サッカー日誌 / 2010年09月29日


ザック監督就任記者会見から(中)


スポーツメディア論断想

代表質問の利点と弊害
(8月31日 東京プリンスホテル)

◇共通の関心事を系統的に
 ザッケローニ監督の就任記者会見では「代表質問」方式で行われた。最初に幹事が、一人だけで質問し、それが終わってから他の記者の個別質問を認める方式である。
 これは日本独特のやり方らしい。外国では代表質問による記者会見を経験したことはない。一方、日本の地方都市で行われた国際会議のときに、地元の記者クラブの幹事が代表質問をしようとしたら、外国から来ていた記者たちが怒って退席したのを見たことがある。自由な質問を制約するな、という抗議だった。
 代表質問のよいところは、あらかじめ記者クラブの中で相談して、大多数の記者に共通な関心事を、まとめて系統的に質問できることである。みんなが勝手に自分に興味のあることだけを、入れ替わり立ち代り質問したら、時間もかかるし、答えもばらばらになって、まとまりのある情報が得られないおそれがある。

◇質問項目が多すぎた
 最初の代表質問は3~5項目くらいでいい。ほかにも重要な問題はあるだろうが、手を広げすぎると焦点がぼやけてしまう。最初に幹事が提起した問題に答えたのに対して、そのあと他の記者が関連質問で突っ込み、さらに、いろいろな記者が、いろいろな問題を取り上げる。こういう経過で行われるのがふつうである。
 ザッケローニ監督の就任記者会見のときは代表質問が10項目以上あった。これは多すぎる。ポイントを絞って追及することが難しくなるし、他の記者の質問時間が少なくなる。
 ザッケローニ監督の場合は「代表チームを率いようと思ったきっかけは?」「日本のサッカーについてどんなイメージを持っているか?」「日本代表についての目標は?」というような項目を代表が質問した。
 代表質問は平凡なものでいい。

◇「あだ名はありますか?」
 個別の質問に入ったあと、あるテレビ局の女性記者が「あだ名はありますか?」という質問をした。これに対して、ネット上で「ああいう、くだらない質問をするヤツがいる」という反応があった。「サッカーの技術や戦術について質問しろ」「日本代表をどうやって強くするつもりかをきけ」という気持ちかもしれない。
 しかし、これはマスコミにとって必要な質問だった。呼びかけ方が分かるだけでなく、「あだ名」によって人柄を知ることが出来るかもしれないからである。もちろん「あだ名」は資料で調べることも出来るし、質問した記者は実は、すでに調べて知っていたのかもしれない。しかし、テレビとしては、本人の口からカメラの前でしゃべってもらう必要があった。そのテレビ局が中継していたわけではないが、ニュース取材のカメラは入っていた。
 「あだ名ではないが、名前が長いので、短くザックと呼ばれている」という答えだった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月28日


ザック監督就任記者会見から(上)


スポーツメディア論断想

記者会見のネット中継
(8月31日 東京プリンスホテル)

―― 長年、東京の新聞社でスポーツ記者をしたあと関西の大学に13年間勤め「スポーツメディア論」を担当した。その間に気づいたことがある。それは、スポーツ記者の仕事の現場が、研究者の先生方にも一般の学生たちにも、あまり知られていないことである。というわけで、マスメディアのスポーツ取材に関して思いついたことを、ときどき書き留めて、大方のご参考に供することにする。――

◇協会が中継、ネットで反響
 日本代表チーム・ザッケローニ監督の就任記者会見は、大きなホテルの大広間を借り切った大がかりなものだった。その様子を日本サッカー協会(JFA)は、自らカメラを入れてインターネットで生中継した。それを見た人たちの反響がネット上に交錯した。
 ネット上に現れた視聴者側の最初の反応は「あの程度の質問しかできないのか」「サッカーのマスコミのレベルが低い」といったものだった。
 ふつうのテレビ放映ではない。インターネットを通じての中継である。ウイークデーの午後にネットでサッカーの記者会見を見ようとするのは、主として若い熱心なマニアだろう。だから一般の人たちの反応も同じだろうとは言えない。しかし、それにしても主催者が「記者会見」を自分の手でインターネットを通じて中継し、それがインターネット上で論議されるのは、メディア新時代らしい興味ある現象だった。

