サッカー日誌 / 2012年02月29日


映画を通してサッカーを知る


ヨコハマ・フットボール映画祭
(2月26日 横浜「ジャック&ベティ」)
『ぼくらのサッカーチーム』(ベトナム映画)
『二人のエスコバル』(米国映画)

★3日間に7本を上映
 横浜で開かれた「フットボール映画祭」を見に行った。
 2月19日、25日、26日の3日間にわたって7本の映画が上映された。ぼくは、大阪の長居スタジアムで日本対アイスランドの試合を見た翌日の25日、東京に帰る途中に横浜で下車して、2本だけ見ることができた。
 新幹線の新横浜で降りて地下鉄で阪東橋まで行く。そこまではよかったが、地下鉄の駅を出てから映画館を見つけるのに難儀した。チラシに「徒歩7分」と書いてあったが、地図が小さくて分かりにくい。見当をつけて歩き出し、中華料理屋さんとコンビニと酒屋さんの3軒で聞いて映画館「ジャック&ベティ」にたどり着いた。
 着いてみれば、それほど不便なところではなかった。近くに中華料理屋さんがたくさんある。横浜らしい下町である。

★足技を描くベトナム映画
 こういう場所に小さな上映館を求め、サッカーを題材にしている映画を集めて上映している主催者の努力に感心した。主催は「ヨココム」ことNPO法人横浜スポーツコミュニケーションズなど4団体となっている。実際に運営しているのは、サッカーと映画の両方が好きな個人のグループのようである。
 見た映画は2本だけだが、それでも、いろいろ考えるところがあった。
 映画はサッカーを題材にして人生や社会を語ろうとしている。しかし逆に映画を通じてサッカーを改めて知ることもできる。
 最初に見たのは、ベトナムの少年チームを題材にした「勧善懲悪」の娯楽ものである。
 子どもたちの試合の場面の描き方がおもしろかった。足技で抜いて行くドリブルによる攻めが強調されている。「ベトナムのサッカーはドリブルが好きなんだ」と思った。

★コロンビア・サッカーの裏側
 もう1本は米国映画だが、中米のコロンビアが舞台である。1994年のワールドカップのときオウンゴールをしたエスコバル選手が、帰国後、マフィアに射殺された事件があった。この事件の背景を描いたセミ・ドキュメンタリーである。
 事件の起きたメデジンの町を1989年に訪れたことがある。エスコバル選手の属していた「ナシオナル」がトヨタカップのために日本へ来ることになったので、その事前取材に行ったのである。その当時から「マフィアの町」として悪名高かったが、一般市民は穏やかで人懐っこかった。10以上あるというラジオ局から毎日のようにインタビューを受けた。
 映画に描かれているコロンビアの社会とサッカー界の裏側を、取材の思い出を重ね合わせてみて、社会でサッカーの置かれている立ち場を考えた。
 映画ではあるが、サッカーの真実の一面を知ることができると思う。


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サッカー日誌 / 2012年02月27日


槙野智章が「ブレーク」した?


キリン・チャレンジ親善試合 
日本 3-1 アイスランド
(2月24日 大阪・長居スタジアム)

★開始早々の先取点アシスト
 「これは槙野ブレークの試合として記憶されるのではないか?」
 アイスランドとの親善試合が始まってすぐ、そう思った。
 キックオフから1分30秒。左サイドのディフェンダー、槙野智章が攻め上がる。
 相手ディフェンダーとの間に距離があり、すぐにクロスをあげられる状況だったが、切り返して、さらに食い込み、相手の守備網を引き付けて、ゴール正面に走りこんだ前田遼一のヘディングにぴたりと合わせた。すぐにクロスをあげたくなる状況だったにもかかわらす、もう一歩踏み込んで相手の守りを崩した。そして的確に前田の走りこみに合わせた。
 ドイツの1FCケルンに1年間、行っていたが、出番には恵まれなった。それでも、高いレベルのクラブでの厳しい体験が、積極的なチャレンジと冷静な判断力に磨きをかけたのではないか? そして一皮むけたのではないか、と思った。

