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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




伊藤菓子店。千代田区飯田橋1-11。1989(平成1)年5月4日

目白通りから東京大神宮通りへ入って120mほどのところ。二階に縦長の3列の窓がある看板建築が今も残っている。その特徴的な窓は、アルミサッシの窓に取り換える際に間の二本の仕切りを切り取ってしまって、見た目の印象がだいぶ変わってしまった。その右が伊藤菓子店だが写真では自販機を置いているだけのようだ。写真右端が中華料理の「宝華」。
写真では商店街と言っていいような家並みだが、今ではビルが立ち並んでいてこれという特徴のない通りである。


日名タバコ店。飯田橋1-10
1985(昭和60)年8月4日

1枚目写真の並びで1ブロック西のところ。この辺りまで来ると台地の上にある東京大神宮へ上がっていく坂道になる。写真左端の清水薬局は現在も変わらない。クラシックなビルに見える建物は、古い航空写真で見ると寄棟屋根のようで、あるいは木造なのかもしれない。昭和44年の地図に「日名タバコ店」となっているがどこかの会社が事務所として建てたように見える。写真右のビルは「源氏飯田橋ビル」。
現在は日名タバコ店と源氏飯田橋ビルがトライグループのビルに建て替わっている。

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下見板のアパート。千代田区飯田橋1-12
左:1982(昭和57)年4月、右: 1986(昭和61)年9月23日

目白通りの飯田橋二丁目交差点の辺りの裏通りにあった木造アパート。『都市徘徊blog>飯田橋の木造家屋(2008.08.30)』で紹介されている。そこで「…昔のままの下見板張りの外観だったため、2棟の建物はかなり黒ずんで、周辺の街並みの中で目立っていた。このため、派手なデザインではなかったが、かなり印象に残るものだった」と書いていて、ぼくもこの建物を見たときはやはり同じように驚いた。外壁を南京下見板にした建物は東京ではあまり見かけない。モルタルを塗りつけてしまう場合が多いのだろうか。
同じような建物が2棟並んでいる。同じ石垣の上にあり、外観も似ているので家主が同じで、施工者も同じではないかとも思ってしまう。写真では後ろでくっついているようにも疑えるが、裏には別の家が建っていて、表の2棟はそれぞれ独立している。
『加藤嶺夫写真全集 昭和の東京3千代田区』(デコ、2013年、1800円)には建物の間の階段とその奥の家が写っている写真が載っている。左の家の玄関がどうなっているかも判って貴重な資料である。その写真のキャプションには「左は入院もできる助産所だった」とある。昭和44年の地図では「九谷助産所」、右の家は「日報社」。

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上:東京大神宮通り入り口。千代田区飯田橋1-6
1986(昭和61)年9月23日
左:東専堂。飯田橋1-5。1985(昭和60)年8月4日

上の写真は目白通りの飯田橋二丁目交差点のすぐ北から斜めに、東京大神宮へ通じている通りの入り口。写真左のトクミヤ洋服店は建物もそのままで今も営業している。写真右の高砂屋洋品店はなくなって、そこには玉垣をめぐらした中に「東京大神宮」の大きな石標が立っている。「東京大神宮通り」のアーチは取り払われ、「大神宮通り」の道標が置かれた。
東京-昭和の記憶』というサイトの「富士見 東京大神宮通り」の1985年撮影の写真を見ると、アーチ横の松柏ビルに建て替わる前の鶏肉店の看板建築が写っている。
和菓子の東専堂は目白通りの、大神宮通りへ別れる手前にあった。現在は東専堂ビルに建て替わっている。目白通りを渡って向かいから撮ればいいわけだが、面倒なので近くで済ませたという写真である。



白菊稲荷神社入り口。飯田橋1-12。1988(昭和63)年1月15日

大神宮通りに入って100mほどのところ。銅板貼り看板建築の家は「プチ フロリスト」とあるがなにをしているのだろう? 写真左端は「魚政」だから魚屋だろう。この2軒が「飯田橋センタービル」に建て替わり、白菊稲荷はその横から入っていくようになっている。

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上:飯田町食堂。千代田区飯田橋4-1
1986(昭和61)年9月23日
左:スナック紅。2006(平成18)年3月31日

上の写真は目白通りから横丁を入ったところで、写真右奥の車が走っているのが目白通り。今は写真のような木造の古い家屋はほとんどがビルに建て替わったが、1980年代ならまだかなり残っていたようである。
かしわ屋の建物はモルタル仕上げの看板建築としてよさそうだが、他は木造の簡易店舗とでもいった感じだ。写真左端の「ジャンボ(中国料理)」は今も同じ位置で建て替わったビルで盛業中。飯田町食堂は住所が「飯田橋」と変わる前からあるのだろうか。ビルに建て替わった。茶色の縁取りの看板建築風の「スナック紅BENI」が今も残っていて、看板は写真と同じものを出しているから商売は存続しているらしい。紅の右、かしわ屋(パン、たい焼)の間に路地が入っている。その隣の看板は読めないが撮影当時の住宅地図では「丸美屋」、通りとの角が「棚平」。現在はこの3軒のところには「飯田橋ISビル」が建っている。

