サッカー日誌 / 2009年04月30日


日本サッカー協会のマークは八咫烏


日本サッカー史シンポジウム(3月21日 那智勝浦町)
日本サッカー史研究会(4月27日 JFAハウス)

★なぜ3本足のカラスなのか
 日本サッカー協会のシンボルマークは「3本足のカラス」である。日本代表選手の胸にもこのマークがついている。
 財団法人日本サッカー協会のホームページに、このマークについて簡単な解説が載っている。
「ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです」
 この説明だけでは、なぜ「3本足のカラス」が、日本のサッカーのシンボルになっているのかは分からない。
 協会会長だった長沼健さんは、外国人に説明を求められたとき「なぜ日本サッカーのシンボルが中国のものなのか」と追及されて説明に窮したと話していた。

★制作者は「日本の神話」をモチーフに
 日本サッカー協会の標章が決まったのは1931年(昭和6年)である。デザインしたのはスポーツデザインの第一人者だった彫刻家、日名子実三である。
 「日本サッカー史研究会」の4月例会で福島寿男さんが、このことについて報告をした。それによると日名子実三は、そのころ、ほかにも日本の神話をモチーフにしたメダルなどを制作しており、その中には、明らかに日本書紀や古事記にある神話の鳥を扱ったものがある。それらを合わせて考えると、協会標章の「3本足のカラス」が日本の神話に出てくる「八咫烏」であることは明らかである。
 実は協会のホームページの説明は、後に修正され「日本でも(伝説に出てきて)烏には親しみがあります」と取って付けたような説明が加えられた。しかし、これは順序が逆で中国の伝説を、まつ先にひっぱり出してきて説明するのは制作者の意図にそぐわない。

★太陽、つまり日の丸の象徴
 3月21日に和歌山県那智勝浦でおこなった日本サッカー史のシンポジウムのときには、地元の研究者の山本殖生さんが「八咫烏」について解説した。それによると、3本足のカラスの伝説は各地にあり、古代朝鮮や日本の古代美術品や古墳の壁画にも描かれているという。
 サッカー協会のホームページの解説が「中国の伝説」を強調しているのは戦前の協会機関誌「蹴球」に掲載されている文章がもとで、これが協会史の記述の根拠になったためのようである。3本足のカラスが太陽の中にいることは「淮南子」など中国の伝説を集めた古い本に書いてある。3本足のカラスは、太陽、つまり日の丸の象徴だから、日本代表チームの胸につけてもおかしくない。そこまで説明しないと意味が分からない。
 協会のホームページの説明は、順序が逆であるばかりでなく、舌足らずである。

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サッカー日誌 / 2009年04月29日


中村覚之助と日本サッカーの夜明け


日本サッカー史シンポジウム
(3月21日 那智勝浦町)

★日本最初の指導書、日本最初の試合
 和歌山県那智勝浦で3月下旬に「中村覚之助と日本サッカーの夜明け」と題するシンポジウムがあった。ぼくは東京から夜行バスで11時間かけて行きパネリストをつとめた。
 中村覚之助は明治時代に「日本にはじめて本格的にサッカーを紹介した人」である。
 東京高等師範学校の3年生だったとき、1903年(明治36年)に英国の本を翻訳、編集して『アッソシエーション・フットボール』を東京高師の名で出版した。日本最初のサッカー指導書である。
 その翌年、1904年(明治37年)2月6日に東京高師のチームは、横浜に遠征して外国人クラブと試合をした。それを企画して推進したのが4年生の中村覚之助だった。日本で最初の対外試合である。覚之助たちは横浜から帰った翌日、神田の写真館でユニフォーム姿の記念写真を撮っている。この写真はいま日本サッカー・ミュージアムにある。

