サッカー日誌 / 2011年05月30日


代表選手にとってはプラスだ


コパアメリカ不参加問題始末(中)
(5月17日 出場辞退を正式発表)  

◇休養期間が与えられた
 7月の南米選手権に日本代表チームが出場できなくなったことについて「残念だ」という仲間が多い。
 「日本が南米の強豪と対戦する試合を、テレビ中継で見られなくなったのは残念」というのなら分かる。アルゼンチンまで応援に出かけるつもりだった連中もいて「行けなくなったのが残念」という者もいる。それも分かる。
 しかし、多くの仲間は「日本代表選手強化の機会を失ったのが残念」という意見のようだ。
 「それは違うよ」と、ぼくは思う。日本代表チームにとっては、南米行きがつぶれたのはプラスだった。「残念」じゃなくて「よかった」である。その理由は、代表の選手たちに休養の期間が与えられたことである。

◇アジアカップ+南米選手権?
 もともと、7月に日本代表が南米へ行く予定だったのは、この時期の日程がぽっかり空いていたためである。
 なぜ空いていたのか? 通常であれば6~7月には、アジアカップがあるはずだった。ところが今年のアジアカップは1月だった。開催地のカタールの夏が猛暑なので、開催時期を冬に移したからである。だから7月が空いたのだが、ここは本来、休みの期間だ。
 選手たちは1月、カタールのアジアカップを全力で戦い優勝した。そのうえ、さらに7月の南米選手権を戦わせるのは「過重労働」である。
 1年間には52週しかないことを考えてほしい。その52週の間に、国内リーグと国際試合の日程を組む。それだけで45週くらい取られる。体と心を休める期間は7週ほどしかない。それを取り上げて、同じ年に2つの地域選手権を戦わせるのは無茶である。

◇テレビ放映がからむ
 7月が空いているというので、日本サッカー協会の某幹部が南米選手権への招待を南米サッカー連盟に働きかけた。これが、そもそも無茶だった。
 南米選手権へ参加できなかったのは、震災のせいではない。日本サッカー協会の某幹部に「周りを見る力」と「先を見る力」がなかったからである。
 結果としては、南米選手権に参加できなくなったために、日本代表の選手たちが休養期間をとることができたのはよかった。これが、ぼくの考えである。
 ところで、アジアの国の日本が、なぜ南米選手権に招待されるのだろうか?
 思うに、これはテレビのグローバル化が関係している。日本が加われば、南米選手権の放映権を日本にも高く売ることができる。それで日本に誘いがかかったのだろう。
 日本の南米選手権不参加は、テレビへは迷惑をかけたに違いない。



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サッカー日誌 / 2011年05月28日


協会の不手際を追及せよ


コパアメリカ不参加問題始末(上)
(5月17日 出場辞退を正式発表)  

◇信義にもとる日本協会
 7月にアルゼンチンで開かれるコパ・アメリカ(代表チームの南米選手権)に、日本代表チームが招待されて参加することになっていた。ところが、この時期にベストメンバーによる日本代表チームを編成することが不可能であることが分かって、3月~5月にさんざん迷走したうえで、5月17日に日本サッカー協会が「招待辞退」を正式発表した。
 この問題には、いろいろな事情が絡んでいるから、一刀両断に評価するのは難しいが、Jリーグと選手たちにとって不参加は良かったと思う。Jリーグは日程を守ることができたし、日本代表の選手たちは休む期間がとれたからである。
 一方、南米サッカー連盟に対して「参加する」と約束しておきながら、参加できなかったのだから、日本サッカー協会は「信義にもとる」ことをしたわけである。その責任は追及されなければならない。

◇欧州のクラブが選手を拘束
 参加を約束しておきながら参加できなくなったのは、東北太平洋岸震災が原因だったように考えられている。そうだろうか?
 地震が起きたのは金曜日の3月11日。翌週明けの3月15日(火)にJリーグは、3月の日程をとりあえず休むことを決めている。東北にもチームがあり、スタジアムも損傷したのだから、やむを得ない処置である。そのときすでに、休んだ節の試合を、南米遠征のための中断期間のはずだった7月に移す方針を打ち出している。つまり、日本代表の南米遠征に、Jリーグの主力選手は出せないということである。こういうふうに見ると、南米選手権不参加は「地震が原因」だったように見える。
 その後、日本サッカー協会は、欧州のクラブに所属している選手を主力に日本代表を編成して参加することを模索しはじめた。