★土壇場でPKを与える。
 槙野は90分、フル出場した。ザッケローニ監督のもとでは初めてである。そして後半34分にはフリーキックのチャンスに前線へ出て日本の3点目をあげた。
 ここまでは,「攻守に活躍、槙野万々歳」だったのだが、後半終了直前、追加時間に入ってから、反則で相手にPKを与えてしまった。ゴール前へ上がったボールを競り合って、相手の体に手をかけて引き倒した形だった。
 3対0とリードしていたときだし、親善試合なのだから、重大な結果を招いたわけではない。しかし、無理をする必要のない場面での反則だった。そのあたりの適切な状況判断ができるかどうかが、さらに一皮むけるための課題かもしれない。
 この試合では、欧州に行っている選手は呼び戻されていなかった。これからは欧州組とのポジション争いになる。その競争を乗り越えられるかどうかに注目したい。
 
★個人の能力を見る
 試合後の記者会見で、ザッケローニ監督に対して、こんな質問が出た。
 「この試合では個人の能力を見たいと監督は言っていたが、シーズン前の体調(フィジカル・コンディション)が十分でない時期の試合で能力を見極めることはできないのではないか?」
 この質問は、ちょっと見当違いではないか、と思う。
 体調不十分ではあっても、90分のなかで部分的には、自分の良さを見せることはできる。
 逆に部分的にでも良さを示せないのであれば、体調がよくても90分間に力を生かすことはできないだろう。
 槙野は、少なくとも部分的には「良さ」を見せた。まだ24歳。これから大きく成長することを期待したい。


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サッカー日誌 / 2012年02月26日


関塚ジャパンは大丈夫か?


五輪アジア予選C組 
U-23 マレーシア 0-4 日本
(2月22日 クアラルンプール=テレビ朝日)

★4点取れたのは想定通り
 オリンピック予選のマレーシア対日本を東京・音羽の中華料理屋「ルン」で会食しながらテレビで見た。「サロン2002」の月例研究会のあと、みなで繰りこんだのである。
 クアラルンプールで日本時間の夜10時から。まっすぐ自宅に帰ったのではキックオフに間に合わない。しかし、テレビを見終わってから帰るのでは終電に間に合わない。そこで
「日本が4点とったら帰るぞ」と宣言して見始めた。
 アジア予選C組は日本とシリアのトップ争いになっている。最終的に得失点差で決まる可能性が強い。だから関塚隆監督は大量得点を狙うほかはない。しかし、これまでの試合ぶりから見て、うまくいっても、4点が精一杯ではないか。一方、4点は取っておかなければ、シリアの試合結果によっては大丈夫とは言えない。そう考えた。
 後半15分に日本が4点目をあげたので、宣言通り終電で帰宅した。

★中盤の選手起用が成功
 帰宅してから、録画しておいたビデオを見たら、試合は4-0のまま終わっていた。最後の30分間、マレーシアの選手はバテバテで、日本が一方的に攻勢だった。それでも追加点は挙げられなかった。「4点が精一杯」というぼくの予想は正しかった。
 関塚隆監督は、中盤に齋藤学を、ボランチに扇原貴宏を起用した。これが当たって、齋藤は4点目を挙げ、扇原は2点にからんだ。ケガから復帰した原口元気のドリブルも利いていた。
 大量点が要求される試合だったので、前線の選手の補強を予想した向きも多かったようだが、ぼくは前のシリアとの試合ぶりを見て、得点力をあげるカギは「中盤」だと思っていた。中盤でゲームをコントロールできないと、攻め急いでも空回りになる。
 関塚監督も同じ考えだったようだ。中盤重視の選手起用が成功した。

