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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




洲埼灯台。千葉県館山市洲崎。2004(平成16)年11月27日

洲埼灯台は洲崎(すのさき)という岬にあり、住所は館山市洲崎だから「洲崎灯台」でいいと思うのだが「洲埼灯台」と書くのが習慣らしい。洲崎灯台と書いている資料やサイトも普通にある。ここでは千葉県のHPの表記に倣った。
『ウィキペディア>洲埼灯台』によると「円筒形のコンクリートで建てられ、高さは15メートル、海面からは45メートルである。1919年(大正8年)〈12月15日〉に点灯。三浦半島最南端の東端にある剱埼灯台と共に東京湾へ出入りする船舶の目印となっており、同灯台とを結んだ線をもって東京湾の境界をなす。管轄:海上保安庁、第三管区海上保安本部」。平成27年3月に国登録有形文化財(建造物)に指定された。
房総半島の南端が西へ出ている部分を「西岬(にしざき)」といい、その先端が洲崎になる。西崎は陸軍の東京湾要塞地帯であり、海軍の「震洋」特攻基地が建設された。機会があったらそれらの跡を見てきたい。

左の写真は『千葉県の地理と歴史』(千葉地理学会編、野村出版、昭和43年、450円)から引用した「洲崎燈台付近」。今はただの広場のようになっているところにあった建物が写っている。

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新橋(下流側)。千葉県南房総市白浜町滝口(旧安房郡白浜町滝口)。2004(平成16)年11月27日

めがね橋が架かる長尾川の河口付近に架かる、やはり3連アーチの橋。親柱に「昭和四年八月竣工」と刻んである。竣工年からすると震災復興時に架けなおされた橋のようだが、かなり立派な橋で、昔はここが東西の往還だったかと思わせる。形は石造りアーチ橋なのだが確認できなかった。近年、モルタルで化粧直しされたのか、綺麗な外観である。親柱や欄干が和風なので、全体が和風に見える。
昭和になってから石造りアーチ橋を造るというのは珍しいと思う。RC造で形だけアーチ橋にするというのも考えにくい。明治21年架橋のめがね橋は、白浜町の海岸端にある「みずるめ」と呼ばれる石切場から切り出した石が使われた。材料が近くで手に入るのなら、それが使われたのかもしれない。また、めがね橋の架橋から40余年だが、その工事に携わった人が長老として健在で、新橋の架橋を指導したかもしれない、などとかってな妄想が起こる。



新橋(上流側)

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めがね橋。千葉県南房総市白浜町滝口(旧安房郡白浜町滝口)。2012(平成24)年6月27日

めがね橋は房総フラワーライン(1966年開通)が長尾川を渡る橋から上流に見える。「めがね橋」は通称だったと思う。昔は「長尾橋」といったようで「眺尾橋」とも表記されるようだが、千葉県が1989年に県有形文化財に指定したときに「めがね橋」で登録している。それに倣ったのか、2005年に土木学会推奨土木遺産に指定された際の名称も「めがね橋」だ。3連アーチなのでめがねには見えないのだが、まあいいか。
千葉県の近代産業遺跡>長尾橋』によると、3連の石積みアーチ橋で明治21年の架橋。施工者を石工の森善九郎としている。



土木学会推奨土木遺産>めがね橋』によると、めがね橋が架けられた地点を「館山市街から山あいを縫って白浜町へと抜ける県道、山裾を海岸線に沿って走る国道、さらに渓谷を刻みながら蛇行して流れる長尾川、それらが出会うまさに交通の要衝」としている。徒歩で川を渡っていた地域住民にとってそこに橋をかけるのは重大な関心事だった。工事費400円は長尾村民の寄付金によった。
1993(平成5)年から1995(平成7)年にかけて保存整備工事が行われた。○と+を組み合わせた高欄はそのときの復元。

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野島崎灯台。千葉県南房総市白浜町白浜。2012(平成24)年6月27日

