goo blog サービス終了のお知らせ
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
CALENDAR
2025年8月
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
前月
翌月
ENTRY ARCHIVE
2025年08月
2025年07月
2025年06月
2025年05月
2025年04月
2025年03月
2025年02月
2025年01月
2024年12月
2024年11月
2024年10月
2024年09月
2024年08月
2024年07月
2024年06月
2024年05月
2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月
2023年11月
2023年10月
2023年09月
2023年08月
2023年07月
2023年06月
2023年05月
2023年04月
2023年03月
2023年02月
2023年01月
2022年12月
2022年11月
2022年10月
2022年09月
2022年08月
2022年07月
2022年06月
2022年05月
2022年04月
2022年03月
2022年02月
2022年01月
2021年12月
2021年11月
2021年10月
2021年09月
2021年08月
2021年07月
2021年06月
2021年05月
2021年04月
2021年03月
2021年02月
2021年01月
2020年12月
2020年11月
2020年10月
2020年09月
2020年08月
2020年07月
2020年06月
2020年05月
2020年04月
2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月
2019年05月
2019年04月
2019年03月
2019年02月
2019年01月
2018年12月
2018年11月
2018年10月
2018年09月
2018年08月
2018年07月
2018年06月
2018年05月
2018年04月
2018年03月
2018年02月
2018年01月
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年09月
2017年08月
2017年07月
2017年06月
2017年05月
2017年04月
2017年03月
2017年02月
2017年01月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年09月
2016年08月
2016年07月
2016年06月
2016年05月
2016年04月
2016年03月
2016年02月
2016年01月
2015年12月
2015年11月
2015年10月
2015年09月
2015年08月
2015年07月
2015年06月
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2012年03月
2012年02月
2012年01月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年09月
2011年08月
2011年07月
2011年06月
2011年05月
2011年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年04月
2006年01月
RECENT ENTRY
曽根崎変電所/大阪市北区西天満
毎日新聞大阪本社/大阪市北区堂島
大阪鉄道管理局/大阪市北区大深町
梅田阪急ビル/大阪市中之島
日本銀行大阪支店/大阪市中之島
中之島図書館2・3号書庫/大阪市中之島
大阪府立中之島図書館/大阪市中之島
大阪市中央公会堂/大阪市中之島
難波橋/大阪市西天満、中之島
水晶橋/大阪市西天満、中之島
RECENT COMMENT
ふるやけいじ/
東急レストハウス/藤沢市鵠沼海岸
先程の者です/
梅田阪急ビル/大阪市中之島
通りすがりの者です/
梅田阪急ビル/大阪市中之島
流一/
中之島図書館2・3号書庫/大阪市中之島
sakuzukikoyoi/
中之島図書館2・3号書庫/大阪市中之島
グズグズ/
王子製紙/銀座4丁目
tomcat/
らんぶる/銀座5丁目
流一/
石原ビル/大阪市北浜
Unknown/
石原ビル/大阪市北浜
流一/
名曲喫茶 ウイーン/千代田区神田駿河台2丁目
RECENT TRACKBACK
CATEGORY
目次
(50)
日本橋
(304)
京橋・銀座
(228)
築地・月島
(221)
神田
(223)
丸の内・麹町
(112)
港・品川・大田
(121)
本郷・小石川
(298)
