみずから決めた。

★南アフリカ行きが近づいた
 本田は岡崎慎司とともに前線で起用された。やや下がり目の「トップ下」である。パスを出して攻めの起点になるとともに、ゴール前へ突進してゴールを挙げることが期待されていた。
 前半36分の1点目は、本田から中村俊輔へのリターンパスが起点だった。俊輔が左の松井大輔に送り、大輔が左からあげたクロスを岡崎がヘディングで決めた。
 2点目は後半、アディッショナルタイムに入ってからの終了寸前である。内田篤人が右隅からあげたボールにヘディングで飛び込んだ。
 勝ち負けが重要な試合ではなかったが、本田にとっては「結果良ければ、すべて良し」である。岡田武史監督が期待していたとおりの結果を出したので、南アフリカ行きの切符がぐっと近づいてきた。

★「トップ下」の役割をこなす
 本田の良さが生きたのは「トップ下」で使ってもらったからである。本田にとっては、オランダでもやっていたポジションで不慣れではない。
 前年9月に日本代表がオランダに遠征したときの試合では、中盤前のサイドで中村俊輔とのポジション競合が話題になったが、現在の日本代表は俊輔中心のチームだから本田が俊輔と競っても「勝ち目」はない。俊輔を助けてパスを出し、俊輔からパスをもらって攻めに出る役をこなせたのは収穫だった。
 幸運もあった。終了間際の1点がなかったら注目度はぐんと落ちただろう。後半途中から出場した森本貴幸が、ライナーのクロスにニアポスト付近へ飛び込んで、相手の守りとともにつぶれてくれたので、ファーポスト側の本田が、フリーのシュートチャンスに恵まれた。南アフリカでも幸運に恵まれるかどうかは、分からないが……。

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サッカー日誌 / 2010年03月04日


東アジア選手権落ち穂録(下)


「スポーツと政治」のいろいろ
2月6日(土)~14日(日)味の素スタジアム、国立競技場

★呼称と国歌の使い分け
 男子の東アジア選手権には、中国と香港が参加していた。香港は経済と社会の体制は違うが政治的には中国の一部である。試合前には、ともに中国の国歌が演奏された。
 しかし、試合後の記者会見では、中国チームは中国語を使用し、香港チームは英語を使用した。香港の監督は韓国人だが、韓国との試合の後でも英語で話した、
 太平洋戦争前のアジアでは「中国」がサッカーのNO.1だった。当時の国名は「中華民国」である。主として当時は英領だった香港の選手で構成されていた。
 戦後、第1回から第3回までのアジア競技大会のサッカーでは「中国」が3連勝している。この当時も国名は「中華民国」である。選手の多くは香港在住だった。だが中華民国は台湾だけを支配しており、本土は「中華人民共和国」が支配していた。
 スポーツの世界でも「政治」のからむ問題は複雑だ。

★台湾チームの名称と「歌」
 東京の東アジア選手権に、女子では「台湾」が参加していた。チームの正式名称は「チャイニーズ・タイペイ」(中華台北)である。「台湾」はマスコミが使っている呼称である。
試合の前には、国歌の代わりに「中華台北オリンピック賛歌」が演奏された。
 台湾の政府は「中華民国」(Republic of China)を国名としているが、実効支配しているのは台湾島だけである。本土を支配している「中華人民共和国」(People’s Republic of China) が国連に加盟するとき「二つの中国」を認めることはできないという「中華人民共和国」の主張で「中華民国」は国連から除外された。
 スポーツの場合は、台湾に住んでいるスポーツマンが国際大会に参加する機会を奪われないようにするために、台湾のスポーツ団体が国際スポーツ団体に加盟することを認められているが、名称は「チャイニーズ・タイペイ」(中国の台北)となった。

★アジアは広すぎる
 今回は参加しなかったが「北朝鮮」の問題もある。国の正式名称は、北は「朝鮮民主主義人民共和国」。南は「大韓民国」である。英文は南がRepublic of Korea で、北はDemocratic People’s Republic of Korea である。どちらもKorea を使い、本来は「一つの国」だという建て前だが、統一チームを編成するのはサッカーでは難しい。国歌も違う。
 東アジアのなかだけでも、これほど、いろいろな問題がある。
 そのうえ、アジアは広すぎる。マレーシアなどの東南アジア、インドなどの南アジア、サウジアラビアなどの湾岸アラブ諸国、ウズベキスタンなどの中央アジアが、それぞれ地域別の大会や選手権を持ち、そのうえにアジア全体の大会や選手権がある。時差の範囲も広く、移動距離も長い。
 アジアのスポーツ組織の再編成が必要ではないかと思う。

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サッカー日誌 / 2010年03月03日


東アジア選手権落ち穂録(中)