★内容に問題はあるが……
 ただし、試合の内容は良かったとは言えない。後方でボールを奪っても前方へ出すパスが味方に渡らない場面が多かった。相手が、それほど厳しく詰めていなくてもパスが不正確である。日本のパスミスのたびに、いっしょにテレビを見ている仲間たちが「あーあ!」と溜め息を連発した。「こんなレベルでオリンピックを戦えるのか?」と心配である。
 とはいえ、未来を心配する前に、とりあえずは目の前の試合を勝たなければ話にならない。この試合に関しては「結果良ければ、すべて良し」である。
 同じ予選C組のシリア対バーレーンは、日本の試合が終わったあと、日本時間の23日になってから行われた。結果は翌朝、起きてから知った。シリアが1対2で敗れていた。勝ち点で日本が上回ることになって、日本は最終戦でバーレーンに引き分けでも、ロンドン・オリンピック出場権を得られることになった。案ずるより産むがやすく、希望が開けた。


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サッカー日誌 / 2012年02月21日


加茂周さんの功績を考える


企業チームをプロクラブに

日本サッカー史研究会2月例会
(2月20日 JFAハウス会議室 )

★日産を育てて三冠を達成
 日本サッカー史研究会の2月例会に加茂周さんを招いて、お話を聞いた。
 1970年代後半から1990年代にかけて、日本のサッカーが大きく変わった時期に、重要な仕事をした指導者である。その業績は、しっかり記録、評価しておかなければならない。
 日本リーグ時代のヤンマー、日産、Jリーグになってからの横浜フリューゲルスなどで選手、コーチ、監督を務め、1995年から1997年にかけて日本代表チームの監督だった。
 いろいろな業績を残しているのだが、日産自動車(横浜F・マリノスの前身)でやり遂げた仕事が、サッカー史に特筆すべき最大の功績だと、ぼくは思う。
 日産自動車では、監督として神奈川県リーグから関東リーグ、日本リーグ2部、1部とチームを育て上げ、1988~89年のシーズンにリーグ、リーグカップ、天皇杯の三冠を達成した。もちろん、これもたいしたものだが、ぼくの視点は違う。

★実業団を変えた
 ぼくの考えでは、加茂さんが日産でした仕事のもっとも重要な意義は「企業スポーツ」を変えたことである。
 1960年代~1980年代の日本のスポーツは会社チームが主流だった。「実業団」と呼ばれていた。選手は企業の社員で、スポーツ活動は建前としては「社員の福利厚生」あるいは「社員の士気高揚」だった。アマチュアとしてのスポーツという考えだった。
 加茂さんが1974年に日産自動車チームを引き受けたときは、会社側の考えは、やはり「実業団」だったという。
 加茂さんは「このままではレベルアップはできない」と考えた。そこで会社側に交渉し、選手のサッカー環境を改善することから手をつけた。そして契約選手制度を導入し、会社チームを内部から「プロ化」していった。

★日本スポーツの革命
 実業団では選手は社員だった。だから会社の仕事をしながら、スポーツをしなければならなかった。
 加茂さんが導入した「契約選手」は、正社員として雇用されるのではなく、スポーツに専念する者として短期契約し、チームのためにプレーした。
 そのころ、日本体育協会の間違った「アマチュア規程」のために、日本のサッカーでは「プロ」を認めることはできなかったが「契約選手」は事実上のプロだった。
 同じころ読売サッカークラブ(現在のヴェルディ)も選手は事実上、プロ契約だった。しかし、読売クラブの場合は創立の最初から「社員チーム」ではなく、社員でない選手で構成する「クラブ」だった。加茂さんは実業団をプロクラブに変えた。
 いまから思えば、これは日本のスポーツの「革命」だった。




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サッカー日誌 / 2012年02月19日


女子サッカーの「振興策」


砂坂美紀さんのお話から

ビバ!サッカー2月例会
(2月17日 東中野・テラハウス)

