サッカー日誌 / 2011年12月29日


北朝鮮とサッカー(下)


W杯予選入国制限の理由は?

サロン2002月例会兼忘年会
(12月17日 渋谷「いなば」)

★応援ツアーの人数制限
 11月15日にピョンヤン(平壌)で行われたワールドカップ予選のとき、北朝鮮側は日本からの応援ツアーの人数を150人に制限した。そのニュースを聞いたときの、ぼくの直観は「北朝鮮は治安維持に自信がないのだな」ということだった。
 日本から数千人のサポーターが押しかければ、そのなかに北朝鮮にとって都合の悪い人物が紛れ込んでいて騒ぎを起こす可能性がある。また現地で日の丸を打ち振って応援すると現地の人びとと摩擦を起こす心配もある。それが、さらに大きな騒乱になる心配もある。そういう事態を防ぐ自信がないのではないかと思った。
 もちろん、宿舎や輸送などのキャパシティの問題もある。しかし、ピョンヤンほどの都市であれば、2~3流のホテルを使い、チャーター便を受け入れれば、それくらいの人数は受け入れられるはずである。しかし北朝鮮の社会事情はそうではないのかなと思った。

★観光だけなら入国できる
 実は北朝鮮への観光目的での入国は、そんなに難しくはないらしい。北京では北朝鮮行きの観光ツアーが常時、募集されている。
 応援ツアーを組織した「セリエ」の徳田さんの話では、事前の打ち合わせに入国したときにはカメラ持込などに格別の制限はなかったという。
 今回も、北京からの観光ツアーに申し込んで、試合の入場券は現地で手に入れようと思っていた人が何人もいた。ところが、直前になって「入場券は手に入らない」という連絡が入ってキャンセルさせられたという。
 特定のホテルに泊め、日本語のガイドをつけ、特定の観光コースに案内するには、あの人数が限度だったのではないか? つまり、ツアーの人数制限は、応援への「嫌がらせ」ではなく、北朝鮮側の社会事情によるものだったのではないか? 

★報道陣への入国制限
 取材の報道陣にも「人数制限」があった。テレビ中継のTBSスタッフは別として、50人以上の申請に対し北朝鮮側が認めたのは記者6人、カメラ4人の計10人。記者は共同通信社3人とサッカー専門誌の「マガジン」と「ダイジェスト」が1人ずつ。北朝鮮側が認めたフリーランス1人だった。有力な新聞社も記者とカメラマンを特派できなかった。
 報道陣への制限については、いろいろな推測がある。
 一つは北朝鮮側の警戒である。サッカー取材を名目に入国して他の社会事情などを探索されるのを防ごうとしたしたのではないかということである。
 もう一つは、日本の有力メディアでただ一つ、ピョンヤンに支局を開設している共同通信社が独占をはかったのではないかという説である。
 ともあれ、北朝鮮との関係をどうするかを、サッカーでも考える必要があるだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月28日


北朝鮮とサッカー(中)


W杯予選応援ツアーの映像

サロン2002月例会兼忘年会
(12月17日 渋谷「いなば」)

★「セリエ」徳田仁さんの映像
 「サロン2002」(中塚義実さん主宰のサッカー文化研究会)の12月例会兼忘年会で、おもしろい映像を見せてもらった。
 ワールドカップ予選のときにピョンヤン(平壌)に行って撮ってきた北朝鮮ツアーの様子のビデオである。
 映像を提供してくれたのは、サッカー専門の旅行社「セリエ」を経営している徳田仁さんだ。「サロン2002」の会員である。
 徳田さんは11月15日にピョンヤンで行われた試合に「応援ツアー」を送りこんだ。北朝鮮は日本からの「観戦ツアー」の入国を150人しか認めなかった。そのうち75人は、日本サッカー協会が主催した西鉄旅行社による「公式ツアー」だった。徳田さんは独自に北朝鮮側と交渉して、75人のツアーを連れて行った。

