ワールドカップ12大会取材のサッカージャーナリストのブログ
牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
サッカー日誌 / 2007年05月24日
「ドルトムント」を見直そう ~ 戦後初の欧州遠征の残したもの
★国際大学スポーツ週間
1953年(昭和28年)の8月~9月に日本学生選抜チームがヨーロッパに遠征した。この遠征は、いまでは当時の関係者以外には、ほとんど知られていないかもしれない。しかし、これは日本のサッカーの現在に大きな影響を残した遠征だったと、ぼくは思っている。
この年の8月9日~16日に西ドイツのドルトムントで国際大学スポーツ週間という大会が開かれた。現在のユニバシアードである。この大会に、日本は学生選抜を編成して参加し、前後の親善試合などを含めて58日間の欧州遠征を行った。
これは戦前の極東大会、ベルリン・オリンピック、戦後すぐのニューデリー・アジア大会参加以外では初めての選抜チーム海外派遣だった。タイトルのための参加ではなく、日本サッカーの将来を展望しての初の海外遠征だった。
★その後の指導者を生み出す
この遠征にゴールキーパーとして参加した玉城良一さんに、お話を聞く機会があった。
玉城さんは当時、立教大学の2年生だった。卒業して間もなくブラジルに移住して住みついた。今年(2007年)3月~6月に約3ヵ月の予定で帰国したとき、当時のメンバーが集まって「ドルトムント会」を開いた。そのメンバーの中には、1968年メキシコ・オリンピックの銅メダルを指導した長沼健、岡野俊一郎、平木隆三がいる。
つまり、当時「日本のサッカーの将来を托す人材を育てるために」と派遣した学生が、立派に日本のサッカー指導者に育ったのである。
当時、日本蹴球(サッカー)協会の機関誌を編集していた山田午郎さんは、選手たちに交代で日誌を書いて、毎日、日本へ送るように頼んだ。遠征で吸収したものを、できるだけ日本へ伝えてもらうためである。また、自分たちの行動を記録させることによって、選手たちを育てることも狙ったのだろう。この日誌は、協会機関誌「蹴球」第10巻第8号(昭和28年、1953年)に掲載されている。
★人間の幅を広げた経験
このときの経験が、その後の日本のサッカーに、どう生かされたかを、調べて検討してみたい。
初めてヨーロッパに行く連中ばかりだから、目を丸くするようなことの連続だったらしい。パリでは選手たちはオペラやルーブル美術館にも連れて行かれたという。サッカーだけでない幅広い見聞をさせようとしたのである。
一方、玉城さんの話では、選手たちは高尚な見学だけではおもしろくないと、夜はてんでにムーランルージュに遊びに行って「かぶりつき」にもぐりこんだりしたらしい。
そういう経験は人間の幅を広げ、その後、社会人になって、いろいろな面で役に立っただろうと思う。
現在の選手たちは、海外旅行には慣れっこになっている。サッカー以外の特別な経験などさせる必要はないかもしれない。
しかし、海外でのキャンプ中、自由行動の休日に、宿舎に閉じこもってゲームばかりしている若手が少なくないというような話をきくと、「時代が違うよ」とばかりは、言っていられないような気がする。
1953年(昭和28年)の8月~9月に日本学生選抜チームがヨーロッパに遠征した。この遠征は、いまでは当時の関係者以外には、ほとんど知られていないかもしれない。しかし、これは日本のサッカーの現在に大きな影響を残した遠征だったと、ぼくは思っている。
この年の8月9日~16日に西ドイツのドルトムントで国際大学スポーツ週間という大会が開かれた。現在のユニバシアードである。この大会に、日本は学生選抜を編成して参加し、前後の親善試合などを含めて58日間の欧州遠征を行った。
これは戦前の極東大会、ベルリン・オリンピック、戦後すぐのニューデリー・アジア大会参加以外では初めての選抜チーム海外派遣だった。タイトルのための参加ではなく、日本サッカーの将来を展望しての初の海外遠征だった。
★その後の指導者を生み出す
この遠征にゴールキーパーとして参加した玉城良一さんに、お話を聞く機会があった。
玉城さんは当時、立教大学の2年生だった。卒業して間もなくブラジルに移住して住みついた。今年(2007年)3月~6月に約3ヵ月の予定で帰国したとき、当時のメンバーが集まって「ドルトムント会」を開いた。そのメンバーの中には、1968年メキシコ・オリンピックの銅メダルを指導した長沼健、岡野俊一郎、平木隆三がいる。
