サッカー日誌 / 2011年02月28日


相川亮一さんの逝去を悼む


読売クラブのスタイルを作った男
(2月24日 新横浜で密葬)

◇クラブのサッカーを切り開く
 相川亮一さんが亡くなった。64歳だった。
 1970年代から1980年代の初めにかけて読売サッカークラブを指導し、学校スポーツ、企業スポーツ中心の時代に、クラブのサッカーを切り開いた功労者である。いまの東京ヴェルディも、さかのぼれば、相川さんが骨格を作ったと言っていい。
 ある会合で、たまたま「相川さんが亡くなったらしい」と聞き、尋ねてもらったところ親族だけで密葬するということだった。
 しかし、目立たないように参列することはできるだろうと出かけた。広く知らせることはしないということだったし、平日の午前中の葬儀だったが、伝え聞いて、かなりの人が集まっていた。地元神奈川のサッカー関係者のほかに、読売クラブOBの小見幸隆、ジョージ与那城、加藤久などの顔が見えた。改めて相川さんの影響力を思い起こした。

◇クラマーの真の理解者
 相川さんは1973年にイランのテヘランで開かれたFIFAコーチング・コースに参加して、FIFAのコーチ・ライセンスをとった。そのとき、デットマール・クラマーの指導に強い影響を受け「おれはクラマーの弟子だ」と称していた。クラマーは1964年東京オリンピックの選手強化のために日本へきて、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルへ導いた日本サッカーの恩人である。相川さんはクラマーのサッカーの本質を理解していたと思う。
 テヘランのコースから帰国したあと、読売クラブのコーチになった。当時の読売クラブの監督はオランダ出身のファン・バルコムだった。バルコムもクラマーの弟子だった。バルコムは読売クラブを去るとき、後任に相川さんを推薦した。事情があって監督には西邑昌一さんになってもらったが、西邑さんは関西在住だったこともあり、練習も試合の指揮も相川コーチに任せていた。
 
◇クラブの理念と組織確立の先駆者
 西邑さんは、いわば総監督で、事実上の監督は相川さんだったわけである。1976年から、そういう形だった。監督として登録されたのは、1981~82年の2シーズンだけだが、実際には7年間、読売クラブのトップチームを率いていた。
 その間に読売クラブは、日本リーグの2部から1部に昇格し、当時、日本のトップレベルの企業チームと互角以上に戦えるレベルになった。ジョージ与那城、ラモス、小見、松木安太郎などを使いこなして、独特の攻撃サッカーのスタイルを作り上げ「読売クラブのサッカーは面白い」と多くのファンが認めるようになった。
 相川さんは、クラブの中に、小学生、中学生、ユースのしっかりした組織を作り上げた。女子のベレーザも作った。Jリーグがクラブの理念を掲げて発足するより15年以上前からの話である。このような相川亮一さんの業績をまとめて歴史に残したいものだと考えている。

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サッカー日誌 / 2011年02月27日


岡崎慎司、ドイツ移籍のトラブル


選手の「保有権」をめぐる法的問題
(2月17日 FIFAが暫定的に裁定)

◇清水エスパルスの異議
 カタールのアジアカップで優勝したあと、岡崎慎司はドイツに向かった。シュツットガルトに入団するためである。
 シュツットガルトは、1月30日に岡崎の入団を発表した。これに対して清水エスパルスが異議を申し立てた。理由は二つある。
 一つの理由はこうだ。岡崎と清水エスパルスの契約は1月31日まである。契約期間中の移籍だから「違約金」が支払われるべきである。しかし、違約金についての合意は成立していない。
 もう一つの理由は、シュツットガルトが、清水に事前通告をしないで岡崎と交渉したことである。これはFIFAの規則違反だという。
 この異議のため、岡崎は2月12日のニュールンベルクとの試合に出場できなかった。

