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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




八百重、とり忠。千葉県市川市真間2-18。2005(平成17)年3月7日

大門通りから横丁側の真間大門会商店街に入って40mいくと路地が横切っていて、その四つ角の角に八百屋と鶏肉専門店が入った看板建築風の店舗がある。戦前からあるというほど古くはなさそうで、片流れ屋根のわりと簡易な造りなので、戦後になって建てられたものと思う。
下左写真は上の写真で八百重の右に写っている、看板建築の二軒長屋。店を閉めてかなりたつようで、なんの店だったのか手がかりがない。今は2棟の住宅に替わっている。
下右写真は看板建築の二軒長屋の向かいの出桁造りの家。建物は今もあるが看板を外して廃業したようだ。そのクリーニング店の横の路地の向かいは「テーラー陶山」だから、「スヤマ」は陶山で、同族の経営ではないかと思う。


左:看板建築の二軒長屋。市川市真間2-18。右:陶山クリーニング店。市川市真間2-16
2005(平成17)年3月7日

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民家。千葉県市川市真間2-22。2006(平成18)年2月11日

大門通りの元床屋の斜向かいにあった平屋の民家。現在は二階建ての小さなアパートに建て替わっている。写真右の道が大門通り、左側の横丁は大門通りと同じ真間大門会の商店街である。商店が立ち並んでいて、大門通りよりよほど商店街の体裁をなしていた。今はやはり廃業した店が多い。


アポロ模型店。市川市真間2-21
2005(平成17)年3月7日

横丁の商店街に入ってすぐのところ。写真左の店は上村豆腐店だが今は廃業した。アポロ模型店は実質、玩具店のように見える。現在、建物は取り壊されて駐車場になっている。念のためネット検索したら、『石屋模型店 仮店舗石屋主人日乗』の「思い出の模型店」に1993年5月撮影の写真が載っていた。「当時すでに店内は駄菓子屋ゲーセンと化していました」とある。

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松屋洋品店。千葉県市川市真間2-24。2017(平成29)年4月3日

市川の大門通りの「真間大門会」の商店街にある二軒長屋の商店。ストリートビュー(2015年3月)で見ると、松屋はシャッターが下りていて、右の店は「Lucky4LeavesKids」という子供用の服や雑貨の店らしい。
松屋洋品店から北へ、住宅が2棟あってその先に甲州屋という日本そば屋がある。入母屋屋根の日本家屋で、昔からの普通の日本そば屋という感じだ。その先は住宅1軒を置いて四つ角に市川真間郵便局。木造アパートの1階で営業している。現在、建物は建て替わっている。



甲州屋、市川真間郵便局。市川市真間2-24
2006(平成18)年2月11日

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ボナール。千葉県市川市真間2-23
2017(平成29)年4月3日

市川の大門通りは千葉街道(国道14号)から入ると「大門通り会」の商店街で、京成線を北に超えると「真間大門会」の商店街になる。住宅もかなり有り、廃業した店もあって商店街というには寂しい感じだ。
写真の看板建築は「ボナール」の看板とドアに「JAZZ」の切り抜き文字を張り付けている。営業しているかどうか疑わしい。写真左奥に京成線の踏切が見えている。
ボナールの右は奥に住宅が有り、その右が「大門岡埜」という和菓子店。その隣に下の写真の床屋だったような構えの建物。表面の造りは戦後まもなくのように思うが、平屋の母屋は戦前からのものだろう。





元床屋? 市川市真間2-23。2017(平成29)年4月3日

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三商。千葉県市川市市川3-19。2017(平成29)年4月3日