つまり、当時「日本のサッカーの将来を托す人材を育てるために」と派遣した学生が、立派に日本のサッカー指導者に育ったのである。
当時、日本蹴球(サッカー)協会の機関誌を編集していた山田午郎さんは、選手たちに交代で日誌を書いて、毎日、日本へ送るように頼んだ。遠征で吸収したものを、できるだけ日本へ伝えてもらうためである。また、自分たちの行動を記録させることによって、選手たちを育てることも狙ったのだろう。この日誌は、協会機関誌「蹴球」第10巻第8号(昭和28年、1953年)に掲載されている。
★人間の幅を広げた経験
このときの経験が、その後の日本のサッカーに、どう生かされたかを、調べて検討してみたい。
初めてヨーロッパに行く連中ばかりだから、目を丸くするようなことの連続だったらしい。パリでは選手たちはオペラやルーブル美術館にも連れて行かれたという。サッカーだけでない幅広い見聞をさせようとしたのである。
一方、玉城さんの話では、選手たちは高尚な見学だけではおもしろくないと、夜はてんでにムーランルージュに遊びに行って「かぶりつき」にもぐりこんだりしたらしい。
そういう経験は人間の幅を広げ、その後、社会人になって、いろいろな面で役に立っただろうと思う。
現在の選手たちは、海外旅行には慣れっこになっている。サッカー以外の特別な経験などさせる必要はないかもしれない。
しかし、海外でのキャンプ中、自由行動の休日に、宿舎に閉じこもってゲームばかりしている若手が少なくないというような話をきくと、「時代が違うよ」とばかりは、言っていられないような気がする。
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サッカー日誌 / 2007年05月23日
鈴木武士さんの思い出 (下)
日本サッカー協会75年史の編集
★サッカーに入れ込む
鈴木武士さんは早稲田大学山岳部出身だった。
新聞社・通信社のスポーツ記者は、自分がやったスポーツを担当するとは限らない。一人でいろいろなスポーツを担当させられる。しかし、多くの場合は、自分のやったスポーツを、とくに熱心に盛り立てようとする。報道の中立性には反するかもしれないが、それが人情というものだろう。
ところが、鈴木さんは、登山出身でありながら、サッカーに入れ込んだ。これは、1970年のメキシコ・ワールドカップへ、ぼくといっしょに取材に行ったのが、きっかけになったのではないかと思う。彼もワールドカップの魅力のとりこになったのである。
ぼくがサッカー協会の機関誌の編集を手伝っていたことがある。鈴木さんは、ぼくたちのあとを引き継いで協会の機関誌「サッカー」の編集を引き受けた。
★協会の編集の仕事に貢献
『日本サッカー協会75年史』という立派な分厚い本がある。これは鈴木さんが責任者となって編集したものである。
日本サッカー協会創立の功労者の一人である新田純興さんの業績を調べるために、ご遺族の家をお訪ねして遺品を拝見していたら、共同通信社の名取裕樹記者からの手紙があった。新田さんの資料を借りてお返ししたときの礼状だった。
75年史を編集するとき、協会の保存している資料では分からないところがあって、鈴木さんが後輩の名取さんに依頼して新田さんの資料を調べさせたのだった。
鈴木さんは、お酒を愛し、豪放でおおまかなように見えた。しかし、抑えるべきところは、きめ細かく抑えて仕事をした。名取さんの礼状を見て、そういう人柄を思い出した。
『日本サッカー協会75年史』は鈴木さんのサッカーへの大きな貢献の一つである。
★おおらかだが、きめこまかい
75年史の前の50年史は新田純興さんがまとめて『日本サッカーのあゆみ』というタイトルで1974年に出版されている。実は、ぼくが背後で工作して新田さんを引き出し、講談社の風呂中斉さんをたきつけて、出版にこぎつけたものである。新田さんの遺品を拝見しているとき、その当時の手紙も出てきて懐かしかった。
鈴木さんは、75年史を編集するとき、ぼくをわざわざ訪ねてきて原稿を依頼した。しかし、ぼくは協力しなかった。当時のサッカー協会の幹部のなかに、かつて協会機関誌の編集を手伝っていたぼくたちへ、わだかまりを持っている(おそらくは誤解に基づく)人がいると聞いていたので、協会に協力する気になれなかったのである。