◇地震のせいだとは言えない
 ところが、選手たちを拘束している欧州のクラブは、日本協会の要請に「ウン」と言わなかった。それで最終的に南米選手権参加を断念したわけである。
 欧州組の選手がクラブに拘束されているのは震災とは関係ない。地震がなくても、欧州のクラブは選手を出してくれなかったはずである。
 そうだとすれば、地震の起きる前には、日本サッカー協会は欧州組抜きの日本代表チームで南米選手権に参加するつもりだったのだろうか?
 そもそも、南米サッカー連盟が日本を招待したのは、日本側が「招待してくれ」と頼んだからである。そのとき南米側は「ベストメンバーでなければダメ」と念を押している。
 こう考えると、日本サッカー協会の担当役員は、できない約束をしていたわけで、約束を履行できなかったのは、地震のせいとは言えないのではないか?



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サッカー日誌 / 2011年05月24日


サッカーの考え方の三つの基準


日本サッカー史研究会
(5月23日 JFAハウス会議室)  

◇FA以前の競技方法
 日本サッカー史研究会の5月例会では、フットボールの「ルールの歴史」を取り上げ、会員の浅見俊雄さんの報告を聞いた。
 浅見さんは、もともとはスポーツ科学の研究者で東大教授だった。サッカーでは国際審判員を務め協会の審判委員長だった。サッカー史は専門ではない。しかし、興味を持って調べている。協会の役員、監督、コーチ、プレーヤー、サポーターなどが、みな、このように、自分たちのスポーツの歴史に関心を持って欲しい。そうすれば、サッカーの見方が広がり、ますますサッカーが面白くなる。それは間違いない。
 今回、浅見さんはFA創立以前のフットボールの競技方法について、いろいろな文献や研究業績を調べて紹介した。まとめて整理し、系統立てて示されると、知っているつもりだったことが分からなくなったり、新しい考えが出てきたりする。

◇「足ボール」という呼び名
 たとえば「フットボール」という言葉である。ボールを扱うチーム競技の呼び名だけれど、必ずしも足だけで扱うとは限らない。大昔から、いろいろなボール競技があって、各国、各地、各グループ(学校など)で、それぞれ別のやり方で行われてきた。ボールを手で扱うものも多かった。それでも「足ボール」と呼ばれていたのは、なぜだろうか?
 Football という言葉が、初めて出てくるのは1314年に英国のエドワード二世が出した「フットボール禁止令」だそうだ。当時、英国で流行していたフットボールは現在のサッカーとは、まったく違うもので、多数の群衆が町の通りや広場でボールを奪い合って揉みあう乱暴な競技だった。そういう危険な競技に民衆が熱狂するので「もっと役に立つことをやれ」と禁止したのである。でも、これが「フットボール」という言葉の最初だとすると、それ以前は何と呼ばれていたのだろうか? 

◇ルール統一の三つの基準
 1863年にロンドンで15のクラブの代表が集まって相談し、フットボール協会(The Football Association )を設立し、統一ルールを制定した。これがサッカーの始まりである。この統一ルールの基礎になったのは、1848年に作られたケンブリッジ・ルールだった。
 いろいろなパブリック・スクールでフットボールをやっていた若者たちが、ケンブリッジ大学に進学してくる。そこで共通のルールを決めたのがケンブリッジ・ルールである。
 そのルール統一のときに、いろいろなパブリック・スクールの競技方法のなかから、項目ごとに一つを選んだ。選ぶ基準は、合理的、フェア、実際的の三つだった。これが現在のサッカーの考え方の基礎になっていると思った。
 理にかなった考え方で、公正の原則は厳守しながら、現実にあった方法を選ぶ。この考え方が、サッカーを世界のスポーツにしたのだろう考えた。