◇挑発的な質問は出ない
 「あの程度の質問しかできないのか」という反応は「自分の知りたいこと、追及したいことを聞いてくれていない」ということだろう。しかし、ネット中継を見て「マスコミのレベルが低い」と短絡的に反応した匿名の人たちは、どういう質問したらいいのかという具体的な対案は持ち合わせてはいないようだった。同じネット上に「自分ならこう質問すると言わなきゃだめだろう」という意見が出ると、批判はしぼんでしまった。
 しかし、例えば、こういう質問もできたはずである。「あなた(ザッケローニ監督)は代表チームの経験も、外国のチームを指揮したこともないのに、日本の代表チームを率いることができるのか?」
 過去の記者会見では、このような相手の弱点を追及するきき方は多かった。相手を興奮させて本音を引き出そうという挑発的な質問である。

◇公開会見のための制約
 いまの記者会見では、こういう挑発的な質問はしにくい。そのわけは、記者会見の様子が公開されているからである。
 もともと記者会見は「記者クラブ」などの「閉ざされた空間」で行われていた。目的は記事にする材料を得るためであって、記者会見そのものを報道することではなかった。だから非常識な考えをあえてぶつけて、相手の反応を見るというような手も使われた。
 記者会見がテレビで中継されるようになると、こういう手は使いにくくなった。策略として、わざと見当違いな質問をすると、質問した記者自身が非常識な考えの持ち主だと視聴者に思われてしまう。
 いまでは取材のために質問する記者もテレビの取材対象になっている。そのために「あの程度の」当たり障りのない質問しか出ないのである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月26日


サッカー史に残すべき自叙伝


成田十次郎『サッカーと郷愁と』
(不昧堂出版 2010年9月 1600円+税)

◇功績と人となりを伝える
 成田十次郎さんの自叙伝『サッカーと郷愁と』が出版された。2009年に高知新聞に毎週1回、1年がかりで連載された文章をまとめたものである。
 新聞に連載されていたとき、毎週、送っていただいていたのを愛読し「貴重な資料だから、ぜひ、本にしてください」とお願いして、ぼくも出版社にあたってみたが、出版不況のご時世だから、うまくいかなかった。「そのとき、そのときの話題を当て込んだ場当たり的なものしか目をむけてくれない」と、そのスポーツ専門の出版社に八つ当たりしていたのだが、しかるべき出版社が内容にふさわしい上品な本にして出してくれたのはうれしい。
 新聞に連載されて、すでに活字としては世に出ているにしても、高知の人だけに読んでもらうのではなく、全国の人たちに成田さんの功績と人となりを知ってもらいたい。また、資料としても後世に残したい。そのためには、書籍のほうがいい。

◇本人が語るサッカー史
 成田さんはドイツ体育史の研究者で筑波大学名誉教授、元高知県立大学学長である。学界、教育界に大きな足跡を残しているのだが、サッカー界に残した功績も、また大きい。
 1964年東京オリンピックの前、ドイツからデットマール・クラマーさんを日本へ招くのに尽力したことは、よく知られている。それが、日本のサッカーを変革する原動力となった。そのことを考えると、成田さんの尽力は日本サッカー史に特筆しなければならない。
 ヴェルディの前身である「読売サッカークラブ」を1969年に設立したときは初代監督として協力していただいた。学校スポーツとアマチュアリスム全盛の時代だったのだが、「クラブ組織でプロを目指すという設立の趣旨を、すぐ理解してくださった。
 この本には、その当時のいきさつや裏話が、本人の筆でたんたんと述べられている。日本サッカー史にとって貴重な資料である。

◇「戦後少年」のスポーツと学問
 本には「戦後少年のスポーツと学問の軌跡」と副題がついている。
 成田さんは高知県の池川町(現在の仁淀川町)で子ども時代を過ごした。山と川に囲まれ「春には山菜をとり、夏には魚を追いかけ、秋には木の実を拾い、冬には小鳥を捕まえて」のびのびと育った。太平洋戦争の末期、苦しい生活を強いられていた人が多かったなかでは恵まれている。しかし、高知の城東中学(旧制、現追手前高校)1年生のとき、米軍の空襲を受け「防空壕の入り口におり重なって死んでいた多くの蒸しぶくれの生々しい死体」を見るという経験もしている。その後、敗戦後の苦難の時代に学び、スポーツをして人間を磨いていった。その体験が生き生きと描かれている。
 そのあたりは、同じ世代の「戦後少年」だった一人として感慨深く読んだ。物質生活では恵まれ過ぎている現在の若い人たちにも読んでもらいたいと思う。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月25日