◇移籍妨害は「いやがらせ」? 
 このトラブルが新聞に出る前に選手の代理人から話を聞く機会があった。その人の説明は、こうだった。
 清水と岡崎の契約期間は1月31日までだった。しかし、シュツットガルトには契約期間満了まで移籍を待つことはできない事情があった。
 欧州で移籍のできる期間は「ウインドウ」と呼ばれており、年に2度ある。その一つが1月1日から1月31 日までである。したがってシュツットガルトは、1月末までに岡崎をドイツで登録しなければならなかった。
 僅か1日の期間重複である。それで移籍を妨害するのは「いやがらせ」としか思えない。そういう説明だった。
 その後、FIFAの裁定で、岡崎はとりあえず、欧州で試合に出られることになった。

◇契約残り1日の値段は?
 Jリーグの多くのクラブは選手との契約期間を1月末日までとしている。天皇杯の決勝が1月1日にあるからだ。しかし1月2日以降は選手を拘束しなければならない事情はない。次期の契約をしないのであれば移籍を認めるのが常識的だろう。
 「違約金」については、欧州ではいろいろな事例が議論されている。契約期間中、選手はクラブで練習やプレーをする義務がある。しかし、途中移籍すれば義務を果たせなくなるのだから違約金を払うということだろう。実際には、選手ではなく、新しいクラブが元のクラブに支払う。だから「移籍金」と呼ぶほうが分かりやすい。
 3年契約をしている選手が1年後に移籍するとすれば、残る2年間の契約を新しいクラブが買う形になる。そういう考え方もある。岡崎の場合は、清水との契約の残り期間は、わずか1日だった。1日の値段は、事実上ゼロ。それを要求するのは無理である。



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サッカー日誌 / 2011年02月26日


細谷一郎さんのストライカー人生


Jリーグ発足前、マグマ伏流の時代

サッカー史研(2月21日 JFAハウス)

◇日本サッカー変革の過渡期
 日本サッカー史研究会の2月例会には、細谷一郎さんを招いた。1960年代から1970年代末にかけて、神戸高、早稲田大学、三菱重工で活躍、元日本代表の経歴も持つ。
 細谷さんは、日本のサッカーが大きく変わる過渡期にサッカー生活を送った。
 神戸高校は戦前の神戸一中の伝統を受け継ぐサッカーの名門校である。テクニックとショートパス重視が伝統だった。その神戸一中が新制高校になって、どう変わったか。戦後の学制改革で切り替わった直後の時期を体験している。
 早大では関東大学リーグに3度、天皇杯で1度、優勝している。大学が日本のサッカーの中心だった時代の最後の時期を飾った選手だった。
 三菱では、日本リーグで3度、天皇杯で3度優勝した。実業団(企業)黄金時代のストライカーだった。

◇国際化と代表苦難の時期
 日本代表に選ばれたのは、1968年メキシコ・オリンピックのあとである。メキシコ銅メダル組は、その4年前の東京オリンピックのために少数精鋭で集中的に強化されたチームだった。その主力のほとんどが退いて、日本代表チームは再スタートに苦しんでいた。その代表苦難の時期に、細谷さんは代表チームに呼ばれた。
 監督は岡野俊一郎、長沼健(2度目)、そして二宮寛だった。岡野、長沼はドイツから招いたクラマーさんの愛弟子である。二宮寛は三菱の監督のとき、ドイツのバイスバイラー(当時、ボルシア・メンヘングラッドバッハ監督)に学び、同じドイツでも、クラマーとは違うところを取り入れた。さらにブラジル、アルゼンチン遠征なども試みて、南米のサッカーも取り入れようとした。細谷さんは三菱と日本代表の両方で、欧州と南米のいろいろなサッカーを学んだ。日本サッカーが国際化していこうとしている時期だった。