浅草
(176)
下谷・根岸
(214)
上野・谷中
(115)
深川・向島・葛飾
(269)
荒川区・足立区
(83)
新宿豊島北板橋区
(57)
神奈川県・静岡県
(480)
千葉茨城埼玉県
(244)
私事
(4)
全国
(62)
BOOKMARK
goo
最初はgoo
廃景録
SAKITAKA’S HOMEPAGE
日常散策
Site Y.M. 建築・都市徘徊
都市徘徊blog
分離派建築博物館
Index to Anthologies
ぶらり東京~23区巡り~
むにゅ’sのぉと
Hyper Azabu Tano9
アクトデザイン凛太郎のブログ
Clocks & Clouds
東宝娯楽映画 ロケ地巡礼
MY PROFILE
goo ID
ryuw-1
性別
都道府県
自己紹介
1943年東京生まれ。定年退職後、年金暮らしの普通の高齢者。「はじめに」に当ブログの内容の説明と自己紹介があります。
SEARCH
このブログ内で
ウェブ全て
URLをメールで送信する
(for PC & MOBILE)
都立白鴎高校/元浅草1丁目
浅草
/
2011-06-30 20:56:43
都立白鴎高校。台東区元浅草1-6。1986(昭和61)年頃
現在のきれいな校舎は1989(平成1)年12月に完成した。その前の校舎が写真のもので、『総覧』に「都立白鴎高校(旧東京府立第1高等女学校)、元浅草1-6-22、建築年=1928(昭和3)年、構造=RC3、設計=岡田信一郎・東京府営繕課、備考=「建築世界」S2.07による。セセッション風。」となっている建物。
同窓会の会費を払っていないので大きな声ではいえないが、ぼくが50年前に通っていた高校である。その校舎が恐れ多くも岡田信一郎が関わっていたとは当時は知らなかった。昭和初期に建てられた近代建築だとも意識しなかった。それは当然としても、府立第一高女とは耳にしたが、学校の歴史などにも無関心だった。
岡田信一郎は古典様式の建物を多く設計しているようだが、公立の学校では金をかけられず、わりとあっさりした普通の学校建築になっている。全体は校庭を囲むように「コ」の字型の平面。北側の中央棟の真ん中にアーチの開口部がある。左翼棟の先端に体育館、右翼棟の先端に柔道場や音楽室などが入る部分がくっついている。
シンボルとしての時計塔と入り口のホールがセセッション風といえるのかもしれない。
ぼくが在籍していた当時は、1クラス50人で1学年8クラス、そのうち2クラスが女子だけのクラスだった。つまり全校生徒は1200人。8割がた台東区と中央区に住んでいる生徒で、次いで足立区、荒川区、千葉県といった辺りだ。今はどうなのか検討もつかない。
校舎の南西部分。右の校舎本体とは別棟かもしれない。1階は柔道場。
左上:出入り口のホールから左右の廊下につながるドア。このドアは新校舎の3階に移設された。
右上:右翼棟の付け根。半円窓があるとはしらなかった。
左:右上写真の左にも写っている洗い場。銘文には「クラブ歯磨寄贈」と読めるのだが卒業生の会社だろうか。
コメント (
36
)
|
Trackback ( 0 )
«
八百作、清月...
都立日比谷高...
»
コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
貴重な写真ですね
(
lot49snd
)
2011-07-02 00:04:25
見に行きたい建物にリストアップしていたのですが、残念ながら見ることが出来なかったので、アップしていただけて嬉しく思います。
卒業生とはうらやましい限りです。きっと思い出がたくさんおありでしょうね。
段々のついたアーチと緑色の扉はおもしろい造形ですね。一番最初の写真の時計塔の左側の建物が体育館でしょうか?
>lot49snd様
(
流一
)
2011-07-02 17:23:25
勉学に励み、遊ぶときは遊ぶ……などとはいきませんね。どっちも中途半端で。
お尋ねの建物は右翼棟の北側に突き出すようにくっついている講堂です。全校生徒1200人が収容できるかどうかは知りませんがけっこう大きかったと思います。劇場のような舞台が南側に、後ろにはやはり古い映画館や劇場のように2階席がありました。入学式、卒業式、講演会、文化祭での演劇、映画の上映などで使用しました。そういえば式典で歌う校歌や蛍の光は三部合唱くらいでハモっていたのを思い出しました。
Unknown
(
岡田ファン
)
2011-07-11 21:08:10
貴重な写真の紹介ありがとうございます! 水飲み場が渋いですね。
>岡田ファン様
(
流一
)
2011-07-13 21:32:18
クラブ歯磨を売り出していた会社は名称は変わりましたが今もあるのですね。いつ頃寄贈したものかは分かりませんが、中山太陽堂は関西の会社なので、全国の主な高等女学校に設置したのかもしれません。
びっくりです!
