サッカー日誌 / 2011年01月23日


国際審判員、丸山義行さんの努力


日本初のワールドカップ審判

日本サッカー史研究会1月例会
(1月17日・JFAハウス会議室)

◇東京五輪でデビュー
 日本サッカー史研究会の1月例会ではゲストに丸山義行さんを招いた。40年前、日本から初めてワールドカップの審判員に指名された人である。
 中央大学監督やJリーグの規律委員などを長く勤め、日本のサッカー界の裏事情にも通じている。だから、いろいろな話が出たが、ここではメキシコ70の審判員に指名されたときの事情を紹介しておこう。
 丸山さんは、1954年に大学を出ると、すぐ審判員になった。希望してなったわけではない。「各大学から一人は審判員を出せ」という当時の協会の方針で審判をさせられた。
 1964年東京オリンピックのときには国際審判員としてFIFAに登録されていた。地元開催だったので日本の国際審判員7人全員がオリンピックの審判員に指名された。これが世界的な大会へのデビューでワールドカップ審判員への道が開けた。

◇自費でワールドカップ見学へ
 「そのころはオリンピックが世界最高の大会だ。その審判を務めるのはたいへんなことだ」と思っていた。ところが、外国から来た人たちに「ワールドカップのレベルは、こんなもんじゃない」と教えられた。そのころの日本では、サッカー関係者の間でもワールドカップは、ほとんど知られていなかった。それで丸山さんは「ワールドカップを見なくては話にならない」と決心した。
 2年後の1966年にイングランドでワールドカップが開かれたとき、丸山さんは協会が募集した見学旅行団に参加した。協会から派遣されたのではない。自費で出かけたのである。
 さらに、その2年後、1968年メキシコ・オリンピックの審判員に選ばれた。日本代表チームが銅メダルを獲得した大会である。「準決勝に割り当てられるはずだったのだけれど、日本が勝ち進んだので、外されてしまった」という。

◇富士山五合目で走る
 メキシコ・オリンピックのとき、当時のFIFA会長、サー・スタンリー・ラウスに「2年後のワールドカップで選ぶから準備をしておくように」と言われた。
 ところが、その後、ソウルでアジアの審判員を集めたトレーニングが行われたときに呼ばれなかった。そこで自費でソウルへ飛んで「押しかけ」で参加した。
 メキシコシティは標高2000メートル以上の高地である。メキシコW杯の審判に指名されると月に1度、富士山の五合目に登って走り、薄い空気に慣れるトレーニングをした。
 丸山さんの長い審判生活は、みなボランティアである。ワールドカップやオリンピックでの費用はFIFAが負担するが事前の準備は自己負担だ。国内の試合で笛を吹いても、報酬は出ない。いまでは、日本の審判員のレベルや待遇も、当時とは比較にならないほど向上しているが、その基礎に先駆者の努力と苦労があったことを改めて認識した。


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