◇大企業のエリート社員として
 細谷さんが選手生活から退いたのは1979年である。大企業のエリート社員として社業に専念することとなる。当時としては、ふつうのことだった。しかし、貴重な経験を蓄積している細谷一郎をサッカー界が失うのは「もったいない」と思って、そういう趣旨の記事を「サッカーマガジン」に書いたことがある。その記事を細谷さんは覚えていてくれた。
 1992年にJリーグができたとき、細谷さんにはサッカーに戻る選択肢もあった。三菱の後身である浦和レッズの指導者あるいは経営者に転身する道があった。「でも、家族が反対しました」と細谷さんは言う。三菱系の会社役員に出世することが目に見えていたのだから、ご家族の反対は当然だろう。
 細谷さんの貴重な思い出話を聞きながら、プロ化によって日本のサッカーが噴火する前のマグマ伏流の時代を生きてきたのが、細谷一郎のサッカー人生だったのだろうと思った。


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サッカー日誌 / 2011年02月23日


大住良之さんのアジアカップ報告


カタール社会の変容に注目
ビバ月例会(2月18日 東中野テラハウス)

◇カタールという国
 ビバ!サッカー研究会の2月例会は、サッカーライターの大住良之さんをゲストに招いて、カタールで開かれたアジアカップの報告を聞いた。
 参加メンバーのほとんどは、テレビ中継でアジアカップを見ているけれど、現地に行かなければ分からない話を聞きたいと期待したのである、
 もちろん、大住さんは期待を裏切らなかった。
 大きく次の三つの項目に分けて、映像を駆使して分かりやすく説明した。
 (1)カタールという国、(2)日本代表の戦い、(3)ワールドカップ2022への準備
 どの項目の話も、非常に有益かつ面白かったのだが、全部をここに掲載するわけにはいかないから、「カタールという国」についての項目の中で、特に印象的だったことを、紹介しよう。

◇女性の社会的進出
 カタールは中東のイスラム教の国である。イスラム教では女性の立場は、かなり特別である。身体の線が出ないような服に身を包み、髪の毛を見せないようにスカーフで頭部を覆っている。家庭に引きこもっている。社会に出て表だった仕事はしない。そういうふうに考えられている。
 しかし、カタールでは女性の地位が変わりつつある。アジアカップの運営に女性が協力して、かかわっている。各国のジャーナリストが仕事をするメディア・センターでも、女性のボランティアが働いていた。大住さんは、そう報告した。
 大住さんが、その写真を撮ろうとしたら「大会運営当局に許可を求めてくれ」と言われた。当局は「本人がいいと言えばいい」ということだった。その結果、メディア・センターで働いている女性一人の写真を撮ることができた。

◇社会変革の一環
 服装やスカーフはイスラム風だが、笑顔をカメラのほうに向けていて、すこぶる美人である。確かに女性の地位の変化をうかがわせる。
 女性の地位だけでなく、カタールは至る所で変わりつつある。古い建物は取り壊され、高層ビルが次つぎに建設されている。今回のアジアカップも、2022年のワールドカップ開催も、カタールの社会変革のための施策の一環なのだろうかと思った。チュニジア、エジプト、リビアなどイスラム諸国の国内騒乱が続いているときだけに、興味深い報告だった。
 大住さんはサッカーそのものだけでなく、サッカーを取り巻く社会とその時代の流れに、しっかり目を配って分析している。見たこと、経験したことを、だらだらと書き綴り、視野の狭い思いこみで独断的な見方を展開している文章が横行しているなかで、ビバ研の大住報告はすばらしかった。


建設ラッシュのカタール市内(写真提供:大住良之さん)


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サッカー日誌 / 2011年02月12日


アジアカップについての“つぶやき”(下)


団結がつかんだ栄光

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇「Jリーグから選んだな」
 ザッケローニ監督が、アジアカップの日本代表選手を選んだとき「Jリーグから選んだな」と思った。日本のトップクラスは、海外組以外はJリーグのクラブ所属だから当たり前だが、岡田武史監督のときは、必ずしもJリーグでの活躍は重視されていなかったのではないかと思う。
 たとえば前田遼一である、ジュビロ磐田で得点王。それも外国人選手をしのいで、PKなしでの記録だのに、日本代表としてはほとんど出番がなかった。
 しかし、ザッケローニ監督は、アジアカップ先発のワントップとして使い続けた。3試合目のサウジアラビア戦で2得点、準決勝の韓国戦でみごとな1得点。
 Jリーグの得点王になるくらいだから、ストライカーとして優れたところがあるはずである。それを生かさない手はない。