★現地カメラマンの撮影
 北朝鮮側がツアーの人びとのカメラ持ち込みを認めなかったので徳田さんは現地のカメラマンと契約して北朝鮮内でツアーに同行して撮影してもらった。ツアーの行ったところは観光客用に開放された場所だし、カメラマンは北朝鮮側の人だから、自国にとって都合の悪い場所は撮らなかっただろうが、ゼロよりはいい。
 試合観戦以外の行動も、すべて北朝鮮側がお膳立てしていて勝手に出歩くことは難しかったようだ。キム・イルソン(金日成)主席の生家訪問や南側との境界のパンモンジュン(板門店)視察など「お決まり」のコースである。
 そうであっても現在の北朝鮮の様子の一部を推察する「よすが」にはなる。
 徳田さんが持ち帰った映像に、これまでに紹介さているものと大きな違いがあるはずはないが、行ってきた本人の体験を聞きながら見たので興味深かった。

★ピョンヤンはどう変わったか?
 ぼくは1972年に北朝鮮を訪れたことがある。その当時と比べてどう変わっているかに興味があった。
 ピョンヤンの市街に、たくさんのビルが立ち並んでいるのは意外だった。韓国客用に立派なホテルが2つできていることは知っていたが、そのほかに、多くの高いビルが並んでいるとは想像していなかった。
 ぼくが行ったころには高い建物はほとんどなかった。その後40年の間に経済成長した時期があったのだろうか? あるいはピョンヤンだけに建設が集中しているのだろうか?
 応援ツアーが見て回った場所は、滞在日数が短かったためもあって非常に限られている。40年前のぼくたちは、半島北部を横断して東海岸の港町、ウォンサン(元山)まで訪ねた。当時のほうが開放的だったのだろうか?



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月27日


北朝鮮とサッカー(上)


映画『奇跡のイレブン』を見て

サロン2002月例会兼忘年会
(12月17日 渋谷「いなば」)

★ワールドカップ1966
 「サロン2002」の忘年会で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のサッカーについての映画を見た。英国で作られた映画『奇跡のイレブン』(The Game of Their Lives)である。2002年制作で、日本でも劇場公開され、DVDも販売されている。
 1966年のワールドカップ・イングランド大会に北朝鮮が初めて参加し、優勝候補のイタリアを破る番狂わせを起こした。その話がテーマである。
 北朝鮮のグループリーグの試合はミドルスバラで行われた。ミドルスバラの市民たちは北朝鮮チームを温かく歓迎した。一方、北朝鮮の選手たちは、人びとに礼儀正しく、にこやかに接した。
 北朝鮮の試合ぶりと選手たちの態度が人びとを引き付け、ミドルスバラの市民たちは北朝鮮ファンになり、準々決勝に進出すると、大挙してロンドンまで応援に出かけた。 

★思い込みを正す
 東西冷戦の時代である。しかし、東側の北朝鮮を西側の英国の市民は敵視したりはしなかった。また、北朝鮮チームの態度は閉鎖的ではなかった。選手たちが自由主義の空気に染まらないようにホテルに閉じ籠ったりはしなかった。そういう話が描かれている。
 試合の映像も使われている。それを見て、当時の北朝鮮のサッカーについて持っていたイメージが変わった。
 そのころ、イングランドに見に行った人の報告や外国通信社の報道を通じて、北朝鮮チームは、疲れを知らずに走り回り、スピードと労働量で勝負したように思っていた。
 ところが映像を見ると北朝鮮の選手たちはテクニックもしっかりしており、戦術的な動きも当時としては進んでいたようである。
 映画の描き方が正しいかどうかはともかく、ぼくの思いこみを正すものはあった。

★国旗と国名の問題
 そのころ英国は北朝鮮と国交がなかった。そのために「朝鮮民主主義人民共和国」という正式名称を使うことと国旗を掲げることに英国政府としては問題があった。
 名称については「ノース・コリア」とすることを朝鮮側が了承し、国旗を掲げることは英国政府が黙認した。その事情も紹介されている。これは、ぼくにとっては新知識だった。
 大会から30年以上たって撮影取材班がピョンヤン(平壌)に入って、当時の選手たちにインタビューした。その映像も組み込まれている。その説明で「選手たちが、外国の取材班のインタビューを受けるのは初めて」というナレーションがあった。
 これは違う。ぼくは1972年に北朝鮮に行き、パク・ドイク(朴斗翼)選手たちにインタビューしている。その時の事情を改めて書き残しておくべきではないか? それは、サッカー史に対する、ぼくの義務ではないかとも思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月25日


トヨタ・クラブW杯(下)


柏レイソルのレベルは?