★「築地のダグラス少佐説」は正しいか?
 「日本のサッカーは中村覚之助からはじまった」とぼくは考えている。
 多くの本に「1873年(明治6年)に英国人のダグラス少佐が築地の海軍兵学寮でサッカーを教えたのが日本人のサッカーの始まり」と書いてあるが、これは正しくない。
 英国の「フットボール・アソシエーション」(FA)が設立されたのは1863年。築地のダグラス少佐の10年前である。FAの統一ルールによるフットボールが「アソシエーション・フットボール」、つまりサッカーである。サッカーは誕生してわずか10年で英国から日本へ伝わったのだろうか。いささか疑問である。海軍兵学寮で「フットボール」を教えたという記録はあるが、それがFAルールによるものだったという証拠はない。
 ラグビー・ユニオンの設立は1871年。築地の2年前である。ダグラス少佐が教えたのがラグビー・フットボールだった可能性はほとんどない。

★2つの業績だけでも「殿堂入り」が当然
 19世紀のイングランドでは、各地のパブリック・スクールごとに、それぞれ独自のルールによるフットボールがあった。ダグラス少佐が教えたのは、そのうちの一つだったと推測するのが妥当である。
 その後、部分的にはサッカーが日本に入ってきた形跡がある。しかし、広く日本に広まることはなかった。広まり始めたのは、明治の終わりごろの東京高等師範学校からである。
 中村覚之助は日本最初の指導書を出し、日本最初の対外試合を行った。この2つの業績だけでも、中村覚之助を「日本のサッカーのパイオニア」とするのに十分だと思う。29歳の若さで亡くなったために、一部の人びとにしか知られていないのは残念である。
 というわけで、ぼくは覚之助の出身地、那智勝浦で行われたシンポジウムで「中村覚之助を日本サッカー殿堂に掲額すべきである」と声を大きくして主張した。

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サッカー日誌 / 2009年04月26日


ブラジル・サッカー育成事情


ビバ!サッカー月例会
(4月19日 赤坂区民ホール)

★コーラが消えた謎
 ビバ!サッカー仲間の友人がU-15のフットサル・チームとともにブラジルに行って来たので月例会で報告を聞いた。面白い話がいろいろあったなかから一つだけ紹介する。
 サンパウロ郊外の「ニッポン・カントリー・クラブ」という大きなスポーツクラブに宿泊した。食事はクラブの食堂でビュッフェ形式。好きなものを選んで、好きなだけ食べられた。中学生年代で伸び盛りの少年たちは、ブラジルの料理も苦にしないで食欲旺盛だった。
 飲み物は、コーラの大きなボトルが用意してあって飲み放題だった。これも少年たちは喜んで飲んだ。
 ところがある日、コーラのボトルが姿を消し、代わりに果物ジュースが並んだ。ジュースもいいが、なぜコーラが消えたのだろう。

★日本からのチームの要求
 滞在期間中に日本から滋賀、奈良、札幌のジュニア・ユース・チームが来て同じクラブに滞在した。そうしたらコーラが消えてジュースが現れた。日本の3チームが帰ったら再びコーラが登場した。
 「日本のチームの監督さんが炭酸飲料はだめだとクラブに掛け合って変えさせたのだろうね。クラブは外国のお客さんの要求だから聞き入れたわけだ」と仲間の話。
 日本のチームは、朝早くきちんと起きてトレーニングをし、日本にいるときと同じように規則正しく練習と試合をこなしていたという。
 ビバの仲間がいっしょに行ったチームは、ブラジル人のオスカーが指導者だったので現地ではブラジル式の生活に従った。試合の予定が急に変更になったり、試合終了が遅くなって夜の12時過ぎに夕食を食べる日が続いたりしたが、文句は言わなかった。

★自力で適応する力を伸ばす
 スケジュール管理がいいかげんで、食事も不規則なブラジル式合宿に、オスカーの率いるチームの少年たちは間もなく適応した。コーラをがぶ飲みしないように自分で気をつけるようになり、生活が不規則なら自分で睡眠時間を勝手に調節した。
 「地球の反対側まで来て、日本でのやり方を変えないのでは、異文化体験にはならないな」と、ぼくは日本から来たほかのチームについて考えた。
 「どちらがいいとは言えないが…」と友人が感想を述べた。「ブラジルの子どもたちは、いい加減なやり方に適応していくなかで、それぞれ勝手に自分の力を伸ばしていくのではないかと思ったね。だから、いろいろなタイプの個性が育つのかもしれない」
 それがブラジル・サッカーの強さの秘密かもしれない。教えすぎ、縛りすぎ、保護しすぎは、若い才能が自分で考える力を伸ばすのを妨げるおそれがある。