◇「圭佑も手なずけたか」
 準決勝の韓国戦のあとのテレビ・インタビューで、ザッケローニ監督は自分の出番が終わって入れ替わるとき、次の本田圭佑に二言三言、話しかけ親指を立てた。アナウンサーが圭佑に「いま、なんと声をかけられたんですか?」と質問した。圭佑は「きょうはよかったよと言ってくれた。監督は、いつも自信を持たせてくれるので力になっています」と答えた。
 ぼくはテレビの前で「ザックは圭佑も手なずけたか」とつぶやいた。
 圭佑は自分中心のプレーが目立つ選手である。フリーキックも、ペナルティキックも自分で蹴りたがる。そういう選手を、自分の掌のなかで泳がせている。
 韓国戦でゲーム中のPKを決められなかったのに、PK戦でトップに起用した。失敗を咎め立てしないで、褒めることを優先している。これも選手操縦術の一つである。

◇「選手がおとなになった」
 大会後に放送されたNHKテレビの総集編のタイトルは「団結がつかんだ栄光」だった。
 初戦のヨルダン戦を辛うじて引き分けた翌日、主将の長谷部誠の呼びかけで、選手だけのミーティングが開かれた。そこで選手たちが活発に意見を言い、チームが一つにまとまっていったという。
 「それって、岡ちゃんのときもあったよな」と思った。
 南アフリカ・ワールドカップの直前、スイスでの合宿で選手だけのミーティングが行われ、そこで戦術的な議論がどんどん出て、それがチームの編成と戦い方を大きく変えるきっかけになった。
 選手たちが戦術的な問題についても、がんがん言えるようになったのは大きな進歩だと思う。「日本の選手たちも、ようやく、おとなになったな」というのが、ぼくの感想である。


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サッカー日誌 / 2011年02月11日


アジアカップについての“つぶやき”(中)


審判の判定をめぐって

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇「審判が正しかったのかも」
 アジアカップのグループリーグ第2戦、シリアとの試合の後半24分にゴールキーパーの川島永嗣がレッドカードを受けたとき、中継映像では、その直前にシリアにオフサイドがあったように見えた。副審も旗をあげていた。しかし主審は認めなかった。オフサイドであれば、その後の川島の「得点機会阻止」の反則はなく、PKも退場もない。「審判おかしいぞ」というのが、そのときの「つぶやき」である。
 ところがだ。大会が終わったあとのNHKの総集編の映像では、ボールは、相手と競り合った今野泰幸の足に当たって、ゴール前へ出たようにも見えた。いろいろな角度からの映像があり、二人の接触のクローズアップ画面もあるのだがよく分からない。
 主審の自信たっぷりの表情の大写しもあった。「審判が正しかったのかも」と、総集編を見ながらつぶやいて、中継を見たときの「つぶやき」を訂正した

◇「ファウルで防ぐなよ」
 アジアカップの第3戦、サウジアラビアとの試合で内田篤人が、前半6分にイエローカードを受けた。テレビで見ていて、思わず「ファウルで防ぐなよ」とつぶやいた。
 ハーフラインから少し自陣よりのところで、サウジアラビアのヤセル・アル・カハタニのドリブルにかわされた。カハタニが内側に食い込もうとするのを追いかけて、斜め後ろから右腕を相手の左肩に掛けて引き倒す。警告は当然である。内田は、その前のシリア戦でもイエローカードをもらっているので通算2枚となり、準々決勝は出場停止となった。
 試合が始まったばかりで0対0である。自陣のゴールからは遠い。ディフェンダーは戻っていて守備網は崩されていない。出場停止のリスクを冒してまでファウルで止める必要はまったくない場面だった。ほかのプレーヤーでも反則で守るケースが目に付く。ふだんから安易にファウルで止めるプレーを繰り返していると「習い性となる」のだろうか?