準決勝 サントス 3-1 柏レイソル
(12月14日 豊田スタジアム)
3位決定戦 アル・サド 0-0(延長、PK) 柏レイソル
(12月18日 横浜国際総合競技場)

★準決勝でサントスに善戦
 クラブ・ワールドカップ2011の準決勝で、柏レイソルが南米代表のサントス(ブラジル)に善戦した。テクニックを誇るブラジルのチームを相手に、中盤では優勢のようにテレビの画面では見えた。「レイソルのサッカーはたいしたものだ」という印象を持った人も多かっただろう。
 ボールの支配率は52%対48%と柏が上回り、シュート数も14対8と柏のほうが多かった。レイソル優勢を数字も示している。
 前半にサントスに2点をリードされたあとも落ち着いて自分たちのペースでプレーして、後半9分に1点を返した。ネルシーニョ監督のいう「レイソルのスタンダード」のサッカーを、世界の強豪相手に展開した。その点では「善戦」である。
 しかし、結果は3対1の敗戦だった。

★強く、巧みなサントスの守り
 中盤は優勢でもゴールをあげなければ勝てない。柏がゴール前へ攻め込むのは難しく、枠内を襲った決定的なシュートは少なかった。後半の1点はコーナーキックからディフェンダー酒井宏樹のヘディングである。サントスは個人の1対1の守りで強く、コンビネーションによる守りも巧みだった。フリーキックはサントスが21、柏が10。サントスが反則に頼らないで守ったことが分かる。
 柏が中盤で優勢に見えたのは、サントスが2点リードになると厳しい守りをしなかったからである。サントスは前半24分までに2点を先制、後半9分に1点を返されると9分後に再び2点差にした。
 「2点差になれば無理して攻めることはない」というのは、ブラジル・サッカーで一般的な一つの考えである。

★ゴールには「個人の強さ」が必要
 サントスの得点は、前半19分がネイマール、24分がボルジェス。どちらも、ゴール前の密集の中で、すばやく隙を見つけて決めるブラジルらしい個人技がものをいった。後半18分の3点目はフリーキックからダニーロだった。
 3位決定戦は、アジア代表のアル・サド(カタール)との対決だった、この試合でも柏は、ボール支配率で57%対43%、シュート数で19対8と圧倒していた。しかしゴールをあげることはできなかった。延長のすえPK戦で柏は4位に終わった。
 この大会は世界各地域のクラブ・チャンピオンが世界一を争うものだから、本来なら柏に参加資格はないところだが、開催国枠ということでJリーグ優勝チームに出場権が与えられた。海外勢との4試合を体験することができたのは柏にとって貴重だった。国際試合で勝つためには「個人の強さ」が必要であることが身にしみて分かっただろう。


スタジアム正面に掲げられた4強のエンブレム。一番左が柏レイソル。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月23日


トヨタ・クラブW杯(中)


サントスがバルサに勝つためには

決勝 バルセロナ 4-0 サントス
(12月18日 横浜国際総合競技場)

★南米は終わったのか?
 トヨタ・クラブ・ワールドカップ2011で、ブラジルのサントスはスペインのバルセロナに完敗だった。
 サントスとバルサのサッカーの差は越え難い! ブラジル・サッカーの時代は終わった! 南米はもう欧州に勝てない!
 いろいろ、言われているが、ぼくは、そうは思わない。
 バルセロナ対サントスについてだけいえば、完敗の原因はサッカー・スタイルの相性が悪かったこと、あるいは、サントスが戦い方を誤ったことにあると思う。
 チーム力に差があったことは確かだが、一人一人の選手の素質と技術に決定的な差があるわけではない。
 「南米のサッカーではバルサを攻略できない」というようなことはないと思う。