京成本線国府台駅の南の住宅街に残っている戦前築の出桁造りの商家である。市川3丁目は北の真間川から南のバス通り、西の江戸川から東の大門通りの西の裏通り―京成本線―大門通り、という範囲で、その真ん中あたりを東西に京成本線が通って、町を南北に分けている。一戸建て住宅がほとんどだが、京成本線より南の地区は北側よりアパートの比率が高いようだ。
写真の商家は松戸街道の裏に建っているが、昔はそのようなところでも商店がかなりあったのだろう。今ではそのほとんどが建売住宅やアパートに替わったようである。「三商」は不動産業らしいが、物件の貼紙がないので、不動産の管理を業務にしているのかもしれない。



石井酒店。市川市市川3-2。2017(平成29)年4月3日

三商の前の路地を南に行くとすぐ写真の平屋の酒店が表れる。市川細見記によると、石井酒店は大正末に創業。現在の店主は3代目で、商品は店主自ら選んで仕入れているそうで、他店にはない珍しい酒が数多くあるという。建物は創業時に建てたものかもしれない。

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市川二丁目町会事務所
千葉県市川市市川3-23
2005(平成17)年3月7日

国道14号(千葉街道)の市川橋の袂に、写真のような銅板張り看板建築が残っている。国道からも市川橋渡り切って市川に入ってすぐ、左下に見えると思う。たぶん商店だったのだろうが今は町会事務所になっている。1階は改装されているが、この状態で残っている看板建築は市川市内ではあまりないと思う。今は県道1号(市川松戸線)と江戸川堤防の間の、人がわざわざ来るような場所ではないが、戦前はけっこう賑わったところらしい。明治大正期は、江戸川に沿うように走っている県道1号-県道283号(若宮西船市川線)に沿った線が市街地の中心だった。
松井天山という絵師は千葉県各地の鳥瞰図を描いているが、1928(昭和3)年の「千葉県市川町鳥瞰図」には、市川橋袂の「稲荷神社」(今も勿論ある。町会事務所の左へ3軒目のところ。現在の社殿は昭和10年の建立。「稲荷神社」というのは固有名詞)の前に火の見櫓、隣に「活動常設/市川館」が描かれている。『市川細見記(千葉商科大学政策情報学部朽木ゼミ)』には、「1935年頃の市川周辺には、市川橋の手前に市川館、三本松の正面には三松館、東側の新田には 松竹館と三館の映画館がありました。これらの映画館はそれぞれ別のものを上映していましたが、 なかでも市川館は小さな映画館ながら、午後8時 を過ぎると割引をしたため多くの利用者がいたそうです」とあり、写真も載っている。
町会事務所が建っている場所は市川3丁目なのに「弐丁目町会」なのは、向かい側がすぐ2丁目なので特に不思議ではない。町会事務所の建物が市川館と共に建っていた時期があったのかもしれない。

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もつやき里味。千葉県市川市市川3-29。2006(平成18)年3月5日

京成線国府台駅の駅前商店街。「国府台駅前通り/根本発展会」の看板を付けた外灯がある。国府台駅前通りとは県道1号線(市川松戸線、松戸街道)から別れて再び合わさるまでの350m足らずを言うのかと思うが、商店街は1号線沿いにも続く。元は県道の旧道である。1970年頃に駅前を通らずに京成線の下をくぐるバイパスを造った。「根本」とは古い町名で、1951年に成立した町の中に「根本町(ねもとまち)」がある。1965年の住居表示の実施で廃止された。
写真の店は古い日本家屋の前面に簡単に造られた店舗部分だと思う。その古い家は、里味の後ろに1戸、神戸酒店とその隣の空き店舗(2009年9月のストリートビューでは「厨房福助」、2015年3月のでは「タイ古式マッサージ・ウンアイ」)の後ろに1戸建っている。おそらく国府台駅前通りに残っていた戦前からの商店建築かと思うが、最近、ついに取り壊されてしまった。



神戸酒店。市川市市川3-29。2006(平成18)年3月5日


裏の駐車場の奥に見えていた神戸酒店の裏
市川市市川3-29。2006(平成18)年3月5日

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福地不動産。千葉県市川市市川2-29。2005(平成17)年3月7日

市川大門通りの西で京成線の南の住宅街にある出桁造りの商家。福地商事として燃料を扱っているから、昔は薪炭商だったのかもしれない。現在は「三菱灯油の店」の看板は外されている。
この辺りの道路は細いカーブした道が不規則に交差している。そのため四つ角があまりない。農道がそのまま残っているのだろうか? とにかく道路整備がほとんど行われずに住宅がどんどん建ってしまったような状況である。福地不動産のある三叉路も伸びてきた道が自然にくっついたような具合に見える。そんな中で、定規で引いたように真っ直ぐに伸びている大門通りが目立つ。
下写真の住宅は福地不動産の近くで見つけた。洋館付き住宅とか文化住宅と言われるものだが、母屋とは独立した小さな洋館として建っている。玄関は洋館についているのが共用で使われているようだ。



洋館付き住宅。市川氏市川2-28。2005(平成17)年3月7日

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田中青果店。千葉県市川市市川2-33。2005(平成17)年3月7日

千葉街道(国道14号)のJR市川駅前の交差点から1本西の、北へ入る横町を「大門通り」という。そこをほぼ真北へ直線で1kmいくと国府台の台地に突き当り、そのまま階段で真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)へ導かれる。大門通り入り口には「日蓮宗真間弘法寺」と彫られた石柱があり、その参道である。「大門」とは弘法寺の山門のことかと思うが、「おおもん」だか「だいもん」だか分からない。途中、京成線を踏切で横切るが、そこまでが「大門通り会」の商店街。昔は商店が並んでいたのかもしれないが、今は住宅の方が多い。
写真は千葉街道から大門通りに入ってすぐのところ。写真手前は「アキモト商店」という雑貨店。建物は昭和30年頃のものかという感じで、古くから続く店のようだ。次の果物店が戦前からの建物のようで、1階の店の部分を大きくとった日本家屋だ。
2階に銅板張り看板建築の外観を残した建物が武蔵屋酒店。『市川真間商店小史』によると、1914年に両国で創業し、戦災に会って疎開先の市川で開業したという。別荘を持っていたのかもしれない。建物が戦前のものだとすると、すでにあった建物を買ったことになる。近年、店の向かいにワインバー「Feria」を開店した。



武蔵屋酒店。市川市市川2-33。2005(平成17)年3月7日



民家。左:市川2-29。右:市川1-16。2005(平成17)年3月7日

武蔵屋を過ぎて北へいくと、しばらくは興味を引く建物はなく、300m以上行ったバス通りに出る手前に出桁造りの商家だった家が向かい合わせに残っている。店名もなんの商売をしていたのかも分からない。

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海上自衛隊館山航空基地。千葉県館山市富士見。2004(平成16)年11月27日

海上自衛隊館山航空基地は旧海軍の航空隊の基地だったのを、1953(昭和28)年に当時の海上警備隊が「館山航空隊」を設立して開設した。自衛隊の発足は翌年である。建物等は旧海軍のものを引き継いで司令部庁舎も最近まで使ってきたが、2015年に建て替えられて、新庁舎が完成後解体されたようだ。
旧海軍の「館山海軍航空隊(館空)」は1930(昭和5)年の発足。基地は関東大震災で隆起した海岸を埋め立てて造成した。飛行場にしてはずいぶんと狭いが、艦載機のパイロット養成が主眼で、空母への発着の訓練を行う施設だった。
上の写真で右に写っている2階建ての建物は「教育資料館」かと思う。旧海軍の兵舎だった建物だ。本部の前にある白い柵のようなものは国旗掲揚台で、やはり旧海軍からのもの。




館山航空基地の周りには館空(たてくう)関連の建物も残っている。正門の近くには「第二海軍航空廠館山補給工場」が民間の倉庫として使われている。また基地の北東の海岸べりに、監視所だったと思われるコンクリート造の廃墟が残っている。

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