(
miyuki3
)
2011-11-07 13:25:39
2008年二長町小学校にコメントを入れたものです。たまたま母校の写真がある!と思って見ていてビックリです。先輩だったんですね。。私は昭和36年生まれですから、まさしくこの古い(外履きが汚れる)校舎に通っていました。授業中は私語がなく、辞書は友達予習は命(白鴎生格言)を知らずに実際そうしていたことを思い出しました(汗)みんな大人で世の中に出て子供が多くて苦労しました(笑)
>miyuki3様
(
流一
)
2011-11-07 21:18:27
昭和36年には私は高校生でした。ガガーリン、大鵬・柏戸、用心棒(映画)、スーダラ節・・・などといっても生まれたばかりのmiyuki3さんには関係ないですね。白鴎生格言は聞いた覚えがありません。そのせいか、私は成績がさっぱりで・・・。しかし、確かに皆さんまじめでしたね。妻が卒業アルバムを眺めて「みんな頭よさそう」と言ってました。
アルモンドタワー
(
グズグズ
)
2011-11-09 00:45:35
時計台をアルモンドタワーと言うそうですね。その意味までは調べませんでしたが新校舎にも新アルモンドタワーがあるそうです。学校の象徴となっているのでしょうね。
>グズグズ様
(
流一
)
2011-11-11 17:19:09
木の実のアーモンドしか連想がいきませんが関係ないようですね。今の校舎の時計台は旧校舎のものを踏襲しているわけですが、そう唐突でもなくうまくはまり込んでいる気がします。
時計台の中を一度覗いたことはあるのですが、なにぶん昔のことで報告できるほど憶えていません。階段があって机が押し込まれていたような……かってに作り上げたイメージかもしれません。
Unknown
(
miyuki3
)
2011-11-15 09:54:24
タワー名は在学時代あまり話題にも上らず、時計台と言っていました。たしかその時計台の上の方に小部屋があってピアノ?が1台置かれていたような気がします。これは全くのうる覚えで事実でないような気がしていますが一度時計が落ちたなんて話が出たような。。いずれにしても古かったのでそういう噂が流れていたのでしょう。
そういえば柔道場ある棟の3階は音楽室でした。
私の頃は男女比同等で、8クラスあり音楽専攻が4クラス、残りが美術・書道で4クラスだったと思います。
3年になると文系・理系でカリキュラムが組まれ大学のように自分の選択したクラスをさまよって居た記憶があります。
わが青春
(
不肖の卒業生
)
2011-12-10 15:08:29
はじめまして。
都立白鴎高校の卒業生です。昭和43年生まれ、白鴎は昭和62年卒業なので、まさにこちらの写真が撮影され
た当時、在学中でした。
懐かしい風景に出会えて感激です。
当時は伝統校という認識はあったものの、なんだか古めかしくて堅苦しい学校だなあ、くらいにしか思っておりませんでした。もったいないことです。
むしろ卒業してからのほうが、「いい学校だったなあ。」としみじみ思っております。
階段の真ん中の、みんなが踏みしめる部分がすり減ってへこんでいました。
広い図書室は自習室を兼ねていて、これまた古い机と椅子がずらーっと並べてあり、冬の放課後はストーブの近くの席はあっという間に埋まって、みんなよく勉強していました。
写真3枚目の、時計台の右下に見えるアーチで囲われた1階部分を「鐘つき堂」と呼んでいたと記憶しています。校内のいわゆるチャイム(各教室のスピーカー
から流れてくるおなじみのキーンコーンカーンコーン)が設置される以前は、用務員さんが時刻に合わせて鐘をついていた…とか。実際、鐘つき堂の天井部分
に小さな鐘がぶら下がっていたような記憶もあります。
白鴎といえば講堂と時計台。校舎全体が博物館のような雰囲気で、たいへん趣きがありました。
懐かしく貴重な写真を拝見させていただき、ありがとうございました。
>不肖の卒業生様
(
流一
)
2011-12-11 14:53:36
当ブログへの訪問とコメントをありがとうございます。もしかして、不肖の卒業生さんは旧校舎で学んだ最後の世代になるのかと推定しましたが、どうでしょうか?
私が在学していた頃は戦前築の校舎はごく普通で、学校とは薄汚れていて暗いものだと思っていました。「鐘つき堂」とは聞いた覚えがありませんが「小さな鐘がぶら下がっていたような記憶」は私もあるような気がします。
Unknown
(
不肖の卒業生
)
2011-12-11 21:28:59
返信をいただきありがとうございます。
「最後の世代」。たしかにご指摘のとおりかもしれません。
通っていた小学校(都内の公立小)も、在学中に校舎の建て替えがあったことを思い出しました。入学当時の旧校舎は、床、階段などは木製で、全体に薄暗い校舎
でした。教室のストーブは「コークス」を使っていました!
その後、仮設プレハブ校舎での不自由な学校生活を経てピカピカの鉄筋コンクリート校舎に建て替えられました。昭和50年代のことです。
子供の頃、家々の窓枠は木製で、カギは真鍮製のねじ式でしたが、時がたつにつれほとんどがサッシ窓にかわっていきました。
白黒テレビも二槽式洗濯機も記憶にありますが、8つ下の妹はそういったものの記憶はほとんど無いようです。だからやはり「昭和らしい昭和」の感触を覚えて
いる最後の世代になるかもしれません。
今さらながら、もっと大事に記憶にとどめておけばよかったと思いますが、少しでも旧校舎を体験できただけでも幸せなことなのですね。
これからもこちらの写真を拝見させていただきます。
流一先輩、どうぞお体を大切に、末永くブログを続けてください。楽しみにしています!
