サッカー日誌 / 2010年04月26日


カメルーン「サッカーなくして人生なし」


ワールドカップE組の対戦相手
ビバ!サッカー月例会
4月16日 東中野

★「オー・ビラ―ジュ」での取材
 ワールドカップ南アフリカ大会を控えて、ビバ!サッカー研究会の月例会では出場各国を順次、取り上げている。4月の例会では、グループリーグE組で日本と対戦するチームの国情を調べて報告してもらった。
 日本の初戦の相手、カメルーンは「カメちゃん」こと本杉亀一さんに担当してもらった。
 カメちゃんは、カメルーン大使館に連絡を取り、その推薦で東京・池袋にあるカメルーン料理の店「オー・ビラ―ジュ」に取材に行った。ぼくも、のこのこ、ついて行った。
 超高層ビル「サンシャイン」の麓にある小さな店である。女性のジュディ・アタンガさんが家庭料理を提供している。ジュディさんは、東京のカメルーン大使館で6年間勤務していたが、いったん帰国して日本語を本格的に勉強しなおし、再来日して4年前に、このお店を開いた。とくにサッカーに詳しいわけではない。 

★「No ダンバ、No Life」

 ビバ研究会の趣旨は代表チームの選手や戦力を紹介することではない。そういうことは新聞、専門誌、テレビなどで、さんざん取り上げられている。研究会では、その国の歴史や文化や社会を調べ、それがサッカーにどういうように影響しているかを考えてみたいと
考えた。そういう狙いで、サッカーの専門家ではない女性の話を聞いたわけである。
 いろいろ興味深い話が出たなかで、ジュディさんが終始、強調したのは「No ダンバ、No Life」という言葉だった。「ダンバ」は現地の言葉でサッカーのことである。カメルーンでは「サッカーなくして人生なし」が合言葉だということだった。
 ダンは「足」、バは「ボール」の意味だそうだ。つまり「フットボール」の直訳である。
 日本ではフットボールを「蹴球」と訳した。日本では、サッカーは「蹴る」ゲームだと考え、カメルーンでは「足技のゲーム」として受け入れた。ここに文化の違いの一つがある。

★多様性が生むサッカー
 カメルーンでは、サッカーは人生そのものである。すなわち「もっとも重要なスポーツ
である。またサッカーは「足技」のスポーツである。この二つの点で、カメルーンは日本を上回っている。
 カメルーンは「ミニ・アフリカ」と呼ばれている。山地と平原、乾燥地帯と熱帯雨林、北の文化と南の文化など、広大なアフリカの、いろいろな要素がカメルーンのなかにつまっている。また国民は245以上の民族(種族)で構成されている。
 このような「多様性」は、サッカーのチームを作るには都合がいい。足の速い人もいれば粘り強い人もいる。冷静な人もいれば熱情的な人もいる。いろいろな人の長所をうまく組み合わせれば、いいサッカーが生まれる。
 そういう多様性の中で共通な特徴は「負けず嫌い」だという話だった。

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サッカー日誌 / 2010年04月15日


日本代表、2年間の準備を振り返る(下)


「二軍」に完敗、みじめな締めくくり
日本 0-3 セルビア
4月7日 大阪・長居

★セルビアは国内組の若手中心
 来日したセルビア代表は「二軍」だった。トップレベルの選手は、他の欧州各国のリーグに出ているので加えられなかったという。国内リーグの若手中心である。ワールドカップ予選を戦ったレギュラーは含まれていない。
 日本に3対0で勝ったあとの記者会見で「今日のメンバーの中から南アフリカ大会に出場する代表に加える選手はいるか?」という質問が出た。
 記者会見に出たチュルチュッチ・コーチは「私からは言えない。監督のアンティッチが決めることだ」と答えた。セルビアの監督はベンチに入らないでスタンドで観戦し、コーチに代理監督をさせていた。選手もベンチも若手に経験を積ませたのである。
 アウェーの二軍にホームの一軍が完敗したのだから、長居競技場を埋めたサポーターが、岡田監督にブーイングを浴びせたのは無理もない。