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サッカー日誌 / 2011年05月23日


李忠成決勝ゴールの分析


日本代表激闘録、アジアカップ2011
(中村和彦監督のDVD 5月11日から市販中)  

◇テレビ中継になかった映像
 ビバ!サッカーの4月例会のとき、サッカー狂の映画監督、中村和彦さんにゲスト講師として来ていただいた。
 そのころ、中村監督は、1月のアジアカップで優勝した日本代表のDVDを制作中だった。それについて、こんな話をした。
 「DVDではテレビの生中継で使われなかった映像も利用します。アジアカップ決勝戦で李忠成が決勝点をあげた場面で、そういう映像で新しい発見をしました」。
そのDVD「日本代表激闘録 AFCアジアカップ カタール2011」は、5月11日から市販されている。
 そのなかで「李忠成の決勝点」の映像は、どのように扱われているだろうか? どんな新しい発見があるだろうか? 興味をもって見た。

◇「たまたま」ではない決勝ゴール
 アジアカップ決勝戦、対オーストラリアの延長後半4分、左サイドから攻め込んだ長友がゴール前に浮き球をあげる。まったくフリーになっていた李忠成がみごとなボレーシュートを決める。李がフリーになっていたのも、長友のクロスがちょうど李のところに落ちたのも「たまたま」だったように見える。
 ところが、実は「たまたま」ではない。李はゴール前で微妙な動きをしてファーサイドへ出る。長友はドリブルで攻め込みながら、ちらっと中央を見て李の位置を感じ取っている。それをDVDでは、いろいろな角度からの映像でとらえている。
 いろいろな角度からの映像を組み合わせて見せたうえで、中村監督は大会終了後の特別インタビューで長友と李にその場面の説明をさせている。リアルタイムの生中継ではできない、DVDならではの作り方である。

◇選手たちの高い戦術能力
 アジアカップで日本が戦った6試合のなかに、勝敗を分けるカギとなった場面がほかにもある。そういうシーンにスポットを当てて、それぞれDVDならではの構成をしている。
 この作品で分析されているプレーと紹介されている選手たちのコメントによって、日本代表選手たちの個人戦術能力のレベルが、きわめて高いことが分かる。おそらく、現在の日本人の強化スタッフや監督、コーチが経験してきたレベルとは段違いだろう。
 日本代表選手たちの個人戦術能力が、格段に高くなったのはなぜだろうか?
 日本サッカー協会の英才教育が実ったのだろうか? 日本の監督、コーチによって教え込まれたのだろうか?
 とても、そうとは思えない。選手たちは欧州のクラブなどで経験を積み、欧州や南米の高いレベルの映像などを見聞している。それが役立っているに違いないと思った。


DVDのパッケージ



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サッカー日誌 / 2011年05月22日


「6月の料理の味を忘れない」


南アW杯、ビバ!ハウスの記録

ビバ!サッカー月例会
(5月20日 東中野テラハウス)

◇思い出の食べ物DVD
 ビバ!サッカー研究会の5月例会でDVD鑑賞会をした。約1年前のワールドカップ南アフリカ大会のとき、プレトリアの大きな邸宅を41 日間(40泊)借り切ってビバの仲間たちなど約40人が延べ約500泊した。称して「ビバ!ハウス」。その滞在記録ドキュメンタリーである。
 仲間の一人、通称「カメ」がビデオカメラを持って行って南ア滞在の様子を撮影した。ワールドカップ観戦旅行の思い出を映像として残そうというつもりだった。しかし滞在中に方針を変えて、ビバ!ハウスの様子を、それも食事をテーマに「作品」としてまとめることにした。
 ビバの仲間の「純子」が映像編集の専門家だったので、3時間におよぶ映像を20分あまりのDVDにまとめてもらった。題して『6月の料理の味を忘れない』