★「なでしこ」の軌跡を振り返る
 ビバ!サッカーの2月例会では、フリーランス・ライターの砂坂美紀さんを招いて話を聞いた。砂坂さんは慶応大学在学中から女子サッカーをマスコミで取り上げようと努力してきたが、なかなか思うようにならなかった。それがドイツ・ワールドカップ優勝後の「なでしこフィーバー」で、一躍、引っぱりダコになった。そして、このほど『なでしこ、つなぐ絆-夢を追い続けた女子サッカー30年の軌跡』(集英社)という本を出した。
ビバ!サッカーでは「なでしこフィーバー」が起きる前に、砂坂さんたちを招いてシンポジウムをした。ドイツ大会のあとにも来てもらって報告を聞いた。
 今回は、初めての著書が出版されたのを機会に「出版祝い」をしようと、お忙しいところを無理して来てもらった。「なでしこの軌跡」を振り返って、日本女子サッカーの歴史を改めて勉強しようという狙いもあった。

★男子の担当記者との試合
 砂坂さんの話のなかに出てきたエピソードである。
 1990年代か、それ以前のころ、女子日本代表強化試合の適当な相手がなかったので、新聞社のサッカー担当記者たちに手合わせしてもらったこともあったという。著書の中にも4行だけ出てくる(61~62ページ)。
 ただし、ぼくの推察では、これは強化のためよりも、マスコミに女子サッカーを知ってもらうためだったのではないかと思う。つまり普及の手段である。
 ぼくが新聞社の現役スポーツ記者だった1960~70年代ころ、こういう「記者クラブとの試合」をよくした。
 女子サッカーがまだなかった時代だから、相手はサッカー協会の40歳以上の役員だった。新聞社の担当記者を取りこむための策略である。

★バスケットの「得点王」
 そのころ、ぼくはバスケットボールも担当していた。バスケットボールには女子もあったから、記者クラブ対女子学連(各校から出ている学生連盟委員)との試合をよくした。
 記者のなかには大学のバスケットボール選手だった者もいる。そういうメンバーを並べると女子相手では身長が違い過ぎて勝負にならない。そこで経験者3人、シロート2人という構成にしてシロートの得点は2倍というルールにした。ぼくは小柄なシロートだから、ゴール下で待っていてパスをもらってシュートを試みることに専念した。そのおかげで1試合48点(実は12ゴール)をあげて「得点王?」になったこともある。「得点王?」は気分を良くして、その後、バスケットボールを熱心に取材した。
 女子サッカーも同じように、担当記者を「よいしょ」するために記者クラブとの試合をしたのではないかと思う。女子サッカー振興策の一つである。


左が砂坂さん、右が牛木。




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サッカー日誌 / 2012年02月15日


ラグビーW杯2019を支えるには


第19回みなとスポーツフォーラム
(2月13日 麻布区民センター)

★元FC東京社長、村林さんの講演
 日本ラグビーフットボール協会主催の「スポーツフォーラム」が、月に1回の割合で開かれている。会場は東京六本木の麻布区民センターホールである。
 2019年に日本で開かれるラグビー・ワールドカップに関心を持ってもらう狙いのようだが、それだけでなく、「見るスポーツ」「するスポーツ」のみならず「支えるスポーツ」への参加機会の提供を目指しています――と趣旨説明にある。ワールドカップ開催に協力してくれる人の輪をひろげようということだろう。2019年までに100回の実施を計画している。
 ラグビーのワールドカップ開催に関心があるので、1月の会にネットで参加を申し込もうとしたのだが、すでに「満員」だった。
 そこで2月に申し込んだら、講師は元FC東京社長の村林裕さんだった。サッカーの世界大会の話を聞いて、ラグビーの参考にしようという企画だろうか?

★会場を早く決めよ
 講演のテーマは「クラブ運営と世界大会」という予告だったが、実際のお話は、主としてサッカーの若手育成についてだった。クラブユースと高校の二つの路線から上がってくる仕組みの解説である。日本ラグビー界の仕組みとは、かなり違うから、参加者の多くにとっては、目新しく、参考になったかもしれない。
 ぼくにとっては、最後の20分ほどの質疑応答のほうが興味深かった。
 「ラグビー・ワールドカップを町づくりに生かすには、どうすればいいか?」という質問が出た。関連して村林さんが「10会場を早く決めないと……」と述べた。
 確かに―― 。どの町で、どのように開催するのかを明らかにしてくれなくては、町づくりのアイデアも考えようがない。支えようにも支えようがない。
 開催まで、あと7年しかないのである。

