ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




小田急ビーチハウス。神奈川県藤沢市鵠沼海岸1。1956(昭和31)年9月

前回に続き、藤沢市の物件を2点紹介する。
写っている人物は叔母と弟。じゃまっけだが無視して見てほしい。
小田急75年史 に『片瀬江の島海岸では、神奈川県が片瀬西浜一帯を県立湘南海岸公園として整備することにしたので、当社はその一環として昭和31(1956)年7月に小田急ビーチハウスを、33年7月には小田急シーサイドパレスを相次いで開設しました。36年7月には引地川畔の旧藤沢市営プールの経営を引き継いで全面的に改良し、小田急鵠沼プールガーデンとして開業しました。』と記述されている。
写真ではまだ工事中のように見える。3基ある笠(1機は写真右端)のひとつは、円筒形のガラス壁で囲った。
ビーチハウス建設と同時に東急レストハウスが建設されている。こちらの建物は、イメージとしては晴海通りの三原橋に2棟建っている2階建ての小さな建物が近いかもしれない。
当時ぼくは家庭教師として近所の早稲田大学建築科の学生に勉強をみてもらっていた。招かれて先生の家に行ったときに、彼が描いて応募したという東急レストハウスの外観の三面図を見せられて感心した。実際に建築された建物と似たものだった。
「小田急75年史」にある「引地川畔の旧藤沢市営プール」には幼稚園が併設されていた。弟はそこに入園している。



藤沢市立鵠洋小学校。藤沢市鵠沼桜が岡3。1956(昭和31)年

断るまでもないと思うが、ぼくが撮った写真ではない。卒業アルバムから持ってきた。50年も前の写真だから著作権は消滅したと勝手に解釈する。
卒業アルバムといっても普通に考えるものとは異なる。ボール紙を閉じて厚い表紙をつけた、写真を貼るためのアルバムで、それと一緒に集合写真などが数枚渡された。アルバムの表紙には校名が金箔で押されてはいたが写真は各自で貼り付けなさい、というわけだった。当時はそれが普通だったかどうかは知らない。

学校の西側を小田急線が通っている。写真はその間にある砂丘の上から東北の方を向いて撮られている。後方の山は境川の東に、鎌倉市との境になっている山で、高い所で標高50mほどである。学校の後ろは松林が広がっていて住宅などはあまりないように見える。当時はマンションはもちろん、2階建ての家も少なかったから写りにくかったのだろう。また、写っている松林は砂丘の高まりにあるもので、そういう場所は比較的、宅地化が遅れたと思える。
鵠洋小学校HPの「沿革」によると『1944(昭和19)年10月:藤沢市鵠洋国民学校と命名。1946年8月:竣工式並びに開校式(10学級548名)。』であるから、古い校舎は戦後すぐに建てられたと思えるが、あるいは終戦の1945年には建っていたかもしれない。ぼくが入学した1950(昭和25)年には4棟ある校舎のうち3棟はあったような気がする。

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コメント
 
 
 
初めての投稿です (パパトレーシー)
2007-03-31 15:40:16
こんにちは、はじめましてかっしー掲示板からやって来ました。私も鵠洋少卒業生です、懐かしい写真を拝見しました。撮影地は天守閣みたいな二階建ての中谷邸かと思いますが。右下の屋根は勝又邸、松の枝に隠れたあたりは養護学校だったと思います。



 
 
 
パパトレーシー様 (流一)
2007-04-01 09:44:37
はじめまして。コメントをありがとうございます。
鵠洋小の写真に写っている平屋の小屋の一つは給食の厨房ではなかったかと思います。便所は北側にありましたが校舎とは別棟で、渡り廊下を通って入りました。私が入学した時はまだ給食は始まっておらず、弁当をもって登校しました。教室が足りなくて二部制とか青空教室まで体験しています。昭和25年の話ですが。
 
 
 
おはようございます (パパトレーシー)
2007-04-02 10:17:01
あらためて写真を拝見しました、ご指摘の通り平屋は給食室、用務員家族室、宿直室でしたが、南側の運動場寄りの建物は養護学級でした、その後新設された辻堂高砂に移転、私の妹が入学したころは体育用具の置き場になっていました。
 
 
 
はじめまして (バタ)
2009-05-19 10:57:33
突然のコメント失礼します。

僕はこの写真の少しあと(1957年)に入学しました。ですから入学式のときはこの風景とほとんど変わらないと思います。
すごく懐かしい風景です。

ただ、僕が2年生の時に第2校舎が全焼しました。
ですからこの写真は非常に貴重です。
ありがとうございます。
 
 
 
>バタ様 (流一)
2009-05-20 09:48:32
思いがけないコメントで驚いています。ありがとうございました。
校舎の火事は私が鵠沼中学のときで、弟は鵠洋小学校に在学していたので当然、我が家で話題になったはずですが思い出せません。
本文に「4棟ある校舎のうち3棟はあったような」と書きましたが、2棟は私が在学中に建ったのかもしれません。なにぶん昔の話なので……
 
 
 
大先輩ですね(^^) (バタ)
2009-05-20 22:02:31
お返事ありがとうございます。
僕も鵠沼中学でした。大先輩ですね。よろしくお願いします。
弟さんは僕と同じくらいですね。

火事の原因は当時の僕の担任の先生のタバコ火の不始末だという噂がありました。ですからかなり僕達は動揺しました。原因は不明です。

火事の後にできた校舎は鵠洋小学校最初の鉄筋コンクリートの校舎でした。

 
 
 
火災 (パパトレーシー)
2009-09-05 22:07:52
こんばんは、久しぶりにお邪魔します。火災で建て代わった校舎に入っていました、確か半年づつ今の体育館にあった木造校舎とクラスごと移動、冬季が木造校舎で寒かった記憶があります。5年生か6年生の時にバス通り側にあった理科室と保健室の入った平屋校舎が燃えました。
 昭和36年か37年頃に、ヘリコプターが校庭に不時着、友達から連絡が着て学校に見に行きました、中学生になってから、機体はベル47型と知りました。
 
 
 
>パパトレーシー様 (流一)
2009-09-06 20:57:52
我が家が昭和34年に東京に移ってから、鵠洋小学校にもいろいろと事件が起こったようですね。
不時着というと、私のブログにも書きましたが、藤沢飛行場のU2不時着事件は引っ越してから半年後くらいのときになるはずです。
話は変りますが、「湘南」という地名を始めて聞いたのは小学校の5・6年の担当の先生からでした。昭和30年頃ですね。国鉄の「湘南電車」で一般に広まったのかな、と考えているのですが、いつごろからあった地名なのでしょね?
 
 
 
湘南 (バタ)
2009-11-17 14:33:33
流一様、お久しぶりです。

湘南という呼称は古くは17世紀にあったようです。現在の大礒の鴫立亭に碑があります。

明治になってから、今で言うリゾート地として「湘南」という呼び名を使うようになったのではないでしょうか。
その後「湘南高校(中学)」や「湘南学園」という学校などの名前にも使われました。

でも、一般に使われるようになったのはやはり「湘南電車」という緑とオレンジのカラーの電車が走り始めたころでしょうね。戦後ということだと思います。
 
 
 
>バタ様 (流一)
2009-11-18 19:32:13
「湘南」の地名が、江戸時代の初期には言い出した人がいたとは知りませんでした。東海道線の湘南電車は1950年から、ということですからぼくが小学2年のときです。列車の全部がいっせいに変わったわけではないでしょうから、ぼくが乗ったのは1・2年後のことかもしれません。チョコレート色の客車しかなかった時代ですからけっこう新鮮でした。
 
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