いまにして思えば、まことに心が狭かったと反省している。鈴木さんは「協会との間に何かあるように感じていたよ」と言って、快く理解してくれた。カンがよく、人情に厚い人柄だった。
合掌。
★サッカーに入れ込む
鈴木武士さんは早稲田大学山岳部出身だった。
新聞社・通信社のスポーツ記者は、自分がやったスポーツを担当するとは限らない。一人でいろいろなスポーツを担当させられる。しかし、多くの場合は、自分のやったスポーツを、とくに熱心に盛り立てようとする。報道の中立性には反するかもしれないが、それが人情というものだろう。
ところが、鈴木さんは、登山出身でありながら、サッカーに入れ込んだ。これは、1970年のメキシコ・ワールドカップへ、ぼくといっしょに取材に行ったのが、きっかけになったのではないかと思う。彼もワールドカップの魅力のとりこになったのである。
ぼくがサッカー協会の機関誌の編集を手伝っていたことがある。鈴木さんは、ぼくたちのあとを引き継いで協会の機関誌「サッカー」の編集を引き受けた。
★協会の編集の仕事に貢献
『日本サッカー協会75年史』という立派な分厚い本がある。これは鈴木さんが責任者となって編集したものである。
日本サッカー協会創立の功労者の一人である新田純興さんの業績を調べるために、ご遺族の家をお訪ねして遺品を拝見していたら、共同通信社の名取裕樹記者からの手紙があった。新田さんの資料を借りてお返ししたときの礼状だった。
75年史を編集するとき、協会の保存している資料では分からないところがあって、鈴木さんが後輩の名取さんに依頼して新田さんの資料を調べさせたのだった。
鈴木さんは、お酒を愛し、豪放でおおまかなように見えた。しかし、抑えるべきところは、きめ細かく抑えて仕事をした。名取さんの礼状を見て、そういう人柄を思い出した。
『日本サッカー協会75年史』は鈴木さんのサッカーへの大きな貢献の一つである。
★おおらかだが、きめこまかい
75年史の前の50年史は新田純興さんがまとめて『日本サッカーのあゆみ』というタイトルで1974年に出版されている。実は、ぼくが背後で工作して新田さんを引き出し、講談社の風呂中斉さんをたきつけて、出版にこぎつけたものである。新田さんの遺品を拝見しているとき、その当時の手紙も出てきて懐かしかった。
鈴木さんは、75年史を編集するとき、ぼくをわざわざ訪ねてきて原稿を依頼した。しかし、ぼくは協力しなかった。当時のサッカー協会の幹部のなかに、かつて協会機関誌の編集を手伝っていたぼくたちへ、わだかまりを持っている(おそらくは誤解に基づく)人がいると聞いていたので、協会に協力する気になれなかったのである。
いまにして思えば、まことに心が狭かったと反省している。鈴木さんは「協会との間に何かあるように感じていたよ」と言って、快く理解してくれた。カンがよく、人情に厚い人柄だった。
合掌。
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サッカー日誌 / 2007年05月22日
鈴木武士さんの思い出 (中)

◆メキシコでのインタビュー
1970年のメキシコ・ワールドカップのとき、鈴木武士さんといっしょに、ブラジルのペレにインタビューしたことがある。
そのとき、ブラジルのチームは、グアダラハラ郊外のスイテス・カリベという別荘風の宿舎にキャンプしていた。そこの芝生の中庭にデッキチェアが、ばらばらに置いてあって、選手たちが腰掛けている。それを記者たちが、てんでに取り囲んで話を聞くというブラジル式の記者会見である。
もともと、ブラジルからついてきている記者たちのための会見で通訳はいない。だからポルトガル語ができないと話にならないのだが、鈴木さんには共同通信のメキシコ通信員をしていた留学生が通訳としてついていた。それで、ブラジル人の記者の間にもぐりこんで質問することができたわけである。
◆プロとアマチュアの違い
「プロとアマチュアはどう違うのか?」と鈴木さんがペレに質問した。
「アマチュアは自分の好きなようにサッカーを楽しめばいい。プロは多くの人のためにプレーするから、自分の好きなようにはできない」。これが、ペレの答だった。
当時、日本のスポーツは偏狭なアマチュアリズムできびしく統制されていた。「プロは金儲けが目的の汚いものであり、アマチュアは自分自身のために純粋にプレーするきれいなものだ」とスポーツ総元締の日本体育協会のお偉方は考えていた。これは「プロアマ共存」のサッカーのあり方とは正反対の考え方である。