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サッカー日誌 / 2009年04月24日


中条一雄著『デットマール・クラマー』の評価


ミズノ スポーツライター賞表彰式
(4月21日・グランドプリンスホテル新高輪)

★選考事情の内幕は?
 ミズノスポーツ振興会による「ミズノ スポーツライター賞」の表彰式とパーティーに顔を出した。この賞は毎年、スポーツの本や記事の中から数点を選定している。今回が第19 回である。ぼく自身、第4回に「ビバ!サッカー」の連載で受賞したことがある。
 今回の表彰式に行ったのは中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社刊)が優秀作品に選ばれたからである。「ビバ!サッカー」のホームページに連載したものだし、本にするときに編集や出版依頼をお手伝いしたので関係者にお礼を言いたかったからだが、選考の内幕も聞いてみたかったこともある。
 今回は中条さんの本のほか、中鉢信一『ケニア! ~彼らはなぜ速いのか~』(文芸春秋)、布施鋼治『吉田沙保里 ~119連勝の方程式』(新潮社)の3つが表彰された。「ケニア」が最優秀賞、「クラマー」と「吉田沙保里」が優秀賞だった。

★後世に残る本として第1級
 3つの本は、それぞれ性質が違うが、後世に残る本としては中条さんの「クラマー」が断然である。日本のサッカーを根本から変革したクラマーさんについては、いろいろな伝説が入り乱れて、その中には、かなりいい加減なものもある。中条さんは、クラマーが初めて日本のサッカーに接したとき以来、同じ時代を密着して取材し続けてきた。しかし、過去の体験や資料だけに頼らないで、繰り返し本人にインタビューしている。日本のサッカーとクラマーさんに関する資料として第1級である。
 取材先に密着しすぎると、思い入れが強くなって内容が偏ることがある。しかし中条さんは事実をしつこく追及することによって、その弊害を免れている。しかも、情報の出所とその評価も考えて、クラマーさんと自分との密着した関係をはっきりと書きこんでいる。これは20年後、30年後にクラマーを調べる人にとって非常に貴重である。

★ミズノ賞にぴったりの『ケニア』
 女子レスリングの金メダリストを徹底取材した「吉田沙保里」も後世に残る資料だろう。レスリングはサッカーほどには多くの人に取り上げられていないから希少価値がある。
 『ケニア』は、この国から陸上長距離の世界的選手が続出している理由を、スポーツ科学の研究者から取材し、現地に行って追求している。ヒトの筋肉の繊維には長距離向きと短距離向きがある。ぼくは1986年に読売新聞で「スポーツ科学」の連載をしたとき、この問題を取り上げたことがあるので興味深く読んだ。
 ただし専門家の間では、かなり前から知られているテーマだし、新発見があるわけではないから「後世に残る」という性質の本ではない。読み物として非常によく書かれているのが選考委員に評価されたのだろう。
 「若いライターを育てる」というミズノ賞の趣旨にぴったりだったのだと思う。


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サッカー日誌 / 2009年04月20日


退場の珍事がヴェルディを救う


J2第8節 東京Ⅴ 2-0 鳥栖
(4月15日・味の素スタジアム)

★開始10秒でレッドカード
 J2の東京ヴェルディ対サガン鳥栖の試合で、キックオフ10秒足らずでレッドカードが出る珍事があった。退場させられたのはヴェルディの菅原智である。スポーツ新聞によると「プロでは世界最速記録」だそうだ。
 たまたま、味の素スタジアムに見に行っていて、この珍事を目撃した。原因は「得点機会阻止」で、その反則が起きた経過も「珍」だったのだが、その後の試合展開も興味深かった。
 ヴェルディはその後の90分を「10人」で戦いながら前半と後半に1点ずつを挙げ、2対0で勝った。これまでヴェルディは勝った試合でも内容は悪かったのだが、この日は鳥栖の岸野監督が「完敗です」とシャッポを脱いだほどいい試合をした。選手たちが危機感を抱いて目を覚ましたのかもしれない。