タイトルか、W杯準備か。
2月6日(土)~14日(日)味の素スタジアム、国立競技場

★参加チームそれぞれの立ち場
 東アジア選手権にベスト・メンバーで参加できたチームは少ない。
 男子の日本と韓国は、欧州のクラブに行っている選手を呼び戻すことができなかった。
 中国はワールドカップ予選で敗退したので、新しいチームを作りはじめるところだった。
香港は地元の事情のため「サウス・チャイナ(南華)」主力の編成で「単独のクラブ」といっていいくらいだった。
 日本と韓国は、ワールドカップ南アフリカ大会を4カ月後に控えているので、そのためのチーム作りの途中だった。それでも参加している以上は「東アジアのタイトルをとるために全力で戦う」と宣言しないわけにはいかない。
 とくに日本は、地元開催だから優勝を期待されている一方、ワールドカップへのチーム作りの過程としても重要だった。

★岡田監督の失敗、韓国監督の成功
 欧州組が加わらなくても東アジア選手権を戦うチームを編成することはできる。「必ず優勝できる」とは言えないにしても、優勝を狙えるチームを作ることは十分に可能である。ただし、そのチームに欧州組が加わったときにワールドカップ・チームとして完成するように、土台を磨いておかなければならない。しかし、中国と引き分け、韓国に敗れて、岡田武史監督は、どちらの狙いも、うまくいかなかった。
 韓国のホ・ジョンモ(許丁茂)監督も同じ立ち場だった。中国に0対3で敗れたのは誤算だったが、京都サンガのカク・テヒ(郭泰輝)、ジュビロ磐田のイ・グノ(李根鎬)とJリーグ在籍の長身選手を起用し、ワールドカップで大型チームと対戦する場合に備えてテストした。そして対日本戦では、この2人を先発からはずして快勝し、選手たちに自信を植え付けることができた。

★女子の次の目標はアジアカップ
 女子は5月に中国の成都でアジアカップがある。東アジア選手権とアジアカップと、どちらに重きを置くかという問題があった。アジアカップは、女子ワールドカップの出場権がかかっているから重要である。
 日本の立ち場では、自国開催の東アジア選手権で勝つことが、まず重要だった。「なでしこジャパン」は、連続優勝で課題を果たした。
 中国にとっては、成都のアジアカップが地元開催だから重要である。日本には敗れたが韓国に勝って2位を確保したのは経験と自信を獲得した点で成果だった。
 今回は北朝鮮が参加しなかった。日本政府が入国許可を遅らせたのが不参加の口実になった。しかし成都の大会には参加するだろう。日本と同じグループになる。「なでしこ」が頑張って、アジアのナンバー1の座を確保してほしいところである。

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サッカー日誌 / 2010年03月01日


東アジア選手権落ち穂録(上)


各チーム監督記者会見の品定め
2月6日(土)~14日(日)味の素スタジアム、国立競技場

★中国・高洪波監督のジョーク
 試合の後には、両チームの監督が共同記者会見をするのが「しきたり」である。
 東京で開かれた東アジア選手権決勝大会には男女合わせて8チームが参加し、それぞれ3試合ずつしたから、8人の監督が通算24回の試合後記者会見をしたことになる。
 これだけマスコミにさらされると、それぞれの監督の地金があらわれ、比較される。 
 男子の監督でよかったのは、優勝した中国の高洪波監督だった。44歳。比較的若い。ハンサムな細面で無表情だが、最後にちょっとジョークを言う。
 最終戦で香港に2-0で勝ったが、なかなか点を取れないで苦戦した。原因を聞かれて「香港の守りが良かったからですが、中国では教育が普及していて、選手たちは学校で弱い者いじめをするなと教えられているのです」と答えた。

★明快雄弁な台湾女子・周台英監督
 女子台湾の周台英監督は、8人の監督の中でただ一人、女性だった。46歳。陽やけした顔にトレパン姿で会見に臨み、いかにもスポーツ選手らしい。アジア女子サッカー初期のころ、台湾が1977年、79年、81年のアジアカップで3連勝したときの代表選手だった。その後、ドイツのクラブや日本の鈴与清水FCでプレーした。
 完敗続きだったが、記者たちが知りたいことに的確に答え、明快雄弁だった。ピントをそらせて、あいまいに答えるようなことはしない。事実を知りたい記者には、ありがたい。
 北朝鮮が不参加になった補充で、急に参加することになったので、国立の台湾師範大学と台湾体育学院の選手を主力に、参加できる選手を数人補強した。準備は不十分だったということだった。補充したなかにスペインとオーストラリアのクラブに行っている選手が1人ずついて、攻守の中心だった。

★評論家のような岡田武史監督
 日本男子の岡田武史監督の話は面白みがない。監督初期のころは、ヘタなジョークを飛ばしたこともあったが、その後は、かたい表情で用心深い話しぶりだ。
 しかし、戦術的な内容でも丁寧に説明してくれるので、報道陣にとって、いい材料になる。手の内をすべて明かしているわけではないだろうが「速いパスを組み立てて、サイドから低いクロスを通す」などと説明して、選手たちがそのとおりにやろうとしているのを見ると「こんな型にはまったやり方が世界で通用するのか」と思う。
 話しぶりは評論家のようである。自国開催の大会で中国、韓国におくれをとって3位に終わったことについて「批判は甘んじて受ける」と言いながら「チームの仕上がりが1週間遅れた」「選手の対応力が課題だ」など他人事のようである。「そうなった責任は監督にあるのだろ」と言いたくなる。

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