サッカー日誌 / 2015年10月28日


続・テレビ実況中継の真髄


「マラドォーナァアー」

山本浩著『スポーツアナウンサー』
(岩波新書。2015年10月)

★テレビ時代の「前畑がんばれ」
 元NHKのアナウンサーの山本浩さんの新著『スポーツアナウンサー』を読んで、いろいろなことを考えた。
 その一つが、伝説的な名アナウンスになっている「マラドォーナァアー」についてである。
 1986年メキシコ・ワールドカップのアルゼンチン対イングランドの試合で、マラドーナが、ドリブルでイングランドの守りを次つぎに抜いてゴールを決めた。
 この試合を実況中継していた山本浩さんは、マラドーナのドリブルに合わせて「マラドーナ、マラドーナ、マラドォーナァアー」と絶叫した。
 これは、テレビ時代の「前畑がんばれ」だ。
 ぼくは、そう思う。
 1936年ベルリン・オリンピックの水泳女子200メートル平泳ぎ決勝で、前畑秀子がドイツのゲニンゲルと大接戦を演じて優勝した。

★愛国心に訴える
 それをラジオで実況中継した河西省三アナウンサーが「前畑がんばれ! 前畑リード! 前畑勝った!」と叫び続けた。
 日本時間では深夜の中継だったが、日本中の聴取者を引き付けた。
 この放送は、ラジオの「名放送」として伝説になっている。
 批判もある。
 レースの様子を客観的に伝えていないことである。
 ラジオだから、レースの様子は聴取者には見えない。
 音声でレースの様子が分るように伝えるべきだという意見である。
 河西アナウンサーは、「前畑リード」「前畑がんばれ」の繰り返しで、大接戦を表現した。
 みごとなアナウンスではあるが「客観報道」ではない。
 一方的な日本側からの「応援」である。
 聴取者の「愛国心」に訴えるアナウンスである。

★選手名を伝える
 山本浩の「マラドォーナァアー」は、アルゼンチン対イングランドの試合である。
 日本の視聴者の「愛国心」に訴えることはできないが、テレビだから、プレーの様子を言葉で表現する必要はない。
 しかし、映像のプレーの主役が、誰であるかは、音声で伝えなければならない。
 それは、この大会のスーパースターである「マラドーナ」である。その名前をプレーのリズムに合わせて叫び続けたのが、絶妙である。
 ぼく(牛木)は「サッカー中継のアナウンサーは画面に映っているプレーヤーの名前を伝えて欲しい」と、かねてから主張していた。
 山本アナウンサーは、ぼくの意見に影響されたわけではないだろうが、「マラドォーナァアー」は、究極の「プレーヤー呼称」であると、ぼくは内心、誇らしく思っている。



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サッカー日誌 / 2015年10月26日


テレビ実況中継の真髄


山本浩著『スポーツアナウンサー』
(岩波新書。2015年10月)

★サッカー関係者必読
 元NHKのアナウンサーで、法政大学教授の山本浩さんが岩波新書で『スポーツアナウンサー』というタイトルの著書を出した。「実況の真髄」と副題がついている。
 6章に分けられているうち、第5章は「サッカー実況のしくみ」で、本文164ページのうち、4分の1の40ページを占めている。
 そのほかのスポーツ放送についての一般的な説明のなかでも、サッカーの例が多く引かれている。
 サッカーの試合をテレビで見ることの多い関係者、愛好者にとって「必読の本」である。
 サッカーのほか、野球、バレーボール、ゴルフの中継の例も出てくる。
 放送席からみた、いろいろなスポーツの「違い」を知ることができて、おもしろい。サッカーはアナウンサーにとって難しいスポーツのようである。

★「マラドォーナァー」
 新書版の本の表紙に巻いてある「帯」(おび)に「マラドォーナァー」と大書してある。
 1986年のワールドカップ・メキシコ大会で、アルゼンチンのマラドーナが、イングランドを相手に「9人抜き」のゴールを決めた。
 そのときに山本浩アナウンサーが「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ、マラドォーナァー」と絶叫した。
 ぼく自身は、メキシコのスタジアムにいたので、日本に中継された、その放送をリアルタイムでは見ていない。
 しかし、帰国してから録画でみて「これはテレビの実況中継の伝説的名放送ではないか?」と思った。
 ラジオの時代のスポーツ中継の名放送としては、1936年ベルリン・オリンピック200メートル平泳ぎの「前畑がんばれ」が、よく知られている。
 山本浩の「マラドォーナァー」は、テレビ時代の「前畑がんばれ」ではないか?