懐かしい写真をありがとうございます
(
私も最後の世代
)
2012-05-20 22:21:44
私は昭和44年生まれ。2年生の時に校庭の発掘調査と取り壊しが始まり、3年生は金竜小学校(=仮校舎)で過ごしました。
在校中からこの校舎が大好きで、取り壊しが決まった時の学園祭で、あらゆる場所の写真を取り、美術の先生に指導していただいてパースを起して冊子を作った記憶があります。ちょうど100周年の前でした。
あの冊子、今も残っていたら・・・と思うと残念です。(たぶん処分してしまいました。)
その冊子を作る名目で、鍵がしまっていた時計台の下や、体育館の上、保健室の裏あたりにあった使われていない階段などにも入らせてもらいました。増築を重ねていたのか、かなり複雑な構造になっていたと思います。校庭には、日露戦争戦勝記念なんて札の付いた月桂樹などもありました。
新校舎には足を踏み入れたことがありませんが、見てみたいものです。娘が入学してくれるといいのですが。
突然のコメントで長々と失礼しました。
>最後の世代様
(
流一
)
2012-05-21 21:21:16
生徒が古い校舎の記録を残す活動をしていたのですね。その冊子が残っていないのは残念ですが、大切に保管している方もいると思いますので、また見る機会はあると思います。「時計台の下」「使われていなかった階段」「日露戦争戦勝記念の札」・・・なんとも興味をそそられます。
懐かしい
(
白
)
2013-03-25 17:56:26
私も他の方同様この校舎の最後の頃に卒業した物です。
卒業後数年で取り壊しとなり非常に悲しかった事が思い起こされます。
当時5学区の中学生は受験時上野か白鴎かで迷った物でしたが(グループ選抜初年度でした)
私はこの校舎をみてここしかないと決めたくらいです。
時計台は確か部屋的なスペースがあって合唱コンの練習をしたのをはっきり憶えています。
卒業生の方も多く訪れるページと思いますが、立て替えられた校舎(もう20年以上たつのですね)も
なかなか捨てたのでは有りませんので学校公開を頻繁にやってますから(今やちょっとした有名校・・)
縁有って子供もこの学校にお世話になり全く違う建物のはずなのに何故か懐かしさも感じられます。
>白様
(
流一
)
2013-03-27 10:58:33
古い校舎だと、使い勝手や設備のことを考えると敬遠するのが普通のような気がします。建物で進学する学校を決めた、というのはあるいは府立第一高女への憧れが影響した、ということはなかったでしょうか? 私が入学した1960年では、古い校舎など珍しくもなく、建物について特に考えることもなく、卒業してしまいました。その点、白さんはとは学校へ向ける意識がまるで違いますね。
懐かしい2
(
白
)
2013-03-27 18:51:37
早速のお返事ありがとうございます。
あまりコメのばす場所でもないですが・・・
個人的に江戸川乱歩の小説(少年向け)などが
大好きだったため昭和初期の所謂洋館などにあこがれがあった為かと思われます。
在校時のお気に入りはやはり図書室と講堂それから
柔道場や音楽室があるエリアなどでした・・
白鴎高校
(
ひで爺ィ
)
2014-06-07 14:30:42
流一さんが通われていたとは、ビックリです。
小生 ずっと後(S40ころ)まで女子校だとばかり思っていました。
皇室ゆかりの学校と聞かされたことがありましたが。
私は単なるご近所生まれに過ぎませんが。ずっと後ですが記憶にあるのは白鴎女子学生が上野駅までの帰り道、秋山工芸社前のたこ焼き屋さんで盛り上がってましたよ。
>ひで爺ィ様
(
流一
)
2014-06-10 19:50:33
今調べたら男女共学になったのは昭和25年でした。世間では第一高女のイメージが戦後しばらくは続いたのでしょう。ひで爺ィさんの認識はそのまわりの大人の影響かと思いますが……。
「皇室ゆかり」というのは、たぶん皇后陛下が行幸されたことを言っているのかと思います。学校のホームページの沿革を見ると、皇后陛下は昭和6年と昭和33年に訪問されています。入学式のときに、その記録映画をみせられました。
建物
(
路じうら小僧
)
2015-05-23 11:31:46
実は私の兄が白鴎で、当時建物が良いと聞いてた
んですが、ホント渋くて良いですね。
兄はS42年生まれですので、先にコメント書かれた方々と近い年代ですが、
しばらくして取り壊されてたんですね。
なにかしら理由付けて私も中を覗いて見たかったです。
年齢は兄と一つ違いでしたが、白鴎は偏差値高くて私には無理ですし^^、
「中の中」or「中の下」くらいの偏差値だった竹台に入ったのですが、
こうやって白鴎の校舎を見ると確かに偏差値高そうに
感じてしまいます^^
>路じうら小僧様
(
流一
)
2015-05-25 10:27:36
私が在学していた頃は、戦前に建てられた校舎を使っている学校の方が普通でしたから、そういうものかと無意識に受け取って、建物のことなどはまったく意識していませんでした。
今調べてみると、私が受験した頃は学区(第五学区―中央区、台東区、荒川区、足立区)はありましたが学校群制度になる以前ですね。第二志望をどこにしたのかまったく憶えがありません。家の近くの日本橋高校かな?
