サッカー日誌 / 2015年04月30日


スポーツ施設の維持管理(中)


建設と維持費への助成
(4月20日 スポーツ政策研究会)

★現実的でない予算
 高松市の香川県立体育館が耐震性の点で危険であることが分かったが、補修できないまま使用禁止で放置されている。     
 その原因は、県の予定している工事費の上限が低すぎるので、工事を引き受ける業者が出ないからだという。
 公共工事の入札が成り立たない事例が多いようだ。
 国立競技場の取り壊し工事も、当初は応札がなく、工事開始が遅れた。
 東北大震災の復興事業でも、入札が成り立たないケースが多いと報道されていた。
 予定されている予算内では赤字になるからである。
 ここは難しいところである。
 予算の上限を高くすれば税金の無駄遣いになり兼ねない。
 業者側が談合して応札しないで、予算のカサ上げをはかるケースも考えられる。

★見積もりが低い理由
 いろいろな事情があるだろうから、シロート考えで批判するのは難しい。
 しかし、税金を払っている側としては、関心を持つのは当然である。
 一般に公共スポーツ施設の建設費や補修費の予算は、低く見積もられがちだという話もあった。
 道路や橋の建設や補修は、できなければ影響が大きい。
 だから、必要な工事費は、すぐに計上するほかはない。
 スポーツ施設の工事は緊急性が低いので、税金の投入に慎重にならざるを得ない。
 そういう見方である。
 国からの助成との関連を指摘する見方もあった。
 建設費についても、補修費についても、助成の仕組みの説明が専門的だったので、しっかり理解できたわけではないことを、お断りした上で、とりあえず、ご紹介しておく。

★助成金と予算
 「たとえば」の話である
 工事費の3分の1を国が助成する。
 しかし、工事費の見積もりが、不当に高いと国が判断すれば助成金は出ないだろう。
 見積もりは低めに抑えたほうがいい。
 助成金の額は「国の予算の範囲内」である。
 かりに工事費が6億円だとする。
 その3分の1の2億円を国の助成に求めるとする。
 しかし、国の予算の総額が6億円で、助成を求めた案件が6つあったとする。助成は「予算の範囲内」なので、1件あたりの助成は1億円である。
 県の方には、残りの5億円を出さなければならないが、それだけの財力がない。
 業者は、県の予算内では赤字になるので引き受けることができない。
 そういうわけで、体育館は放置されている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月29日


スポーツ施設の維持管理(上)


香川県立体育館の場合
(4月20日 スポーツ政策研究会)

★耐震工事ができない
 四国高松市の香川県立体育館が、閉鎖されたまま、取り壊しもできず、放置されているということである。
 スポーツ政策研究会の4月例会で、森川貞夫先生のお話を聞いて知った。
 2014年7月4日のNHKテレビ「おはよう日本」で報道されてから問題になっていたとのことだが、不勉強で知らなかった。そのころワールドカップ取材でブラジルに行っていたためでもある。
 香川県体育館は、耐震検査の結果、補修工事が必要なことが分かった。
 そこで、補修工事の業者を入札で公募したのだが、引き受け手がない。というのは、県が設定している予算では、採算が合わないからである。
 危険だから取り壊すことも考えなければならないが、取り壊しには反対運動が起きた。

★芸術作品としての保存
 香川県体育館は、船の形のユニークなデザインで知られている。丹下健三事務所などの設計で、1966年にグッド・デザイン賞を受賞している。
 そういう芸術的な建築物だから、観光資源として保存すべきだという運動が起きた。
 建ててから50年あまり経って老朽化しており、建て替えの時期でもあるらしい。
 しかし、芸術作品として保存するのであれば、建て替えはできない。
 耐震性の点で危険があるから使用することもできない。
 そういう事情で使用禁止のまま放置されているという。
 法隆寺のような国宝として評価の定まった建造物は、多くの人が保存する価値を認めるだろう。
 文化財としての保存の費用を税金から助成することに、反対は少ないだろう。

★法隆寺との違い
 しかし、体育館は実用のための現代の建物である。法隆寺とは性質が違う。
 使うことができなければ、それまで利用していた人びとにとって支障が生じる。
 建築家の丹下健三さんの作品としての価値は、広く認められているとしても、それを国民あるいは県民の税金を使って保存すべきかどうかは、意見の分かれるところである。
 このように香川県立体育館の問題を考えると、三つのポイントがある。
 一つは、補修に必要な実際の費用を、どのようにして調達するかである。
 第二は建造物の耐久性である。建造物は、いつか老朽化するから、そのときに建て替えの費用が必要になる。
 三つ目の問題は建築物の実用性と芸術性である。実際に使われているものを文化財として保存することは難しい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月26日


「スポーツくじ」を考える(下)


トト拡張の狙いは?
赤字の穴埋めに使うな!

