サッカー日誌 / 2013年03月31日


臼杵とサッカー協会の標章


日名子実三のデザインのモチーフ

シンポジウム「竹腰重丸を語る会」
(3月23日 大分県臼杵市・市民会館)

★神話に出てくる八咫烏
 日本サッカー協会の標章は、3本足のカラスがボールを押さえている図案である。
 大分県臼杵市で行われた「竹腰重丸を語る」シンポジウムでこの標章が話題になった。
 竹腰自身は標章とは関係ない。しかし、この図案をデザインした日名子実三は同じ臼杵市の出身である。
 つまり、臼杵市は、竹腰重丸と協会の標章の2つでサッカーと縁が深い。それで話題になったのである。
 シンポジウムの会場に、高さ30センチほどの彫像が持ち込まれていた。日名子実三の作品で、神武天皇の頭に3本足のカラスが止まっている。
 これを見ると、日名子実三がサッカー協会の標章に描いたのは、日本書紀と古事記(記紀)に出てくる「八咫烏」(やたがらす)であることが、十分に推測できる。

★日名子実三の発案
 日名子実三は、ほかにも記紀神話を扱ったデザインを残している。1931年(昭和6年)に日本サッカー協会から標章の制作を依頼されたとき、日名子自身が、日本神話の八咫烏をモチーフにすることを考えたのは明らかだと思う。
 にもかかわらず、日本サッカー協会は、標章のデザインが日本神話の「八咫烏」であることを認めたくないようである。
 ホームページに「三本足のカラスは中国の古典に出てくるものであって」と書き、そのうえで「神武天皇御東征のとき八咫烏が道案内をしたこともあって、烏には親しみがあります」と取って付けたように書き加えている。
 臼杵のシンポジウムでは、地元の人が「協会の理事だった内野台嶺さんの発案とされている。臼杵出身の日名子実三の発案でないのは残念だ」と発言した。
 ぼくが「内野さんは標章を作ることを提案しただけでしょう。デザインを考えたのは日名子さんです」と答えた。

★船出を導く絵馬
 シンポジウムの翌日、市の教育委員会などの方々の案内で臼杵市内をめぐった。そのときに、古い小さな熊野神社の絵馬堂に案内された。そこに三足鳥を描いた絵馬があった。
 形も色もかすれていて、はっきりは見えない。3羽の三足鳥が飛んでいる。その下に船と帆柱が描かれているようだ。
 航海あるいは漁業の安全を祈って奉納したものだろう。八咫烏が船出を導いている絵ではないかと思った。
 記紀には、八咫烏が船団を先導する話は出てこないが、ひょっとすると、港町の臼杵には、八咫烏が船を先導した伝承があったのではないか、と想像した。
 いつの時代に、誰が奉納したものかは、まったくわからないという。
 日名子実三が、そういう伝承の地に育ち、日本神話に興味を持ち、それがサッカーの標章に結びついたのであれば、臼杵とサッカーの縁は、ますます興味深い。


臼杵の熊野神社の古絵馬。

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サッカー日誌 / 2013年03月30日


臼杵の生んだサッカーの偉人


地域と家庭が育てた「心と体」

シンポジウム「竹腰重丸を語る会」
(3月23日 大分県臼杵市・市民会館)

★古い趣の城下町
 大分県臼杵市で行われたシンポジウムに参加した。この町で生まれ育ったサッカーの偉人、竹腰重丸の業績を検証する企画である。
 主催者であるスポーツ文化研究会「サロン2002」の中塚義実さん、竹腰重丸を研究している浅見俊雄さん、協力したサッカー史研究会とビバ!サッカー研究会の4人(ぼくを含む)の計6人が東京から参加した。
 臼杵市は大分市から南へ、二つの長いトンネルを抜け車で約50分。三方を山に囲まれている。かつては「要害の地」だっただろう。一方は海に開け、九州と四国の間を太平洋から瀬戸内海に抜ける豊後水道に面している。海運の要衝でもあったに違いない。
 戦争中にも爆撃を免れ、江戸時代からの古い町並みの趣が残っている。美しい城下町である。