情報
(
白
)
2015-06-12 09:50:39
以前投稿させていただいた者です。
若干コメントが増えていたので現在の校舎について情報です。
子供も白鴎に通っていたので新校舎に入る機会
多々ありました。
不思議なもので全く違う建物なのに何故かしら
当時の面影が感じられます。
また校舎内に旧校舎の扉が展示されており
同時に旧校舎の模型(生徒有志作成)も展示されております。
最近では公立中高一貫校としてちょっとした人気校ですから
学校公開が頻繁に行われまた文化祭も一般の方が多数訪れますので
案外気軽に校舎に入れますので興味のある方は
いかがでしょうか。
Unknown
(
のこ
)
2016-06-27 02:31:06
おぉ…
さすが我が国最初の高等女学校ですね。
わたしは昭和の最後の生まれなので
新校舎に通い、在学中に中高一貫校になりました。
こっちの校舎で勉強したかった!
なんでボレロ廃止しちゃったかなぁ
白鴎バッチも昔はもっと大きかったみたいだし
まぁ、時代は移りゆくものですから
仕方ないのかもしれませんね。
それと旧校舎時計台のピアノは
先日の同窓会報によると、復元されたようですね。
>のこ様
(
流一
)
2016-06-28 09:50:29
昔の女子の制服をごぞんじですか! 「ボレロ」というとは今まで知りませんでした。ウィキペディアに「1924年(大正13年) - 日本で最初にボレロを制服に採用」とありますね。それ以前は和服だったかと思いますが、関東大震災の経験で動きやすい洋服に改めたのでしょうか? バッジは確かに不必要に大きかったですね。
ピアノ修復の件は白鷗高校のブログを閲覧してみました。大正13年に納品されたスタインウェイ。歴史のある学校にふさわしい調度品ですね。
はじめまして
(
海東ルパン
)
2017-05-18 11:25:59
昭和45年生まれの卒業生です。
104回生、白41期となります。
高校2年の途中で仮校舎に移転し、卒業後にOBとして新校舎に入りました。
移転前には時計塔内部への出入りも許可され、休み時間などには生徒で賑わっていました。
2012年にコメントをお入れになっている「最後の世代」さんが触れられている『ecole』という冊子も所持しております。
天文班に所属しておりましたが、その先輩方と撮影した校舎内部や旧校舎解体の写真も残っておりますので、お時間のある時にでもご覧ください。
校舎
http://yahoo.jp/box/efkybi
校舎解体
http://yahoo.jp/box/GAxJWZ
校舎図面(国立国会図書館にてコピー)
http://yahoo.jp/box/Ct0Nrv
>海東ルパン様
(
流一
)
2017-05-22 10:35:30
貴重な写真を公開していただき、ありがとうございます。私が在学中は貴重な建物という認識は絶無で、当然詳細には覚えていません。屋上から塔屋をまじかに見られたようですが、まじまじと見なかったせいか、これまた記憶があやふやです。階段の手すりなど豪華な造りですね。府立第一高女として建てられていますが、なにか高等女学校に特徴的な造りや装飾がなかったのかな、と今にして考えています。
Unknown
(
私も白鴎41期
)
2020-03-14 17:14:15
旧校舎→旧金竜小学校校舎を経て卒業直前だけ新校舎を利用しました。
懐かしいですね。
あの柔道場、狭いうえに中に柱があるというデンジャラスなつくりでした…
増築増築を繰り返した建物なので場所ごとに手すりの形状が違っていたことも覚えています。
それにしてもあの時の「新校舎」がもう築30年なんですね。
Unknown
(
私も白鴎41期
)
2020-03-14 19:06:51
と思ったのだけど完成は89年12月ですか。
勘違いでしょうか?