★支え合う体制作りを
 「Jリーグのサッカー会場は、スタンドとフィールドの距離が遠くて見にくいのではないか?」という質問が出た。
 村林さんの答えは、どういうわけか歯切れが悪かったが、ぼくに言わせれば「その通り」だ。多くは陸上競技のトラックがある。スタンドの傾斜が緩やか過ぎる。距離が遠いというよりも、観客の視線を考えていない構造である。
 ラグビーのワールドカップでは陸上競技場ではなく、トラックのない球技場を会場にして欲しい。将来の利用に適した規模のスタジアムにして欲しい。そういうスタジアムが増えれば、サッカーにとっても、ラグビーにとっても、将来の利用に役立つだろう。
 2019を機会に、施設についても運営体制についても、ラグビーとサッカーが支え合う関係を作ることができるのではないか、と考えた。


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サッカー日誌 / 2012年02月13日


女子サッカー30年の軌跡


砂坂美紀『なでしこ つなぐ

★フィーバー前の「しなやかに強く」
 女子ワールドカップ「ドイツ2011」の前、つまり「なでしこフィーバー」爆発より前に、わがビバ!サッカーでは、「なでしこ」を取り上げてシンポジウムを行った。
 2011年6月14日。東京青山の「こどもの城研修室」。タイトルは「なでしこ、しなやかに、つよく」だった。まるで「なでしこJapan」の活躍を予言しているようなタイトルである。さすが「ビバ!サッカー」。先見の明だね(自慢)。
 パネリストは、元なでしこの四方菜穂さん、中地舞さん。それに女子サッカーライターの砂坂美紀さん、江橋よしのりさん。4人に女子サッカーの現状と未来を語ってもらった。
 そのとき、女子サッカーを専門に追いかけているライターの熱意にびっくりした。
 とくに、砂坂美紀さんの話には感心した。女子サッカーの試合を取材する記者が、ほとんどいないころから、一人で記者席にいたということだった。

★女子専門ライターの軌跡
 女子サッカーを専門にしていて原稿が売れるのかな、食っていけるのかなと、ぼくは、余計な心配をした。
 1ヵ月後に、そんな心配は吹っ飛んだ。
 ドイツにいる江橋さんと砂坂さんに東京のマスコミから電話が殺到した。帰国したらテレビに繰り返し登場していた。長い間の苦労が、やっと実った。ライターも「しなやかに、つよく」だね。
 砂坂さんが最近、自分自身の著書を出した。『なでしこ つなぐ ―― 夢を追い続けた女子サッカー30年の軌跡』(集英社)である。そこで、この本をビバ!サッカーの月例会で取り上げることにした。2月17日、東京・東中野駅前の「テラハウス」が会場である。
 砂坂さんに、自らの取材の軌跡を語ってもらいたい。

★ジャーナリストの目
 「なでしこの軌跡」は、本を買って読んでいただきたい。
 ここでは、ぼくが読んで感心した一節だけを紹介する。
 「2011年の女子ワールドカップ後に、女子サッカー選手だけが悲惨な生活をしているように再三報道されたが、それは誤解だ。仕事も競技も頑張るのは、アマチュアならば、ごく普通だ」(71ページ)。
 選手たちに密着取材し、その苦労を知り尽くしていながら、ほかのスポーツの場合にも目を配っている。
 こういう視点を持つことが、ジャーナリストとして立つために必要である。女子サッカーのレポーターあるいはライターとしてだけではなく、ジャーナリストとしても、仕事を続けて欲しいと思う。



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サッカー日誌 / 2012年02月10日


戦術能力未熟の関塚ジャパン


五輪予選U23 シリア 2対1 日本

(2012年2月5日 アンマン:テレビ朝日、NHK-BS)

 