★名放送の生まれた背景
 ところが、本の帯に「マラドォーナァアー」と大書してあるにもかかわらず、本の中には、この話は、終わりのほうに5行しか出てこない(184ページ)。
 それも、この本の読者全部が、山本浩の「マラドォーナァアー」を知っていることを前提とした書き方で分りにくい。
 ほかの本で、あるいはほかの機会に、書いたり話したりしているので、重複を避けたのかもしれないが、この本で、はじめて、スポーツアナウンサーの世界を知る人も多いだろうから、その道では、すでに伝説になっている名アナウンスであっても、改めて解説して欲しかった。
 とはいえ、山本浩の「マラドォーナァアー」を知っている人は、この名放送の生まれた背景を、この本を通じて知ることができる。
 名放送は、長年の経験だけで生まれたものではない。
 スポーツ放送についての、冷静で理論的な裏づけがあることが、この本にちりばめられている。


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サッカー日誌 / 2015年10月21日


ドイツ人捕虜収容所のサッカー


賀川浩さんのご講演
(10月19日、日本サッカー史研究会)

★関西からみたサッカー史
 日本サッカー史研究会の10月例会に、関西から賀川浩さんに来ていただいた。
 月に1度の割合で開いているが、場所は東京の日本サッカー協会の会議室である。そのため、どうしても東京中心のテーマになりがちである。
 そこで関西出身で、関西在住のサッカー記者の大御所である賀川さんに「関西からみた日本サッカー史」について、お話をしていただこうということになった。
 90歳のご高齢なので、関西から出てきていただくのは、ちょっとためらわれたのだが、すこぶる、お元気で、2時間近くにわたって、興味深いお話を聞くことが出来た。
 そのなかに「1914年(大正3年)は、日本のサッカーにとって、重要な年だった」という指摘があった。
 第1次世界大戦がおき、日英同盟を結んでいた日本が、ドイツの支配下にあった中国の青島(チンタオ)を攻略した。

★日本への文化的影響
 青島にいたドイツ軍とドイツ人居留民の合計約4700人が日本軍の捕虜となり、日本各地の収容所に移送された。
 そのドイツ人が、日本文化に、いろいろな影響を与えた。
 年末恒例のベートーベンの第九交響楽の合唱が、この捕虜収容所で始まったことは映画にもなった。
 サッカーでは、広島県の似島(にのしま)の収容所のドイツ人が広島のサッカーに影響を与えたことが知られている。
 賀川さんのお話によると、当時のドイツ人収容所についての研究は近年、非常に進んでいるという。
 そうすると、似島以外の収容所でのスポーツについても、新たな発見があるかもしれない。
 また、似島収容所で行われていたドイツ人のサッカーが、どういうものであったか、広島のサッカーに与えた影響が具体的に、どういうものであったかも、さらに詳しく分かるかもしれない。

 ★神戸一中対広島一中
 「当時のドイツのサッカーは、ショート・パスだったのだろうか?」
 「その後、東京や神戸のサッカーに影響を与えたビルマ人のチョウ・ディンのショート・パスのスタイルとは、どう違うのか?」
 「チョウ・ディンのサッカーは、スコットランドの影響を受けたものだが、ドイツのサッカーもスコットランドの影響を受けていたのだろうか?」
 いろいろな意見や質問が出た。
 戦前、西日本では、関西の神戸一中と中国の広島一中のサッカーが争っていた。
 それが、チョウ・ディン対似島の対決だったのだろうか?
 スコットランド対ドイツのスタイルだったのだろうか?
 ともあれ、サッカー史研究会で、ドイツ人収容所のサッカーを、改めて取り上げることにしたい。


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サッカー日誌 / 2015年10月19日


スターリング・アルビオンを招こう


黒田勇さんを囲む会
(10月16日、ビバ!サッカー研究会)

★日本スポーツ改革の始まり
 1966年6月にスコットランドから「スターリング・アルビオンFC」が来日し、日本代表、日本選抜と2試合をした。
 「この2試合が、日本のスポーツ改革の始まりだ」という見方がある。
 初めて「プロ・チーム」と銘打って、日本代表と試合をしたからである。
 そう言っても、現在の若いサッカー・ファンには理解できないに違いない。「プロとの試合が、なぜ日本のスポーツ改革の始まりなのか?」と思うだろう。
 これには、説明が必要である。
 その当時、日本のスポーツ界は、偏狭なアマチュアリズムに支配されていた。「スポーツを、お金に変えるプロは汚いものであり、清潔なアマチュアとは、厳重に区別されなければならない」という考えである。
 そういうなかで、アマチュアだった日本のサッカーが、プロ・チームを招いて試合をしたのが画期的だった。