★新国立競技場の運営費
 「スポーツ振興くじ」(トト)は、Jリーグの試合を対象にしている。それを、欧州の試合や日本のプロ野球に拡張しようという動きが出ている。 
 売り上げを伸ばすためである。
 現在でも、かなりの資金を得ているのに、さらに収益の増加を焦っているのはなぜだろうか?
 二つの狙いがあるようだ。
 一つは、新国立競技場である。
 2020年の東京オリンピックをめざして、東京の国立競技場の建て替え工事が始まっている。
 新国立競技場は巨大な総屋根のドームになる。建設費が巨額であるうえに、その後の維持管理でも大きな赤字が予想されている。
 それをトトからの補助で埋めようという思惑がある。

★ラグビーW杯の赤字
 もう一つは、2019年に日本で開催されるラグビーのワールドカップである。
 この大会は大きな赤字を生むと予想されている。
 国際団体の「ワールド・ラグビー」が、巨額の上納金をとり、さらにテレビの放送権と広告による収入も召し上げる。
 日本側に入るのは入場料収入だけである。それだけでは大会の運営費には、とうてい足りない。
 その赤字をトトからの助成で埋めることにしている。
 日本のスポーツ全体の振興に使うべき資金を、特定の施設の維持運営や、特定のスポーツ大会開催費の赤字穴埋めに使おうとしている。
 それでいいのだろうか?
 施設の維持運営は、原則として利用者の負担でなければならない。
 競技会の運営費は、その競技会の収入で賄うべきである。

★目的限定の「宝くじ」
 新国立競技場については、建設費と維持管理費が巨額にならないよう計画を縮小すべきである。計画の変更は、いまからでも間に合うはずである。
 また、将来の維持運営費をトトで助成しないことを明確に決めて欲しい。運営費を助成すれば歯止めがなくなる。
 ラグビーのワールドカップについてはどうか?
 国際団体(ワールド・ラグビー)と、その背後にあるエージェントが極端な収奪をするイベントを、収入の見込みがたたないまま誘致したことが、まず問題である。
 しかし、いまから開催を返上するのは難しいだろう。
 こういうケースについては、目的を明確にした「ラグビーW杯宝くじ」を発行することを提案したい。
 ラグビーW杯に反対の人は購入しなければいいし、開催を支援したい人は「寄附」のつもりで購入することができる。
 「寄附」プラス「くじの楽しみ」である。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月25日


「スポーツくじ」を考える(中)


ギャンブルの弊害

★賭けは不道徳か?
 「スポーツ振興くじ」(トト)の対象に、プロ野球を加える動きがある。ぼく(牛木)は反対である。
 ただし、トトそのものに反対ではない。
 また「ギャンブル(賭け事)は悪いものだ」と信じてはいない。
 トトの対象として「野球は適当でない」と考えているだけである。
 新聞社のスポーツ記者だった当時の見聞から、野球は「八百長を仕組みやすく、暴力団に利用され兼ねない」と思っている。
 ただし、トトそのものに反対する人たちも少なくはない。
 トト反対論の根拠には、2種類あるように思う。
 一つは「賭け事は不道徳だから許してはならない」という考えである。宗教的な信念に敬意は払うが、ぼくは「賭け」が不道徳だとは思わない。
 娯楽の一種だと思っている。

★トト反対論の根拠
 「ギャンブル反対」の、もう一つの根拠は「弊害」である。
 これは現実的な問題である。
 八百長が仕組まれる恐れがあり、暴力団などの資金源になる。
 「スポーツを損なう弊害」である。
 一獲千金の夢を追ってギャンブルが習慣になり、働く意欲を失う人たちがいる。
 「ギャンブル依存症の弊害」である。
 競馬場や競輪場に数千、数万の人びとが集まる。
 周囲の人びとにつられて冷静さを失い、財布がからっぽになるまで、つぎ込んで帰りの電車賃までなくなる。
 あるいは「八百長疑惑」などで騒ぎ立てる人に同調して、騒乱を起こす。
 「群集性の弊害」である。