★縦へ大きく蹴り返す

 ロンドン・オリンピック・アジア最終予選C組で、日本はアウェーでシリアに敗れた。

これで望みが薄くなったわけではない。お互いにホームで勝ってシリアとは1勝1敗。得失点差も同じ。残り試合の結果で、どちらにもチャンスがある。日本は勝てば断然、有利になるところではあったが、結果に失望することはない。まだ互角である。

失望したのは結果ではなくて、関塚隆監督の率いる日本U23代表の試合ぶりである。 

 前半、とくに押されていたわけではないが、相手の攻めを恐れているようで、受け身の試合ぶりだった。

相手からゴールを奪うと、大きく前線に蹴り返す。それが味方につながればいいのだが、ただ蹴り返すだけだから、相手に拾われて、また攻め込まれる。

立ち上がりに、そういう場面が続いた。

 

★つながなければ「守り」じゃない

 相手からボールを奪って縦へ蹴り返す場面は低いレベルの試合ではよくある。猛攻を辛うじて防いで、とりあえず蹴り出してピンチを防ぐ。蹴ったボールを味方にわたそうとする余裕はない。

 しかし、代表クラスの試合では、むやみに蹴り返すのは、よくよくのときである。相手からボールを奪ったら、味方につないで「攻めの場面」を続けるのが当たり前である。

日本のU23の選手たちは、蹴り返したボールを味方につなぐ技量を持っている。相手が厳しく詰め寄ってきても、かわすだけのテクニックがある。

にもかかわらず、テレビ中継で見る限り、不正確でも蹴り返すことに専念していた。これが奇妙である。ボールを奪い返しても、味方につながらなければ「守り」じゃない。

「縦へ出せ」という監督の指示だったのだろうか?

 

★厳しい状況のシリア

 かりに「縦へ攻める」のが作戦だったとしても「ただ蹴り返せ」と指示するはずはない。

 選手たちは、自分で状況を判断してプレーする余裕を失っていたのだろうか?

 この試合は、本来はシリア国内で行われるはずだったが、シリア国内情勢不穏のため、隣国ヨルダンのアンマン競技場で行われた。芝生はでこぼこで、スタンドはがらがらだった。日本は欧州組を使えなかったし、試合の直前にケガ人も出た。双方に、いろいろ事情があり、ベストの状況での試合ではなかった。

 それにしても、日本の若い選手たちが、自分自身の判断で試合を組み立てることができなかったことに失望した。個人の戦術能力未熟である。

 一方で、シリアの選手たちが、国内の厳しい状況にもかかわらず渾身のプレーをした様子には感心した。シリアに勝利がほほ笑んだのは当然だと思う。

 

 

 

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サッカー日誌 / 2012年02月09日


2011年12月の関西旅行(下)


「関西サロン」忘年会での講演

 (20111220日 神戸・KR&AC

 

★外国人のスポーツクラブ

 12月に関西に旅行したのは「関西サロン」の忘年会に招かれたからである。関西のサッカー仲間有志のグループで、東京の「サロン2002」と連携している。

 幹事さんから「殿堂入りのお祝いをするから講演を」と言ってきたので「お祝いは困るけど忘年会で話すのなら」と出掛けた。

 会場は神戸三宮駅から歩いて5分ほどのところにある「KR&AC」(神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ)だった。関西在住の外国人が集まる場所である。

 19世紀なかばに外国人居留地ができたとき、主として英国人が持ち込んだスポーツは、まずレガッタ(漕艇)、クリケット、テニス、そしてフットボールだった。

 彼らは、神戸でも横浜でも、住みつくと同時にスポーツクラブを作った。と、ともに日本に最初にスポーツが移入された場所である。

 

★三つのテーマで

 関西のサッカー関係者の方に、ぼくの話を聞いていただく機会は、めったにない。そこで、張り切って、そして欲張って、三つのテーマで話をした。

 一つは、40年以上前に「サッカー・マガジン」誌上などで展開したキャンペーンの紹介、いや自慢である。「クラブ組織のサッカーを広めよう」「日本のサッカーにプロを導入しよう」「日本でワールドカップを開催しよう」。そういう主張だ。いまは全部実現して「当たり前」になっているが、当時は、とんでもない異端だった。