★厳しい家庭のしつけ
 竹腰重丸は、この町の上級武士の家庭に生まれ育った。母親は藩の家老の娘だった。「侍(さむらい)の子」として、きびしい躾(しつけ)を受けたたらしい。友だちとケンカして泣いて帰ると叱られるので、近くの川で顔を洗って帰ったという。そんなエピソードを、竹腰の娘と結婚した浅見が、義父の思い出話として語った。
 竹腰重丸は、中学2年生のとき、当時は日本の支配下にあった中国・遼寧省の大連一中に転校し、そこでサッカーというスポーツを知った。
 現在の子どもたちに比べると、ボールを蹴りはじめたのは遅い。しかし、自分から学ぶ探究心とたゆみない練習で、しっかりしたボール技術を身につけた。
 また、身動きできなくなるまでプレーした精神力の強さでも知られていた。
 
★小さな町が保つ気風
 「竹腰重丸を語る会」で二つのことを考えた。
 一つは、臼杵の町の環境である。
 現在は町村合併で人口4万2千になっているが、もともとの城下町は、かなり狭い地域だったらしい。小さな城下町だったからこそ、竹腰のメンタリティを育てた「さむらいの気風」が保たれていたのではないか?
 もう一つは、臼杵の町の地勢である。
 山に囲まれている。険しい山を歩くことが運動能力を鍛えたのではないか? 
 海に面して魚が豊富である。動物性蛋白質の供給がスポーツに適した体質を育てたのではないだろうか?
 幼少時の家庭と地域の環境が「強い心と体」を育てたのではないか?
 臼杵の美しい町を歩き、おいしい魚料理を食べてそう思った。



臼杵市内に残る旧武家屋敷(市有形文化財、旧丸毛家住宅)。
竹腰重丸の生まれた家もこの近くにあった。

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サッカー日誌 / 2013年03月28日


竹腰重丸の生涯と業績


日本サッカー史上最高の偉人

日本サッカー史研究会3月例会
(3月18日 JFAハウス会議室)

★浅見俊雄さんの報告
 日本サッカー史研究会の3月例会で「竹腰重丸の生涯と業績」について浅見俊雄さんの報告を聞いた。5日後に大分県臼杵市で行われるシンポジウムで講演する内容を事前にチェックする趣旨だった。
 竹腰重丸は日本のサッカーの基礎を築いた功労者である。その業績を報告した浅見俊雄さんは、東大名誉教授、日本サッカー協会顧問。サッカー史研究会の常連でもある。
 浅見さんは、竹腰さんのお嬢さんと結婚した。つまり竹腰さんは義父になる。そういう「つながり」もあって、浅見さんは竹腰さんのことを調べている。
 5日後にシンポジウムがある臼杵市は、竹腰さんの出生地である。
 というわけで、臼杵市で「竹腰重丸を語る」シンポジウムが行われることになり、そこで浅見さんが講演することになった。

★多方面で画期的功労
 竹腰重丸は「たけのこし・しげまる」と読む。それで「ノコさん」が愛称だった。
 ぼくは、大学時代はサッカー部の先輩として、新聞記者になってからは取材先として、ノコさんと接してきた。
 もちろん、竹腰重丸の日本のサッカー界での功労は知っていた。しかし、親しく接していたために、かえって、その業績の大きさを実感していなかった。
 浅見さんの報告を聞いて、改めて「ノコさん」の偉大さを認識した。
 日本サッカー史上での功労者はほかにもいる。
 画期的な試合で活躍したプレーヤー、指導者、あるいは協会の運営に尽くした人などである。
 そのなかで竹腰重丸の功績は抜け出ている。プレーヤーとして、指導者として、また役員として、それぞれ画期的な仕事をしている。

★チョウ・ディン改革の体現者
 プレーヤーとしては、1930年(昭和5年)極東大会で初めて1位になったときの日本代表チーム主将だった。
 指導者としては、1936年(昭和11年)ベルリンオリンピックで、スウェーデンを破ったときのコーチだった。
 役員としては協会理事長として敗戦後の復興を担い、1964年東京オリンピックのための選手強化の責任者だった。
 多くの分野にわたって画期的な仕事をした。日本サッカー史上の功労者中の功労者、最高の偉人といっていい。
 数々の功績のなかで、もっとも大きなものを挙げるとすれば「チョウ・ディンのサッカー」を身につけ、それを極東大会1位などの結果に結びつけたことだろう。
 チョウ・ディンは、1920年代にミャンマーから来日していた留学生で日本のサッカーを大きく変えた外国人である。竹腰はチョウ・ディン革命の体現者だった。


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サッカー日誌 / 2013年03月27日


「フートボール」表記の謎


明治期のサッカー移入を考える

ビバ!サッカー研究会3月例会
(3月15日 東中野テラハウス)