◇「ボールに行けよ」
 準決勝の日本対韓国で2つのPKがあった。PK戦ではない、ゲーム中の話である。
 前半21分の韓国のPKは今野の反則だった。後方からのロングボールがペナルティエリア内に落ちるのを追いかけて、パク・チソン(朴智星)を競り合いながら肩で押し倒した。ボールがまだ頭上高くにあるときに相手がボールを受けるのを妨げたのである。
 延長前半7分に日本がPKを得た。スルーパスに合わせて走り出た岡崎慎司をペナルティエリアの入り口で、ファン・ジェウォン(黄戴元)が横から押し倒した。ボールは岡崎より前に出ており、他の韓国ディフェンダーがクリアしようとしていた。
 どちらも、自分ではボールをコントロールできない状態で、まだボールをコントロールしていない相手に体当たりをしたものだった。
 テレビの前で、ぼくは「ボールに行けよ」とつぶやいた、いや、舌打ちした。


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サッカー日誌 / 2011年02月09日


アジアカップについての“つぶやき”(上)


「オーストラリアは、こわくない」

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇大きな体でがんがん来る?
 カタールで開かれたアジアカップ・サッカーについて、テレビで見ながら、あるいは仲間たちと飲みながらながら、いろいろなことをつぶやいた。そのうちの一部を書き留めておこう。
 日本が決勝に進出し、その相手がオーストラリアに決まったとき、ぼくが机を置いている東京・渋谷の事務所の仲間が「オーストラリアは、強いわね。大きな体でがんがん、来られると、こわいわね」と話しかけてきた。
 彼女はサッカーにくわしいわけではないが、テレビで見た印象と新聞記事で得た知識でそう思ったのだろう。
 ぼくの「つぶやき」は違う。「オーストラリアはこわくない。日本から、そうそう点は取れないだろう。1対0か、2対1で日本の勝ちだろうな」

◇放り込みでは入らない
 オーストラリアの選手は、イギリス系が主力で背が高く、胸板も厚い。そういう強力ストライカーを前線に押し立て、そこに合わせて長い浮き球を放り込んでこられると、上背のない日本の守備陣は、ひとたまりもなく崩されそうである。
 しかし、ぼくの長年の取材経験によると「放り込み」からは、なかなか点が入らないものである。
 第一に、守るほうはボールの来る方向を向いて立っている。ボールの落下地点と攻め込んでくる相手を見極めやすい。ゴールキーパーもいる。手を伸ばして守れるから、高さでも負けない。
 攻めるほうは、ゴールに向かって走りながら、後方から来るボールにあわせなければならない。ヘディングの競り合いでは守るほうより不利である。

◇身長差があっても守りが有利
 低いレベルの試合では、守りにミスが出やすいから、ゴール前の競り合いでボールがこぼれて混乱し、失点するケースが多い。しかし、国際試合のレベルでは、しっかりマークしていれば、多少の身長差はあっても守るほうが有利である。
 第二に、浮き球にワンポイントで合わせてヘディングを決めるのは、なかなか難しい。国際試合のレベルでは、自由に蹴れば味方にぴたりとあわせる技術のあるプレーヤーはいるだろう。しかし中盤にも守りのプレーヤーがいて妨害するのだから、そう自由に蹴ることはできない。ただし、こわいのはフリーキックやコーナーキックである。中盤で無用なファウルをしないこと、安易にコーナーに逃れるような守りをしないことが肝心である。要は、しっかり守れば、高さを恐れることはない、ということだ。
 決勝戦は、延長になったが1対0で日本の勝ちだった。


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サッカー日誌 / 2011年02月07日


アジア杯のザッケローニ(下)