野島崎灯台は房総半島の南端の野島崎(のじまざき)という岬に建つ。野島崎は地図で見ると伊豆半島のような形をしている。そのほぼ中央、海抜10mほどの、何回もの巨大地震によって隆起した海岸段丘にのっている。白浜町、その西の滝口といったあたりの海岸段丘は、はっきり判る段面は4つあり、その最も新しいのが1703(元禄16)年の元禄地震によるもので、そのとき野島という島だったのが地続きになったのが野島崎だという。関東大震災でも隆起して、海蝕棚が海面から現れて岩礁になっている。
建物は『千葉県>野島崎灯台』に、「幕末から明治初期に設置された条約灯台のひとつで、当初の灯台は、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837~1908、フランス人技術者。1865~1876年にかけてドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した)の設計により明治2年(1869)に竣工したが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。大正14年(1925)に再建され、その後も太平洋戦争で被害を受けつつも、現在に至っている。」と記されている。戦争の被害とは昭和20年7月18日深夜の艦砲射撃のことらしい(YOMIURI ONLINE>振動に大音響 同級生奪う)。
平成24年2月に国の登録有形文化財に登録された。



野島崎灯台霧信号所。2004(平成16)年11月27日

犬吠埼灯台には「犬吠埼霧信号所霧笛舎」があり、それと同じ施設だろうと「霧信号所」とした。勿論今は使われていなくて、建物は廃墟だ。

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看板建築の商家。千葉県鴨川市貝渚3022。2006(平成18)年3月13日

写真左に写っている家が当ブログ前回で紹介した桝屋呉服店で、写真の家も桝屋と同規模の洋風看板建築。建物は専用の店舗のようで、裏の住居は別棟である。片流れ屋根で建物の横まで、モルタルで石積み風に造っているので、日本家屋の表面を看板建築にしたものではなさそうだ。和風の引き戸なので洋館とまではいかないが、洋風の店舗建築になるのだろうか。
店先にビールのケースが置かれているので酒屋だったのかと単純に考えてみた。「塩小売店」の表札が残っている。前面左端に扇形のコンクリート製の水槽のようなものがある。打ち水などに使ったものかもしれない。



村磯表具店、羽原歯科医院。鴨川市貝渚3042。2006(平成18)年3月13日

漁港入口バス停の付近。写真右の村磯表具店はわりと普通の日本家屋。左の、間口の大きい出桁造りの家が立派だ。網元の家だろうか。石塀に「羽原歯科医院」の看板がついているが、今はなくなっている。

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塗屋造りの商家。千葉県鴨川市貝渚3128。2006(平成18)年3月13日

鴨川市貝渚(かいすか)および磯村は鴨川漁港の町だから漁師町になるのだろう。町の集会場の名称にある「川口地区」や「大浦地区」というのは昔の地名らしい。そこを通っている県道247号線の沿線が一応商店街といえる。鉄道が引ける以前は漁港が町の中心地だったというが、それを偲ばせるような古い日本家屋の商家や洋風看板建築が少しだが残されている。
上の写真の家は、県道の洋品店や廃業した呉服店などが並ぶ中にある。なまこ壁が見えて蔵造りのように見えるが、壁を漆喰で塗って防火様式にしているのが前面だけで、側面まで及んでいない「塗屋造り」になるようだ。



桝屋呉服店。鴨川市貝渚3021。2006(平成18)年3月13日

前面だけを石造りの洋風建築に見せた看板建築だが、間口が大きく立派な建物だ。こういう店が成り立つのが漁港の町の特徴で、農村との経済力の差が見える。

下の小さな看板建築の家は、桝屋呉服店の斜向かいにある。看板の文字は、白く塗りつぶされた文字が少し読める。1行目は「呉服」と桝屋呉服店に付いていたマーク。2行目は「桝屋特設賣…」。


桝屋特設売店。鴨川市貝渚3120。2006(平成18)年3月13日

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白宝堂時計店。千葉県鴨川市貝渚3177。2006(平成18)年3月13日

千葉県道247号線を北から加茂川橋で加茂川を超えると住所は「貝渚(かいすか)」となる。正確に言うと加茂川橋の少し手前からすでに貝渚である。この不自然な境界は昔の加茂川の流れで決定したものだろう。鴨川市横渚(よこすか)も一部が加茂川の右岸に入り込んでいる。蛇行していた川を直線に改修したのかと思う。境界が不自然といったが不自然なのは川の方なのかもしれない。
白宝堂は加茂川橋の袂にある。出桁造りの家の一階だけを看板建築風に改修したものらしい。店名は金文字を張り付けたような感じだが、今ストリートビューを見ると、文字が取れてしまって、それでも白い跡で文字が読める。わざわざ取り去ったのなら廃業したことになるが……。



