サッカー日誌 / 2007年11月30日


日本代表・岡田新監督の課題(中)


選手の信頼をかちとれるか

◆「オジェック監督説」が先行
 オシム監督が倒れるとマスコミの関心は後任人事に集中する。
 日刊スポーツは、オシム監督が入院してから4日後の11月20日付けに、一面をつぶして「後任監督にオジェック内定」とぶち上げた。浦和レッズの監督である。レッズがアジア・チャンピオンズ・リーグ(ACL)で優勝し、Jリーグでの優勝も有力になっていた時期だから、本当だったらニュースとしてはおもしろい。
 だが、よく読むと根拠は明確でない。協会も、浦和側も否定している。
 人事の問題では、発表まで当事者が否定することは、よくある。結果としては、27日に協会の小野技術委員長が記者会見して「岡田武史氏に交渉している」ことを明らかにしたので誤報になったが、人事のニュースは事前に漏れたためにご破算になることも多いから、まったくの見当違いだったかどうかは分からない。

◆岡田監督は報知が特報
 ライバル紙のスポーツ報知は、26日付の一面で「岡田監督内定」を特報した。その日の夕刊で一般紙の朝日が追いかけ、読売は翌日の朝刊で報道した。これだけ表に出ては、隠しておくわけには行かない。というわけで、小野技術委員長からの発表になった。
 「岡田監督」には、ニュースとしての意外性はない。協会が「特任理事」として手元に置いていた玉だからである。
 こういう順当な人事は、確実な根拠がないと先走っては書けない。推測で書いても手柄にはならないし、漏れたために、ご破算になる可能性もある。
 問題は書くタイミングである。確実なニュースソースに確かめたうえで、当人にぶつけてみる。当人が肯定しなくても、否定しなければ話があったことは分かる。「今は言えない。協会の側に聞いてくれ」などと言えば、まず間違いない。

◆3次予選を戦いながら……
 誤報にはなったが、オジェック監督説も、もっともらしいところがあった。
 というのは、日本人監督でワールドカップ予選を乗り切るのは、不可能ではないにしても、かなり苦しいと思われるからである。
 海外経験がなく、指導者として国際経験の乏しい指導者を、現在の選手たちは、なかなか信頼しないだろう。カリスマのオシム監督に心服していたのだから、なおさらである。
 そうなると、外国人監督がいい。オジェック監督は、カナダ代表監督などの経験があり、日本の現状を知っており、日本代表の主力を含む浦和レッズをまとめて結果を出している。手じかに外国人監督を求めるならば、ほかにはない。
 裏を返せば、これが岡田監督の課題である。つまり、ワールドカップ・アジア3次予選を戦いながら、選手たちの信頼をかちとらなければならないということである。


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サッカー日誌 / 2007年11月28日


日本代表・岡田新監督の課題(上)


協会としては想定どおりの人選

◆代表監督の危機管理
 オシム監督が脳梗塞で倒れ復帰は困難になったため、日本サッカー協会は11月27日に、小野技術委員長が「後任として岡田武史氏に交渉」と発表した。協会の立ち場から見れば順当な、筋書き通りの人選である。
 とくに仕事のなかった岡田監督を、環境問題担当の協会特任理事として抱え込んでいたのが役に立つわけである。代表監督に事故があったときに備えて温存していたのだとすれば、みごとな危機管理だったことになる。岡田監督自身、そのつもりで、オシム・ジャパンを見守っていたのではないか?
 もちろん、オシム監督が倒れることを予想していたわけではない。しかし人間であれば、誰でも急に事故にあうことはある。そういう場合に備えておくのは不思議ではない。
 地震を予知できなくても、地震に備えておく必要はある。

◆オシム路線を継承するのか?
 オシム監督が緊急に入院したあと、ある週刊誌が電話で「後任監督は誰がいいか」と意見を聞いてきた。
 協会としては、オシム監督の病状がはっきりしないうちに、後任監督の人選を始めたことを公表するわけにはいかない。だからマスコミで憶測が飛び交ったわけである。
 ぼくは「取材してないから、特別な情報は持っていない。しかしサッカー協会は、もちろん、後任を考えているでしょう」としか答えられなかった。
 その上で、こう付け加えた。
「問題は、新しい監督にオシム路線の継承を求めるかどうかでしょうね。オシムが積み上げてきたものを、ご破算にするのは、もったいない。そう思えば、オシムのもとでコーチを務めていた者が引き継ぐことになる。でもコーチの昇格はありそうにない」

◆ほかに選択肢のない人選
 現実の問題として、オシム路線を、そのまま引き継ぐことは不可能である。選んだ選手をそのまま起用し、ユニークな練習法をマネすることはできるが、オシム監督が選手たちをひきつけてきたカリスマ性を受け継ぐことはできない。かりに、カリスマ性のない「オシムまがい」が登場したら、選手たちからバカにされるのがオチだろう。
 オシム路線の継承を求めるなら、外国人を選ぶことはできない。オシムと同等、あるいはオシム以上の力量を持つ外国人監督が、他人の路線を踏襲することは考えられない。
 来年2月に始まるワールドカップ予選まで、時間的余裕はあまりない。
 そういうことを併せ考えると、オシムがこれまでやってきたことを熟知している人物で、しかも自分自身の個性でチームをまとめられる日本人、ということになる。
 岡田武史の起用は、そう考えると、ほかに選択肢のない人選だったように思われる。


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サッカー日誌 / 2007年11月19日


これからの日本代表監督は?