★大黒が中盤に下がってのびのび
 ヴェルディは4:4:2の布陣だった。トップはエースの大黒将志と新人の林陵平である。ところが、中盤の菅原がいなくなったので、たちまち4:3:2になった。
 ミッドフィールダーが1人減ったので中盤にスペースができた。そこへトップの大黒が下がってきた。つまり強力ストライカーが下がって林のワントップになった。
 22歳の林は、スタープレーヤーのパートナーがいなくなって、のびのびとプレーできたようだ。一方の大黒は中盤に下がってマークが厳しくなくなり、楽にボールが持てるようになって、こちらも生き生きと攻守に頑張った。
 12分、中盤右、ハーフラインより後ろで大黒がボールを持ち、ゴール前左サイドへ大きく振った。これが林にぴたりと渡り、ゴール正面へヘディングで落としたところに、中盤プレーヤーの柴崎晃誠が飛び込んで決めた。

★2つの禍が5つの福を生む
 後半から、高木監督は大黒を引っ込めて、はっきりした4:4:1にした。守備ラインと中盤で守りの網の目を作り、トップに林を残して逆襲を狙う布陣だった。これが当たって、後半29分に逆襲から柴崎のクロスを林がヘディングで決めて2点目を加えた。
 ヴェルディは中3日の試合だった。それで前の試合の顔触れから2人を休ませ、林と柴崎を先発させた。この先発起用の2人がともにゴールを挙げた。
 ヴェルディにとっては、2つの禍が合計5つの福となった。開始早々の退場ショックで選手たちが目を覚まし、新人の林がのびのびとプレーし、大黒が中盤に下がって良さを出した。さらに中3日の連戦で疲労がたまっていたという禍のために、新戦力を起用したら、その選手が活躍し、高木監督のシステム変更が成功した。
 こういうことがあるからサッカーは面白い。


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サッカー日誌 / 2009年04月18日


続・鹿島の大迫勇也を見る


Jリーグ FC東京 1-2 鹿島
(4月12日・味の素スタジアム)

★「個の力」で初ゴール
 FC東京対鹿島の試合で期待の新人、大迫勇也がJリーグ初ゴールを挙げたので「明日の新聞で大扱いだな」と思っていたが、あいにく当日は新聞休刊日だった。でも駅売りのスポーツ紙や一般紙の夕刊では、かなり大きな扱いだった。
 多くの記事は大迫個人の能力、つまりボール扱いのテクニックと、動きのはやさをほめ称えていた。
 前半15分、大迫がペナルティエリアの左側に食い込み、3人がかりで守る相手のなかへ突っ込み、相手の間を強引に抜いて出てシュートした。味方が2人フリーでいたのが見えたということだが、パスをしないで自分で決めた。「個人の力での得点」と評価されたのは当然である。
 密集密着して守る相手を強引に突破できたのは、大迫がしっかりとボールをコントロールしていたからである。それを無理に止めようとすればペナルティキックをとられる。

★「個の力」を生かす組織
 密集密着の守りを突破してシュートしたのは確かに「個の力」だが、ボールをしっかり支配下に収めることができていたのは「個の力」ばかりではない。
 大迫にパスを出したのは、左サイドから攻めあがっていた韓国出身のパク・チュホである。左サイドの短いパスの交換で相手の守りを揺さぶった。それによって、大迫がいい態勢でボールを足元に収めることができた。
 大迫が左サイドに走り出ていたことにも注目したい。
 開始早々の先取点のときは、シュートを決めたマルキーニョスが左に走り出て、大迫は右に走り出ていた。2点目の場合は逆だった。
 マルキーニョスはミドルシュートだったが、大迫はドリブル突破だった。
「個の力」を生かす組織のお膳立てに変化があった。