★プロへの偏見との戦い
 当時、日本体育協会(体協)に「アマチュア規程」があり、プロ・スポーツとの接触を禁止していた。
 日本サッカー協会は、体協加盟団体として、この規程に従わなければならなかった。
 一方で、国際サッカー連盟(FIFA)の規程では、各国のサッカー協会がプロとアマをともに統括しなければならないことになっている。同じサッカー仲間として、プロとアマが対戦できるのは当然である。
 日本サッカー協会は、体協とFIFAの「板挟み」だった。
 スターリング・アルビオンとの試合は、体協理事会の特別の承認を得て実現したものだった。
 というわけで、スターリング・アルビオンとの試合は「プロは汚い」という偏見による日本独特の偏狭なアマチュアリズムを打ち壊す戦いの「始まり」となった。

★50年ぶりの再来日を
 厳密にいうと「スターリング・アルビオン」は、プロ・チームではない。
 ヨーロッパでは、ふつうのスポーツ・クラブである。
 そのチームの中には、プレーによって、お金をもらっているプレーヤー(プロあるいはパートタイム・プロ)がいる。
 当時の体協アマチュア規程は、そういうチームとの対戦も禁止していた。
 その制約を打ち破って偏狭なアマチュアリズムへの戦いが始まったのが「スターリング・アルビオン」との試合だった。
 その試合から、来年(2016年)が50年になる、
 関西大学の黒田勇先生は、50年記念に「スターリング・アルビオン」を日本に招待する計画を進めている。
 黒田先生が上京された機会に「ビバ!サッカー研究会」で、お話を聞く機会を作った。
 おもしろい。
 ぜひ、実現したい。


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サッカー日誌 / 2015年10月18日


ラグビーW杯で思ったこと(下)


テレビの高視聴率

ラグビーワールドカップ1次リーグC組(視聴率)
日本対スコットランド(9月23日)15.0%
日本対サモア(10月3日)19.3%
(関東地区、ビデオ・リサーチ)
     
★17%以上を予想
 ラグビーのワールドカップで、日本の勝ち負け以上に、テレビの視聴率を気にしていた。
 それには、わけがある。
 9月の「ビバ!サッカー」の会で、日本テレビのプロデューサーのお話を聞いた。
 このときのテーマは、アメリカン・フットボールだったのだが、そのプロデューサーはラグビーのワールドカップを気にしていた。
 というのは、ラグビーのワールドカップを日本テレビが中継することになっていて、その担当者だったからである。
 ぼく(牛木)は「大丈夫。17%以上の視聴率が出るよ」と話した。酒の席での、根拠のない無責任な推測である。
 「その意見をスポンサーに話してくださいよ」と、プロデューサーが冗談を言った。
 どうやら「2桁」の視聴率をとる自信がなかったらしい。

★第3戦は週間2位
 日本が初戦で優勝候補の南アフリカから金星をあげて、おおいに盛り上がった。この試合はNHKがBS1で生中継したが、その視聴率は新聞に掲載されていなかった。
 ぼくが購読している新聞には、週に1度、その週の視聴率のベスト20が掲載される。ラグビー・ワールドカップの初戦の視聴率は、ベスト20に入らなかったらしい。
 ドラマやドキュメンタリーを含めてのベスト20に入るには、ふつうは、少なくとも2桁の視聴率が必要である。
 この試合は、日本時間では21日午前0時過ぎからの深夜の中継だったので、見た人が少なかったのは無理もない。
 日本の第2戦の対スコットランドは、日本テレビが実況中継した。その視聴率は15%だった。その週の視聴率ベスト20の中では9位だった。
 悪くない数字である。
 だが、ぼくの無責任な予言には及ばなかった。