★「個の力」を生かしたゴール
 しかし、セルビア「二軍」の選手一人一人は、それぞれ特徴のある技術や強さを持っていた。そういう「個の力」を生かすチャンスを作ることができれば、日本の「一軍」を破る力は十分もっている。
 セルビアの代理監督がとった策は「後退守備」からの逆襲だった。日本のパスワークに中盤では対抗しないでゴール前を固め、守備網の内側には入らせない。ボールを奪ったら速攻をかけ、前線に残しているストライカーの「個の力」にかける。
 前半23分の2点目は、ゴール前の密集の中でムルジャがシュートし、ゴールキーパーが跳ね返したのをすばやく反転して拾って決めたものだった。ムルジャは1点目も独走シュートで決めている。点を取る技術と速さに特徴のあるストライカーである。セルビアは、日本に招待された機会を生かして「個の力」を持つ若手選手に国際経験を積ませていた。

★長身者対策にはならなかった
 日本にとって、この強化試合の狙いは「背の高い相手に対する攻守をテストする」ことだったという。セルビアの先発11人の平均身長は187.1センチ、日本は179.1センチ。確かに相手は長身選手揃いだった。
 しかし、この試合は「長身者対策」の練習にはならなかった。セルビアの前線の選手はドリブルで攻め込むことが多く、高さを生かすためのゴール前への放り込みを、ほとんどしなかったからである。逆に日本のほうが、低いパスの攻めで食い込むことができず、コーナーキックなどから高いボールを上げていた。相手のやり方が分かった後半にも適切な対応ができなかった。
 ワールドカップ本番登録選手を決める前に、2年あまりにわたった準備の成果を見せて欲しいところだったが、そういう考えは岡田監督の頭のなかになかったようだ。

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サッカー日誌 / 2010年04月13日


日本代表、2年間の準備を振り返る(中)


岡田監督のコンセプトは正しかったか
日本 0-3 セルビア
4月7日 大阪・長居

★圧倒的に支配しながら完敗
 セルビアとの試合で、日本の選手たちはJリーグのシーズン中だから疲れもあり、体調はよくなかった。それでも中盤は一方的に支配していた。ポゼッションの数字は日本が70.3%、セルビアが29.7%。ボール支配の時間に、これほど大きな差がつく試合はめったにない。試合後の記者会見で岡田監督は、日本がやろうとしているサッカーが間違いではないことの証左として「支配率は70%以上だった」と口走った。
 しかし問題は、なぜ日本が7割以上もボールを支配していたのに1ゴールも奪うことができず、逆に3割弱のセルビアに3点も奪われたのか、ということである。
 岡田監督は「もっと前に行く姿勢が必要だ。ゴールへの執着心がない」と選手の精神面を問題にしたが、そうだろうか? 
 これまでの準備期間中の監督の考え方が不適切だったのではないだろうか?

★中盤と前線は欧州での経験者で
 岡田監督就任以来、2年あまりの準備期間中の選手起用を振り返ってみる。
 ストッパー2人は中澤-闘莉王でほぼ固定していたが、他のポジションでは、いろいろな選手が使われている。
 中盤は中村俊輔が中心だったが、欧州勢を呼び戻せない場合も多かったから遠藤保仁、中村憲剛など国内組に経験を積ませるチャンスがあった。しかし南アフリカの本番では、遠藤以外は、欧州のレベルを経験してきた顔ぶれになるだろう。
 前線のストライカーには切り札がいないから、いろいろなコンビが試された。そのなかから若手の岡崎慎司が台頭したのは収穫だったが、もう一人のストライカーが「帯に短かし、たすきに長し」である。欧州で経験を積んでいる本田圭佑と森本貴幸を使えば面白いのだが、岡田監督がこの2人を呼んだのは準備期間の終わりごろになってからだった。

★攻めで「個の力」、守りで「厚み」が必要
 セルビア戦での教訓の一つは「パスをすばやくつなぐ攻め」だけでは下がって守る相手を攻め崩せないことである。密集守備の相手の中で相手を打ち負かす「個の力」が必要である。「個の力」を出せる可能性があるのは本田か森本だろうと思う。こういうタイプのストライカーを、もっと早くから起用してみるべきだったのではないか?
 中盤を支配しながら逆襲を食って失点する原因は、中盤でミスをしてボールを奪われることである。セルビア戦の前半の2失点はそれだった。しかし90分間、プレスを続けることは難しい。ミスも避けがたい。状況に応じて厚く守ることも必要である。
 2年間の準備期間中、岡田監督は「すばやいパスの攻め」と「運動量による守り」でチームを作ろうとしているように見えた。
 そのコンセプトが正しかったかどうか? それは結果によって試される。