★バルサ攻略法は?
 決勝戦でボールの支配率はバルセロナが71%だった。90分余の試合時間のうち、7割以上の時間帯でバルセロナがボールを持っていたということである。
 ボールを持っていなければ点を取ることはできないのだから、サントスの攻撃の場面が3割を切るようでは、サントスがゴールをあげる可能性は極めて低い。
 バルセロナは「ポゼッションのサッカー」をしている。その間にボールを奪う機会は少ない。しかし、バルセロナも攻めの組み立ての最後には必ずボールを失う。ところが、そのあとサントスは逆襲速攻で反撃しようとするので、たちまちボールはバルセロナに奪い返されてしまう。そうなると、また「バルサのポゼッション」になる。
 相手がボールを持っている時間を少なくする方法は、ボールを奪ったら自分たちも「ポゼッションのサッカー」をすることである。

★支配率を五分五分に出来れば
 サントスがボールを奪い返した場面は何度もあったのだから、そのあとのポゼッションを大事にしてボールの支配率を五分五分にすれば、メッシのチャンスを減らし、若い技巧派のネイマールのチャンスを増やすことができただろう。そうすれば「好勝負」に持ち込むことができたかもしれない。サントスの選手たちも、ボールを扱う技術は持っている。が、戦い方が合わなかったのではないか? 
 というわけで、この結果は必ずしも「南米サッカーの終わり」を示すものではない。
 横浜の日産スタジアムには、サントス応援のサポーターが、たくさんいて陽気に騒いでいた。はるばる本国からきたらしく「ブラジル・サントス・ツアー」と書いたヤッケを着ている添乗員さんが付いていた。
 こんな熱心なサポーターがいる国で、サッカーが終わるなんてことは考えられない。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月22日


トヨタ・クラブW杯(上)


バルサとメッシを堪能した
決勝 バルセロナ 4-0 サントス
(12月18日 横浜国際総合競技場)

★歴史に刻まれた決勝戦
 トヨタ・プレゼンツ・クラブ・ワールドカップ2011の決勝戦は、歴史に残る試合だったと思う。4対0の大差になったので「名勝負」だったとはいえないが、「バルセロナの時代」を世界サッカー史に刻むモニュメントになった。
 「バルサのサッカー」は、スペインでは、またヨーロッパでは、もちろん、すでによく知られているだろう。テレビ中継の映像を通じて世界でも知られているだろう。しかし、2度目の世界タイトルを記録したことによって、歴史にはっきりと残ることになった。
 一方的な試合展開になったのは、ブラジル・ファンにとっては残念だっただろうが、そのためにバルセロナの攻めの特徴がよく分かった。
 穏やかな天候だった。寒さも、この時期にしては厳しくなかった。メーンスタンドの前の方の席で、バルサとメッシを十分に堪能した。

★メッシを生かすバルサ
 バルセロナの布陣を「ゼロ・トップ」呼ぶ人がいる。得点をあげるストライカーのメッシも多くは引き気味の場所にいる。だからゴール前のトップのスペースが空いている。
 バルセロナは中盤で、ときには後方の守備ラインも加わって、ゆっくりと、あるいは、すばやく、パスを回してボールをキープし続ける。攻めを急がない「ポゼッションのサッカー」である。
 そしてチャンスを見つけると、メッシが、シャビが、あるいはセスクが、空いていたトップのスペースに躍り出る。メッシは、厳しい守りに囲まれてもスピードにのったまま、すばやくボールを扱う。その卓絶した技術が生かされている。
 ポゼッションからゴール前への急襲につなぐチャンスの「つかみ方」が、バルセロナの攻めのカギなのだろうと思った。