11月16日、オシム監督が脳梗塞で入院

◆年内に新監督の可能性も
 日本代表チームのイビチャ・オシム監督が脳梗塞で倒れて入院した。軽いものではないらしい。ベンチに復帰できるかどうか心配である。
 早く回復して欲しいと思うが、梗塞の部位と広がりによっては、後遺症が残ることが多い。大事をとって欲しい。66歳という年齢を考えると、なおさら無理は禁物である。
 そうなると、日本代表チームの監督を、どうするかが問題になる。すぐあとに試合を控えていれば、大熊清コーチが代理監督をつとめるところだが、年内は試合の予定はない。ワールドカップ予選は来年2月からである。オシム監督の病状によっては、年内に新しい監督を決めなくてはならない。
 これは難しい問題だ。内閣総理大臣が急に変わるのよりも、たいへんだろう。首相は政党という組織に支えられているが、オシム・ジャパンは監督の「手作り」だからである。

◆路線継承か、新路線か?
 代表チームの作り方に2通りある。
 一つは、監督が試合ごとに選手を選んでチームを編成する方法である。この場合、監督は主として、その試合の作戦指揮をとるだけである。いわば短期戦略型である。
 もう一つは、選手を育てながらチームを作り上げていく方法である。この場合は、遠い先の目標をめざして、監督のめざすサッカーを仕込んでいく。いわば長期育成型である。
 オシム・ジャパンは後者である。目標はワールドカップ予選を突破すること。そのためにオシム流のトレーニングを重ねながら、1年以上かけてきた。
 その途上で監督が変ると、チーム作りが半ばで止まってしまうことになる。
 引き継いだ新監督が、その路線を引き継いで伸ばしていくのか。あるいは、新しい方針で出直すのか。どちらになるかは、後任監督の選び方にかかわってくる。

◆外人新監督の新路線で
 後任監督は「日本人か、外国人か」という問題もある。ジーコ、オシムと輸入品が続いたから、そろそろ国産品をという声もあるだろう。
 オシム路線を継承するなら「オシム監督のもとでコーチを勤めた日本人を」ということになるが、あのカリスマ性の強い人物のあとを受けて、選手たちを引きつける力量のある日本人監督を求めるのは難しい。
 外国人ではどうか。オシムの直弟子で適任者がいれば別だが、外国人の監督が他人の路線を継承することは考えにくい。一流のコーチは個性を主張するものである。
 つまるところ新監督の新路線で行くほかはない。海外のサッカーを体験してきた選手たちを引きつけるだけの力量のある外国人監督を求めるべきだろう。
 ただし、これは、オシム復帰が不可能だと分かった場合の話である。

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サッカー日誌 / 2007年11月12日


ワールドカップをもう一度?


11月8日、協会が招致検討委を設置

◆日本へくる可能性は乏しい
 日本サッカー協会が理事会で「ワールドカップ招致検討委員会」を作った。「夢よ、もう一度」というわけである。
「手を挙げるぞ」というゼスチュアである。だけど、実際には、近い将来、日本で開催できる見通しは、ほとんどない。
 次の2010年は南アフリカである。その4年後の2014年はブラジルに決まったので、いちばん近い機会は2018年だ。
 アフリカ、南米と続くので「その次は欧州」と考えるのがふつうだろう。その次の2022年は、いまから15年先である。そのときアジアの順番になるかどうか。「地域持ち回りはやめる」というのがFIFAの新方針ではあるが、まだ開催したことのない地域や国が優先される可能性はある。

◆アジアなら中国が有力
 仮にアジアの順番になったとしても、そのときは中国が立候補する可能性が強い。
 中国は来年、北京オリンピックを開く。「次はワールドカップだ」と考えるだろう。オリンピックのあとにワールドカップを開いて成功した例としては、1970年のメキシコ、1974年の西ドイツがある。
 日本と中国がともに立候補すれば、2002年の場合のようにアジア同士で争うことになる。
 2002年のときは、日本に続いて韓国が立候補し、アジア同士の対決で、結局、ケンカ両成敗の共催になった。しかし、日本と中国の場合は、特別の事情がない限り、世界は初開催になる中国を支持するだろう。
 日本が立候補の意思を示すのはいい。しかし、中国と争うことになったら、日本は引き下がって、中国に協力するのが、いろいろな面で得策だと思う。