世界のサポーター文化 


ビバ!サッカー研究会9月例会(下)
(9月17日 東中野テラハウス)

◇なぜ扮装するのか
 ワールドカップ南アフリカ大会のとき、ビバ仲間の「カメちゃん」こと、本杉亀一(もとすぎ・ひさかず)さんは、忍者の扮装で現地に出かけた。テレビにしばしば登場したし、ビバ!サッカーのホームページに写真入りで日誌を連載したから、その姿をご覧になった方も多いだろう。
 そのカメちゃんが、9月のビバ!サッカー月例会で「世界のサポーターの扮装」について報告をした。
 奇抜な扮装をしてワールドカップに乗り込むサポーターは回を追うごとに増えている。扮装の仕方も工夫を凝らしたものが多くなっている。
 なぜ扮装をするのか? 報告のなかでの答の一つは「目立ちたいから」「メディアに取り上げられたいから」だった。

◇各国文化の競演
 応援の仕方には、それぞれの国の特徴が現れている。単純なのは、国旗や代表チームのユニフォームを使ったものである。「この国のサポーターだ」ということを示している。
 自国の文化を示す扮装もある。メキシコの巨大なソンブレロ(帽子)に代表されるような各国の民族衣装は、その例である。
 その国独特の「応援文化」を、そのまま持ち込んでいるものもある。南アフリカのブブゼラは、その典型だった。
 ブブゼラは南アフリカの民族的な楽器ではなく、サッカーの応援の道具として普及したものらしい。蜂の羽音を何億倍にもしたような音響が鳴り続けるので、試合の進行や観戦の妨げになりかねない。「禁止すべきだ」という意見もあったが、FIFAは「開催国のサッカー文化だから」と南アフリカでは持ち込みを認めた。

◇ニンジャは世界的
 「忍者」の扮装は外国の人たち分かってもらえるのだろうか? と心配していたのだが、とんでもない。行きのタイ航空の飛行機のなかで早くも女性の乗務員から「おお、ハットリ」と声をかけられていた。「ニンジャ・ハットリ」は世界的に有名らしい。
 別の仲間のグループは、厚紙の鎧・兜(ヨロイ・カブト)を揃えて乗り込んだ。「サムライ」を示したものだったが、こちらは、それほど国際的ではないようだった。しかし「これがサムライだ」とPRする役目は果たしただろう。 
 扮装が増加し多様化してきたのは、テレビの衛星中継の影響だろうと思う。ただし、商業宣伝に利用されるも可能性もあるので、FIFAは「商品名や企業名の入ったものは映さないように」と、テレビ局に指示しているらしい。うっかり文字を入れると、コマーシャルと間違えられて、テレビに映してもらえないかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月23日


岡田監督がビバの「手島提案」を採用? 


ビバ!サッカー研究会9月例会(中)
(9月17日 東中野テラハウス)

◇日本への期待は低かった
 南アフリカのワールドカップの前、5月21日のビバ!サッカー研究会の月例会で、27人の参加者にワールドカップの予想をしてもらった。日本の属するE組の試合の勝敗と点数と順位、準決勝、決勝の進出チームの予想を書いて出してもらったのである。
 結果が出たあとの9月の月例会で、それを検討した。
 E組の試合結果では、日本の最下位予想が19人で圧倒的多数だった。そのうち6人は3連敗を予想した。3位が3人。ベスト16進出は5人だった。少なくとも、われわれの仲間では、その時点で岡田監督の日本代表に大きな期待をしていなかったことが分かる。
 決勝のスペイン対オランダのカードを的中させたのは1人。女性である。
 決勝進出の予想でトップはブラジルの20、次がアルゼンチンの10。この両チームの南米対決を予想したのが9人。スペインの決勝進出予想は9人だった。