◇本職のシェフがサービス
 ビバ!ハウス利用者のなかに料理本職のシェフがいた。「房州」さんである。海外を渡り歩いて日本料理の仕事をしていたが、ワールドカップの切符が手に入ったので南アフリカに行くことにし、たまたまネット上の縁でビバ!ハウスに転がり込んだ。
 「シェフなんだから食事作ってくれよ」と幹事に頼まれて気軽に引き受けた。数人分の食事を数回作ればいいのだろうくらいに思っていたら、宿泊者は毎日十数人。外に食べに行くのは面倒な場所だったので、大部分の人がハウス内で食事をしたがった。そのために毎日、昼夜、多いときには30人分の食事を作った。
 肉や野菜の種類も日本とは違うし、大量の食材の買い出しもたいへんである。
 「こんなはずではなかった」と言いながら、結局、大会が終わるまで滞在して、毎日、毎日、キッチンでボランティアをした。

◇ブラジル2014でもやろう
 もう一人、海外ぶらぶら旅行中の若い女性「トモちゃん」がビバ!ハウスに長期滞在し、料理係に加わった。撮影担当の「カメ」も炊事助手を兼ねた。
 滞在者は試合を見に行くほか、ビバ!ハウスのなかでテレビ観戦をする。1日3試合、テレビを見る日もある。出掛けてレストランで食事をすると、その時間が取れない。ハウスでちゃんとした、おいしい食事ができたので大助かりだった。「食い物の恨みは恐ろしい」というけれど「食い物の恩」は忘れがたい。
 というわけで、房州、トモちゃん主演、カメ助演兼撮影、純子監督・編集で『6月の料理の味を忘れない』が完成。ビバの月例会で上映したのである。題名は、もちろん、2002年ワールドカップ日本代表公式DVD『6月の勝利の歌を忘れない』のもじりである。
 「2014年ブラジルでもビバ!ハウスを」というのが見終わったみなさんの感想だった。


左からカメ、純子、トモちゃん、房州。



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サッカー日誌 / 2011年05月20日


柏レイソル好調の原因は?


J1 アルビレックス新潟 0対3 柏レイソル
(5月14日 新潟・東北電力ビッグスワン)

◇久しぶりのビッグスワン
 新潟へ行って久しぶりにビッグスワン(東北電力スタジアム)でJリーグの試合を見てきた。相手は柏レイソルである。
 新潟へは別に用件があって出かけたのだが、柏レイソルの試合ぶりを見てみたいと日程を合わせたのである。
 震災のために中断されていたJリーグが再開されたあとも、J2から復帰の柏が好調で首位に立っている。その理由、あるいは背景は何かを知りたいと思った。
 得点は3対0、シュート数は10対1で、数字の上では柏の圧勝だった。しかし、試合の内容に、それほど大きな差があったわけではない。
 新潟もかなり、いい攻めをしていてチャンスはあったのだがシュートができない。
 柏は効率のいい試合運びで持ち駒の長所を生かしていた。

◇ネルシーニョ監督の用兵
 前半23分の柏の先取点は、ジョルジ・ワグネルの個人技だった。左隅近くでこぼれ球を拾うと、曲芸のように浮き球を操って新潟の守備プレーヤーをかわして進出し、角度のないところから右隅を狙って決めた。ジョルジ・ワグネルは左のディフェンダーである。
 後半16分の2点目は、左寄り30㍍ほどの距離からのフリーキックから、ジョルジ・ワグネルが鋭く曲がるキックでゴールを狙い、近藤直也のヘッドをかすめて決まった。
 後半36分の3点目は、新潟が反撃に出ようと前がかりになっている背後をついたもの。右後方、ハーフウェーラインの手前から酒井宏樹が長いボールを送り、走り込んだ工藤壮人が決めた。酒井も工藤も21歳、ともに柏のユース育ちである。工藤は2対0とリードしたあと残り13分に、ベテランの北嶋秀朗に代わって交代出場した。柏の育成の成果をネルシーニョ監督の用兵が生かした。