★無責任予想が的中
 ところが…。
 第3戦の対サモアは、日本テレビの中継で、視聴率は19.3%。週間2位だった。
 日本テレビのプロデューサーは小躍りしただろう。
 ぼくも、心の中で、「やったぁ!」と叫んだ。
 無責任な予測が的中したのである。
 高視聴率は初戦で南アフリカに勝ったおかげだろう。
 「次も勝つに違いない」
 「ベスト8進出の可能性が膨らむ」
 そういう期待でチャンネルを合わせたのだと思う。
 この「日の丸ナショナリズム」は、テレビにとっても、ぼくの無責任予想にとってもラッキーだった。
 グループリーグ最終戦の米国との試合の視聴率は、週間ベスト20に入っていなかった。
 すでにベスト8に進出できないことが決まったあとの試合だったからだろう
 テレビ視聴者は、熱しやすく、さめやすい。


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サッカー日誌 / 2015年10月17日


ラグビーW杯で思ったこと(中)


見事な南アフリカ戦の勝利

ワールドカップ1次リーグC組
日本 34対32 南アフリカ
(9月20日、英ブライトン)

★「初戦に全力」は正解
 ラグビーのワールドカップの初戦で、日本は、優勝候補の南アフリカを破った。
 すばらしい勝利だった。
 日本は、この試合にターゲットを絞って、ワールドカップに臨んだようだ。
 それは正解である。
 南アフリカは優勝候補であり、日本は下のレベルからの挑戦者である。
 優勝候補は、40日余の大会を見通して、大会の終盤にピークを持っていくようにコンディションを調整する。
 優勝を狙うレベルではないチームにとっては、ワールドカップは優勝候補へのチャレンジする機会である。そういうチームは「初戦」が勝負である。
 初戦にコンディションのピークを合せ、相手が優勝候補であっても全力でぶつかるほかはない。相手がトップ・コンディションでない弱点を突くべきである。

★終了直前の逆転プレー
 サッカーのワールドカップでは常識的な、そういう戦い方を、日本のラグビーがみせたのに感心した。
 なかでも試合終了直前の逆転プレーである。
 ロスタイムに入って、相手に反則があった。
 日本は3点リードされていた。
 日本がペナルティキックを選んでゴールすれば、引き分けにできる。
 テレビ観戦をしていて、ぼく(牛木)は「ここは当然、ペナルティキックだろう」と思った。
 五郎丸が、ペナルティキックを決める確率は非常に高い。
 引き分けに出来ることは、ほぼ確実である。

★「トライ」を狙う精神
 ところが、日本はスクラムを選んで「勝ち」に出た。
 トライしてゴールを決めれば「逆転」である。
 「引き分け」より「勝ち」がいいのは当たり前だが、残り時間は僅かである。その間に、スクラムからの一連のプレーで、トライをあげることができる可能性は、かなり低い。
 プレーが途切れれば「負け」で、試合終了という時間帯である。
 この場面で「安全」よりも「勝負」を選び、成功した。
 この決断に多くの人が感動した。
 サッカーの大会で似たようなケースがあれば「引き分け」を狙うだろうと思う。
 目標の「ベスト8」を目指すのであれば、グループ内で2位以内に入らなければならない。
 そのためには、優勝候補と確実に引き分けておいたほうが有利である。
 それでも、あえて勝ちを狙って「勝負」に出た。
 あくまでもトライする。
 それが「ラグビー精神」なのだろうと思った。


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サッカー日誌 / 2015年10月13日


ラグビーW杯で思ったこと(上)


外国人補強とラグビーの理念

ラグビーワールドカップ1次リーグ
(9月19日~10月12日、イングランド)


★3分の1がカタカナ選手
 ラグビーのワールドカップで、日本代表チームは、見事な試合をした。
 グループリーグで3勝1敗。南アフリカ、スコットランドと勝敗では並んだ。勝ち点で及ばなかったため目標の「ベスト8進出」は達成できなかったが、内容はすばらしかった。
 とくに、初戦で南アフリカを破ったのは、世界のラグビー地図を塗り替える勝利だったと思う。
 ただし、ラグビーの代表チームは、サッカーの代表チームとは、性質が違う。
 サッカー日本代表は「日本人プレーヤーの選抜」だが、ラグビーの日本代表は「日本でプレーしている選手の選抜」である。
 今回のラグビー日本代表は、3分の1以上が、カタカナ名前、つまり外国出身選手だった。日本国籍でなくても、日本で3年以上、プレーしていれば一定数は「日本代表」に入れられるからである。

★胸に桜のエンブレム
 外国籍選手の大量補強について次のような意見をきいた。「スポーツ政策研究会」の席である。 
 「大量の外国人選手を加えるのはオリンピッックの金メダル第一主義と同じ、国代表の勝利至上主義ではないか?」
 スポーツによって「国の威信」をあげることを考える「スポーツ・ナショナリズム」のために、多くの外国出身者を加えて「日本」を勝たせようとしているのではないか?
 そういう見方である。
 「それは違う」と、ぼく(牛木)は思った。
 ラグビー代表チームは、国家の代表ではなく、その地域でプレーしているラガーメンの選抜である。
 だから、胸に「日の丸]ではなく、桜のエンブレムをつけているのではないか?