★日本フートボール大会
 現在の高校サッカー選手権大会のルーツは、1918年(大正7年)にまでさかのぼる。この年に大阪毎日新聞がはじめた大会の名称は「日本フートボール大会」だった。
 なぜ「フットボール」でなく「フートボール」か?
 つねづね、疑問に思っていた。
 1985年(明治18年)に出版された『戸外遊戯法、一名戸外運動法』に「フートボール(蹴鞠の一種)」とある。いろいろなスポーツを体育の教材として紹介した本である。おそらく、これが「フートボール」という表記のはじまりだろう。その後、明治時代に出た同種の本は、ほとんどが、この表記を踏襲している。
 著者の坪井玄道らが英語の本をもとに紹介したので、実際の発音を知らなかったのではないか、とも考えた。
 たとえば、Poolの表記は「プール」である。文字だけを見るとFootの表記が「フート」でも、おかしくない。

★外国語促音のカナ表記
 しかし、坪井玄道は明治初期の体操伝習所で米国人のリーランドから、いろいろなスポーツを学んだ人である。発音を知らなかったはずはない。
 ビバ!サッカー研究会の3月例会で、ぼくが、この話をしたら、参加した会員から鋭い指摘があった。
 Footballのf音とt音の間に「音」はない。鋭く息を出す間(ま)があるだけである。その間をどう表記するかは一つの約束ごとである。
 明治の初期には、促音をカタカナで、どう表記するかについての約束は固定していなかったのではないか? 
 そうであれば、その「間」を「-」で表記することにしてもいい。「ッ」とカタカナの小さな字で表記することにしてもいい。つまり「フートボール」の発音は、現在の「フットボール」の発音と同じだったと考えていい。

★サッカー史の謎
 外国の人名、地名をカタカナで表記するのは、新井白石の『西洋紀聞』に始まると聞いたので調べてみた。
 新井白石は外国語の促音をカタカナで「ツ」と表記している。大西洋は「アツトランテイフム」である。合羽は「カツパ」である。ただし「ツ」は小さな字ではない。促音を小さな「ッ」で表記する約束は、まだなかったのではないか?
 そういうふうに考えると「フートボール」という表記に不思議はない。
 しかし、まだ謎は残っている。
 1903年(明治36年)に東京高師が出した『アッソシエーション・フットボール』以降は「フットボール」の表記が一般的になっている。
 なぜ、ここで表記が変わったのだろうか?
 それから15年後の「日本フートボール大会」では、まだ「フートボール」が使われている。なぜだろうか?
 日本サッカー史には、まだ、たくさんの謎がある。

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サッカー日誌 / 2013年03月08日


松永碩さんの思い出


戦中、戦後を語った最後の証人
3月4日逝去、7日通夜、8日告別式(杉並区永福寺)

★松永3兄弟の末弟
 松永碩(まつなが・せき)さんが亡くなられた。85歳だった。日本代表だった「松永3兄弟」の末弟である。
 戦時中に、静岡県の志太中学(現在の藤枝東高)に入学した。サッカーが校技だった志太中でも、太平洋戦争の状況がきびしくなってサッカー禁止になった。
 そんななかでボールを蹴っていたので、配属将校ににらまれて、教練の成績が悪かった。配属将校は、戦前、戦中に中等学校に派遣されて軍事教育(教練)を担当していた陸軍将校である。
 お兄さんが入っていた東京高等師範(現在の筑波大)を志望したが、教練の成績が悪いので入学願書を受け付けてもらえなかった。お母さんが、兄の縁故を頼りに頼み込んで、受験させてもらったという。
 高師在学中に敗戦になり、戦後、早稲田大学に入り直し、卒業後、日立製作所でサッカー選手として活躍した。

★「これで終わりか?」
 日立に勤めていたとき、読売新聞のオーナーの正力松太郎に頼まれて、プロ・サッカー創設の画策にかかわったこともある。戦中から戦後にかけての日本のサッカーを語ることのできる最後の生き証人だった。
 そういう秘話をお聞きしようと、ぼくが主宰している「サッカー史研究会」に来ていただいたことがある。
 夜の会合でもあり、ご高齢だったので、心配してお迎えに行くことにした。その役を藤枝と早大と日立の後輩である松永章さんに頼んだ。
 そこで、松永章さんが「お迎えに行きますから」と電話したら叱られたという。「お前に世話になる必要はない。一人で行く」。
 終わった後、タクシーを用意してお帰りいただく手配をしていた。夜の9時過ぎである。碩さんが、ぼくの眼を見据えて言った。「これで終わりか?」