ぼくは、日本体協のアマチュアリズムに反対するキャンペーンを展開しようと考えていた。だから「プロは大衆のためにプレーする」というペレの発言は、格好の援護射撃になった。鈴木さんも、ぼくと同じ考えで、ペレの発言を引き出してくれたのである。
◆ペレ自叙伝の翻訳
ペレがサッカーの指導書を書いたとき、ぼくが、その日本語版を『ペレのサッカー』というタイトルで出した。英語版から翻訳したのだが、もともとはポルトガル語の本である。その各国語版のそれぞれに、ペレにサインしてもらった。ぼくが寄付して、いま日本サッカーミュージアムにある。
そのあとで鈴木武士さんが『サッカーわが人生 ―― ペレ自伝』を翻訳して出した。
この2冊の出版の面倒を見てくれたのは、講談社の風呂中斉さんだった。広島の高校でゴールキーパーだったというサッカー好きだった。「ペレ自伝も牛木さんにお願いしようかと思ったけど忙しそうだったし……」とぼくに言い訳して鈴木さんに回したが、本音は鈴木さんのほうが文章もいいし、仕事も早いし、というところだっただろう。
その風呂中さんも早くに亡くなった。優秀な人がさっさと「さよなら」するのは、サッカー界のために悲しむべきことである。
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サッカー日誌 / 2007年05月20日
鈴木武士さんの思い出(上)

◆5月13日死去。69歳。
長年のサッカー記者仲間だった奈良原武士さんが亡くなった。原稿は旧姓の鈴木で書いていたから「鈴木武士」の名で、ご存知の方も多いだろう。
5月13日(日)、埼玉スタジアムの浦和対ガンバ大阪の試合を見に行くために家を出ようとしたところに「今朝早くに亡くなりました」と電話があった。
日本サッカー協会の殿堂委員会でいっしょだったが、前年から欠席するようになり、再任も辞退していた。年賀状には「身体のいたるところが、もうダメだ」と弱気なことが書いてあった。入院してかなり悪いと聞いていたから訃報に驚きはしなかったが69歳は早すぎる。まだまだ、仕事のできる歳である。
16日にお通夜に行った。飾ってあった写真は月並みな肖像ではなく、腕を振り上げて元気いっぱいの姿だった。外に出たら急に悲しくなり、三鷹駅の近くで1人で酒を飲んだ。
◆ワールドカップ行きを企む
日本のジャーナリストが記者登録をして、サッカーのワールドカップを現地取材したのは、1970年のメキシコが最初である。
当時は、ワールドカップそのものが日本では一般には、ほとんど知られていなかった。新聞社が特派員を出して取材することは考えられなかった。ぼくは読売新聞に勤めていたが、ワールドカップに行かせてくれと申請しても、とても認めてもらえるような社内の雰囲気ではなかった。
そこで共同通信社運動部にいた鈴木武士さんに持ちかけて、共同通信から各新聞社宛てに「サッカー世界選手権の取材登録をする社は申し出るように」という連絡(業界用語でバタという)をまわしてもらった。
それを社内工作のきっかけにしようと企んだのである。
◆メキシコ '70の仲間たち
おそらく、そのバタを見てだろう。大阪朝日におられた大谷四郎さんが、特派員としてメキシコに行くことになった。鈴木さん自身も、共同通信の特派員となった。
そこで、ぼくも読売運動部長に「朝日も共同も行くのだから」と申し出て、ワールドカップ行きを認めてもらった。ただし「休暇をとって自費で行け、費用は出せないが特派員の肩書きはやる」という奇妙な条件だった。
鈴木さんと大谷さんは、正規の特派員として社から経費をもらって派遣された。だから現地では通訳を使って悠々と仕事をしていた。ぼくは1人でうろうろした。しかし、お二人をダシにして、部長を説き伏せて出してもらったのだから、羨むわけにはいかない。
そのとき、日本から記者としてメキシコ '70に行ったのは5人である。大谷さんと日刊スポーツの谷口博志さんは、すでに亡くなっている。鈴木さんが亡くなって、残ったのは、ぼくと堀内征一さん(当時サッカーマガジン)だけになった。
※写真は、メキシコ '70に行った特派記者たち。左から、堀内さん、牛木、大谷さん、谷口さん、2人おいて右端が、鈴木さん。
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