◇新潟のシュートはわずか1本
 公式記録ではアルビレックス新潟のシュート数は、わずか1本。しかし、ぼくの見たところでは、中盤の支配とゴール前へ攻め込んだ回数は、それほど違わなかった。後方から縦に大きく出す攻めが単純だったこと、サイドから作ったチャンスではラストパスが雑だったこと。この二つが原因でシュートに結びつかなかった。
 柏のシュートは10本だったが、実はゴールの枠に向かって飛んだのは、ゴールに結びついた3本だけである。攻撃力がとくにすばらしいわけではない。
 新潟を0に抑えた柏の守備は安定していたが、新潟は攻撃の主力のチョ・ヨンチョルとブルーノ・ロペスの2人が故障で欠場していたから割り引いて評価する必要がある。
 というわけで、柏レイソル好調の理由は、はっきりとは分からなかったが、ネルシーニョ監督のチーム統率がうまく機能しているのだろうと推察した。



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サッカー日誌 / 2011年05月13日


八重樫茂生さんの思い出(下)


戦中育ちの戦後派プレーヤー
(5月2日逝去。5日通夜、6日告別式)

◇中学1年生で朝鮮から引き揚げ
 八重樫茂生は1933年3月生まれ。日本が戦争に敗れたとき、当時、日本の支配下にあった朝鮮の太田(たいでん、テジョン)で中学1年生だった。
 敗戦のため朝鮮から引き揚げ、故郷の岩手県盛岡中学に編入した。そこで工藤孝一さんに出会ってサッカーを知った。中学3年生のときである。工藤さんは1936年のベルリン・オリンピックに通信社の記者として日本代表チームに同行した人である。
 在学中の学制改革で旧制盛岡中学がそのまま盛岡一高になった。中央大学、早稲田大学を経て古河電工に入る。
 八重樫とぼく(牛木)は同年代である。八重樫が早生まれのため生年は、ぼくが1年早いが、中学1年のとき朝鮮から引き揚げ、敗戦後にサッカーを知った点は同じである。ただし、スポーツの才能は大違いである。

◇読売クラブの監督候補に
 ともに戦中育ちの戦後派なので話は通じやすかった。
 メキシコ・オリンピックのとき、八重樫は第1戦でケガをし、試合に出られなくなった。その後、松葉杖をつきながら後輩の選手たちのユニフォームの洗濯を引き受けた。それが美談として伝説的になっている。
 「そんなの当たり前だよな」というのが、八重樫やぼくの世代の考えである。
 戦中、戦後の日本全体が貧しかったとき、自分にできることをして、皆で助け合うのは当然だった。そうしなければ、みな生きていけない時代だった
 八重樫に読売サッカークラブの監督を要請したことがある。1976年、日本リーグ(JSL)2部から1部に上がるために苦戦していたとき、オランダから招いていたファン・バルコム監督が辞任した。その後任として交渉した。

◇日本の不滅のキャプテン
 ぼくの直談判を八重樫は、きっぱり断った。あるいは富士通の監督になる話が進み始めていたのかもしれない。富士通は、もともと古河電工とドイツのジーメンスが作った会社で、八重樫の勤めていた古河電工とは親戚関係である。
 八重樫が読売クラブの監督になっていたら、どうだっただろうか? 成功したとすれば読売クラブに規律をもたらしただろう。一方で、ジョージ与那城などブラジルからの選手を抱えていた奔放なチームを統御するのは難しかったかもしれないとも思う。
 東京郊外多摩市で行われた告別式では、メキシコ・オリンピックの日本代表ゴールキ-パーだった横山謙三が次のように「お別れのことば」を述べた。
 「われわれは、厳しさのなかで自由闊達なチームだった。八重樫さんは、その不滅のキャプテンだった。中盤の重要性を示し、いまの日本のサッカーの礎を築いた」


著書「サッカー」から。連続写真で技術を示す。



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サッカー日誌 / 2011年05月12日


八重樫茂生さんの思い出(中)


八重樫の「サッカー」出版
(5月2日逝去。5日通夜、6日告別式)