★日本代表のOB会にも参加
 サッカー史研究会のあと、お茶の水駅近くの居酒屋で仲間が「延長戦」をするのだが、お歳を考えてお誘いしなかった。しかし、碩さんはちゃんと、お見通しだった。
 若い仲間と飲みかつ語り、非常に貴重な時間をすごすことができた。
 昨年は、日本代表経験者の集まりに参加して戦中・戦後の苦労話をし、メキシコ・オリンピック銅メダルの後輩たちが非常な感銘を受けたという。そのときは、すこぶるお元気だったと聞いたので「もう一度、研究会に来ていただこう」と考えていた矢先の訃報だった。
 都内の古い禅寺で行われたお通夜に行った。境内は大勢の人で埋まっていたが、多くは会社関係の方々のようだった。サッカー関係者は少なかった。
 日立化成商事の社長も勤めたから、財界人としてのお付き合いが広かったのは当然である。しかし、歴史には、サッカー人として名が残るだろうと考えた。

◆関連コラム「松永3兄弟を知っているか?」

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サッカー日誌 / 2013年03月07日


五輪のレスリング除外問題(下)


復活の可能性と日本への影響
(2月12日 IOC理事会)

★復活の見込みはある
 2020年のオリンピック実施競技は、いまのところ27が決まっている。これに1競技を追加することができる。
 いったん除外されたレスリングも、追加で復活する可能性は残されている。しかし「一度はずしたものを、また加えるようなことは、しないだろう」とみる人が多いようだ。
 ぼくは逆の見方をしている。5月のIOC理事会と9月のIOC総会をへて復活する見込みはあると思う。
 理由は三つある。
 一つは、IOCは、それほど定見のある組織ではないことである。そもそも、レスリングをはずしたのが無定見なのだから、それをひっくり返す無定見も可能性があるだろう。
 もう一つは、レスリング除外が、おそらくはIOC理事会が予想していなかったような国際的反響を巻き起こしていることである。

★空手と野球は苦戦
 さらに、近代五種とテコンドーは安泰になったので、この2競技の働きかけに応じていた委員も、今度はレスリング復活に手を貸せることである。
 というわけで、追加1競技がレスリングになることも考えられる。
 レスリングの復活が有力だとすると、苦戦をまぬかれないのが、日本に関係の深い空手と野球・ソフトボールである。
 テコンドーが残ったので、同じ拳術系の空手の加入は難しくなった。
 男子の野球は、女子のソフトボールとセットで復活をめざしているが、世界的普及度とオリンピック競技としての伝統では、レスリングに太刀打ちできない。
 日本としては、メダルの期待が大きいレスリングの復活を支持したいところである。

★レスリングに致命的問題は?
 ただし、レスリングが致命的な問題を抱えている可能性もある。
 普及度や伝統では、それほどの問題はなかったにもかかわらず、除外候補のトップだったのは、なぜだろうか?
 その理由は公表されていない。
 人気度で近代五種やカヌーなど他の除外候補に劣っていたとは思えない。ロンドン大会のテレビ視聴率は、26競技中、20位くらいだったという(国際レスリング連盟・福田富昭副会長の話)。
 そうなると、公表されてない別の弱点があることも、考えられる。
 たとえば、ドーピング対策に熱心でないとか、内部に対立抗争があるとか、などである。
 そういうことがないのであれば、レスリングをオリンピックに残すのが公正だろうと思う。


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サッカー日誌 / 2013年03月06日


五輪のレスリング除外問題(中)


理念も基準も明らかでない
(2月12日 IOC理事会)

★三つの大きな原則
 2020年のオリンピック実施競技から、レスリングが除外された。復活の可能性は残されているが、それにしても、なぜレスリングが除外対象になったのか? 不可解である。
 夏季オリンピックの実施競技(スポーツ)は28以下に制限することになっている。オリンピックが大きくなりすぎているためである。
 IOCのプログラム委員会は、実施競技について39項目の評価基準を示したという。それほど細かく分けなくても大まかに三つの原則をあげることができる。
 第一は普及度である。世界中で多くの人びとがプレーしでいるスポーツは、オリンピックに入れたい。
 第二は伝統である。長年にわたり、オリンピックの理念に基づいて実施されてきたスポーツは守りたい。
 第三は人気度である。テレビマネーがオリンピックの資金源になっている現状では、視聴率なども無視できない。