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サッカー日誌 / 2010年04月12日


日本代表、2年間の準備を振り返る(上)


国際経験を積んだストッパーの控えがいない
日本 0対3 セルビア
4月7日 大阪・長居

★準備期間の選手選び
 ワールドカップ南アフリカ大会に出場する日本代表チームのメンバーは、Jリーグ前半の日程が終わるのを待って、5月10日以降に決まるはずである。これまでは、代表チーム作りへの準備期間だったわけだ。岡田武史監督の代表チームは2008年1月28日の対チリ親善から2年以上の準備期間に43試合をしている。
 準備期間中の選手選びは、登録メンバーが決まってからのチーム作りとは基準が違う。
 準備期間中の試合では2つのことを考えなくてはならない。第一は、その時点でのベストの戦いができるチームを編成すること、第二には、その時点ではレギュラーではなくてもワールドカップのときには役に立つ可能性のあるプレーヤーに国際試合の経験を積ませておくことである。つまり、本番ではメンバーに入れないかもしれないベテランと、これから伸びそうな若手を同時に加える必要に迫られる。

★ストッパー・コンビが不安定
 4月7日、セルビアとのキリン・チャレンジカップは準備期間最後の試合だった。
 結果は0対3の完敗。勝敗が重要な試合ではないが、日本の点の取られ方が悪かった。守備ライン中央の2人のコンビが不安定で、それが最初の失点の直接の原因になった。
 前半13分に中盤でパスをインターセプトされ、そのボールが前線のムルジャに出た。ムルジャは日本の2人のストッパー、中澤佑二と栗原勇蔵の間に入り込んでパスを受け、そのまま2人を置き去りにして走りこんでシュートを決めた。
 横一線の浅い守備ラインで、栗原はオフサイド・トラップをかけようと前へ動いたが、中澤は相手に向かおうとした、その食い違いのためにストッパー2人が、まとめて抜かれたように見えた。中澤と栗原はマリノスでコンビを組んでいるから連携に不安はないはずだが、この日はかみ合わなかった。

★栗原初招集の意図は?
 岡田監督は、ストッパーに中澤と闘莉王のコンビを固定して使い続けてきたが、今回は闘莉王が出場停止だったので栗原を入れた。栗原はオシム監督のときに1度、代表に呼ばれたことがあるが、岡田監督のチームでは初招集だった。
 セルビア戦でストッパー・コンビが不安定だったのは、栗原が国際試合に不慣れだったことが原因ではないだろうか? Jリーグの試合と外国チーム相手との試合では様子が違う。栗原は国際試合の感覚になじんでいなかったのだろう。
 栗原の能力は前から分かっていたはずである。代表チームで使う可能性があるのなら、もっと前から国際試合の経験を積ませておくべきだった。準備期間の最後の最後になって、新しいストッパーを1試合だけ起用した意図が分からない。
 中澤-闘莉王だけを使い続けてきたために、ストッパーの控えが弱点になっている。

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サッカー日誌 / 2010年04月05日


記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』(下)


「ごちゃ混ぜ」の組織を生かすために
「プロは特別」の考えがスポイルする

★第2期黄金時代のあとに
 Jリーグが創設され、読売サッカークラブは「ヴェルディ」に衣替えした。1993年にJリーグ初のチャンピオン、1994年にも連続優勝、ヤマザキナビスコカップでは1992、93、94年と3連続優勝とJリーグの初期が第2期黄金時代だった。
 しかし、そのあと、読売クラブ時代の良さが急速に失われていく。
 その原因はいろいろ考えられるが、クラブ40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』のための座談会で、松木安太郎と都並敏史が話してくれた考えは興味深かった。1993年に立派なクラブハウスが完成し、練習グラウンドも整備されたのだが「あれから悪くなった」というのである。
 この二人がクラブで育ったころは、クラブハウスはお粗末な木造で、グラウンドの間の仕切りはいい加減だった。しかし、あのほうがよかったという。

★小規模で簡素でも専用の施設を
 小屋のようなクラブハウスのときは、トップチームの選手と小・中学生やユースの選手たちは、いやおうなしに顔を突き合わせた。女子の選手たちが練習しているフィールドへ男子チームの選手やコーチが入りこんで紅白戦に加わった。それによって、若手やベレーザが鍛えられた。これは「ごちゃ混ぜ」に共生しているクラブの利点である。
 6:3:3で区切られた学校スポーツでは年代を超えた交流は難しい。女子だけのクラブは男子の選手に鍛えられるチャンスはない。これは、学校が中心の日本のスポーツ全体が抱えている問題である。クラブ組織のメリットは明らかである。
 ただし、クラブ組織のメリットを生かすには条件がある。それは、みんなが集まることのできる専用のグラウンドとクラブハウスがあることである。大規模で立派である必要はない。むしろ、小規模で簡素なほうがいい。