◇軽視できないFIFAランキング
 南アフリカ大会の3ヵ月前、3月19日の月例会で会員の手島直幸さんが独特の予想と提案を報告した。FIFAランキング上位のチームが順当に勝つものとして予想を作る。そうすると日本はE組最下位。その時点のランクでは決勝はスペイン対ブラジルでスペイン優勝となる。その後、6月7日に、新しいランクによる予想と提案を公表している。
 手島さんは9月の月例会で、その予想と実際の大会の結果とを比べて報告した。
 グループリーグではA組のフランスとF組のイタリアの不振が大きな番狂わせを生んだ。そのほかではE組の日本とB組の韓国の2位での進出がランクを上回る健闘だった。ベスト16以降では、準々決勝でブラジルがオランダに敗れたのがランク通りではなかった。
 しかし、それ以外では結局、おおむねランキング通りの結果となっている。「FIFAランキングを軽く見ることはできない」というのが、手島さんの結論である。

◇第1戦を重視、阿部、本田を起用
 FIFAランキング通りに順当に進むと、日本は岡田監督公言の「ベスト4」に進むことができない。そこで手島さんは、日本の属するE組だけは特別扱いにして、日本がグループ2位でベスト16に進出する予想を作った。カメルーンに1対0で勝ち、オランダに0対1で負け、デンマークと1対1で引き分けという想定だった。
 この想定を実現させるために、ベスト16進出を目標に、まずカメルーンに勝つことに狙いを定め、この第1戦にトップ・コンディションを持っていくことが必要だと考えた。また、これまで中心に据えていた中村俊輔を外し、本田圭佑、阿部勇樹を起用することを提案した。詳しくはビバ!サッカーのホームページに掲載されている。
 実に見事である。岡田監督は、まるで「手島提案」を聞き入れたかのように、大会直前に方針の大転換をした。それが日本代表の好成績の大きな力になった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月20日


『写蹴』、カメラマン今井恭司の真実


ビバ!サッカー研究会9月例会(上)
(9月17日 東中野テラハウス)

◇ファインダーから見たW杯
 ビバ!サッカー研究会の9月例会は「ワールドカップ南アフリカ大会第3回報告会だった。今回はフォトグラファーの今井恭司さんをお招きして話を聞いた。
 今井さんはサッカーを撮り続けて40年近くになる。その間、日本代表チームの試合は、国内でも海外でも、ほとんど取材している。その貴重な経験を、写真と文章でまとめた『写蹴~ファインダー越しに見た歴代日本代表の素顔』(スキージャーナル株式会社、1600円+税)が南アフリカ大会の前に出版された。ただの写真集ではない。日本のサッカーの歴史と、その発展を支えてきた人たちの真実にファインダー越しに迫っている。
 ワールドカップは1982年から現地に行っている。南アフリカ大会では、ビバの仲間で開設した「ビバ!ハウス」を根拠地に、大会の全期間を通していっしょに活動した。ぼくたちはプロのカメラマンのワールドカップ取材の苦労を目の当たりにすることができた。

◇長時間、神経をすり減らす仕事
 ワールドカップのとき、フォトグラファー(スチール・カメラマン)は、キックオフの6時間くらい前にスタジアムに行く。メディアのカードをもらっていても、それぞれの試合の申し込みは認められないこともある。グラウンド・レベルの撮影席をもらえるかどうかも分からない。席はもらえても、いいポジションがとれるとは限らない。
 早く行けば大丈夫とは限らないのだが、行かなければダメなこともあるので、できるだけ早く現場に入りたいわけである。そこで神経をすり減らしている。
 今井さんは、1試合でおよそ1,000回はシャッターを切ったという。20試合取材したとして、南アフリカでは、試合だけで2万枚以上の写真を撮った計算になる。
 試合が終わると、1000枚のなかから100枚ほどを選んで売り込み先にメールで送る。これが2時間以上かかる。というわけで宿舎を出てから帰り着くまでに12時間以上かかる。

◇ビバ!ハウスの貢献
 いい写真を、一刻でも早く送らないと雑誌などの誌面で使ってもらえない。フリーランスのカメラマンは掲載されないとお金にならないから、カメラマン同士の競争も厳しい。ここでも神経をすり減らす。だから現場では、多くのカメラマンは殺気立っている。
 「しかし」と今井さんは言う。「気持ちに余裕がないと心のこもった写真は撮れません」。
 だから、今井さんは厳しいスケジュールと競争のなかでも、焦る心から一歩引いて周りを見、先を見て、心に余裕を持って仕事をしていた。技術、経験、そして何よりも心配りを大切にする人柄のせいだろう。
 その今井さんが、こう言ってくれた。「ビバ!ハウスで、いろいろな人と寝食を共にできたのは初めての経験でした。温かい気持ちで1ヵ月仕事をすることができました」。
 ワールドカップのいい写真を後世に残すために、ビバ!ハウスが貢献できたわけである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月16日