◇連続写真で見せる指導書
 東京オリンピックの2年後、メキシコ・オリンピックの2年前、1966年の終わりごろだったと思う。講談社の風呂中斉さんが、当時、読売新聞運動部の下っ端記者だったぼく(牛木)を訪ねてきた。風呂中さんは広島の名門高校でゴールキーパーだった人である。「八重樫さんにサッカーの指導書を書いてもらおう」という相談だった。
 八重樫に話すと数冊のノートを持ってきた。1960年以来、クラマー・コーチに教えられたことを克明に記録したものだった。
 それをもとに、当時としては、まったく新しい形の本を作ることにした。
 主として基本的な技術を八重樫自身がやって見せ、それを撮影して連続写真で見せる。ビデオが普及していないころだったから、紙の上でプレーを生き生きと見せることを狙ったのである。

◇五輪の日本代表選手が協力
 千葉県検見川の東大グラウンドに出かけて撮影した。
 フィルムの時代である。「アイモ改造」と呼んでいたカメラで専門のカメラマンが撮影した。ニュース映画撮影用カメラを静止画像が記録できるように改造したものである。
 ヘディングの撮影をしたとき、何度撮影しても、ボールがヘッドに当たっている瞬間が写っていない。やむなく、貼り付けでごまかしたように記憶している。大きく使う写真は、ふつうのカメラで別に撮った。人間のカンでシャッターを押すと、ちゃんとボールが額に当たる瞬間をとらえることができた。
 ゴールキーパーの撮影には、古河電工の保坂司が協力した。オーバーヘッドキックの撮影では、同じく古河電工の宮本征勝がモデルになった。オリンピック日本代表の一流選手が、ボランティアで協力してくれたのである。

◇クラマーの指導を伝える
 奥付を見ると「昭和43年6月24日-第1刷発行」となっている。1968年、メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得するより前に出版されたわけである。
 「クラさんの教えを秘伝にしちゃあいかんのよ」と八重樫が言ったのを覚えている。
 クラマーさんの指導は、それまでの日本のサッカーを大きく変えるものだった。その改革を、クラマーさんは八重樫の体と心に叩き込んだ。八重樫はそれを自覚していて、クラマーのサッカーを、この本で広く日本に伝えることが使命だと考えたのである。
 八重樫の「サッカー」は、クラマー以後の初の本格的指導書になった。
 写真を効果的に使えるようにと、正方形に近い形の本にした。ぼくのアイデアだったが、これは本屋に並べにくく、販売面ではマイナスだったらしい。それでも、その後「講談社スポーツシリーズ」として100冊以上、同じ版型で各競技の指導書が続いた。



八重樫茂生著「サッカー」の表紙。



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サッカー日誌 / 2011年05月11日


八重樫茂生さんの思い出(上)


改革を心と体で伝えた
(5月2日逝去。5日通夜、6日告別式)

◇数字で表わせない功績
 八重樫茂生が5月2日に脳梗塞でなくなった。78歳だった。1956年メルボルン、1964年東京、1968年メキシコと3度のオリンピックに参加した名選手である。戦後の日本で、もっとも偉大なサッカー選手だったと、ぼくは思っている。
 はなやかにファンにアピールしたスターとしては、Jリーグ以前では釜本、杉山、Jリーグ後ではカズやヒデがいる。しかし、日本のサッカーの向上に大きくかかわった功績では、選手として八重樫の右に出る者はいない。
 日本代表として国際公式試合(A)44試合出場、古河電工の選手としてJリーグの前身、日本サッカーリーグ51試合出場というような数字が残っている。しかし、数字では、彼の功績は表せない。八重樫は、戦後の日本のサッカー改革を、プレーヤーとして、自分の心と体で体験し表現した。それが彼の歴史的功績である。

◇システムの移り変わりを体験
 1956年のメルボルン・オリンピック予選ではじめて日本代表チームに選ばれた。敗戦直後、戦前、戦中にサッカーを始めた人たちで代表チームが復活したあと、戦後にサッカーを始めた人たちが加わったチームである。そのなかでも、いちばんの若手だった。
 WMフォーメーションの時代だった。現在の流動的なシステム(布陣)に比べるとポジションが固定していた。インサイド・フォワード(インナーとも言った)で、現代のシステムでいえば、攻撃的なミッドフィールダーとトップ下を兼ねたような役割だった
 1960年代に入ってから、4:2:4あるいは4:3:3と呼ばれる現代のシステムに変わっていった。そのなかで攻撃的なミッドフィールダー(中盤)を担った。
 いわば、八重樫は近代のシステムから現代のシステムへの移り変わりを体験したのだった。ポジションだけの話ではない。プレーの考え方や役割の変化に身を洗われたのである。