準決勝、韓国戦の選手交代

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇分からなかった香川の事情
 アジアカップの大会を通じて、ザッケローニ監督の用兵は分かりやすかった。慎重だが合理的で明確に決断していた。
 ただ、準決勝、韓国との試合のときの選手交代は、テレビの生中継(NHK-BS)を見ているときには、事情がのみ込めなかった。
 後半42分、香川真司を引っ込めて、細貝萌を出す。香川は攻めの中核、細貝は守りで活躍するタイプである。1対1で延長に入りそうなときだったから、守りを固めるためではなさそうである。テレビのアナウンサーは「遠藤(保仁)をアンカーに……」と言っていたので中盤を厚くする狙いかなとも思ったが、テレビの画面では分からない。
 延長前半の途中、香川が右足首に三角布を巻いてベンチに座っているのが、一瞬、テレビ画面に映った。右足を冷やしていることは分かった。

◇長谷部も足をつって退場
 延長前半に日本がPKを得た。本田圭佑のキックはGKに止められたが、跳ね返りを細貝が決めて2対1とリードした。
 延長前半終了直前に、トップの前田遼一に代えて伊野波雅彦を出した。守りの駒を増やした形である。「リードしたからといって守り切ろうとするのは、かえって危ないのでは……」というのがテレビ応戦席の意見である。
 日本の攻撃プレーヤーの疲れが、目に見えてひどくなっていた。とくに本田圭佑の鋭さが鈍っていた。延長後半5分ごろ「李忠成が準備しています」というベンチレポートがあった。「圭佑と代えるのだな」と推測した。
 その直後に、長谷部誠が足をつって倒れた。いったん場外に出て手当てを受け、2分後に戻ったが、さらに2分後に退き、代わって中盤プレーヤーの本田拓也が入った。

◇アクシデントで守備的に
 ザッケローニ監督は、2人目の交代で守備的なプレーヤーを出したあと、3人目には前線にフレッシュな戦力をつぎ込もうと考えていたが、長谷部のアクシデントで、李忠成を出せなくなり、交代プレーヤーを変更することになったらしい。
 最初の交代で退いた香川は右足小指の骨折だった。そのことは翌日になって知った。
 「思わぬケガによる、やむをえない交代だった」と納得した。
 日本はリードしたあと、守備ラインに5人が入って守りに追われた。残り2分ほどになってからは、左コーナー付近で短いパス交換を繰り返し時間稼ぎをした。しかし、これがあだとなって、終了寸前に同点に追いつかれPK戦になった。選手交代の目算外れが、選手たちを守備的な気持ちにさせたのだろうか。
 この日韓戦だけは、ザッケローニ監督の筋書きが狂ったようだ。



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サッカー日誌 / 2011年02月06日


アジア杯のザッケローニ(中)


チームの成長か? 個人の成長か?

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇「成長」の意味に違い
 アジアカップを戦う中で、ザッケローニ監督は「成長」というキャッチフレーズを掲げた。この言葉はNHK-BSの中継のなかで、アナウンサーも解説者も、しばしば引用していた。
 しかし、聞いているうちに「成長」という言葉の理解に違いがあるのではないかという気がしてきた。
 ザッケローニ監督の掲げた「成長」には二つの意味がある。
 一つは「準備期間が少なかったので、大会を戦いながらチームの力を成長させる」ことである。苦戦しながらも最後に優勝を勝ちとったのだから、その意味では大成功だった。
 もう一つは「タイトルを求める厳しい試合の経験を重ねることによって一人一人の能力を成長させる」ことである。これは、将来にとって重要である。

◇ワールドカップへ育てるのか?
 さらに、もう一つの「成長」の解釈があったようだ。それは2014年ワールドカップへ向けて日本代表チームを成長させることである。テレビ解説者の言葉を聞いていると、そういう受け取り方をしている人が多いように思った。
 しかし、ザッケローニ監督の頭の中には「アジアカップ優勝の顔ぶれを、そのままワールドカップへ向けて成長させよう」というような考えはないだろう。ぼくは、そう思った。
 3年半後に、長谷部誠と遠藤保仁が中盤の「かなめ」であるかどうかは分からない。ゴールキーパー川島永嗣の大当たりを欧州南米の強豪相手に期待できるかどうかは未知数である。本田圭佑をしのぐ強力プレーヤーが台頭している可能性もある。
 だから3年半後に、どういう日本代表チームを作るかは、この時点では見当もつかない。代表チームを「一つのクラブチーム」のように育てあげるのは無理である。