看板建築。鴨川市貝渚3180。2006(平成18)年3月13日

白宝堂の斜向かいの看板建築の商店だった家。残念ながらなんの店だったか手がかりがなにもない。その左の家も奥まった窓の看板建築で、地図では太平堂という菓子店だが、写真では「文具」という字が読める。同じ建物の別の店なのだろう。今は日よけのテントはなくなっていて店名の表示もない。



旅館鶴乃屋。鴨川市貝渚3116。2006(平成18)年3月13日

県道247号線は加茂川橋を渡るとすぐ東寄りに曲がる。その曲がり角に鶴乃屋がある。銅板張りの戸袋を見ると古い建物らしい。元は日本家屋の旅館だったのをビルに見えるように改修したのだろうか。「素泊り歓迎」の看板は、今は「素泊り歓迎/お一人でもお気軽に」と変わったが営業はしているようだ。

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石渡茶店。千葉県鴨川市前原171。2006(平成18)年3月13日

島屋履物店の斜め向かいに日枝神社を乗せた小山があり、そのすぐ南にあるのが石渡茶店。洋風下見板張りに二階の縦長窓は明治の擬洋風建築のような感じだ。現役で使われているのが素晴らしい、といいたいがストリートビューを見るとちょっと心配になる状態だ。
日枝神社は道路からの比高5m位の高台にある。登ってみれば鳥屋の建物などが上から見おらせたと思うのだが、当時はそこまで頭が回らなかった。その高台は慶長地震(1604年)による大津波を教訓として、住民が津波避難丘として築いたものという。ごく小さい丘だし10m以上の津波が予想される場合は避難所には考えないほうがいいようだ。



ヘアーサロン マツモト。鴨川市前原361。2006(平成18)年3月13日

石渡茶店からすぐ南、鴨川小前バス停(鴨川日東バス)の辺りにある理髪店。ストリートビューを見ると建物の左半分と写真左の2棟がなくなって駐車場になっていた。店の前の県道を南にいくとすぐ加茂川で加茂川橋を渡ることになる。

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島屋履物店。千葉県鴨川市前原164。2006(平成18)年3月13日

新町通りと本町通りは加茂川橋の少し北で合流する。島屋はその合流点の少し北にある。間口が広いので長屋のように見える。和装の履物を中心に置いているようで、下駄屋といっていいのだろう。店舗の左側にはビーチサンダルなどのまあまあ売れそうなものも置いている。建物の左端は裏の庭への通路になっていて、そこに井戸のポンプが見えている。
島屋と並んで2棟の商店だった家があるが、看板建築風の家は今は取り壊された。
撮影時には見逃していたが、島屋の裏手に川上木材の、出桁造り入母屋屋根の二階建ての家、その隣の出桁造りの家があり、必見である。


島屋履物店。鴨川市前原164。2006(平成18)年3月13日

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豊田商店。千葉県鴨川市前原217。2006(平成18)年3月13日

県道247号は安房鴨川駅前から、あるいは本町通りと別れるところからかもしれないが、加茂川橋までを「新町通り」という。「新町通り商店街」になっているが、今では営業中の商店はかなりまばらだ。
写真の、昭和の時代に閉店してしまったかという感じの豊田商店は、尾高薬局の近くにある。右にたばこ売り場があり、消えかかった看板には「菓子、たばこ、化粧品」が読み取れる。雑貨店だったようだ。
下の写真の家は豊田商店から南へ100mほどのところ。看板は白く塗りこめたのかもしれないが、そこに「まちだ」「洋品店」の文字を見たような気がして店名をでっちあげた。
3枚目写真の大足袋屋洋品店はまちだ洋品店のすぐ並び。普通の洋品店のようだが、昔は和装小物を扱っていたのだろう。


まちだ洋品店。鴨川市前原188。2006(平成18)年3月13日


大足袋屋洋品店。鴨川市前原65。2006(平成18)年3月13日

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