◆代替開催なら可能性も
 とはいえ、招致を検討するのは悪くない。立候補の意向があることを示しておかないと、中国が立候補する場合に「恩を売る」こともできない。
 FIFAに対しても、ゆさぶりをかけたほうがいい。2002年のときは無理やり、前例のない2カ国共催にさせられた。「あの借りを返せ」ということができる。
 しかし、間違っても「ぜひ、やらせてください」と懇願するようなことはすべきでない。「開催地がなくて困ったときには助けてやるよ」と強気で取り引きすべきである。
 次の南アフリカが、開催困難になるというウワサもある。南アフリカでなくても、治安や国際情勢の影響で、開催が危うくなることはありうる。
 そういうときに、現在の日本なら緊急に代わって引き受ける能力は十分である。こっちのほうが、可能性としては濃いかもしれない。


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サッカー日誌 / 2007年11月06日


秋晴れのお祭り、ナビスコ杯決勝


ヤマザキ ナビスコ カップ決勝
ガンバ大阪 1対0 川崎フロンターレ
11月3日・国立競技場

◆国立競技場を包む楽しさ
「文化の日」のヤマザキ ナビスコ カップ決勝で、勝負よりも国立競技場を包んでいた雰囲気に酔った。
 まず、なによりも、お天気だ。雲ひとつない、みごとな秋晴れだった。
 次に、ほぼ満員、41,569人のお客さんだ。川崎フロンターレの淡いブルーがスタンドの約半分を埋め、アウエー側のゴール裏は、大阪から遠征してきた濃いブルーがほぼ埋めていた。メーンスタンドとバックスタンドの4割くらいは、家族連れもいる一般客だ。
 フロンターレのサポーターの多くが、敗れたにもかかわらず、試合後、スタンドを立ち去らないで表彰式を見ていたのは、いい感じだった。
 試合も積極的な攻め合いでスリリングだった。勝ったガンバの選手たちが、心から嬉しそうだったのも、気持ちが良かった。

◆スタンドと試合が作る時空間
 サッカーの試合は、勝負を争うだけのものではない。激しくプレーする選手も楽しみ、熱烈に応援する観客も楽しめるのがいい。音楽と踊りがミュージカルのストーリーを織りなすように、サッカーでは、観客とプレーヤーが、90分間のドラマを作り出す。
 ナビスコカップ決勝が、理想的だったとは言えない。もっとすばらしい試合はあるし、応援の仕方には不満もある。
 しかし、Jリーグの多くが、単調な試合と自分勝手な応援でモノトーンの時空間を作り出しているのにくらべると、だいぶよかった。お祭りのような楽しさがあった。
 リーグ、天皇杯、ナビスコカップと、それぞれに特徴があっていいと思う。東京のこの季節は、好天に恵まれることが多いから、ナビスコ杯の決勝は、楽しい秋のサッカー祭りとして演出してはどうか。

◆安田理大がニューヒーロー
 スタンド背後のテラスには、ゴールに見立てた穴にボールを蹴り入れるコーナーがあって、若者や子どもが遊んでいた。ここは、お祭りの出店のような雰囲気だった。
 国立競技場の西南側に、ちょっとした広場がある。よく、ドッグショウなどの催しをやっているが、この日は何もなかった。ここを借りて、屋台やちょっとした催しをして、試合の前後に家族連れが楽しめるようにしたらどうかと空想した。
 決勝戦は、ガンバ大阪が後半10分に安田理大の決勝点で初優勝した。ガンバの西野監督が後半にシステムを変えて、19歳の安田を左サイドバックから中盤に上げたのが当たった。川崎の反撃も、きわどい場面を作り出し、好試合だった。
 安田のMVPが適切かどうかには異論もあるだろうが、大会の「ニューヒーロー賞」に選ばれたのと併せて、お祭りの若い主役と考えれば、ふさわしかった。


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サッカー日誌 / 2007年11月03日


日本サッカーリーグの創設(下)


西村章一さんに聞く
9月3日 JFAハウス 日本サッカー史研究会

◆趣旨には賛成、参加は無理
「トップレベルのチームによる全国リーグを作ろう」という動きは、1964年の東京オリンピックのあと、クラマーさんの提言を受けて、すぐ始まった。
 趣旨に反対する人は、サッカー協会のなかにも、チームの間にもいなかった。クラマーさんが、その前から各方面にくどいほど説明を繰り返していたからである。しかし、積極的に「参加しよう」というチームは、なかなか出なかった。
 大学チームの参加は、当時の状況では現実的ではなかった。そこで、実業団(会社チーム)のトップクラスだけではじめることになった。その中心になったのが古河電工の広報部長だった西村章一さんである。
 ところが、会社チームも、ほとんどが辞退した。関東では日本鋼管、三共なども有力チームだったが「参加は無理」ということだった。