★テコンドーの普及度は?
 IOC理事会で検討の対象になった5競技のなかで、レスリングとテコンドーの普及度をみてみよう。
 レスリングは、国際連盟への加入国が153カ国、競技人口は100万~300万人だという。テコンドーは204カ国、5000万人と称している。
 この数字の比較は公正でない。
 世界各国に、いろいろな護身術の道場がある。そのなかにテコンドーを掲げているものも多い。もともと空手道場だったものが、韓国などの働きかけでテコンドーに看板替えをしている。そういう報道を、かつて読んだことがある。韓国が、1988年のソウル・オリンピックでテコンドーを公開競技として実施し、正式競技にしようと運動していたころである。
 護身術の道場を組織すれば加盟国数を多くすることができる。しかし、護身術を習っている人たちを「競技人口」として他の競技と比較するのは適当でないだろう。

★五輪の伝統競技
 オリンピックの歴史の中でレスリングの伝統は断然だ。
 第1回アテネ大会で、古代ギリシャからの伝統をもつ格闘技として実施された。近代オリンピックの創始者、クーベルタンの理念の一つが「古代オリンピックの復興」であったと考えれば、最初から、オリンピックの基幹競技だった。
 第1回アテネ大会では、陸上競技、水泳、フェンシング、射撃も行われている。これに馬術を加えて、第5回大会から実施されたのが近代五種である。軍隊のスポーツだが、戦場で戦うのではなく競技場で争おうという平和主義の理念であれば悪くない。これもクーベルタンの創案だとされている。
 それにくらべると、テコンドーの歴史は浅い。
 「古代回帰や軍人スポーツは現代にふさわしくない」と言うことはできる。そうであれば新しいオリンピックの理念を示し、それによって実施競技の基準を作るべきだろう。
 レスリング除外問題では、理念も基準も示されなかった。

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サッカー日誌 / 2013年03月04日


五輪のレスリング除外問題(上)


IOCの組織は腐敗している
(2月12日 IOC理事会)

★崩壊への「蟻の一穴」
 「大きな堤防もアリ(蟻)のあけた小さな穴がもとで崩れる」という言葉がある。
 「五輪からレスリングを除外へ」というニュースを新聞で読んで、これがオリンピック崩壊の「アリの一穴」になるかもしれないな、という気がした。
 「レスリングはオリンピックに欠かせない」という意味ではない。問題はIOC(国際オリンピック委員会)理事会の決め方が不明朗なことである。
 レスリングのほか、近代五種、ホッケー、カヌー、テコンドーの計5競技が除外される競技の候補になり、その中から一つを投票で選んだ。 
 投票した14人の理事の中に、国際近代五種連合の副会長と国際テコンドー連盟の倫理委員長がいる。
 利害の当事者が投票に加わっていることが、まず不公正である。

★投票経過が示すもの
 5回にわたった投票の経過が新聞に載っていた。
 まず、ロンドン・オリンピックで実施された26競技を対象に投票し、票が入った5競技を対象に2回目からの投票をした。そのたびに最少票の競技をはずしていって、最後にレスリングが14票のうちの8票(過半数)で除外に決まった。
 公表された投票経過で、およその内情が推察できる。
 最初の投票からレスリングは除外候補のトップである。国際レスリング連盟が、なにかマイナスの材料を抱え込んでいたことが推測できる。本来なら除外対象になるようなスポーツではないからである。
 一方、テコンドー除外賛成は最初から1票だけである。
 オリンピックの歴史の中では実績のないスポーツで、除外されても仕方のない要件を抱えている。にもかかわらず、投票した14人の理事で1人しか不支持がいなかった。国際テコンドー連盟の事前工作の成功を示している。

★生き残った「近代五種」
 「オリンピックから除外されても仕方がない」といわれていたのは近代五種である。
 もともと軍隊の競技で普及度や人気度は低い。オリンピックで実施しなければならない理由は見当たらない。
 その近代五種がレスリングを犠牲にして生き残った。
 投票権を持つ14人の理事の中に国際近代五種連合の副会長がいる。その副会長が理事会のなかで多数派工作をしたとしか考えられない。
 その副会長はサマランチ・ジュニアである。IOCを大きく変えた前会長の息子である。
 IOC委員が世襲され、親の七光りを背景に国際スポーツ団体の要職につき、それを利用して特定の団体の利益をはかる。そこには、オリンピックの理想のカケラもない。
 IOCの組織は腐敗している。耐用期限が来た大きな堤防が崩壊しても不思議はない。

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