★アマチュアリズムの裏返し
 Jリーグが発足し、立派なクラブハウスとフィールドの間の仕切りができたあと、プロのトップチームの選手たちは、クラブハウスの中で別のロッカールームを持ち、食堂はトップチーム選手だけの場所になった。トップチーム用に区切られた金網の中のフィールドでの練習が終わると、選手たちは、それぞれ自分の車でさっさと帰って行った。
 そうなった背景には「プロは特別だ」という考え方がある。もともと世界のサッカーは「プロアマ共存」が理念だのに、Jリーグ発足のとき、ことさらに「プロ」であることを強調するキャンペーンが行われた。これは、プロを「良くないもの」として差別したアマチュアリズムの裏返しである。Jリーグ自体にも、ヴェルディにも、プロを特別扱いしようという考えがあった。
 日本のサッカーの将来のために「ごちゃ混ぜクラブ」を推奨したい。


※「読売クラブ~ヴェルディの40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』」に関するお問い合わせは、toiawase@vivasoccer.net まで。
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サッカー日誌 / 2010年04月04日


記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』(中)


読売クラブ黄金時代はなぜ生まれたか?
世代、性別を超えた組織のメリット

★無名選手を育てて日本一に
 東京ヴェルディの前身である読売クラブは、創立の1969年から東京リーグのB(2部)に「日本テレビサッカークラブ」の名前で加盟した。そのときのメンバーは、2~3人の大学リーグ経験者を除けば、ほとんどボールを蹴った経験のないシロートだった。翌年には東京リーグA(1部)にあがり、チーム名を「読売サッカークラブ」と変えた。
 その後、日本リーグ1部にあがるまでは苦労したが、1983年、発足15年目に初優勝。その後、Jリーグが発足するまで日本リーグ通算5度、天皇杯3度の優勝を記録した。これが読売クラブ~ヴェルディの第1期黄金時代である。
 この黄金時代を支えた選手は、ほとんどが読売クラブに入る前は無名の選手だった。ジョージ与那城やラモスは、ブラジルでは協会に登録されていない草サッカー選手だったし、小見幸隆、戸塚哲也、都並敏史、松木安太郎は、少年時代からクラブで育った素材だった。

★トップが高校生や中学生とともに
 無名の素材を育てて黄金時代を築くことができたのはなぜか?
 読売クラブ~ヴェルディの40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』を読むと、その秘密が明らかになる。
 初期の読売クラブには、学校チームで名前を知られていたような「有望選手」は来なかった。そのため、たまたまクラブに入ってきた小学生、中学生を育成するほかはなかった。そういう素材が、小見、松木、戸塚、都並など、のちの日本代表に育ったのである。
 ブラジルから来たジョージ与那城やラモスは、午後のトップチームの練習が終わると、夕方から始まるユース(高校生年代)やジュニアユース(中学生年代)にまじって、いっしょにプレーした。紅白試合やミニゲームで、真剣に若い世代の選手たちと争った。それが若いプレーヤーを実戦的に育てた。

★女子のベレーザも鍛える
 黄金時代の選手の座談会で、若手を鍛えたジョージやラモスは「いまのヴェルディには、世代を超えた交流がない」と嘆き、鍛えられたほうの松木や都並は「ぼくたちが育ったのは、上のクラスの人たちといっしょに練習できたおかげだ」と思い出を語っている。
 同じことが女子のベレーザについても言える。トップチームの選手やコーチは、女子の練習にも加わった。彼らは、相手が小学生であろうと女の子であろうと容赦しなかった。
 記念誌のなかで高倉麻子は「5対2のゲームで1時間以上も輪のなかから出られないことがあった」と書いている。攻撃役5人の輪のなかに守備役の2人が入る。外側の5人がパスを回すのを内側の2人が奪おうとする。奪えないと外側の攻撃役と交代できない。
 外側のジョージやラモスは、内側が女の子でも手を緩めなかったのである。それがベレーザの黄金時代につながっている。