★弊害の少ないトトと宝くじ
 「勤労(努力)」ではなく「偶然(運)」によって利益を得るのは良くない。
 そういう道徳論を根拠にするのであれば、ギャンブルは、すべて「悪」である。
 そのなかでも「宝くじ」は究極の「悪」である。
 予測できない「偶然の結果」に賭けるからである。
 トト、競馬、競輪は、試合やウマの過去の成績などをもとに推理して賭けるので、いくらかは「努力の結果」である。全面的に「偶然」とは言えない。
 ところが、現実にはギャンブルのなかで「宝くじ」が、もっとも弊害が少ない。八百長、依存症、群集性の弊害が、ほとんどない。
 依存症については、トトと「宝くじ」には大きな弊害はない。めったに当たらないからである。当たる確率が低いほど弊害は少ない。
 競馬、競輪のように、ときどき当たると、次にまた当てようという気になる。
 トトや「宝くじ」は当たる確率が、きわめて低いので、現実的な利益を求めるのではなく「夢」を買うだけである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月23日


「スポーツくじ」を考える(上)


プロ野球トトに反対

★スポーツ議員連盟の動き
 サッカーのJリーグの試合を対象としている「スポーツ振興くじ」(トト)に、プロ野球を加える動きがあるらしい。
 国会の「スポーツ議員連盟」が、プロジェクト・チームを設置して検討をはじめたという(4月15日付け、朝日新聞朝刊)
 これは「危ない」話である。
 というのは野球では「八百長」が起きやすいからである。
 野球では投手が勝敗に関係する要素が大きい。エースが登板する予定の日には、そのチームが勝つ確率が高い。
 その投手が、5回に突然コントロールを乱して四球の走者を出す。ストライクを投げようとして真ん中に投げてホームランを打たれる。
 新聞社の運動部でプロ野球を担当していたとき、そういう場面を何度もみた。

★八百長の裏に暴力団?
 野球では、ときとしてある場面だが、その裏に暴力団による「賭け」がある。そういう噂があった。
 東京のジャイアンツと他のチームが帯同して東北などの地方で試合をすることがある。
 そのときに記者席に「5回に何点入りましたか?」というような問い合わせの電話が掛かってくる。それが決まって関西弁だった。
 当時、関西で暴力団が、プロ野球を対象に非合法の賭けをプロモートしているという噂があった。
 単なる勝敗を当てるのではなく「5回に何点はいるか」というような賭けだという。
 記者席にかかってくる電話と符合する噂だった。
 地方の球場の記者席の電話は、試合のたびに架設する臨時電話である。
 その番号を調べて掛けてくるのは、ふつうでない。

★サッカーとの違い
 地方の試合では、ラジオとテレビの実況中継がなかったときの話である。
 野球の八百長の「企み」は投手一人の買収で可能である。
 捕手あるいは内野手を買収しても可能である。決定的な場面でエラーをすれば勝敗を動かすことができる。
 野球は、一人の選手だけで勝負が動く要素が多い。
 サッカーでは、一人の選手だけで勝敗に影響を与えるのは難しい。
 ゴールキーパーを買収して、決定的なシュートを防ぐときに故意にエラーをさせる可能性はあるが、それだけで勝敗を決定づけるのは難しい。
 野球の投手が、故意に四球を出すようなわけにはいかない。
 そういうわけで、野球とサッカーでは事情が違う。
 プロ野球をトトの対象にすると暴力団の餌食になるおそれがある、と心配している。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月22日


「スポーツ庁」発足の問題点


スポーツ政策研究会4月例会
(4月20日、四谷保健センター)
 
★文部科学省の縄張り
 「スポーツ庁」が、10月から発足する運びになっている。スポーツ界が、長年にわたって切望していた「お役所」である。
 多くの国に「スポーツ省」などの名称で、スポーツを専門に所管するが政府機関がある。
 しかし日本では、スポーツは学校教育を所管する文部科学省の縄張りだった。
 スポーツは学校教育あるいは社会体育のための手段という位置づけだった。
 スポーツを教育のための単なる手段ではなく、独立の文化として認めて欲しい。
 そういう意味で、スポーツ界は専門の官庁を求めていた。
 「スポーツ庁」設置は、その夢の実現である。
 ところが……。
 内情は、そう単純ではないらしい。
 スポーツ庁設置に、いろいろ問題があるようだ。