 次に、6~7月にドイツの女子ワールドカップで見てきたことを報告した。

 「なでしこJapan」の活躍にも感心したが、もう一つ感心したのは、ドイツの大会運営である。主として人口20~30万くらいの中小都市が会場になり、それをつないだネットワークで開催されていた。

 

★過去、現在、未来をつなぐ

 それぞれの都市では、町の人たちがボランティアとして、自分たちのイベントを、自分たちの力で運営していた。その背景には、地域のスポーツクラブでの日常的な活動があるようだった。オリンピックのような大規模集中開催よりも、地域分散のネットワークによる中規模開催のほうが楽しい。地域振興の役にも立つ。

 三つ目の話は「女子ワールドカップを日本で開催しよう」という提案である。それを地方分散のネットワークで運営し、地方のスポーツの将来に役立てよう。そういう夢を話した。2023年の開催をめざすべきだと、ぼくは考えている。

 関西サロンで話した三つのテーマは、過去、現在、未来にわたっている。そして「地域のクラブを基盤に」という考え方でつながっている。

 10年1日」いや「40年1日」の主張だろうか?

 

 

 

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サッカー日誌 / 2012年02月08日


2011年12月の関西旅行(中)


加古川総合スポーツクラブ
(2011年12月20日 兵庫県加古川市)

★小・中学校の施設開放
 昨年暮れ、2011年12月に関西に出かけたとき、空いた時間を利用して兵庫県加古川市のスポーツクラブを取材した。
 加古川市にある兵庫大学で2006年まで働いていた。大学を退職したあとも3年間、非常勤で年に1回、出張講義に出かけていた。その関係で、この町のスポーツクラブにも、いささか関心がある。そこで、その後の活動がどうなっているかを聞きに行ったのである。
 「加古川総合スポーツクラブ」は、ユニークな組織で、ユニークな活動をしている。
 人口約28万人の市内に12の中学校がある。その「中学校のある区域」を単位にスポーツクラブがある。「中学校」ではない。「中学校区」である。
 一つの中学校区には、3~4つの小学校がある。全部で31の小・中学校の校庭や体育館を利用して、地域の住民が46種目のスポーツの活動をしている。

★分散統合のネットワーク
 たとえば、ある小学校の体育館は金曜日の夜に、別の小学校の体育館は土曜日の午後に、卓球のために開放されている。卓球をしたい加古川市民はグループを作って利用する。自分の住んでいる地区の小学校の体育館で卓球が行われていなければ、近くの別の小学校区の卓球グループに参加することができる。
 その小学校区の住民だけではない。加古川の市民なら誰でも大人年6000円の会費で「加古川総合スポーツクラブ」に入ることができる。会員になれば、市内のどの小学校区のグループの活動にも参加できる。
 そういう活動が、サッカーでも、バレーボールでも、バドミントンでも行われている。
 「総合スポーツクラブ」と名がついているが、「総合」というより「分散」である。各小学校区に分散しているスポーツ活動を、ネットワークでつないで「統合」している。

★ボランティアが支える
 なかなかよく出来ているホームページがあるので、詳しいことは、それを見て欲しい。
 クラブの総合マネジャーである能田達三さんに話を聞いた。4000人あまりの会員を抱えるクラブ全体のなかで、ただ一人の有給専従職員である。あとはパートで手伝ってくれる人と無償のボランティアで運営している。
 市の体育館のなかにある事務所を訪ねたら、ボランティアでお手伝いをしている方がいた。1964年の新潟国民体育大会にバレーボールの選手として出場したことがある。いまは定年退職して時間に余裕があるので、ホームページ作りとその運用を担当している。そう聞いて、年配の方が、あの、よく出来ているホームページを運営していることに、びっくりした。
 加古川が他の地域のクラブのモデルにならないのだろうか、と考えた。


加古川総合スポーツクラブのホームページ



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