★オリヴィエラ監督の作戦は?
 試合後の記者会見でオリヴィエラ監督に対して、こんな質問が出た。
「二つのゴールは、まさに個人のチカラによるものだった。アントラーズのゲームを見ていると、どうも個人勝負による仕掛けが多いように感じる」「サイドからのクロス攻撃とかコンビネーションとか、そんな組織プレーをもっとミックスすれば、アントラーズの個の才能も、より効果的にそのチカラを発揮できると思うのだが…」
 でも、ぼくの見たところでは、オリヴィエラ監督は、ちゃんと組織の力を生かして、マルキーニョスと大迫勇也のツートップを生かしていたように思う。
 ほんとは、ぼくは次のように質問したかった。
 「2人の個の力を生かすために、あなたはどんな作戦を授けていたのですか?」
 でも、これは企業秘密だから、まともに答えてはくれないだろう。


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サッカー日誌 / 2009年04月14日


鹿島の大迫勇也を見る


Jリーグ FC東京 1-2 鹿島
(4月12日・味の素スタジアム)

★慎重にスタメンに起用
 正月の高校選手権で「未来の大器」と注目を集めた鹿児島城西高の大迫勇也が、その後、どうなったか? それを見るために、桜の散り終わった味の素スタジアムに出かけた。Jリーグ第5節、FC東京対鹿島アントラーズの試合である。
 鹿島の大迫は3試合連続の先発だった。シーズン第1戦からベンチに入り、第2戦は最後の15分に交代出場、第3戦から先発、後半なかばすぎに交代退場している。
 この記録を見て、オリヴェイラ監督が、慎重にJリーグに慣れさせてから、しかし積極的に先発に起用していることが分かる。
 マルキーニョスと並んでツートップの一角だ。マルキーニョスは、来日9年目、Jリーグの5チームを渡り歩いた33歳のベテランである。18歳の新人が、物おじしないでコンビを組んでいるのが興味深かった。

★「八の字型」に走り出る
 開始1分40秒に鹿島が先取点を挙げた。このときのトップの2人の動きが面白かった。
 中盤で青木がボールをとったとき、前線のマルキーニョスは左サイドへ走った。大迫は右サイドへ走った。トップの2人が「八の字型」に分かれて走り出たのである。
 きびしいマークをしようとしていたFC東京の守りは、走り出た2人を追ってフィールドの横幅68メートルに分散させられた。
後方の青木からのパスは左のマルキーニョスに出た。マルキーニョスは得意の足技でゴール前へ持ち込んで「技あり」のシュートを決めた。
 マルキーニョスの個人技によるゴールのように見えるが、実はその前にツートップの巧みな動きがある。それが「たまたま」なのか、2人の、あるいは2人のうちの1人のアイデアなのか、あるいは監督の事前の指導の結果なのか? それは分からない。

★「技あり」のJ初ゴール
 試合後の記者会見で、そのことをオリヴェイラ監督に質問しようと思ったのだが「やめ」にした。かりにアントラーズの「企業秘密」の一つだったら、まともに答えてはくれないおそれがある。もし的を射た質問で、オリヴェイラ監督がまともに答えてくれたら、翌日の新聞に書かれてしまうに違いない。
 というわけで、いささかケチな根性だけれども、真相解明は後日にゆだねることにして、記者会見では関係のない別の質問をした。
 大迫は前半15分に「技あり」の個人技で2点目を挙げた。大迫のJリーグ初ゴールである。これは翌日の新聞で、はなばなしく取り上げられるに違いないと思った。
 大迫は、その他にも、注目すべきプレーをいくつも見せた。オリヴィエラ監督は「大迫は日本のサッカー界が大事に扱わなければならない選手だ」と話した。

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サッカー日誌 / 2009年04月12日


玉田のドリブルへの評価


W杯アジア最終予選A組
日本 1対0 バーレーン
(3月28日・埼玉スタジアム)

★決勝のフリーキックを誘う
 ワールドカップ・アジア最終予選、春のシリーズの最後に日本代表はバーレーンに勝って、南アフリカ行きの切符がほぼ確実になった。
 勝負を決めた1点は中村俊輔のフリーキックからだが、このフリーキックを生む相手の反則を誘ったのは玉田圭司のドリブルである。後半がはじまってすぐ、玉田は中盤の左サイドでボールを受けると、そのままゴール正面に向かって長いドリブルで攻め込み、ペナルティエリアの外で反則に倒された。そのフリーキックを俊輔が蹴り、ボールは相手のディフェンダーのヘッドに当たってゴール右上隅に吸い込まれた。
 バーレーンの選手は俊輔のフリーキックの技術を十分承知している。それでも、ゴール正面の危険地帯でトリッピングを冒したのは、後半開始早々のドリブルに意表をつかれたからだろう。

★後半から長いドリブル
 玉田は前半には、ほとんど長いドリブルはしていない。もともと日本代表チームは中盤からの長いドリブルは少ない。短いパスをすばやくつなぎ、相手守備ラインの裏側に走りこむ味方にスルーパスを出す。あるいはサイドから攻めあがった味方に展開する。スピーディーなパスとサイド攻撃が岡田ジャパンのスタイルになっている。
 この試合でも、前半は得意のスタイルによる攻めを繰り返していた。選手たちの息は合っていて、いい形も多かった。しかし例によって、ゴールを割れない。
 守りを厚くして厳しく守っている相手を攻め崩すには、攻め手に変化を加えなければならない。強引なドリブルによる突破で脅かすのも一つの手である。
 後半になると玉田は、その後も何度か長いドリブルによる攻めを試みた。攻め手を変えたのがベンチの指示か、本人の判断かは知らないが適切だったと思う。

★W杯の本番では通用しない
 埼玉スタジアムの試合は、日本の攻勢をバーレーンがしのぎながら逆襲するという展開だった。日本もバーレーンも力を十分に出した好試合だった。ゴールが一つしか生まれなかったこと、それもフリーキックが相手に当たって入った、ちょっと幸運なものだったことは、相変わらずの「決定力不足」で気がかりだった。しかし、予選突破のために勝ち点3という結果が大事な試合だったのだから「よし」としよう。
 いまの岡田ジャパンのスタイルとチーム作りは、アジアのベスト4には十分である。ただし、本番のワールドカップの1次リーグで2勝することは困難だと思う。つまり決勝トーナメント進出の可能性は、このままでは低い。
 玉田のドリブルも、欧州や南米の相手には通用しない。速さも、技術も、強引さも、世界のトップクラスのディフェンスを相手にするには「こわさ」がない。

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サッカー日誌 / 2009年04月10日


東京五輪招致に反対する(11)


開催するならリオデジャネイロ

★中進国と途上国への刺激
 2016年の夏季オリンピック開催地は、ことし(2009年)10月2日にコペンハーゲンで開かれるIOC総会の投票で決まる。残っている候補都市はシカゴ、マドリード、リオデジャネイロ、東京である。
 この4都市の中で、ぼくが選ぶならリオデジャネイロだ。
 理由は、南米大陸ではまだ、オリンピックが開かれたことがないからだ。
 欧州などの先進諸国では、オリンピックを開催することのメリットはほとんど失われている。もしオリンピックにまだ役割が残っているとすれば、中進国あるいは発展途上国のへの刺激だろう。こういう国で大きな国際的イベントを開催すれば、経済と社会の発展を促進するかもしれない。国民に誇りと自信を与えるかもしれない。スポーツの普及とレベル向上にも役立つだろう。

★五つの輪を埋めてから……
 オリンピック標章の五輪は世界の5大陸を表しているという。そうであれば、オリンピックは、まだ開催したことのない大陸をめぐってから、その使命を閉じるのがいいかもしれない。5大陸の中で、まだオリンピックを開いたことのないのは南米とアフリカである。というわけで、2016年は南米のリオデジャネイロであるべきだと思う。
 リオデジャネイロは、2007年にパン・アメリカン競技大会を開催した。その組織と運営はみごとだったと伝えられている。オリンピック開催の能力は十分あるはずである。
 米国とスペインは、オリンピックを開催したことがあるが、シカゴとマドリードは、都市としては初めてである。ともにスポーツでも著名な都市である。
 東京は1964年にオリンピックを開いている。初めての都市を差し置いて2度目の開催をする必要があるとは思えない。スポーツ都市としての知名度にも疑問符がつく。

★100億円の招致予算はムダ遣い
 南米のブラジルで開催したら、次の2020年はアフリカの番である。それでオリンピックは永久に終わりにしたらいいと思う。
 もちろん、世界中にはオリンピックを開催したことのない国も都市も、まだまだ、たくさんある。しかし、それを全部回り尽くす必要はない。5大陸を回り終えたところで打ち切りにして、新しいスポーツの在り方を求めてはどうか?
 オリンピック開催都市を決める投票には、いろいろな要素が入り組んでからむから、結果を予想するのは簡単ではない。しかし、どの角度から考えても、東京が最適だという根拠は見出せない。
 大義名分が明らかでなく、招致の可能性も乏しいオリンピック招致に、東京都は3年間で累計100億円の招致予算を組んでいる。まったくのムダ遣いである。

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サッカー日誌 / 2009年04月07日


東京五輪招致に反対する(10)


クーベルタンの夢は過去のもの

★「平和の祭典」はフィクション
 オリンピックは「平和と友好の祭典」だと言われる。本当にそうだろうか」
 まず「平和」について。
 古代ギリシャでは4年に1度、オリンポスの祭典のときには休戦になったという伝説があるようだが、近代オリンピックが戦争を防いで平和に貢献した例はない。
 第1次世界大戦のときにも、第2次世界大戦のときにも、休戦になるどころかオリンピックのほうが中止になった。
 1936年のベルリン・オリンピックは、ヒトラーのナチ・ドイツに利用されて戦争への導火線の役割を担った。1980年のモスクワ・オリンピックは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側諸国のボイコットで「冷戦」の手段に利用された。
オリンピックが「平和の祭典」というのは、まったくのフィクションである。

★「友好の祭典」は過去のもの
 オリンピックが平和を生み出すことはできないが、平和であればオリンピックを開くことができる。そこに世界の若者が集い、国境を越えた友好を深める。それが未来の戦争を防ぐために役立つ可能性はある。ただし、それは過去の話で現状は「友好の祭典」とは程遠い。
 オリンピックの参加選手は、一つの「オリンピック村」に寝泊まりして、一つの村の住民として暮らすことになっている。
 しかし、8000人以上の人びとが2週間ほど集まっても「友好の輪」が広がる機会はあまりない。選手村のなかでは各国別に寝泊まりしているのだから、なおさらである。
 その上、トップレベルの選手たちは、形式的に「村入り」しても、実際には、村の外のホテルなどに泊まり、別の場所に自分たちだけの練習場を用意している例が多い。

★友好の場は五輪以外に
 ところが、オリンピックの外ではグローバルな「友好の場」が生まれている。
 1972年の札幌冬季オリンピックのときに「4年たったらまた会いましょう」という歌が流行した。しかし、実際にはオリンピックに参加した選手たちは、4年後どころか1週間後には、次の国際大会の場で顔を合わせていた。現在では、世界のトップレベルの選手たちは、毎週のように世界の各地をいっしょに転戦している。同じスポーツの世界では、みな、しょっちゅう顔を合わせている仲間である。航空輸送の発達で、スポーツは国際友好の場を広げているが、それは4年に1度のオリンピックではない。
 現代のオリンピックは創始者のクーベルタンが夢見た「平和と友好の祭典」とは程遠い。
 現代のオリンピックは、テレビのためのショウであり、開催地の都市開発の口実である。そういう大会を東京が2度も引き受ける必要はない。


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