ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




菊水軒。中央区日本橋人形町1-10。1988(昭和63)年10月30日

新大橋通りから日本橋小学校の方へ入る道路から人形町通りの方向を見ている。「中華洋食菊水軒」の右手に「てんぷら中山」。8番地に変わる路地まで10番地の一角は古い家が並んでいる。



サイトウ精美堂(印章・ゴム印)。日本橋人形町1-10。1985(昭和60)年2月
写真右端が菊水軒。前の道路を左に行って通りを渡った先が日本橋小学校。


京城苑(焼肉)
1986(昭和61)年4月13日

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左:和風三階建ての家。台東区台東3-36。1989(平成1)年2月12日
右:橋本タクシー。台東3-36。1988(昭和63)年4月10日

和風三階建ての家は、2・3階は少し引っ込んでいるがほとんど総三階建てのような家だ。防火用水に「増渕」と、家名を浮き彫りにしている。台東4丁目との境になる道路から南に入る横丁で、昔は南に行くと新東京という映画館(中村屋参照)の角に出る。酒井不二雄(西町小学校参照)は戦前、よく新東京で映画を見たらしいが、この横丁を通っていったと書いている。
三階建ての看板建築は住宅地図では「橋本タクシー」。空き家になっているようだ。袖看板は「各種食料品」とだけ読めるが、橋本タクシーの前は食料品店だったのだろう。



橋本タクシー。1989(平成1)年2月12日

『東京路上細見3』(酒井不二雄著、1988年、平凡社刊)によると、建物1階の右に懸かっている板の表札は「橋本タクシー営業所」。

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西郷内科医院。台東区台東3-3。1988(昭和63)年頃

場所は佐竹商店街のそばで隣の家共、現存する。診療時間等の案内板がないので医院は廃業したのかもしれないが、建物の角に看板を立てている。建物は保存状態がいいから窓枠なんかも建築時のままかもしれない。角の電柱のつっかい棒が邪魔だ。



西郷医院の玄関。2003(平成15)年10月23日

近年、外壁を塗りなおして昭和63年撮影の頃よりきれいだ。玄関の引き戸も磨かれている。まだまだ建物を使っていくようだ。窓枠が変わっていくらか古風な感じが減ったのが残念だが、見るだけの人の感想である。玄関両脇の植栽が変わっている。

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竹の湯。台東区台東3-38。1992(平成4)年3月22日

取壊し寸前のようだ。入口が唐破風の屋根を持つ、よく見かける様式の銭湯だったようだ。旧町名の竹町からの命名だろう。


倉庫。左:1992(平成4)年3月22日、右:1988(昭和63)年4月10日

竹の湯の隣の看板建築がおもしろい。竹の湯の角を占めているから竹の湯の家作かもしれない。住宅地図ではソーコの記載があるだけ。右の写真を撮った昭和63年なら竹の湯がまだ営業していた時の写真が撮れたはずなのだが。

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銀座中央通り、片桐ビルから読売広告。中央区銀座1-8。1983(昭和58)年8月21日

中央通り、銀座1丁目の東側を南方向へ向いて撮った写真。住宅地図によれば写真左から、片桐ビル(ダイショウの袖看板)、宝光ビル(銀座茶館)、イトーキビル、銀座ABビル(アサヒビールの袖看板)、ツルヤビル、ササキ、喜久屋、伊勢伊ビル、レックス亜壽多、銀座アスター本店、大新、読売広告社。



銀座ABビル。1985(昭和60)年9月8日

地下にガンダーラ、1階に銀座ビヤハウス、2階にピザハットなど全館飲食店のようだ。
『震災復興〈大銀座〉の町並みから・清水組写真資料(銀座文化史学会編集、秦川堂、平成7年発行)』にこのビルが載っている。以下、その記事によるが、日本麦酒鉱泉という会社が本社ビルとして建てたもので、設計施工は清水組、昭和4年3月着工、12月10日竣工である。昭和10年に改装され、戦災で内部が焼けたようで戦後、再度改装されている。竣工時から1階をバー(ユニオンバー)、地下をビヤホールとした。
と、この調子で書いていくと全文書き写してしまいそうなのでやめておく。本書はまだ教文館あたりで買えるかもしれない。
竣工時の写真を見ると、スクラッチタイル貼りで、1階は中央に入口、その両脇はショーウインドウである。