※「読売クラブ~ヴェルディの40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』」に関するお問い合わせは、toiawase@vivasoccer.net まで。
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サッカー日誌 / 2010年04月03日


記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』(上)


読売クラブ~ヴェルディの40年
スター選手も参加、歴史に残す貴重な資料

★クラブ組織でプロをめざした誇り
 Jリーグ「東京ヴェルディ」の源流は読売サッカークラブである。クラブ名に「東京ヴェルディ1969」と読売クラブの創設年が入っている。
 40年たった機会にクラブの歴史をまとめようと思い立って、2008年の12月から準備をはじめ、1年3ヵ月かけて刊行にこぎつけた。表題は『クラブサッカーの始祖鳥~読売クラブ~ヴェルディの40年~』。Jリーグができるより20年以上前に、日本で初めて本格的なクラブ組織のサッカーを創始してプロをめざした。その誇りをこめたタイトルである。
 商業的な本ではない。だから書店には置いていないが、関心のある方には読んでいただけるように、ヴェルディのクラブハウスやホームゲームの会場で頒布している。申し込んでいただけば、残部がある限り郵送でもお頒けしている。1部4,000円+送料。B5版(週刊誌の大きさ)、320ページ(厚さ約25mm)。ハードカバーの立派な本である。

★ラモスやカズもOBとして協力
 発行所は『東京ヴェルディ1969フットボール株式会社』だが、編集・発行の中心になったのは、ヴェルディの事務職員と読売クラブOB会「CLUB 1969」のメンバーだった。それを、ぼくたち「ビバ!サッカー研究会」の有志が手伝った。ビバのメンバーにはFC東京や鹿島のサポーターもいる。しかし、これは「歴史」の本であって、クラブ宣伝の本ではない。だから「日本のサッカー史」のために協力したのである。
 読売クラブやヴェルディのスター選手だった人たちも、OBとして参加した。
「ぼくたちの黄金時代」と題した座談会では、ジョージ与那城、ラモス瑠偉、小見幸隆、松木安太郎、都並敏史が集まって縦横無尽に思い出を語り合った。加藤久、戸塚哲也、三浦カズなどは、それぞれ個別のインタビューで協力した。
 40年間の関係者がボランティアとして参加した本である。

★編集中に経営陣が交代
 編集がはじまったとき、クラブの会社名は「株式会社日本テレビフットボールクラブ」だった。編集作業が中盤に突入したころに、日本テレビが持ち株を手離すことになり、40年目にして、クラブは読売グループから離れることになった。
 あとを引き受けたのが、クラブOB(CLUB 1969幹事)として編集委員に加わっていた崔暢亮さんだったので、他の編集委員は、びっくり仰天した。
 しかし、クラブの経営者が変わっても、40年の歴史が変わるわけではない。それに経営・運営の移り変わりも歴史の一部である。編集作業は方針を変更することなく続け、崔暢亮さんは、新会社の会長になったあともOBの一人として編集委員を続けた。
 そういうわけで、これは読売や日本テレビや新しい経営者の視点から編集した本ではない。クラブの40年を貴重な資料として残すための「歴史」の本である。

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サッカー日誌 / 2010年04月02日


アカデミズムのなかのサッカー(下)


ドイツと韓国のスポーツ振興政策
日本スポーツ社会学会
3月28日~29日 岩手大学

★陸上競技場はこれ以上不要(ドイツ)
 盛岡で開かれたスポーツ社会学会で、外国から招いたゲストの講演が2つあった。どちらも、その国のスポーツ振興政策の現状報告だった。
 初日には、ケルン・スポーツ大学スポーツ経済研究所のロルフ・マイヤーさんが「ドイツにおける地域のスポーツ政策」について報告した。
 東西ドイツ統合前の1980年代までは、西ドイツではスポーツ施設整備の重点は、主要なスポーツであるサッカーと陸上競技が中心だった。しかし、1990年代からのドイツでは一般のスポーツインフラの整備に重点を移しているという。そのために「スポーツ活動実態調査」をして、市民のニーズに基づいて政策を立てている。
 ドイツ第3の都市ミュンヘンでの調査では、市民の求めている施設は体育館、スポーツフィールド、プールで、これ以上必要のない施設は陸上競技場だったという。