★文科省の調査報告
 スポーツ政策研究会の4月例会で「スポーツ庁」が取上げられた。この研究会は、スポーツ政策に関心のある大学の先生とマスコミのスポーツ行政担当者によるボランティアの集まりである。
 元東京都のスポーツ行政担当者で、大学教授の鈴木知幸さんが、詳細な資料を配布して、これまでの経過を解説した。
 その中で気になった資料がある。「スポーツ庁の在り方に関する調査研究事業報告書」である。
 文部科学省が外部の機関に依頼した調査の報告である。
 そのなかに、次のような文言がある。
 「学校体育の所管官庁がスポーツ政策を所管している国は日本以外にはない」
 「スポーツ政策と学校体育政策を密接に関連させて推進できる体制となっている点は、対象国と比較して大きな利点である」。

★学校体育とスポーツ
 これには、いささか驚いた。
 学校体育と競技スポーツが癒着しているのは、日本のスポーツの「利点」どころか「問題点」である。
 この問題は以前から広く論議されている。
 学校の課外スポーツ活動、いわゆる「部活」が、勝敗にこだわる競技スポーツとして日本のスポーツの主流になっている。
 そして、偏狭なナショナリズムを煽るメダル争いのための「選手育成」の温床となっている。
 その弊害を、文科省は十分に承知しているはずである。
 にもかかわらず、文科省は「学校体育とスポーツの密着」は「利点」であると、外部委託の調査報告の形でPRした。 
 なぜだろうか。
 「いろいろな省庁の関連部門を集めるスポーツ庁を文科省の所管にするための根拠作りだ」という見方を聞いた。
 縄張り争いを有利にするために、黒を白と言いくるめたのだろうか?



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月21日


旧制高校「寮歌祭」雑感(下)


若者たちの時代意識
一高「詠帰会」月例会
(毎月第一月曜日、東大駒場)
 
★アムール川の流血や
 旧一高の寮歌祭に参加して、初めて寮歌の歌詞を注意深く読んだ。これまでは、ただ漫然と歌っていただけある。
「向陵駒場寮歌集」という本がある。
 明治32年からの旧一高の寮歌など150曲以上を年代順に並べて編纂した私家版の本である。
 最初から順番に見ていくと、明治、大正、昭和の時代の流れのなかで、若者たちが、どのように生き、どのように考えていたかを窺うことができる。
 寮歌は、当時の高校生(旧制、17歳~19歳くらい)が公募に応じて作詞、作曲したものである。
 「アムール川の流血や」という寮歌がある。
 メロディーは、のちに「陸軍歩兵の歌」や「メーデーの歌」に流用されて、よく知られている。
 もとは旧一高の「第十一回記念祭」の寮歌で、1901年(明治34年)に発表された。

★アジア侵略への危機感
 「アムール川の流血や」の歌詞は、当時の国際情勢を読み込んでいる。
 この歌が作られた前年の1900年に、ロシアと中国(当時の清)の国境のアムール川(黒竜江)で紛争がおき、数千人の中国人が殺された。
 それを欧米列強のアジア侵略の脅威として受け止めた。
 日本のエリート学生であるわれわれが「アジアを守らなければならない」という使命感が歌詞に表れている。
 この歌が発表されたのは、20世紀の最初の年だった。
 20世紀の東洋は「怪雲空にはびこり」「荒浪海に立ち騒ぐ」と、その後の百年の世界情勢を予言している。
 その予言どおりに、ロシア帝国の南下を食い止める日露戦争がおき、2度にわたる世界大戦が荒れ狂った。
 結果としてアジアは欧米の植民地支配から解放された。

★アジアの危機を防ぐ使命感
 この歌が作られたのは、日清戦争の6年後であり、日露戦争の2年前である。
 明治時代の末期だから、その後の日本の軍国主義の台頭や、朝鮮(韓国)、中国への侵出は予想されていない。
 それは無理からぬことだろう。
 この歌で特に注目したのは、17~20歳くらいの若者が世界の情勢にきびしい関心を持ち、それに対処する自分たちの役割について使命感を持っていたことである。
 そういう点では、寮歌のなかで、もっとも有名な「ああ玉杯に花受けて」よりも「アムール川の流血や」のほうを評価したい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月20日