◇クラマー改革のモデル
 1960年代に西ドイツから招かれたデットマール・クラマーが日本のサッカーを根本から改革した。そのときに技術と戦術の面で八重樫を変革のモデルにした。
 1961年に日本代表チームが西ドイツのデュイスブルクで合宿したとき、クラマーはフリッツ・ワルターを連れてきて八重樫と組んで練習させた。ワルターは1954年のワールドカップで西ドイツが優勝したときの主将。伝説的名選手である。パスの名手として有名だった。
 「ワルターによってパスの蹴り方に、いろいろあることを知った。それを使い分けて絶妙のパスが生まれるのだと分かった」と八重樫から聞いたことがある。
 クラマーは八重樫の天分を見抜き、八重樫を変えることによって、日本のサッカーの技術と戦術を変えようと試みたのである。


西ドイツの選手たちとともに。左から2人目が八重樫。右端は杉山隆一。


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サッカー日誌 / 2011年05月09日


地方クラブの未来像


ビバ!松本ツアー(7)
(4月30日 松本山雅FC を考える)

◇FCが故郷へ招く
 信州ダービーを見終わったとき、ケータイ電話が鳴った。「双眼鏡で記者席を探したら姿が見えたので……」という。ビバ!サッカーの仲間だが今回の松本ツアー参加者ではない。千葉県のカルチャーセンターで講座を開いていたときに仲間に加わった人で、熱心なジェフのサポーターである。「ちょっとだけでも会おう」と松本駅で待ち合わせた。
 「私はこの町の育ちで」という。高校選手権に出たこともある松本縣が丘高校の出身者だった。「松本山雅FCがJFLに進出したので嬉しくなって応援に来てるんです。今年2度目です」
 小学校のときの同級生たちと会う予定になっているというので、少し立ち話をしただけで別れたが、「すごい!」と感動した。サッカーが故郷の魅力を高め、首都圏に出ている出身者を招き寄せたのである。

◇スポーツの収入源
 松本市は人口24万人余り。「このくらいの中都市でJリーグのチームを維持できなければ日本のサッカーもホントじゃない」というのがぼくの持論である。
 いま、スポーツの財政基盤は、第一にテレビ放映権、第二に大企業スポンサー、第三に入場料であるJリーグでは、テレビ放映権はリーグが一手に扱っている。大型企業はスポーツから手を引く傾向にある。地方のチームが頼りにできるのは地元の中小企業しかない。
 入場料収入はどうか? 松本山雅対長野パルセイロの入場者数は、11,663人と発表された。JFLでは記録的な数字である。しかし、金額にすれば、おそらく1000万円前後。入場料収入でプロチームを維持するのは難しいだろう。
 松本山雅は地方の魅力を高めている。このような地方のクラブが成り立っていけるような未来像を、協会とJリーグは具体的にどのように描いているのだろうか?

◇「いくぜ! Jリーグ!!」
 試合前にスタジアムの回りを1周してみた。至る所に濃緑の幟(のぼり)が立っている。
 「いくぜ! Jリーグ!!」の旗印だ。駐車場のほうからは、サポーターの一団が幟を押し立てて上がってきた。この熱気で目標へ突き進んでほしいと思う。
 「しかし……」と別のことも考えた。
 Jリーグにいくことだけが、松本山雅の存在意義だろうか?
 松本対長野のどちらかだけがJにあがれば、リーグのなかでの信州ダービーは、なくなるのだろうか?
 Jであろうが、リーグ外の定期戦であろうが、ライバル同士の対決が地元のサポーターを沸かし、野球の早慶戦や巨人阪神戦のように「伝統の一戦」になる。そうなってこそ、ほんとの「クラシコ」ではないか?




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