ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




茨城県職員東京宿泊所。文京区根津2-14。1989(平成1)年3月12日

言問通りから、文京区と台東区の区境の道(かつての藍染川の流路)を南に行くと生垣の代わりに竹を植えたマンションのような建物がある。「クラシックガーデン文京根津」という老人ホームだ。老後をここで暮らせば、上野、谷中、本郷が散歩の範囲である。神田や銀座へも地下鉄で数分乗ればいい。しかし、今の住居を処分しても入居費も出そうにない。この老人ホームに建て替わる前は明治大正期に建てられた古い屋敷を「茨城県職員東京宿泊所」として使っていた。
まちなみ・まちづくりエッセイ28 茨城県会館物語 多児胡貞子』によると、建物は、写真左奥の本館が明治44年の、写真中央の玄関棟が大正5年の建築。現在、敷地の南に移されて釜揚げうどんの「根津窯竹(かまちく)」という店になっている蔵は、木骨レンガ造で明治43年の建築。田嶋浅次郎という土建業者(丹那トンネルを請け負ったというから主に鉄道工事をやっていたのだろうか?)が自宅として建てたものだ。
昭和18年ごろ、画商の高橋武三という人のものになり、この人は料亭「翠月(すいげつ?)」を経営する。黒板塀を廻らせたそうだ。昭和29年にはその料亭がつぶれ、建物は差し押さえられて競売にかけられ、明治乳業が落札する。その後、昭和37年に新潟県に、昭和47年には茨城県に譲渡された。昭和44年の住宅地図では「明治飲料株式会社東京支店」で、正しく訂正していない感じだ。
茨城県は、使われることも少なくなった宿泊所を2003年3月で閉鎖、保存運動もおこったが、翌2004年には解体された。

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小谷菓子店。文京区根津2-5。1987(昭和62)年8月1日

はん亭の裏通りを南に行くと、坂角せんべい(『坂角せんべい/根津2』、現在は珈琲館)から先は道幅が狭くなる。たぶん昔は五人掘が不忍池へ流れていた流路を埋め立てた道路だ。この道路の右側は台東区池之端二丁目で、文京区の間に台東区が食い込んできている部分。この辺りの不忍通りは台東区である。右奥に上下に青い帯のある田中鍼灸(現在は駐車場)の看板が見えるが、その向かいに人参湯(『石崎園、ミハシヤ酒店/池之端2』、現在はマンションでも建ったかもしれない)という銭湯がある。右奥のビルは国鉄共済組合の弥生会館(現在はマンション)。
まわりの建物は変化しているが、角の小谷菓子店からの並びは今も面影を残している。小谷菓子店の建物は三軒長屋のようだ。現在、小谷商店は建て替えられ、タバコの自販機だけの営業になっている。あとの二軒は古い建物をきれいに改修して、サイトウ理髪店も営業中。その隣は中華料理の開々亭。現在は、ストリートビューで見ると建物はそのままで「古民芸 明六つ」の看板があるが、なぜか開々亭の看板はそのままである。

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板角(ばんかく)せんべい。文京区根津2-6。1987(昭和62)年8月1日

不忍通りの裏通りで、千代田線根津駅の南の出入り口の向かいを裏に入ったところ。坂角総本舗という愛知県の海老せんべいの会社の商品を売っているらしい。『東京ダウンタウンストリート1980's>谷中、根津、池ノ端1982~その四』に、1982年撮影の写真が載っている。それには、上の写真にはない「坂角のえびせんべい」の照明具を入れた箱型の袖看板がある。また、1階の白い壁や丸窓、横のサッシの窓は、1982年以降の改修だ。2002年4月にこの辺りを歩いた時には、現在のビルに建て替わっていた。
江戸から明治期にかけては、この辺りの不忍通りが根津遊郭(根津門前町)に入っていく手前の通りで引手茶屋が並んでいた。はん亭のある裏通りはその宮永町の裏通りに当たり、掘割があって不忍池へ流れていたようだ。藍染川の分流かもしれないが、本郷台からの水が集まったものでもあったのだろう。『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年、720円)によると、「五人掘」といい、写真右の上野花園町(現池之端三丁目)に通じている道のところには「もみじ橋」が架かっていた。

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民家。品川区東品川1-8。2013(平成25)年9月22日

左写真右手の道路は八ツ山通りと並行していて、写真奥へ行くと山手通りを超えて目黒川の洲崎橋へ出る。八ツ山通りの裏通りのような感じだ。八ツ山通りは旧目黒川を埋め立てて造ったもの。写真の道路は旧目黒川の対岸、洲崎の通りで、江戸期には漁村だったというが、その頃からあった洲崎の分水嶺(標高というほどのものはないから大げさだが)にできた道が元になった古い道路ではないかと思う。
台場小学校の南から山手通りの近くまでは空襲で焼失した区域で、台場小の裏手を歩いてみても戦前の建物はない。戦後すぐに建てたと思われる古い家はまだいくつか見られる。
右写真は裏通りから横丁を北へ入ったところ。台場小の西の裏手になる。写真左の鳥居は正和稲荷大明神。小さな祠は意外と奥にあり、人の家の庭にあるような具合だ。

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4棟の二軒長屋。品川区東品川1-7
2013(平成25)年9月22日

写真の家の前は東品川橋の通りから台場小学校へ向かう道路。その道路の台場薬局の向かい側に二階建ての二軒長屋が残っている。壁、屋根、玄関や窓などの建具など、外からみえるところはほぼ全面的に改修されているようだ。通りに面した家の裏には3棟の同じ長屋が平行に並んでいる。一番奥の長屋は旧目黒川河口の岸辺に面している。1階の屋根の上に物干し場を置いているから、各家ともそのようになっているのだろう。

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