旧制高校「寮歌祭」雑感(中)


サッカー文化」との違い
一高「詠帰会」月例会
(毎月第一月曜日、東大駒場)
 
★ノスタルジア
 旧制第一高等学校の「寮歌祭」に、かつての同期生の熱心な勧誘に応じて参加している。
 旧制高校の寮(寄宿舎)の仲間たちの「ノスタルジア(思い出)」の会である。
 ただし、旧制高校の卒業生は85歳以上になっているので、参加者の大半は、旧制高校のあとを引き継いだ新制大学の卒業者である。
 参加してみて気がついたのだが、スポーツのOBがサークルごとにグループで参加している。
 水泳部、空手部、端艇(ボート)部などである。
 ぼく(牛木)が入学したときは、戦後の学制改革によって旧制高校はなくなったあとで新制大学の教養学部だったが、駒場寮はサークル別に部屋割りされていた。
 だから、寮の部屋が「部室」になっていたサークルも多かった。

★サークル別の部屋割り
 そのため、半世紀以上たっても、同じ部屋で暮らした仲間の結束が強いのだろう。
 サッカーの部屋もあったのだが、サッカー部は本郷の御殿下グラウンドで練習していたので、駒場寮が「部室」として使われることはなかった。
 しかし、サッカーの部屋は、もとは旧一高のサッカー部の部屋だったので、銀の優勝杯がいくつか残っていた。
 太平洋戦争中に「銀器供出」ということがあった。
 兵器を作るために必要な金属が足りなかったので、トロフィーなどは強制的に供出させられたはずである。
 駒場寮のサッカーの部屋にトロフィーが残っていたのは、当時の一高の生徒たちが供出を拒否した「反戦思想」の表れではいか、と想像したものである。
 駒場寮が老朽化で取り壊されたとき、あのトロフィーはどうなったのだろうか?

★個性と団結
 ぼくが駒場寮に入寮したのは1952年(昭和27年)である。
 敗戦後の住宅難の時代だったので入寮希望者が多く、通学可能な首都圏の家庭の生徒は入れてもらえなかった。
 そのころ、トップクラスの高校サッカー選手で東大に入学したのは、東京の高校のほかでは、埼玉の浦和、神奈川の湘南だった。彼らは寮に入れなかった。
 そういう事情で当時の寮の「サッカー」の部屋は、部室としては機能していなかった。
 それが、寮歌祭にサッカーのサークルが参加していない主な原因だろう。
 グループで寮歌祭に参加しているのは、主として空手、水泳などのサークルである。個人競技だから、かえって皆で同じ歌をうたって結束を強調するのだろうか?
 サッカーの文化は「寮歌祭」の文化とは違うようである。
 サッカーは、チームゲームではあるが、個性が重要なスポーツである。
 日常生活では個人を尊重し、チームとしては個性を生かしてまとまる。
 それが、サッカーの文化である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月19日


旧制高校「寮歌祭」雑感(上)


「寮歌文化」を歌い継ぐ
一高「詠帰会」月例会
(毎月第一月曜日、東大駒場)

★旧制高校の寮生活
 旧制第一高等学校の「寮歌祭」に2月から参加している。
 戦前の高等学校(旧制高校)は大学進学予定者の「予備教育」のための高等教育の学校で、中等教育の後半である現在の高校(新制)とは性質が違う。生徒は現在の高校3年~大学2年相当の年齢だった。
 原則として全学生が寄宿舎(寮)で生活する「全寮制」だったらしい。
 その寮で毎年、作詞、作曲を寮生から募集して「寮歌」を制定した。
 全国に20以上の旧制高校(あるいは大学予科)があり、一つの高校に複数の寮があった。
 その、それぞれが、毎年、寮歌を制定したのだから、現在まで歌い継がれているものだけでも、寮歌は数百にのぼる。
 旧制高校は敗戦後の学制改革により、1949年度(昭和24年度)で姿を消したが、むかしを懐かしむOBたちによっていまでも各地で「寮歌祭」が行われている。