卒業直前に新校舎に入れてもらった記憶があるのだけど。
関東大震災
(
toki
)
2022-08-23 15:05:26
白鷗高校のこの時計台のある正面の校舎は大正12年の8月31日に落成し、翌9月1日にこの新校舎を残して崩壊と自分が高校生の頃の生徒手帳の沿革に書いてあったと思います。
また、不思議な校舎で、同じ階に行くのに廊下の中央に半階分程度の高低差の階段があったり、鴎友ホールというところだったか、階段の踊り場にガラスがあり、そのガラスの向こうにまた別の階段があったり、音楽室の奥には屋上に続く(?)螺旋階段があったりと、はじめてに人(でなくても)迷うような作りだったと思います。
>toki様
(
流一
)
2022-08-27 10:38:53
関東大震災の起こった前日に落成していた! 昭和3年竣工、というのは被害の改修が終わって使用を始めた時点なのかもしれませんね。
校舎の不思議な構造は、これといって憶えていません。考えると夢を思い出そうとしているような気分になってしまいます。
Unknown
(
北味
)
2023-07-22 21:59:39
第五学区という区分だったそうで、うちの親がこの学校だったそうです。
このブログを見せたら「アルモンドタワーじゃん懐かしいねェ」との事。
「誰が設計したとかまでは生徒は知らなかったんじゃないか?」
「校舎が煤けてて、軍隊の官舎みたいな感じだった」
「あの制服をボレロって認識は無かったけど、確かにボタンは無かった。首元で結わえてたと思う。」
「70周年で皇后陛下が来てアーチの所でクラスでお出迎えしたから間近でお顔を見れた。」等々
高校時代の話を聞かせてくれました。
タワーに付いては少なくとも自分の周りでは「時計台」って呼称ではなく
「アルモンドタワー」って言われてたよ?との事でした。
>北味様
(
流一
)
2023-07-25 10:20:41
北味さんのいう「親」とはお父様でしょうか。私が白鴎高校に入学したのが昭和35年ですので、ほぼ同世代ですね。有馬中学でも高校でも同じ先生から授業を受けたのではないでしょうか。数年前、「白鴎15回生同期会」が上野精養軒であったので、恐る恐る出席しました。
>>流一様
(
北味
)
2023-08-01 18:50:50
ボレロの制服の事をボレロと思わず毎日着てたそうなのでウチの親はかなり抜けていたと思います。
母は大昔発行された卒業生名簿見ると74回(白鴎11回)って所に名前がありました。
>北味様
(
流一
)
2023-08-03 09:40:32
お母様でしたか、大変失礼しました。旧府立第一高女なら自慢して当然なのに「下谷竹町に飛ばされた」などと言っているのは照れているのでしょうか。年上の方に言うのはなんですが、可愛いですね。ちょっと乱暴な話し方は、純粋な下町言葉かもしれませんね。
Unknown
(
八丁堀
)
2023-09-28 16:02:39
昭和39年生まれの卒業生です。
大正12年8月31日に落成したのはコの字の西側部分(西館)で、正面(本館)と東側(東館)は、震災後の建築と聞いております。
>八丁堀様
(
流一
)
2023-09-29 10:49:15
貴重な情報をありがとうございます。西館は大震災を持ちこたえて使用可能だったわけですね。本館と東館は大震災前にすでに出来ていた設計どおりに建設されたのかも知れませんね。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
goo ブログ
編集画面にログイン
ブログの作成・編集
gooおすすめリンク
【コメント募集中】goo blogでの思い出は?
「#gooblog引越し」で体験談を募集中
おすすめブログ
@goo_blog
【お知らせ】
【11/18】goo blogサービス終了のお知らせ
【PR】ドコモのサブスク【GOLF me!】初月無料
【コメント募集中】goo blogでの思い出は?
「#gooblog引越し」で体験談を募集中
卒業生とはうらやましい限りです。きっと思い出がたくさんおありでしょうね。
段々のついたアーチと緑色の扉はおもしろい造形ですね。一番最初の写真の時計塔の左側の建物が体育館でしょうか?
