聖心の布教姉妹会本部修道院。神奈川県藤沢市本藤沢3。1957(昭和32)年4月(4枚とも)
当ブログのコンテンツとは異なる写真が出てきたように見えるかもしれないが、写っている建物はたぶん戦前に建てられた教会建築ではないかと思う。神奈川県藤沢市にある「聖心の布教姉妹会本部修道院」という。約50年前の写真だから写真の建物が今もあるかどうかは知らない。Googleマップの航空写真で見ても屋根だけでは判断できない。
修道会を知っているのは父の会社が修道会の刷り物を納めていたからで、宗教的にはなにも関係ない。子供用の絵本なんかを納品していたらしい。前回のブログで記したように父の会社は八丁堀にあり、自宅は鵠沼海岸にあったので藤沢の修道会にまで行く場合もあったわけだ。
ぼくも何回かつれていってもらったが、最初にここに行ったのは小学校の遠足でだった。ぼくは1950(昭和25)年に藤沢市立鵠洋(こうよう)小学校に入学したが、1年生のときの遠足だった思う。その何年か後、父に連れて行ってもらったとき、遠足で来た覚えのある場所に立って記憶を新たにしている。そこは修道院のある台地の北のへりで、右手に小田急の線路が北に延びて善行駅の前のトンネルが遠くに見えた。
1950年は第3次吉田茂内閣の時代で、6月に朝鮮戦争が勃発している。年表にある単語を並べてみると、レッドパージ、千円札、金閣寺、ジェーン台風、羅生門(映画)、東京キッド(歌)……。
写真のシスターのほうは会社との窓口になっていた「シスター・クサベラ」。
修道院に関してぼくが知りえた情報は、修道院が設立した「聖園(みその)女学院」のHPの「沿革」にある『1920年:聖心の布教姉妹会創立。1946年:聖心の布教姉妹会によって旧制高等女学校創立』だけ。
写真の撮られた1957(昭和32)年は、内閣は石原湛山から岸信介になった年である。ジラード事件、東海村原子炉、南極基地、谷中五重塔、有楽町そごう、ロカビリー、戦場にかける橋(映画)、バナナボート(歌)、錆びたナイフ(歌)、谷崎潤一郎『鍵』……。
修道院に行くには小田急を藤沢本町駅で降りてバスに乗る。当時は新湘南バイパスなどはなく、バスはやがて修道院のある台地の南の谷にそって上っていき、「修道院前」で降りると、バスは藤沢飛行場のほうへ走り去るのである。印刷物を届けにぼくが一人でいったことが一度だけある。バスの乗客は2人だけなのに女性の車掌が乗務していた。当時は当たり前だったが、場合によっては贅沢な時代だった。
藤沢飛行場でグライダーを飛ばしていたのを目近に見たことがある。また、修道院バス停と滑走路の間には飛行機の掩退壕が2・3基残っていて、バス道路からそこに降りていって掩退壕に入ってみたことがある。
1959年9月24日、藤沢飛行場にロッキードU2が着陸する事件があった。あんな小さな飛行場にジェット機が降りられるのかと思うが、U2はグライダーのような機体の飛行機なのであった。現在、藤沢飛行場は荏原製作所に取り込まれた。
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こちらの修道院は既に新しい建物に変わっています。
シスターの制服も変わっています。
建物はなかなか興味深いものになっていて日本風の聖堂は素敵だと思いますが、オリジナリティがないようにも思います。
一応情報として参考になれば。(笑)
写真が撮られてから50年ですから建て変わっていて当然ですね。ちょっと勿体ないような気もしますが。
当ブログでは調査の役には立たなかったと思いますが、古い建物がテーマのブログなのでご容赦ください。
1966年生まれの藤沢生まれ藤沢育ちの男です。
昨年他界した父が若い頃、この修道院の塔を小田急線側から見た風景を油絵にしていた記憶があります。
ふいに懐かしく思い、修道院について調べていたところ、こちらの素晴らしいブログに辿り着きました。
父は江戸川区育ちの下町っ子で、結婚して母の実家がある藤沢に転居してきて私が生まれました。
そんなわけで流一様にも何となく縁を感じる次第です。
このブログの記事は近代建築について、他にはない写真が豊富で、素晴らしいと心から感動いたしました。
貴重な情報をありがとうございます。
「姉妹会」のHPによると、ここに挙げた教会の建物は、1938年に当地に移ったときのものかもしれませんが、1946年に各種施設を設置したようなので、その頃のものかもしれません。「1981–89年、本部修道院と聖堂その他、新築完成」とあるので、1980年代に全て建替えられたと思われます。
当ブログをこれからもよろしく。