★すばらしい「攻めこみ」のゴール
 前半17分にメッシが先制、24分にシャビが2点目、前半終了間際にセスクが3点目。後半、メッシは引き気味でパスを出す役にまわっていたが、27分にドリブルでゴールキーパーもかわして4点目。すべて、すばらしい「攻めこみのゴール」である。
 「異次元のサッカー」「攻略法を発見することは困難」など、翌日の新聞は、バルセロナの強さを讃える言葉のオンパレードだった。
 パスをつなぐサッカーを真似てみることはできる。しかし、一人一人の柔軟な判断力の組み合わせがなければ「攻めこみ」のタイミングを作り出すことはできない。
 トップのスペースを空ける布陣を試みることはできる。しかし、スピードにのったまま、正確にすばやくボールを扱う個人技がなければ、攻めこんでもゴールは生まれない。
 すばらしいチームを目のあたりにすることができたのは幸せだった。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月07日


ネルシーニョ監督の記者会見


レイソル、昇竜のJ1優勝(続)
Jリーグ34節 浦和 1-3 柏
(12月3日 埼玉スタジアム)

★「レギュラーは11人ではない」
 「レギュラーは11人ではないと自分は考えている」。 
 柏レイソルのネルシーニョ監督は、J1優勝を決めた試合のあとの記者会見で、こう語った。チーム全員がレギュラーで「状況に応じて起用する」という意味である。
 「状況」には三つの場合があるだろう。
 第一は、試合ごとに一人一人の体調、あるいは精神状態のいい者を起用する、という意味である。スター選手であっても調子が悪ければ遠慮なく外す。
 第二に、相手チームによって違うことである。たとえば、相手に強力なストライカーがいれば、それを押さえる方策をとり、その方策に適した者を起用する。
 第三に、試合の状況によってである。相手が守りを固めているような場合、こちらが1点リードされているような場合など、いろいろな状況がある。

★スタンダードの試合
 ネルシーニョ監督は「試合のスタンダード」という言葉を使った。
 2対0とリードして前半を終わったとき、ハーフタイムに「後半もスタンダードの試合を続けよう」と指示したという。
 記者会見で、その意味を聞かれて「成功しているやり方を変えることはない、ということだ」と説明した。その「やり方」とはパスミスをしないこと、また守りのバランスを崩さないようにすることだという。
 つまり、2点リードしているからといって、守りに入ったり、反撃に出る相手の裏を狙ったりする必要はない。前半と同じように、ふつうの試合をしよう、ということのようだ。
 こういう言葉に「一つのチームになって頑張ろう」とか「自分たちのサッカーをすれば勝てる」というような精神論の匂いはない。

★緻密な「戦術家」
 ポルトガル語(ブラジル語)の通訳を通じて聞く話だから、ネルシーニョ監督の真意を、こちらが、どこまで理解できているかは分からない。
 しかし、記者会見で聞いた限りでは、ネルシーニョ監督は緻密な「戦術家」のようである。選手の状態、試合の状況を見る目が的確で、その対応に誤りが少ない。
 経歴や風貌や話ぶりで選手を引き付け、チームをまとめるようなカリスマ的雰囲気は感じられない。そういう点では、オシムやザッケローニとはタイプが違う。
 納得できる起用、適切な指示による勝利の積み重ねが、選手たちの信頼を得て、J1復帰、即優勝へつながったのだろう。
 ブラジル人選手を使いこなし、育成組織から上がってきた若手にもチャンスを与えた。細部にまで目の行き届く監督だろうと考えた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月06日


柏の奇蹟はフロントの功績


レイソル、昇竜のJ1優勝
Jリーグ34節 浦和 1-3 柏
(12月3日 埼玉スタジアム)

★運営スタッフの方針の勝利
 埼玉スタジアム・メーンスタンド最上階の記者席から、双眼鏡で柏レイソルのベンチ前を見ていた。Jリーグの最終節、柏レイソルが浦和レッズを破ってJ1優勝を決めた直後である。
 防寒コートを着たレイソルの小見幸隆強化担当が、ネルシーニョ監督と抱き合う姿がレンズに移った。竹本一彦GMの姿もあった。ぼくが双眼鏡で見ようと思ったのは、この光景だった。
 柏レイソルがJ2からJ1に復帰し、昇竜の勢いで勝ち進んでいるとき「もし優勝すれば、その功績は運営スタッフ(フロント)のものだ」と考えていた。復帰した年に即優勝という快挙を実現したのは、ネルシーニョを監督に迎え、J2に落ちてもネルシーニョ中心の強化方針を変えなかった運営スタッフの方針の勝利である。

★緊急措置ではなかった監督交代
 2年前の2009年のシーズン、柏レイソルは惨憺たるスタートだった。シーズン半ばを過ぎた7月の時点で、もはやJ2降格は免れないほどの状況だった。監督交代は当然である。
 だが、多くの場合、そういうときは、とりあえず監督の首を切り、コーチ陣の中から暫定監督を選ぶ。
 しかし、柏はそうはしなかった。小見幸隆強化担当がブラジルに飛び、旧知のネルシーニョを連れてきた。急なことで就労ビザが間に合わず、ビザがないのに競技場内で監督扱いはできないと、わざわざ競技場外の道路に連れ出して来日の記者会見をした。
 シーズンの残りは少なかった。ネルシーニョの手腕をもっていても、降格を免れることはできなかった。しかし、J2に落ちた2010年のシーズン、ネルシーニョ監督は続投した。
 ネルシーニョ招聘が、降格を防ぐための緊急処置ではなかったことに、ぼくは感心した。

★J2は格下ではない
 柏レイソルは降格しても戦力削減はしなかった。J2に落ちると収入が激減するから報酬の高い選手を手放すことが多い。レイソルでも降格に伴ってチームを去ったプレーヤーはいたが、それは本人あるいは代理人の意向によるもので、レイソルのほうから切ったのではなかった。
 一方で、レイソルは下部の育成組織から若いプレーヤーを積極的に昇格させた。それによってネルシーニョ監督にはチーム作りの手駒が増えた。
 J2落ちは順位が少し落ちただけのことで、ひどく格下になるわけではない。8位から9位に落ちたと同じように、16~18位から19位に下がっただけである。そう考えれば、チームの内容を格下レベルに合わせて落とすことはない。J1の基準で復帰をめざせばいい。
 柏の運営スタッフは、それを冷静に実行したのだと思う。


黄色と黒の風船で描いた「柏」の人文字。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月05日


女子のクラブ国際試合


トヨタ・ヴィッツ・カップ
INAC神戸 1対1 アーセナル・レディース
(11月30日 東京・国立競技場)

★男子大学生が「追っかけ」?
 女子のクラブ国際試合を見に行った。なでしこリーグ優勝のINAC神戸レオネッサ対イングランドの名門アーセナルである。日本で女子クラブの国際試合が行われる機会は少ない。女子ワールドカップ優勝メンバー7人を含むチームとイングランドの強豪クラブとの対戦は、めったに見ることのできないカードだろう。
 東北大震災救援のチャリティ・マッチだということだったので、2000円の入場料を払ってメーンスタンドのブロック指定席で見た。ぼくの座った席の両側は、ともに男子学生の2人連れだった。話の様子では結構、女子サッカーに詳しいようだった。男子の大学生の間で、女子サッカーの「追っかけ」が流行しているのだろうか?
 片側の2人は、言葉遣いと話の内容からみて神戸から来ているようだった。INACは神戸のチームだから、この試合は本来、神戸でやるべきではないのか、とも考えた。

★「サッカー少女 楓」のサイン会
 キックオフの前にメーンスタンド裏側の回廊を歩いてみた。
 テント張りで、INAC神戸のグッズの売店が出ていた。KAWA SUMIのレプリカ・ユニフォームが売れているようだった。神戸のクラブが東京に出て「縄張り荒らし」の商売をしているのかと、ちょっと引っかかる気もしたが、チャリティ・マッチだから「まあいいか」。
 一つのテントの前に長い行列ができていた。人ごみの隙間から覗いてみたら、漫画家の高橋陽一さんのサイン会だった。澤穂希をモデルにしたという新作「サッカー少女 楓(かえで)」が積み上げられている。それを購入してサインをしてもらう仕組みである。高橋さんは次から次へと、しかし楽しそうに、ニコニコとサインをしていた。
 観衆は1万1005人。スタンドも国際的な親善試合にふさわしい「楽しいお祭り」の雰囲気だった。女子サッカーのこういう試合が、ときどきできるといい。