★ラグビー方式の弊害
 外国出身者が多く入っているのは「スポーツ・ナショナリズム」のためではない。
 逆に、スポーツからナショナリズムを排除する「ラグビーの理念」から出たものではないか?
 そう考えた。
 「その見方は甘いよ」と友人が批判した。
 大英帝国が世界に進出した19世紀に、英国が支配下に置いた国のラグビー代表チームに、英国人のプレーヤーが参加できるようにした。
 それはともあれ、このラグビーの方式にも弊害がある。
 その一つは、移入選手によって代表チームを強化できるために、地元の選手育成が進まないこともある。
 サモアの選手は、ほとんどが、ニュージーランド育ちだという。


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サッカー日誌 / 2015年10月09日


中条一雄さんの「クラマー評伝」


業績総括の決定版
『デットマール・クラマー ~日本サッカー改革論~』
(ベースボール・マガジン社・2008年)

★新聞各紙の追悼記事
 1960年代に、日本のサッカーを根本的に変えたデットマール・クラマーさんが亡くなった。
 どの新聞もスポーツ面、社会面に大きく扱って追悼文を掲載していた。
 新聞の追悼文は難しい。
 ヒトは、いつ死ぬかわからないから、あらかじめ記事を用意しておくことできない。
 亡くなることが予測されていても、亡くなる前に、追悼文を外部に依頼することは憚られる。
 しかし、亡くなったあとで追悼文の寄稿を求めたのでは、間に合わないことが多い。
 クラマーさんの場合には、日本代表のコーチとして深く関わった岡野俊一郎さんや、選手として育てられた杉山隆一、釜本邦茂さんたちに依頼したいところだが、突然、短時間に原稿を書いてもらうのは難しい。

★社内の担当記者が書く
 そういうわけで、関係者には電話による取材をして、談話の形で掲載し、追悼文そのものは社内の担当記者が書いたものが多かった。
 ところが、クラマーさんが1960年代に日本のサッカーを指導したころ、直接取材した記者は、ほとんど定年退職していて社内にはいない。
 そこで、多くは現在のサッカー担当記者が、資料を頼りに、あわただしく書くことになる。
 その場合の資料は、過去の新聞記事である。
 新聞記事はニュースの起きた時点で、十分に検討するひまもなく掲載されるものだから事実関係の間違いもありうる。
 その後に「訂正」を書いても見落とされることが多い。
 そのためかどうか?
 各紙の追悼記事のなかには「これは、ちょっと違うぞ」と思われるものもあった。
 
★信頼できる評伝
 クラマーさんの評伝としては、元朝日新聞記者の中条一雄さんが書いた『デットマール・クラマー ~日本サッカー改革論~』(ベースボール・マガジン社・2008年)がある。
 中条さんは、クラマーさんともっとも親しい関係だった記者であり、この本を書くにあたっては、何度も自費でドイツに行ってインタビューしている。
 もっとも信頼できる、すぐれた評伝である。
 クラマーさんの追悼文を書くにあたっては、必ず読んでおかなければならない本だと思うが、新聞社の担当記者が、死去のニュースを聞いてから追悼記事を書くまでの間に、読むひまはないだろう。
 ぼくのみた限りでは、日経新聞の武智幸徳編集委員の追悼記事が、もっとも詳しく的確だった。
 中条さんの本を読んだことがあり、おそらくは手元にあったのだろうと推察した。


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サッカー日誌 / 2015年10月06日


スポーツ庁の発足(下)


日本体育協会の役割は?
(10月1日、文部科学省)

★水連会長が長官に
 「スポーツ庁」の初代長官に、日本水泳連盟の鈴木大地会長が就任した。1988年ソウル・オリンピックの水泳背泳ぎ金メダリストである。
 金メダリストが長官になったことよりも、水連会長がスポーツ行政の責任者になったことに意義があると思う。
 これまでの日本のスポーツ行政は、文部科学省が主導してきた。
 文科省の担当部署の官僚が「スポーツ政策」を立案し、主として、自治体の教育委員会を通じて実行してきた。
 レベルアップ(強化)については、JSC(日本スポーツ振興センター)を通じて、トトの売り上げなどからの強化費を配分してコントロールしていた。
 この仕組みの最終的な責任者は、政治家である文部科学大臣である。つまり、日本のスポーツ行政は、お役人と政治家が牛耳っていた。