お尋ねの建物は右翼棟の北側に突き出すようにくっついている講堂です。全校生徒1200人が収容できるかどうかは知りませんがけっこう大きかったと思います。劇場のような舞台が南側に、後ろにはやはり古い映画館や劇場のように2階席がありました。入学式、卒業式、講演会、文化祭での演劇、映画の上映などで使用しました。そういえば式典で歌う校歌や蛍の光は三部合唱くらいでハモっていたのを思い出しました。
時計台の中を一度覗いたことはあるのですが、なにぶん昔のことで報告できるほど憶えていません。階段があって机が押し込まれていたような……かってに作り上げたイメージかもしれません。
そういえば柔道場ある棟の3階は音楽室でした。
私の頃は男女比同等で、8クラスあり音楽専攻が4クラス、残りが美術・書道で4クラスだったと思います。
3年になると文系・理系でカリキュラムが組まれ大学のように自分の選択したクラスをさまよって居た記憶があります。
都立白鴎高校の卒業生です。昭和43年生まれ、白鴎は昭和62年卒業なので、まさにこちらの写真が撮影され
た当時、在学中でした。
懐かしい風景に出会えて感激です。
当時は伝統校という認識はあったものの、なんだか古めかしくて堅苦しい学校だなあ、くらいにしか思っておりませんでした。もったいないことです。
むしろ卒業してからのほうが、「いい学校だったなあ。」としみじみ思っております。
階段の真ん中の、みんなが踏みしめる部分がすり減ってへこんでいました。
広い図書室は自習室を兼ねていて、これまた古い机と椅子がずらーっと並べてあり、冬の放課後はストーブの近くの席はあっという間に埋まって、みんなよく勉強していました。
写真3枚目の、時計台の右下に見えるアーチで囲われた1階部分を「鐘つき堂」と呼んでいたと記憶しています。校内のいわゆるチャイム(各教室のスピーカー
から流れてくるおなじみのキーンコーンカーンコーン)が設置される以前は、用務員さんが時刻に合わせて鐘をついていた…とか。実際、鐘つき堂の天井部分
に小さな鐘がぶら下がっていたような記憶もあります。
白鴎といえば講堂と時計台。校舎全体が博物館のような雰囲気で、たいへん趣きがありました。
懐かしく貴重な写真を拝見させていただき、ありがとうございました。
私が在学していた頃は戦前築の校舎はごく普通で、学校とは薄汚れていて暗いものだと思っていました。「鐘つき堂」とは聞いた覚えがありませんが「小さな鐘がぶら下がっていたような記憶」は私もあるような気がします。
「最後の世代」。たしかにご指摘のとおりかもしれません。
通っていた小学校(都内の公立小)も、在学中に校舎の建て替えがあったことを思い出しました。入学当時の旧校舎は、床、階段などは木製で、全体に薄暗い校舎
でした。教室のストーブは「コークス」を使っていました!
その後、仮設プレハブ校舎での不自由な学校生活を経てピカピカの鉄筋コンクリート校舎に建て替えられました。昭和50年代のことです。
子供の頃、家々の窓枠は木製で、カギは真鍮製のねじ式でしたが、時がたつにつれほとんどがサッシ窓にかわっていきました。
白黒テレビも二槽式洗濯機も記憶にありますが、8つ下の妹はそういったものの記憶はほとんど無いようです。だからやはり「昭和らしい昭和」の感触を覚えて
いる最後の世代になるかもしれません。
今さらながら、もっと大事に記憶にとどめておけばよかったと思いますが、少しでも旧校舎を体験できただけでも幸せなことなのですね。
これからもこちらの写真を拝見させていただきます。
流一先輩、どうぞお体を大切に、末永くブログを続けてください。楽しみにしています!
在校中からこの校舎が大好きで、取り壊しが決まった時の学園祭で、あらゆる場所の写真を取り、美術の先生に指導していただいてパースを起して冊子を作った記憶があります。ちょうど100周年の前でした。
あの冊子、今も残っていたら・・・と思うと残念です。(たぶん処分してしまいました。)
その冊子を作る名目で、鍵がしまっていた時計台の下や、体育館の上、保健室の裏あたりにあった使われていない階段などにも入らせてもらいました。増築を重ねていたのか、かなり複雑な構造になっていたと思います。校庭には、日露戦争戦勝記念なんて札の付いた月桂樹などもありました。
新校舎には足を踏み入れたことがありませんが、見てみたいものです。娘が入学してくれるといいのですが。
突然のコメントで長々と失礼しました。
卒業後数年で取り壊しとなり非常に悲しかった事が思い起こされます。
当時5学区の中学生は受験時上野か白鴎かで迷った物でしたが(グループ選抜初年度でした)
私はこの校舎をみてここしかないと決めたくらいです。
時計台は確か部屋的なスペースがあって合唱コンの練習をしたのをはっきり憶えています。
卒業生の方も多く訪れるページと思いますが、立て替えられた校舎(もう20年以上たつのですね)も
なかなか捨てたのでは有りませんので学校公開を頻繁にやってますから(今やちょっとした有名校・・)
縁有って子供もこの学校にお世話になり全く違う建物のはずなのに何故か懐かしさも感じられます。
あまりコメのばす場所でもないですが・・・
個人的に江戸川乱歩の小説(少年向け)などが
大好きだったため昭和初期の所謂洋館などにあこがれがあった為かと思われます。
在校時のお気に入りはやはり図書室と講堂それから
柔道場や音楽室があるエリアなどでした・・
小生 ずっと後(S40ころ)まで女子校だとばかり思っていました。
皇室ゆかりの学校と聞かされたことがありましたが。
私は単なるご近所生まれに過ぎませんが。ずっと後ですが記憶にあるのは白鴎女子学生が上野駅までの帰り道、秋山工芸社前のたこ焼き屋さんで盛り上がってましたよ。
「皇室ゆかり」というのは、たぶん皇后陛下が行幸されたことを言っているのかと思います。学校のホームページの沿革を見ると、皇后陛下は昭和6年と昭和33年に訪問されています。入学式のときに、その記録映画をみせられました。
んですが、ホント渋くて良いですね。
兄はS42年生まれですので、先にコメント書かれた方々と近い年代ですが、
しばらくして取り壊されてたんですね。
なにかしら理由付けて私も中を覗いて見たかったです。
年齢は兄と一つ違いでしたが、白鴎は偏差値高くて私には無理ですし^^、
「中の中」or「中の下」くらいの偏差値だった竹台に入ったのですが、
こうやって白鴎の校舎を見ると確かに偏差値高そうに
感じてしまいます^^
今調べてみると、私が受験した頃は学区(第五学区―中央区、台東区、荒川区、足立区)はありましたが学校群制度になる以前ですね。第二志望をどこにしたのかまったく憶えがありません。家の近くの日本橋高校かな?
若干コメントが増えていたので現在の校舎について情報です。
子供も白鴎に通っていたので新校舎に入る機会
多々ありました。
不思議なもので全く違う建物なのに何故かしら
当時の面影が感じられます。
また校舎内に旧校舎の扉が展示されており
同時に旧校舎の模型(生徒有志作成)も展示されております。
最近では公立中高一貫校としてちょっとした人気校ですから
学校公開が頻繁に行われまた文化祭も一般の方が多数訪れますので
案外気軽に校舎に入れますので興味のある方は
いかがでしょうか。
さすが我が国最初の高等女学校ですね。
わたしは昭和の最後の生まれなので
新校舎に通い、在学中に中高一貫校になりました。
こっちの校舎で勉強したかった!
なんでボレロ廃止しちゃったかなぁ
白鴎バッチも昔はもっと大きかったみたいだし
まぁ、時代は移りゆくものですから
仕方ないのかもしれませんね。
それと旧校舎時計台のピアノは
先日の同窓会報によると、復元されたようですね。
ピアノ修復の件は白鷗高校のブログを閲覧してみました。大正13年に納品されたスタインウェイ。歴史のある学校にふさわしい調度品ですね。
104回生、白41期となります。
高校2年の途中で仮校舎に移転し、卒業後にOBとして新校舎に入りました。
移転前には時計塔内部への出入りも許可され、休み時間などには生徒で賑わっていました。
2012年にコメントをお入れになっている「最後の世代」さんが触れられている『ecole』という冊子も所持しております。
天文班に所属しておりましたが、その先輩方と撮影した校舎内部や旧校舎解体の写真も残っておりますので、お時間のある時にでもご覧ください。
校舎
http://yahoo.jp/box/efkybi
校舎解体
http://yahoo.jp/box/GAxJWZ
校舎図面(国立国会図書館にてコピー)
http://yahoo.jp/box/Ct0Nrv
懐かしいですね。
あの柔道場、狭いうえに中に柱があるというデンジャラスなつくりでした…
増築増築を繰り返した建物なので場所ごとに手すりの形状が違っていたことも覚えています。
それにしてもあの時の「新校舎」がもう築30年なんですね。
勘違いでしょうか?
卒業直前に新校舎に入れてもらった記憶があるのだけど。
また、不思議な校舎で、同じ階に行くのに廊下の中央に半階分程度の高低差の階段があったり、鴎友ホールというところだったか、階段の踊り場にガラスがあり、そのガラスの向こうにまた別の階段があったり、音楽室の奥には屋上に続く(?)螺旋階段があったりと、はじめてに人(でなくても)迷うような作りだったと思います。
校舎の不思議な構造は、これといって憶えていません。考えると夢を思い出そうとしているような気分になってしまいます。
このブログを見せたら「アルモンドタワーじゃん懐かしいねェ」との事。
「誰が設計したとかまでは生徒は知らなかったんじゃないか?」
「校舎が煤けてて、軍隊の官舎みたいな感じだった」
「あの制服をボレロって認識は無かったけど、確かにボタンは無かった。首元で結わえてたと思う。」
「70周年で皇后陛下が来てアーチの所でクラスでお出迎えしたから間近でお顔を見れた。」等々
高校時代の話を聞かせてくれました。
タワーに付いては少なくとも自分の周りでは「時計台」って呼称ではなく
「アルモンドタワー」って言われてたよ?との事でした。
母は大昔発行された卒業生名簿見ると74回(白鴎11回)って所に名前がありました。
大正12年8月31日に落成したのはコの字の西側部分(西館)で、正面(本館)と東側(東館)は、震災後の建築と聞いております。