★MVPにトヨタの新車
 日本とイングランドの女子リーグ・チャンピオン同士の対戦だが、親善試合だからタイトルをかけた試合のような緊迫感はない。しかし、双方とも、まじめにプレーに取り組んで、気持ちよく楽しめる試合だった。
 トップの大野忍が、何度も絶好のチャンスに恵まれながら、うまくプレーできなかったのは「なでしこブーム」疲れだろうか。そのなかで澤が、攻めでも守りでも、判断のいい動きをしていたのはきわだっていた。
 試合のMVPには、後半25分に先取点をあげた韓国籍のチ・ソヨン(池笑然)が選ばれた。なかなか得点できなかったときに鋭い個人のテクニックで突破してゴールをあげたプレーがよかった。MVPの賞品がトヨタのヴィッツの新車とは豪華である。
 アーセナルが後半33分に同点に追いついて、結果は仲良く引き分けだった。


高橋陽一さんのサイン会


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2011年12月04日


日本ラグビーの未来とW杯


井上俊哉さんの報告
サロン2002月例会11月
(11月29日 筑波大学附属高)

★日本開催のメリットは?
 筑波大学附属高の中塚義実先生が主宰している「サロン2002」の月例会に熱心に参加している。スポーツ文化に関するいろいろなテーマを取り上げるので勉強のつもりである。
 11月の月例会では、井上俊哉さん(大妻女子大教授)からラグビーのワールドカップについてのお話を聞いた。井上さんは慶応出身、NTT東京などに勤務した。その間、フランス滞在していたときにもチームに加わっていたということで、欧州の事情に詳しい。
 お話は、1990年代以降、欧州でラグビーの人気が高まっていることが中心だったが、聞きながら、ぼくは2019年に日本で開かれるラグビー・ワールドカップのことが気になった。
 日本開催にどういうメリットがあるのか? それを日本のラグビー、さらには日本のスポーツの将来の発展に、どう結び付けようとしているのか? そのあたりの日本ラグビー協会のポリシーが、いま一つよく分からない。

★運営能力は十分にある
 ラグビー・ワールドドカップの日本開催には、いろいろな問題がある。開催経費の調達、日本代表チームの強化、観客動員、IRB(国際ラグビー評議会)の欧州中心体質、強豪8カ国優遇の運営などである。
 しかし、どんなイベントでも開催は簡単ではない。難しいことがあるのは当たり前である。しかし、大会運営に関しては、日本には困難を克服する能力が十分あると思う。
 大切なのは、そういう困難克服の努力が「その時だけ」のものではなく、将来に向けての改革、改善に結びつくことである。
 外部から見たところでは、日本のラグビー界には考なければならない問題がいくつもあるようだ。伝統ある大学ラグビーと企業が主力のトップリーグの関係、新たに導入されつつある7人制とこれまでの15人制との関係などである。

★2019年までの8年計画を
 日本開催は決まっているのだから、開催準備と日本のラグビーの将来像を結びつけながら、2019年までの8年計画を示して欲しいと思った。
 たとえば、である。
 ラグビーのワールドカップは、サッカーと同じように多くの都市に分散して試合が行われる。その会場都市を出来るだけ早く選定して、その町にラグビーを中心にしたスポーツクラブを作る。そのクラブを中心に毎年、何らかのスポーツイベントを開催する。それを町の人びとがあげてサポートする。それによって町の人びとのスポーツマインドを育て、2019年にはラグビーのワールドカップを町ぐるみで盛り上げるようにする。
 これは内情を知らないシロートの思いつきだが、こういう具体的なプランが外部にも開かれた形で論議されていいのではないか?



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ   

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.