◇個人の成長が代表を強くする
 ザッケローニはイタリアのクラブチームで成果を残してきた監督だが、選抜の代表チームを単独のクラブチームと同じような考え方で育てられるとは思っていないだろう。
 ザッケローニ監督が期待しているのは、一人一人の能力の成長である。「日本のプレーヤーは、もっと伸びる可能性(伸び代)を持っている」とよく言っているが、成長とは、その隠されている能力が、厳しい試合の経験によって引き出され、鍛えられることである。アジアカップは、そのための一つの機会だった。
 成長した選手たちの層が厚くなるとともに、代表監督の選択肢が広がり、いろいろな試合の状況に応じた、いろいろなチーム作りが可能になる。それが強い代表チームを作る。
 ザッケローニ監督が、代表チームを単独クラブのように「一つのチーム」として完成してくれるだろうと期待しているのであれば、ちょっと見当が違うだろう。


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サッカー日誌 / 2011年02月05日


アジア杯のザッケローニ(上)


「成長」と「結果」を求めて成功

(アジアカップ 1月7日~29日・カタール)

◇準備不足で未知の世界へ挑戦
 カタールで開かれたアジアカップ2011で、日本代表のザッケローニ監督は「成長と結果を求める」と目標を掲げた。そして見事に成功した。
 国内のシーズンが終わってすぐの大会だったから、日本代表がまとまって準備する期間は、ほとんどなかった。アジアカップを戦いながらチームとしての力をあげていくほかはなかった。つまり、大会を通じてのチームの「成長」が課題だった。
 ザッケローニは、イタリア国内リーグで実績を残してきた監督だが、代表チームを率いた経験はない。アジアでの経験もない。
 準備不十分なチームを率いて、未知の世界に挑むのだから、必ずしも優勝の自信があったとは思えない。しかし「アジアNo.1」を決める大会に参加するのに「経験を積むのが目標」とだけ言うわけにはいかない。だから「結果」も求めると付け加えた。

◇プロの監督らしい表現
 ザッケローニが「成長と結果」を掲げたとき「練達のプロ監督らしいな」と思った。
 代表監督を引き受けて最初の国際大会である。これをスタートに9カ月後からのワールドカップ予選の準備が始まる。この大会は2014年ワールドカップに向けての「成長」の始まりである。ザッケローニとしては、就任早々に過大な期待をかけられ、性急に成果を期待されても困る。言い訳めくけれども、かりに結果が悪くても、成長に意義があることを、あらかじめ強調したのは、正直かつ巧妙だった。
 一方で、アジアカップでの目標については「結果」を求めるとだけ表現した。「優勝」や「3位以内」というような具体的な目標は示さなかった。求める結果は一つ一つの試合の勝利である。それを積み重ねて、どこまで行けるかは示さなかった。 
 勝算の立たないうちに具体的なノルマを掲げて自分自身を縛る必要はない。

◇慎重だが弱気ではなかった
 第1戦の前に、あるスポーツ紙の現地からの報道で「ザッケローニは、カタールに乗りこんでから弱気になり、3位以内の目標を引っ込めた」という記事があった。これは間違いである。
 前年8月末の就任記者会見のときにザッケローニ監督が「アジアカップで3位以内をめざす」と語ったと伝えられたが、これは本人が話していないのに通訳(現在の通訳とは別人)が勝手に付け加えて訳したものだった。おそらくは、その前日のサッカー協会との打ち合わせで、協会側が「3位以内」を求め、これを知っている通訳が「超訳」したのだろう。
 日本チームは苦しい戦いを乗り越えながら、士気を高めて成長し、最高の結果を出した。ザッケローニの表現は、慎重ではあるが、弱気ではなかった。
 監督が目標の「優勝」を口にしたのは、決勝進出が決まってからである。


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