★サッカーが普及度トップ(韓国)
 次の日には、韓国体育科学研究院政策開発研究室長の朴ヨンオクさんが「韓国におけるスポーツ政策の展開と課題」と題して講演した。
 韓国でも、スポーツ振興政策を立案するにあたって、きちんと調査をしている。
 それによると、大衆が行っているスポーツは、男性ではサッカーが1位、女性ではランニングが1位、男女合計では、登山が1位、サッカーが2位だった。
「韓国では野球が盛んになってサッカーは落ち目だ」という話を聞いたことがあるが、そんなことはない。ジョギングやハイキングは健康のための運動だから、競技スポーツとしては、サッカーが普及度トップである。
 サッカーに次ぐ競技スポーツは、バドミントンとバスケットボールで、野球は上位に入っていない。

★日本のスポーツ政策は遅れている
 ドイツにサッカーのフィールドはいたるところにある。それでも、まだ「足りない」というのが市民の声らしい。陸上競技場としての機能を備えているスタジアムも各地にあるが、主としてサッカー競技場として使われている。「陸上競技の施設はいらない」というのは正直な市民の声だろう。ひるがえって日本では、国民体育大会用に各地で陸上競技場が整備されているが、サッカーには不向きなように作られているのが大部分である。
 韓国について興味深かったのは、1993以降、競技スポーツの底辺を広げることに政策を転換したという話だった。1988年のソウル・オリンピックのころには、少数精鋭の英才教育でオリンピック選手を作り出しているということだったが、とっくに方向転換していたのである。日本では逆にトップレベルの選手強化を求める声が強くなっている。
 日本でも、市民の声をしっかり調査して、スポーツ政策を立案して欲しいものである。

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サッカー日誌 / 2010年04月01日


アカデミズムのなかのサッカー(中)


野球は世界のスポーツになれるか?
日本スポーツ社会学会
3月28日~29日 岩手大学

★独立リーグと新興国リーグ
 日本スポーツ社会学会で、野球をテーマに、日本の独立リーグと日米以外の国で生まれているリーグをあわせて論じている発表があった。立命館大学大学院の石原豊一さんの研究である。
 独立リーグは、もともと米国の大リーグ機構(MLB)の系列に属さないプロ野球組織のことだが、日本では日本プロ野球機構(NPB)に属さない地域のプロ(あるいはセミプロ)のリーグを指している。2005年にできた四国九州アイランドリーグをはじめ、北信越BCリーグ、関西独立リーグが活動している。
 石原さんの発表によれば、このほかに中国、台湾、ドミニカなどに野球リーグが生まれている。こういう新興国リーグの選手たちは、米大リーグに入ることを目指しているという。一方、大リーグ球団にとっては、新人選手発掘の鉱脈である。

★テレビマネーを当てに続々誕生
 こういう野球組織拡大の契機になったのは、テレビのグローバル化と多チャンネル化、それにともなう放映権料の高騰である。
 衛星中継の発達で米大リーグの試合が世界のどこでも見られるようになった。チャンネル数が急増して番組(ソフト)が不足し、スポーツ番組の奪い合いで莫大な放映権料がスポーツ市場に流れ出した。スター選手の報酬も天文学的数字になった。
 日本の独立リーグや発展途上国の新興リーグが生まれた動機には、テレビ放映権料、あるいはテレビ中継による広告料収入を当てにした要素が大きかったように思う。
 一方、選手たちは、テレビの衛星中継で見た大リーガーへの夢を膨らませ、夢を実現するための足がかりを求めている。
 だが、テレビ放映権料のバブルは頼りになるのだろうか。

★野球に明るい展望はない
 野球の世界的普及や日本の独立リーグの未来に明るい展望があるとは思えない。放映権料のバブルは限度に来ており、テレビマネーの分け前がマイナーなリーグに回ってくる望みは薄いからである。
 野球は興行を目的とする大リーグと日本のプロ野球、中途半端に興行を目指している独立リーグと新興国リーグ、主としてアマチュアを統括する国際野球連盟が、それぞれ独立に組織されている。おたがいにテレビマネーの奪い合いを演じかねない構造である。
 すでに、グローバルなスポーツであるサッカーの場合はどうか。サッカーでは、プロ選手もアマチュア選手も同じ組織に属し、もともとプロとアマの間に境目はない。組織はFIFAのもとで一体になっている。テレビマネーが急減しても、その組織は変わらない。
 野球がサッカーを追い抜いて「世界のスポーツ」になることは、ありそうにない。

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