「高校選手権」の源流


第39回日本サッカー史研究会
(9月13日 JFAハウス)

◇「高校サッカー90年史」の編纂
 高校サッカーを指導している先生方の集まりである高校体育連盟(高体連)で「高校サッカー90年史」の編纂を始めている。正月の全国高校サッカー選手権大会が2011年度(平成23年度)で第90回になる。それを機会に大会史をまとめておこうという企画である。90回大会の決勝が行われる2012年1月ごろには本になるだろうと期待している。
 そこで、日本サッカー史研究会の9月例会に高体連サッカー専門部の編集委員の方々に来ていただいて、編纂計画の説明をしてもらった。研究会側で出来ることがあれば協力し、こちらの意見や要望も述べて参考にしてもらおうという趣旨である。
 研究会側では、牛木が90年の歴史の間のおもな出来事について概略を説明し、福島寿男さんが「大正~昭和初期の中等学校大会」についての資料を紹介した。戦前の「中等学校」は、戦後の学制改革で現在の高校と中学に分かれたが、現在の高校大会は、戦前の中等学校大会を引き継いでいる。

◇東京の関東大会も源流
 現在の高校選手権の前身は大阪毎日新聞社の手で開かれていた「全国中等学校蹴球大会」とされている。その第1回は1918年(大正7年)に大阪の豊中グラウンドで行われた「日本フートボール大会」である。それから数えて「90回」というわけだ。ただし長い歴史の間には、戦争などによる中断や中止があり、その年度の回数を数えたり、数えなかったりと、いろいろある。したがって、厳密に「90回」あるいは「90年」というわけではない。1918年を起点にすると2007年が90年目だった。
 大阪で「日本フートボール大会」が開かれた1918年に、東京では朝日新聞社の主催で「関東蹴球大会」が始まった。その後、全国各地で中等学校チームの参加する大会がいくつも行われるようになった。それを福島さんが、1932年(昭和7年)の「蹴球年鑑」の記事から紹介した。全国からチームが参加している大会もいくつかあったが、1934年(昭和9年)に大阪毎日の大会に一本化されている。
 このように見てみると、現在の高校選手権への流れをさかのぼると、源流はいくつにも分かれてくる。

◇ユース世代育成の歴史
 戦前の中等学校大会と戦後の高校大会の歴史は、いわば日本のサッカーの普及に努力し、ユース世代の育成を担ってきた歴史である。その足跡を振り返るときに、源流として大阪毎日の大会だけを取り上げるのは公平でないし、正確でもない。
 1983年(昭和58年)に『高校サッカー60年史』が出たときに、その編集をお手伝いした経験がある。そのときに、大正時代に始まった東京の関東蹴球大会などの果たした役割と功績も取り上げたいと思ったのだが、時間も知識も労力も足りなくて果たせなかった。
 今回の「90年史」でも編集委員に加えていただいたので、今度こそ、関東での源流について調べておきたいと思っている。
 ほかにも名古屋の新愛知(現在の中日新聞)が主催した大会があったらしい。そのような他の主要な源流についても、調べてくださる方が出てきていただければと思っている。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月12日


異色の選手の殿堂入りを喜ぶ


第7回日本サッカー殿堂掲額式典
(9月10日 JFAハウス)

◇特別選考で五輪出場の鈴木良三
 東京のお茶の水駅から歩いて5分、サッカー通りのJFAハウス内に「日本サッカーミュージアム」がある。ここに日本のサッカーに特別な功績を残した人のレリーフ(彫像)が掲げてある。「日本サッカー殿堂」である。「殿堂入り」は毎年、数人ずつ選ばれる。2010年に選ばれたのは7人。掲額式典が9月10日に行われた。この日は日本サッカー協会の創立記念日である。
 「投票部門」で選ばれたのが2人。これは殿堂委員会があげた候補の中から、ベテランのサッカー記者などの投票で決まる。競技者(選手)表彰である。
 「特別選考」で選ばれたのが4人。これは殿堂委員会が推薦する。主として役員などで貢献した人が対象だが、今回は東京オリンピックの代表だった鈴木良三が特別選考で入った。これまでに特別選考で掲額された人のなかに名選手だった人も多いが、1936年ベルリン・オリンピックなど戦前に活躍した選手だった。戦後の選手の特別推薦は初めてだ。