★「寮歌祭」存続のために
 そのうちの第一高等学校(現在の東大教養学部)の寮歌祭の一つ「詠帰会」に誘われたのである。
 ぼく(牛木)は中学3年まで旧制で、高等学校からは新制になったので「一高」出身ではない。
 しかし、旧一高のあとを継いだ新制大学の教養学部の駒場寮で暮らし、ときには「寮歌」も歌った。
 今年(2015年)の1月に、当時の同期生が電話をかけてきて「寮歌祭」への参加するように誘ってくれた。
 旧制高校の卒業生は、いまでは皆、85歳以上である。人数は減るばかりである。
 そこで、旧制高校の後継の大学で寮生活をした者を勧誘して「寮歌祭」を続けているらしい。
 旧友の誘いが非常に熱心だったので「義理で一度は顔を出してみよう」という程度の気持ちで参加した。

★異文化理解の感想
 毎月1度、月曜日の午後2時からの開催である。
 平日の昼間に80歳以上の超後期高齢者が集まって、手拍子とともに芸術的とは思えない蛮声を張り上げる。
 外からは「異様」に見えるに違いない。
 60年以上前に寮生活の経験のある身でも「異文化」の世界に飛び込んだような気がした。
 上級学校進学者がごく少数だった戦前のエリート教育のなかに「寮歌文化」とでもいうべきものがあり、それを歌い継いでいるように思った。
 全国各地の「寮歌」を集めた本が作られている。
 一高の寮歌だけを年代順に編纂した本もある。
 寮歌を克明に分析、研究した解説書もある。大げさにいうと「寮歌学」といってもいい分野がある。
 そういうわけで、すでに多くの専門家がいる。
 初めて「寮歌祭」の世界に目を向けた者が発言する余地はないかもしれないが、異文化理解の感想をお伝えしたい。



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
サッカー日誌 / 2015年04月16日


サッカー本、ことはじめ


ミュージアム・トークイベント
(4月2日 日本サッカー協会)

★出版物の時代区分
 サッカー・ミュージアムで、サッカーに関する出版物の展示会があり、その関連で「サッカー本事始め」というトークイベントが開かれた。
 大住良之さんが司会で、賀川浩さんと、ぼく(牛木)が、サッカーの本と雑誌についての「思い出話」をした。
 出演するために下調べをしていて、サッカー出版の時代区分を考えた。
 第1期は、明治時代の初期、中期である。
 このころは、実際にサッカーの試合が行われた記録はない。
 しかし、学校体育の授業や運動会の教材の本のなかに「フートボール」などの呼称で紹介されている。
 『戸外遊戯法』(坪井玄道。1985年、明治18年)を最初に、いくつかの類書が出ている。

★ルールと競技法の紹介
 第2期は、明治の末から大正の初期にかけてである。
 1903年(明治36年)に東京高師の学生の中村覚之助が『アッソシエーション・フットボール』を編纂して出版した。
 サッカーのルールやプレーの実際、練習法などを本格的に紹介した最初の本である。
 第3期は、大正の後半から昭和初期にかけてである。
 ミャンマー(旧称ビルマ)からエンジニアとして留学していたチョウ・ディンが、ショートパスなど新しい技術と戦術を教え『アソシエーション・フットボール』という本を書いた。これが「蹴って走る」だけだった日本のサッカーを大きく変えた。
 昭和の初期、太平洋戦争の始まる前に、慶応大学の「ソッカー部」が、ドイツのオットー・ネルツの指導書を翻訳して学び、一時代を築いた。

★商業出版の時代へ
 その後、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに参加して得た新しい知識があるはずだが、それをまとめた本はないようだ。
 日中戦争、太平洋戦争が激化したためスポーツの本を出すことが、できなかったのだろう。
 戦後の竹腰重丸の『サッカー』(旺文社)は、はじめて有力な出版社から出たサッカーの指導書である。これにはベルリン・オリンピック参加のときに得た知識が取り込まれている。
 1960年代に、ドイツのデットマール・クラマーさんが、日本のサッカーを大きく変えた。
 八重樫茂生の『サッカー』(講談社、1968年)は、クラマーさんの指導内容のノートをもとにまとめたものである。
 この本は「講談社スポーツ・シリーズ」のはじまりとなった。
 このころから、サッカー本の商業出版がふつうになった。
 これ以降が、サッカー本の歴史の第4期だと考えている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ   

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.