★普及と強化の役割
 一方で、スポーツ普及の現場を担っているのは、民間人による各地の体育協会である。
 また、選手強化を推進しているのは、陸連、水連などのスポーツ団体である。
 その「現場の声」が、これまでのスポーツ政策に反映されていただろうか?
 日本体育協会(体協)は、各道都府県の体育協会と各競技のスポーツ団体の連合体である。
 したがって、普及についても強化についても、体協こそが現場の実情を掌握してスポーツ政策を立案すべきではいか?
 そういう意味で、体協加盟団体である水連の会長がスポーツ行政の責任者になったことに意義があると思う。
 体協のなかにスポーツ政策の研究会を設け、その意見をスポーツ庁を通じて、国の施策に反映させてはどうか?

★スポーツの現場から
 初代のスポーツ庁長官に、オリンピックの金メダリストを選んだのは、スポーツ庁発足をアピールしようという狙いだろう。
 しかし、スポーツ団体の代表が就任するのは初代だけで、2代目からは官僚の定位置になる可能性はある。
 文化庁の先例がある。
 文化庁の初代長官は、著名な文芸評論家の今日出海さんだった。しかし、2代目は文部官僚出身者になった。
 スポーツ庁でも、2代目以降の長官は、スポーツ界からではなく、官僚になる可能性がある。
 「お役人は良くない」と思っているわけではない。
 行政の専門家である官僚に任せるほうが安全で能率がいい、という面はある。
 しかし、多少、不安で能率が悪くても、スポーツの現場が行政へ参加すべきだと思う。



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サッカー日誌 / 2015年10月04日


スポーツ庁の発足(中)


スポーツ政策の立案者
(10月1日 文部科学省)

★長官に識見があるのか?
 「金メダルをとったからといって、スポーツ政策に識見をもっているわけじゃないだろう」
 10月1日に発足した「スポーツ庁」の長官に、1988年ソウル・オリンピック金メダリストの鈴木大地さんが就任した。 このことについて、こんな意見を聞いた。
 スポーツ政策研究会の席上である。
 ぼくの感想は二つある。
 一つは、これは、スポーツ選手に対する「偏見」の表れだということである。トップ・レベルの選手は「勉強していないだろう」という研究者や評論家の思い込みである。
 もう一つの感想は、スポーツ政策の「立案者」は誰かということである。
 鈴木大地に「スポーツ政策」に関する業績がないにしても、ほかに誰が具体的な日本のスポーツ政策を「立案」しているのだろうか?

★水泳連盟会長として
 新スポーツ庁長官の鈴木大地に「スポーツ政策」についての、まとまった著作があるかどうかは、ぼくは知らない。
 しかし、講演やシンポジウムで述べた意見や随想などに書いたものはみたことがある。スポーツの「あり方」について、自分の意見を持っていることは確かである。
 そのうえ、鈴木大地は日本水泳連盟の会長である。
 赤字を抱えて苦しんでいた水泳連盟の財政を立て直した業績を残している。
 この肩書きと実績は、スポーツ庁長官候補として有力な材料ではないか?
 そういうわけで、鈴木大地がスポーツ庁長官に選ばれたのはおかしくない。
 ぼくは、そう思う。
 まだ仕事を始めないうちに「難くせ」をつけて、スポーツ界のなかで足を引っ張ることはない。

★文部官僚がいいのか?
 ほかに、独自のスポーツ政策を掲げた候補者がいるのだろうか?
 これまでは、具体的な「スポーツ政策」を掲げてきたのは、政府だった。それを立案したのは文部科学省である。「スポーツ立国政策」というような文書の形で公表されている。
 それを実行するのが「スポーツ庁」の仕事だから、スポーツ庁長官は文部官僚がいい。
 そういう考えだろうか?
 それでは、スポーツ庁を創設した意味がない。
 ぼくは、そう思う。
 お上(政府)の作ったスポーツ政策を、しもじも(民間)に押し付けるのが、スポーツ庁の役割ではない。
 スポーツの普及と強化を担当している、民間のクラブや競技団体の現場の声を吸い上げ、まとめて「スポーツ政策」に反映し、実行するのが、スポーツ庁の仕事であって欲しい。


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