◇投票制度の不合理を是正
 殿堂入りの制度ができたとき、まず1964年東京と1968年メキシコの二つのオリンピック出場者を投票対象の候補にした。それ以前の選手たちは、投票する人たちのほとんどが直接には知らない世代だったからである。
 ところが「原則として投票者の75%以上の得票者」という内規があったため、釜本邦茂、杉山隆一のスーパースターに票が集中して他の選手は75%に達しないという現象が起きた。そこで、その後、東京、メキシコの出場者を対象とした投票を第4回まで繰り返したが、こういうことを続けていると二つのオリンピック出場選手が全員選ばれるまで限られた候補者による投票が続き、それ以外の選手を対象にできないという不合理なことになる。
 そこで、二つのオリンピック出場者で未選出の人を候補名簿に残して、さらにメキシコ以降の他の選手も候補者に加えて投票することになった。

◇投票で五輪出場者以外の落合、吉村
 ところが、次の世代の候補者が入ると、そちらに票が集中しやすくなる。鈴木良三は東京オリンピックの全試合に出場しており、選ばれていい選手ではあるが、45年前を知っている人は少なくなっているから票が集まらない。これも不合理なので、比較的、古い時代を知っている殿堂委員による推薦の対象にしたわけである。投票制度の欠点を特別推薦で是正できたのは良かったと思う。
 投票では、落合弘と吉村大志郎(ネルソン)が選ばれた。 
 落合はメキシコ以後に日本代表になった選手だから国際舞台でタイトルを得る機会がなかった。しかし日本リーグ時代の活躍は抜群である。吉村はブラジルから来た日系二世の第1号で日本のサッカーに新しい風を吹き込んだ。のちに帰化して日本代表にもなった。
 選考には難しい問題がいろいろある。しかし、今後も、オリンピックやワールドカップ出場選手にだけ目を奪われることなく、国内の舞台での活躍と功績も見落とさないようにして欲しい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月11日


サッカーの世界への伝わり方


日本体育学会体育史分科会
シンポジウム「サッカーの伝播と受容」
(9月8日 中京大豊田キャンパス)

◇またたく間に世界へ
 9月8日から3日間、日本体育学会が愛知県豊田市の中京大学豊田キャンパスで開かれた。その初日に顔を出してみた。日本体育学会は大きな組織で多くの分科会に分かれている。その一つの「体育史」の分科会で行われたシンポジウムに興味があった。本来の当日参加費(1万円)に加えて1000円の追加を払えば会員でなくても参加できる。
 1863年にイングランドでルールが統一されたあと、サッカーはまたたく間に世界各国に広まった。どのように広まったのか? どのように受け入れられたのか? それを考えてみるシンポジウムだった。テーマに興味があっただけでなく、パネリストが仲間の福島寿男さん(国会図書館)と山本英作さん(高知学園短期大学)だったので「会員外」で飛び入り参加したのである。
 話を聞いていて気がついたのは、サッカーの伝わり方は、いろいろだということである。  ドイツとブラジルと日本の例が紹介されたが、それぞれ事情が違う。

◇さまざまなフットボール
 19世紀の英国では、いろいろなパブリック・スクールなどで、それぞれ独自のルールによるフットボールが行われていた。そういうルール統一以前のフットボールが、それぞれのスクールの出身者が海外に出かけることによって、他の国でも行われた。また、欧州大陸や当時英領だった国から英国に留学して、それぞれ留学先の学校のフットボールを持ち帰ったケースもある。つまり19世紀には、いろいろなフットボールが各国に移出されていたと考えていい。
 移出の経路もさまざまである。海外に赴任あるいは旅行した英国人、英国で学んで帰国した留学生のほかに、キリスト教布教の団体によって伝えられた例もある。南米などには英国からだけでなく、スペイン、ポルトガル、イタリアなどを経由して、移住者によっても持ち込まれている。
 伝わった経路は、一つの国で一つとは限らない。港によって、それぞれ別のフットボールが入ってきた場合もあるだろう。フットボールの伝播は一筋縄では考えられない。