銀座ABビル
1987(昭和62)年10月25日

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牧東文堂(文具)、名糖牛乳販売所、上野アパート。台東区池之端3-1。1988(昭和63)年8月5日

前の道路は上野水上動物園の北を、不忍通りと上野動物園の西を通る道路をつなぐ道である。向かい側に東京弥生会館がある。牧東文堂と名糖牛乳販売所の背後が上野アパート。3階建てのかなり大きい建物だ。上野アパートの後ろはかつて都電の専用軌道が敷かれていた。都電は40系統で、銀座-須田町-上野公園と来て専用軌道から不忍通りに出て明神町車庫へと走っていた。廃止されたのは1971(昭和46)年3月。


上野アパート
1989(平成1)年9月10日

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石崎園支店(茶)。台東区池之端2-8。1989(平成1)年4月29日

写真左端は前回のみのぶ印刷で、石崎園との間にあった店が取り壊されて路地に向いていた家が見えている。洋風の赤い屋根の家は石田荘。その背後は人参湯。石田荘は人参湯の家作のようである。



ミハシヤ酒店。池之端2-8。1989(平成1)年4月29日
石崎園の隣である。ミハシヤ酒店の並びは大成理工、サカエヤ肉店。

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みのぶ印刷。台東区池之端2-9。1989(平成1)年4月29日

台東区池之端2丁目は不忍池の西北から北に細長く伸びていて、町の東側に不忍通りが通っている。旧町名は池之端七軒町になる。写真は不忍通りの東側。
看板がないから印刷所は廃業しているようだが、1階すその白いタイルなどの造作からは飲食店のような感じを受ける。とにかく3階両端の太い柱の飾りが目立つ。大正12年の建築という。



みのぶ印刷。1984(昭和59)年10月

撮影した時は不忍通りを根津のほうから歩いてきたのだが、かなり遠くからでもこの建物が認められ、大きい看板建築があるなあ、という印象であった。当時はビルも少なかったのだろう。2階の窓がまだ木の枠だ。


みのぶ印刷1階部分
1987(昭和62)年4月18日

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日本医科大学看護専門学校。台東区上野桜木1-10。1988(昭和63)年8月5日

建物の前の通りは言問通り。写真左端にわずかに写っているビルは、撮影時の住宅地図では「老人病研究所/ワクチン療法研究施設」となっている。また、看護専門学校の向かいの谷中6丁目には「日本医科大学看護専門学校グラウンド」がある。
日本医科大学は根津神社の北、文京区千駄木に日本医科大学付属病院があるが大学もそこにある。日本医科大学の「沿革」には、「昭和51(1976)年5月、桜木校舎(台東区上野桜木)に老人研究所、ワクチン療法研究施設、看護専門学校等を設置」とある。丸山ワクチンはここで研究されていたのだろう。
日本医科大学が昭和51年に移ってきたとすると、それ以前はどうだったのだろ。戦前の地図では「東京薬事女子部」となっている。昭和33年発行の区分地図では「東京薬科女子」。東京薬科大学の「沿革」に、「1929(昭和 4年) 上野桜木町・旧校舎跡地に、上野女子薬学校を設立。 1931(昭和 6年)上野女子薬学校を東京薬学専門学校女子部と改称。」とあるから昭和4年建築の校舎なのかもしれない。
『都バス・東京旅情《東部編》』(林順信著、大正出版、昭和59年刊)に、言問通りを走るトロリーバスの写真に看護専門学校が写っている。昭和43年撮影だが、その写真のビルは、2階の窓の下と4階の窓の下にでっぱりの線が通っている。また各窓の下にもでっぱりがあり、けっこう古くみえるのだ。
現在は平成14年竣工の「ルネ上野桜木」という14階建て152戸の大型マンションが建った。地元ではかなりの建設反対運動があったようだ。



日本医科大学看護専門学校の玄関。1991(平成3)年9月23日(写真の日付は間違い)



アパート。上野桜木1-7。1990(平成2)年2月18日

写真手前の道路の角は護国院の前で、右に行くと寛永寺に突き当たる。アパートの左の日本家屋の後ろが看護専門学校らしい。アパートと手前の駐車場の敷地は住宅地図で「伊藤次郎松商店」となっている。現在はマンションに変わったようだ。

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