◆丸の内御三家で踏み切る
 関東実業団のまとめ役だった西村さんのもとに、古河電工、日立本社、三菱重工業のチームの代表が集まって相談した。その結果、この3チームだけでも踏み切ろうということになった。3社の本社が東京の丸の内にあったので「丸の内御三家」と呼ばれている。
 この3社も、会社側が積極的だったわけではない。サッカー部に若い積極的なスタッフがいたこと、東京オリンピックの代表選手を多く抱えていて社内のサッカーに対する関心が比較的高かったこと、重役クラスにサッカーに理解のある人がいたこと、などの条件が幸いしたと思われる。
 関西では、関西サッカー協会の説得にもかかわらず、日本ダンロップ、湯浅電池、田辺製薬など、当時の有力実業団が軒並み辞退した。まだ、それほど強くはなかったヤンマーディーゼルだけが手を上げた。

◆Jリーグ創設時とは逆の状況
 九州では八幡製鉄(のちの新日鉄)、中国地方では東洋工業(のちのマツダ)がトップクラスだったが、ここも二の足を踏んでいた。とくに八幡を口説き落とすのが難しかったという。Jリーグ創設のときは参加希望チームを振り落とすのが問題だったが、その母体になった日本リーグ創設のときは、まるで逆の状況だったわけである。
 会社側は「社員のスポーツに全国リーグは必要ない」と考えていた。実際には企業の宣伝に利用していても、建前は「社員の福利厚生のためのスポーツ」だったからである。
 当時、日本では「プロ・スポーツはよくないもの」という偏狭なアマチュアリズムが主流だった。だから、西村さんたちは「日本リーグ」がプロ的なものと見られないように、ことさらに「アマチュアとしてのリーグ」であることを強調した。これも、Jリーグ創設のときとは、非常に事情が違うところである。

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サッカー日誌 / 2007年11月01日


日本サッカーリーグの創設(中)


西村章一さんに聞く
9月3日JFAハウス 日本サッカー史研究会

◆大学はなぜ参加しなかったか
 クラマーさんの提言を受けて「日本リーグ」を創設した当時、日本代表選手を出していたのは、早大、中大などの大学チームと古河電工などの実業団だった。強いチーム同士の試合を多くして、日本代表選手のレベルを上げるというのが、クラマーさんの考えである。だから、提案は大学と実業団が集まってリーグを組もうというものだった。
 実際に大学への呼びかけも行われた。しかし大部分は最初から拒否反応だった。理由はいろいろあった。関東、関西の大学リーグは、すでに長い伝統を持っている。大学は、ふつうは18~21歳くらいの若い選手しか使えない。実業団は、若い選手も経験を積んだ選手も加えることができる。同じ条件ではないから、いっしょにリーグを組むのは適当でない。長期間に多くの試合を組むと学業に差し支える。大学チームは学校内の体育会予算で活動しているから全国リーグで遠征する経費は取れない。などなど……。

◆早大・工藤孝一さんのアイデア
「大学チームの参加は非現実的だ」という考えばかりだったなかで、早稲田大学の工藤孝一監督だけが積極的だった。
 工藤さんの考えは「早大WMW」として日本リーグに参加しようというものだった。WMWは早大の現役学生選手にOBを加えた「クラブ」である。戦前と戦後しばらくは、こういうクラブチームが全日本選手権大会に出て優勝していた。ほかに慶応BRB、東大LBなどがあった。
 そのころ、大学OBは、就職したあと会社内で同好会的なチームを作ってプレーをしながら、全日本選手権など公式な大会には、現役に加わって出場していた。大学リーグは現役だけが出る。したがって、全日本選手権に出るのは臨時編成のチームである。それを恒久的なクラブにして、日本リーグに出ようというアイデアである。

◆アマチュアリズムが障害
 工藤さんのアイデアは現実的ではなかった。
 というのは、すでに、いくつかの会社は本格的にサッカーに取り組むようになっていて、有力な大学出選手は勤務先の会社チームでプレーしていたからである。
 卒業生を大学クラブに引き止めておくためには、報酬と経費を払ってやらなければならないが、かりに財政的に支払い可能であっても、当時は日本体育協会のアマチュア規程にしばられていて、パートタイムであってもプロ的な報酬は認められなかった。
 しかし、工藤さんのアイデアは、世界のサッカーからみれば、必ずしも空想的だったわけではない。中南米では大学からプロのサッカーが育った例があり、ウニベルシダ・ド・チリとか、ウニベルシダ・ド・メヒコという名前のクラブもある。
 工藤さんのアイデアは、むしろ先進的、国際的なものだったということもできる。


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