◇なぜサッカーが世界を制覇したか?
 いろいろな形で、いろいろな経路で入ってきたフットボールだが、20世紀に入ったころに、ほとんどの国で「サッカー」に統一された。1963年設立のイングランドのFA(フットボール・アソシエーション)ルールが、各国で主流となったのである。それによって、サッカーは「世界のスポーツ」になった。  
 なぜ、FAルールが世界を「制覇」したのか? 
 いろいろあるだろうが、最大の理由は「ルールの作り方がよかった」からだろうと想像した。簡単で、致命的な危険がなく、全員が動き回る。チームプレーの精神を養える。そういう長所が生かされている。
 日本で本格的にサッカーが広まったのは、1903年(明治36年)に、東京高等師範学校(現在の筑波大)の学生だった中村覚之助が「アッソシエーション・フットボール」という解説書を編纂・執筆したのが始まりである。その業績を紹介したシンポジウムの報告書を、体育史分科会に持って行って配布した。専門の先生方に、さらに突っ込んで研究してもらいたいと思ったからである。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2010年09月10日


ワールドカップの審判裏話


2010FIFAワールドカップ 南アフリカ
Referee Workshop
(9月5日 JFAハウス)

◇個別のケースについての解説
 ワールドカップの審判についての話を聞く機会があった。日本サッカー協会(JFA)の主催である。
 現地で実際に担当した国際審判員7人を招いて、担当した試合で起きたケースについてテレビ中継の映像を見せ、本人が解説する趣向だった。審判の資格を持っている人のほか、一般の人も申し込めば参加することができた。マスメディア関係にも案内が来た。全部で180人ほどの参加者だった。
 これは、マスメディアの一員としては貴重な機会だった。
 ワールドカップのときFIFAは取材記者たちに対して「審判上の個別のケースについてはコメントしない」とメールで通達してきた。たぶん質問や追及が多かったからだろう。「一つ一つの事例について説明しない」のは昔からのFIFAの方針で、当たり前のことである。
 しかし取材記者としては「なにが? なぜ?」と正確な事情や理由を知って記事にしたい。
今回の企画はFIFAのめぐらしている垣根を、ちょっとくぐらせてもらった形だった。

◇フェリペ・メロの退場場面
 招かれた7人の国際審判員のうち、3人は主審の西村雄一、副審の相楽亨、チョン・へサン(鄭解相)だった。このトリオが担当したオランダ対ブラジルの試合で、西村主審がブラジルのフェリペ・メロを退場させた。その場面が取り上げられた。
 競り合いでオランダのロッペンが倒された。西村主審が反則の笛を吹く。その直後にメロに対してレッドカードを出す。すぐには何が起きたのか分からない。スロービデオの再生画面で、倒れているロッペンの太ももを、メロが踏みつけている場面が大写しになる、それで「退場は当然」ということが明らかになった。
 プレーが中断した後の、一瞬の出来事である。
 「よくまあ、あの行為を見つけたものだ」と誰もが驚いた。
 「ブラジルはリードされたので(追いついて逆転して)勝つために、いろんなことをしてくるだろうと予測して心の準備をしていた。それで注意して見ていた」と本人が解説した。

◇審判への理解を深める企画
 こういう説明が公表されたのは意外だった。
 「ブラジルは勝つためには手段を選ばないという先入観を持って笛を吹いていた」と悪く解釈されるかもしれない。それが、その後の審判に影響するかもしれない。そういう心配があるから「個別の事例についてコメントしない」ことが必要なのである。実際には、あらかじめチームや選手の性向を知り、起こりうる事態を予測して笛を吹かなければならないにしても、それを公言することには副作用もある。
 ただし、今回のイベントについては、ワールドカップは終わっているし、西村主審が近い将来にブラジルの試合を担当する予定があるわけではないから、悪い影響はないだろう。イベントの参加者にとっては勉強になって有難かった。
 直近の事例を取り上げるのには弊害があると思うが、過去の事例をひいて、一般の人びとやマスコミに審判への理解を深めてもらう企画は有意義だと思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ   

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.