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飯田橋駅。千代田区飯田橋4-10。1985(昭和60)年8月4日

早稲田通りの牛込橋の上にある飯田橋駅の西口。JRの発足は1987年なので撮影時はまだ国鉄である。飯田橋駅は1928(昭和3)年11月15日開業なので、写真の駅舎もその時のものだと思う。関東大震災後の復興事業のひとつだと思うが、中央本線を複々線にするのに伴って、飯田町駅と牛込駅を統合したものだ。
『加藤嶺夫写真全集・昭和の東京3千代田区』(デコ、2013年、1800円)に昭和42年に撮影された、よりオリジナルに近い姿の写真が載っている。それを見ると、今は飯場のような増築部分で隠されてしまった側面が見られ、正面の壁の上部には窓が開いている。



牛込橋。富士見2-10。1986(昭和61)年9月23日

牛込橋の真ん中辺りから外堀通りの神楽坂下交差点のほうを見たもの。現在の橋は平成8年に架け替えられたものだが、1枚目写真にも写っている橋はその先代の橋。昭和初年の架橋かと思えるが、ネット上では資料が見つけられなかった。『東京の橋』(石川悌二、新人物往来社、昭和52年、3,800円)では「(牛込御門橋)現橋は鉄筋コンクリート桁長35.61m、幅11m」とあるだけで、もっぱら牛込見付についてのほうを力説している。

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トタン貼り看板建築。台東区東上野3-12
左:2006(平成18)年11月29日、右:2013(平成25)年7月14日

永寿総合病院(旧西町小学校)の近くの横丁にあるトタン張りの看板建築。緑色に塗った波トタンの家は下谷神社の脇にもあるが、銅板の緑青をイメージしたものなのだろうか。トタンはすぐに錆が正面に出てきてしまうらしい。真ん中の家のように最初から錆色に塗った家もよく見かける。その家が「高野箔押所」。
三軒長屋といっていいのかもしれないが、アパートのような建物らしい。



名古屋精工所。東上野3-11。2013(平成25)年7月14日

1枚目写真の家のすぐ南の街区。トタン貼り看板建築なのだろうが、あまり看板建築というような感じではない。角の家とその後ろの家は片流れ屋根だ。1986年の住宅地図では写真左が渋谷製作所、角の家が名古屋精工所。今は看板がないからそのまま存続しているようではない。路地に入った青トタンの家が「トーヨーアート」の看板を出していて、1986年の地図と一致する。

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五軒長屋。台東区東上野3-35。左:1989(平成1)年2月21日、右:2013(平成25)年8月3日

浅草通りの南の裏通りで、下谷神社の斜め向かいにある五軒長屋。現在も右端の家が「㈲上野制作所」とガラス戸にかいていあり、この家だけは1989年の写真のままだ。1989年の写真でも左の3軒は1階を住居として改修されているようだ。


長部紙器工業所。東上野3-28
1989(平成1)年2月12日

下谷神社の西の横丁にある二軒長屋と出桁造りの家屋。二軒長屋として建てられたと思われる長部紙器工業所は今も建物は写真のままで操業を続けている。
長部紙器の隣は出桁造りの間口はそう大きくはないが立派な日本家屋。側面が見える左の方向からきちんとした写真を撮っておけばよかった。今はかなり改修されて写真の面影はほとんどない。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)によると、この家は鳶の頭(かしら)の家。当書には昭和62年撮影の写真と当主との話が載っている。その当時で頭は三代目、仲間内では「稲荷町」と呼ばれるらしい。玄関には纏(まとい)が置かれている。

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浅草通り裏の看板建築。台東区東上野3-34。1988(昭和63)年5月1日

浅草通りの南の裏通りで、下谷神社の前を東西に通っている。銅板貼り看板建築の家が3棟ならんでいる。左の1軒は1階が住宅のものに改修されている。他の2軒は木の枠のガラス戸で、家内工業所のような構えだ。その隣はおそらく白く塗ったトタン貼り看板建築、次いで銅板貼り看板建築だ。
現在、左の3軒は健在だが、その左の家は1階を車庫に改装し、その隣は4枚のガラス戸の1枚をドアに替えている。白い看板建築とその隣はそれぞれがビルに建て替わった。



左:黒沢写真店。東上野3-34。2013(平成25)年8月3日
右:クロンボ。東上野3-34。1989(平成1)年2月12日

左写真の右手の路地は浅草通りと1枚目写真の裏通りとの間にある路地。写真のところから入ると、田中家の横から下谷神社の参道に出られる。路地との角にある家は「黒沢写真店」だった家で、ショーウインドーにはカメラを飾っていたのかもしれない。
左写真右はビルの新築工事中だが、そこにあったのが右写真の2軒の家。1986年の住宅地図では、ソーコと食堂クロンボ(洋食)、右のビルが浅草通りとの角に建つ四国仏壇のビル。

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