ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鎧河岸の倉庫。中央日本橋小網町8。1966(昭和41)年8月

東京証券取引所のそばにある鎧橋から東証とは反対の小網町の川岸を撮影したもの。大震災前には鎧河岸といって倉庫が立ち並んでいたらしいが、その頃の名残のような蔵の形の倉庫が写っている。おあつらえ向きに川岸の柳まである。ただし40年前の景観だ。
橋際から倉庫までの間が開いているが、昔からの橋際の広場らしい。現在も同じでトイレが設置されているのも撮影時と同じだ。
昭和30年頃の火保図には「柏倉庫(正確には○の中に柏の字を入れた記号)」となっている。写真左後方の2階建てのビルは、同図では「東京藁工品KK」でコンクリート造りの建物。撮影した時代が異なるからその会社のままかどうかは分からない。壁面に写っている字は「柏」と「鞄」のように見える。東京藁工品の裏に「駒木銀次郎」邸の記載がある。当ブログ「かづさや」の1枚目の写真に写っている住宅がそれだ。
戦前の昭和8年の火保図になると、東京藁工品のところは「駒木商店」である。「古今・お江戸日本橋」というサイトの「日本橋“町”物語>日本橋小網町」のページにある「天保元年(1830)創業の荒物雑貨の駒木商店」だろう。大正6年の「営業者姓名録」には「小網町3丁目には荒物海草問屋の駒木」が載っているという。同サイトでは商売が続いているような感じだが、ネット検索では出てこないので廃業したらしい。
次に1986(昭和61)年の住宅地図を見る。駒木銀次郎邸は「ぺんてる㈱別館」となっていて、今では「ぺんてるビル」になっている。川岸の倉庫があった場所は「駒木ビル」になっている。現在では「エクサムビル」というのに変わったらしい。
以上からなにが分かるかというと、明確にはなにもないのだが、なにやら柏倉庫と駒木商店が関連していそうな雰囲気がするのである。

先日、駒木商店で使われていた看板が見つかったので、駒木商店の家族に返還したい、というコメントが「かづさや」の記事に寄せられた。商品の看板で、津川安正堂の敷島香・京廣香・養老香(線香らしい)と柴田商店の衛生消毒箸というものだ。線香のほうの特約店は「駒木銀三郎」となっている。

追記(2009.07.15)
駒木商店の子孫の方からコメントを頂き、写真の倉庫が駒木商店のものだったこと、その倉庫の場所に駒木ビルを建て、1980年代まで商売が続いていたことなどを教えていただいた。
駒木商店の店主は代々駒木銀三郎を名乗り、5代目まで続いた。
写真の倉庫は駒木商店のもの。写真左奥の2階建ての建物が駒木商店の店舗で、壁面に「駒」の字が認められる。コンクリート造りのように見えるが木造である。店の後ろにある日本家屋の住居も含めて、関東大震災後の大正末の建築だという。
住居をぺんてるに売却したのは1956(昭和31)年頃で、1970年代に店を売却して倉庫のところに駒木ビルを建て、「株式会社駒木」として荒物問屋の商売を続けてきたが1980年代に廃業した。

コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )