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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




青い壁のビル。茨城県土浦市中央2-2。2006(平成18)年11月5日

前の通りは県道263号で、写真左手にすぐ国道125号との交差点。土浦駅西口から北西方向に500mほどのところになる。写真左の横丁は川口川の河岸だった道だったと思われる。
ビルの名称が判らないので見たまま「青い壁のビル」とした。1階の店は「Chubby(チャビィ)」という輸入子ども服と雑貨の店。1993年の開店という。その右に「Mahalo(マハロ)」というハワイ料理の居酒屋。他に看板がないので2・3階は空き室だろうか。
角のアールと奥まった縦長の窓が特徴だ。通りに面した軒の線が直線ではないので、正面は平面ではなく、わずかにカーブしている。なんとなく金融機関の建物だったかという気がするが……。

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とみやま人形店。茨城県土浦市桜町(さくらまち)1-9。2006(平成18)年11月5日

国道125号の桜川橋北交差点。左手奥に土浦駅前のイトーヨーカドー」(現「ウララ」、市役所)が見えている。『日本近代建築総覧』に「富山侃邸、桜町1-9-8、建築年=昭和2年、設計=富山竹治郎(自家設計)」とある物件だろう。
急勾配の屋根は洋館に違いないのだが、1階の店舗は商品の関係なのだろう、和風である。洋館の邸宅を店舗として使うため改修したのかと思う。接して建っている日本家屋の店舗が洋館に侵食してきたように見える。
現在は取り壊されて駐車場になってしまった。





国道125号桜川橋北詰の家並み。土浦市桜町1-12。2006(平成18)年11月5日

国道125号をとみやま人形店があったところから南へいくとすぐ桜川に架かる桜川橋である。写真は桜川橋の手前。右奥のマンションは川の対岸に建つ「セレナハイムリバーサイドステージ土浦」(2003年2月築、14階建117戸)。
現在は写っている3軒とも建て替わったか取り壊されて空き地の状態。

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中村時計店。茨城県土浦市桜町(さくらまち)3-5。2006(平成18)年11月5日

土浦駅から西のつくば市の中心部を結んでいるのが県道24号線。その沿道の土浦駅に近い部分で見かけた古い家を並べてみた。
古い商店建築は意外と少ない。日本の高度成長期に合わせて土浦も発展したため、建て替えが進んだためだという。看板建築は元々あまり建てられなかったのかもしれないが、ほとんどみかけない。「中村時計店」は今に残る看板建築として珍しい例だ。どうも営業しているようには見えない。右の、戦後に建てたか改修したような看板建築の家は、現在はなくなって住宅になっている。



海老原商店。土浦市桜町3-4。2006(平成18)年11月5日

出桁造りの商家。外灯に「海老原商店」の看板があって店名が判る。建築年を1923(大正12)年としているサイトがあった。横の壁が石張りでそこの窓が蔵に付いているような形だ。2階建ての店舗の後ろは平屋の倉庫か作業場になるのだろうか。その後ろに中庭、さらに後ろに蔵と3階建てのビル。そのビルを住居にしているのかもしれない。




居酒屋正宗、石松寿し
土浦市桜町3-4
2006(平成18)年11月5日

県道沿いの出桁造りの商家は住宅に替わってしまった。正宗は変っていない。横丁を入っところに青いトタンの壁の家があるがその並びを撮ったのが左の写真。2階建ての家は長屋の1階部分を増築して2階建てにしたものらしい。長屋は現在は取り壊されて駐車場になっている。「ナチュラル」というピンクサロンは今も営業している。

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坂本商店。茨城県土浦市川口1-9。2006(平成18)年11月5日

飯田屋本店から東へ150mほどの同じ並びにあった商家。つまり川口川の河岸に向いていた店である。なんの店なのか写真からでは分からない。あて推量で酒店か味噌醤油店? 看板がないから廃業しているのかもしれない。黄色い割と大きい看板は「土浦将棋会館」。
現在は取り壊されて駐車場になっている。また、川口川を埋め立てた流路は、この辺りでは高架道路と「モール505」というビルの商店街になったが、それ以前は市営駐車場だったという。『土浦・水郷都市の面影をたどる』というサイトによれば、市営駐車場の開業は1967年。その当時でも古い建物はかなり減っていたらしい。



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飯田屋本店。茨城県土浦市川口1-10。2006(平成18)年11月5日

武蔵屋の近くにあった、同じ業種の店らしい。武蔵屋も飯田屋本店も建っているのは川口川(かわぐちがわ)の河岸(かし)である。「モール505」という3階建ての建物5棟が連なる商店街と高架道路は川口川を埋め立てたところに建っている。川が水路として機能していた時代は、霞ヶ浦で採れた鰻やわかさぎはそのままこの店先で陸揚げされたのだろうか。あるいは港でまとめられてから艀で運ばれたのだろうか。建物が敷地から少し下がって建てられているのは作業場を確保したものかもしれない。
洋館の方はガラス戸に見えるように「茨城縣佃煮工業協同組合」の事務所だったのだろう。
建物は『日本近代建築総覧』に「飯田屋本店、建築年=昭和8年、設計=(自家設計)、備考=工費1万円」とある。
3.11の震災で建物が「危険」と判定され、2012年2月に取り壊された(『寝言は寝て言うも~ん>飯田屋本店 その後・・・』)。今は普通の住宅に建て替わって、駐車場の中の一軒家といった具合だ。



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武蔵屋。茨城県土浦市大和町(やまとちょう)6。2006(平成18)年11月5日

JR土浦駅西口から西北方向へ、土浦城へ向かう大通りと、かつての川口川(かわぐちがわ)の流路だったセンターモール505沿いの道路との角地にある建物。霞ヶ浦で捕れた魚を加工して売る店のようだ。建物の構造は判らないが見たところはRC造にタイル貼りの外壁に見えるが、二階建てなので木造なのだろうか。昭和10年前後の建築らしい。先端上部の装飾が独特である。その下の看板で隠された部分を見せて欲しいものだ。
左上の写真で、武蔵屋の右後ろに2軒の看板建築のような建物が写っている。撮影時には気が付かずに通り過ぎていた。





カットハウス イシカワ。土浦市大和町5。2006(平成18)年11月5日

土浦駅前の「ウララ」(市役所)(撮影時は「イトーヨーカ堂」)の向かい側。昭和初期に建った洋風にした看板建築かと見える。壁の上部に消えかけているが「石川美髪院」と読める字の跡が残っている。
下の写真はイシカワのすぐ右に残っている看板建築の店舗。


相場屋信右衛門薬局、鈴木手芸店。土浦市大和町4。2006(平成18)年11月5日

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いちかわ西洋館俱楽部。千葉県市川市新田5-6
左:2006(平成18)年2月11日、右:2007(平成19)年4月8日

京成本線市川真間駅の南、住宅街に残されている洋館で、小さなコンサートホールやギャラリーに貸し出されている。『千葉県>文化財>西洋館倶楽部(渡辺家住宅)』によると、「東京株式取引所の仲買人であった丸水渡辺商会の店主・渡辺善十郎により、日本家屋の母屋に隣接するゲストハウスとして建てられたもの」で、「昭和2年(1927)建築の木造3階建ての洋館」。ベイウインドウ状に張り出した玄関ホール、その上のバルコニー、正面以外の3面は「破風の拝みを押さえた袴腰型切妻破風を中心とする屋根」、側面軒先の千鳥破風、などを外見の特徴としている。内部も建築当時の照明器具などが残されているという。いちかわ西洋館俱楽部の開館は1997(平成9)年で、同年、国の登録有形文化財に登録された。
いちかわ西洋館倶楽部 ホームページ』には、オーナーである渡辺氏がこの館の歴史について寄稿されていて、興味深いエピソードが語られている。関東大震災で深川の邸宅が被災したため、市川に1000坪の敷地を求めて別荘を建てたらしい。当時の総武線は両国までで、都内に通うのは不便だと、じきに深川へ戻ってしまったとか。東久邇宮盛厚王が国府台陸軍野重砲連隊の将校として赴任すると、この西洋館が殿下の宿舎に借り上げられた。戦時中には空き家となっていて、敷地内に焼夷弾が落ちたものの大事には至らなかったという。

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旧京成倶楽部。千葉県市川市真間1-9。2003(平成15)年11月19日

京成本線の市川真間駅の北に、ホームからも見えている建物。『「帝都」の残映>伊藤邸』では、1929(昭和4)年に建てられた木造2階建ての建物。「京成電気軌道社の社員倶楽部として建てられたが、竣工後まもなくから葛飾瓦斯(現京葉ガス)の本社屋として使用され、現在は個人の住宅として使用されているという変遷が激しい建物」。したがって当ブログでは建物名称は「伊藤邸(旧京成電気軌道社員倶楽部・旧葛飾瓦斯本社屋)」で、『日本近代建築総覧』に「伊藤和夫邸、市川市真間1-9-10」とある建物である。ネット上では「旧京成電鉄社員倶楽部」としているのが多い。
東京東郊における都市形成過程~京成電鉄市川真間駅周辺部を対象として~』では、「京成倶楽部(社員の福利厚生施設)」は1929年に竣工してすぐに京葉ガスの本社となり、1945年からは個人住宅になった、としている。
市川真間駅の前にあった京成電鉄診療所(現在は取り壊されて京成不動産が管理する駐車場になっている)の前に「本多貞次郎頌徳碑」がある。本多貞次郎は京成電鉄の創業者で政治家でもあった。京葉ガスの創立にもかかわっている。また、旧京成倶楽部、市川医師会館、京成電鉄診療所、がある真間1-9のほぼ全域が本多貞次郎邸だった。



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モハノンド。千葉県市川市真間2-19。2006(平成18)年2月11日

写真右手の通りは真間川に架かる手児奈橋のすぐ南。角の日本家屋も看板建築風の商店長屋(四軒長屋)も、たぶん昭和30年頃建てたものではないかと思う。通りは南の京成本線の踏切まで「真間本通り商店会」が組織されている。店が立ち並んでいるわけでもなく、通りの幅が広いので商店街とはいいにくい。
写真の通り沿いの家並みの裏側は駐車場だが、昭和22年の航空写真では匚形平面の長屋と思われる家が2棟並んでいる。戦前からある長屋だったらしい。その南の棟は1975年まで、北の棟は1990年まではあったことが『Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る』から判る。
現在は写真手前の角の家が取り壊されて駐車場になっている。その右の平屋の家は今も「駒子」という居酒屋。四軒長屋は残っているが営業している店があるのかどうか怪しい感じだ。



市川二業組合検番。市川市真間2-11。2006(平成18)年2月11日

「真間本通り」の京成本線の踏切のすぐ北にあった日本家屋。『『ぬけられます』あちこち廓探索日誌>千葉県 市川市 その2(2009.07.12)』に「市川二業組合検番」とあった。市川に花街があるとは意外だが、国府台は幾つかの連隊の駐屯地だったからそれを背景に花街が成立した。今でも料亭が3軒あるという。『雅万歩>浅草橋~市川(2011.01.04)』によれば、2010年に建物は取り壊されたという。今は駐車場になっている。花街はどうなってしまったのだろう?

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朝倉青果店。千葉県市川市真間4-4。2006(平成18)2月11日(他2枚も)

市川真間の手児奈霊神堂の裏手の十字路で、その十字路を中心に商店が20軒くらい集まっていたようだが、写真を撮った頃にはすでに半減していた。今ではさらに数軒になってしまっているようだ。『市川市真間商店小歴』を見ると「手児奈橋通り会」という商店街である。
写真の角の八百屋「朝倉青果店」は健在。隣の魚屋「魚朝」は営業しているのかどうか怪しい感じだ。その建物は今もあるが日よけの看板はなくなっている。その右の2軒は、今は取り壊されて駐車場になっている。その先の下見板の家は残っている。その隣の「昭和クリーニング」は取り壊されて駐車場に。



広瀬パン店。市川市真間4-2

朝倉青果店の十字路の南東の角。自販機だけの店になっているようだ。今は住宅に建て替わっている。右奥の塔屋は市川市立真間小学校。
下の写真の新川屋雑貨店は上の写真の左の枠外にあった。やはり住宅に替わっている。


新川屋雑貨店。市川市真間4-2

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