ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




秀明閣アパート。中央区日本橋蛎殻町1-18。1987(昭和62)年4月31日

戦前の建物といっても興味をひくような物件ではないが、中野病院のことを書いておこうと思って出してみた。
アパートの前の駐車場が大阪屋旅館の向かい。撮影時はアパートの右(写真右端のビルの後ろ)は駐車場のようだが、元はそこも秀明閣アパートが建っていてそちらに玄関があった。2棟あった建物の間には小さな中庭があり、池を置いた一応和風の造りだった。2棟の建物は東側(写真手前が西側)を廊下でつないでいた。住人はみな近所の木村湯を利用したことだろう。駐車場の塀と秀明閣の建物との間には細い路地があった。
写真の駐車場は中野医院の跡である。元々、中野病院というのが写真左へいった道路の角から写真の駐車場のところまであった。昭和60年頃の住宅地図には北の角が「中野P(パーク)」となっているので、ずっと土地だけは持ち続けていたと思える。現在は中野病院だったところがそっくりひとつのビルになっている。秀明閣の跡地もやはりビルに変わった。
戦後の火保図ではこのブロックの並びは「中野病院、内外印刷、鈴木米店」で鈴木米店の角を東に折れれば秀明閣だ。内外印刷というのが実はぼくの祖父が創業し父も働いていた工場だった。中野病院は昭和30年になる前には縮小して、南の3階建てのビルを残して、病棟だったと思われる2階建て部分はなくなって別の家に建て変わった。
ぼくはその病院の建物を見ている。小学校低学年の頃だと思うから、思い出そうとしても夢でも見たような気がするだけだ。
病院の診療室や事務所があったと思われる3階部分で開業していた中野医院はいつごろまであったのだろう。昭和35年頃だが一度だけ治療にいったことがある。ビルの入口をはいってすぐそのまま階段を3階まで上ったところが診療室だった。
内外印刷は2階建てのモルタル仕上げの看板建築で後ろからみれば瓦屋根の日本家屋だった。会社は昭和30年頃には八丁堀に移ったが、建物は人に貸したり住居にしたりして昭和50年頃まで存続している。



堀善商会、東洋クレーン。日本橋蛎殻町1-19。1992(平成4)年7月19日
木村湯のあるブロックで木村湯の反対側。現存している。


堀善商会。1987(昭和62)年4月31日

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