goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:木原精肉店、墨田区墨田5-3。右:魚五商店、墨田5-3。2019(平成31)年3月2日

墨堤通りと鐘ヶ淵通りの交差点が「鐘ヶ淵陸橋」交差点という。ここから水神大橋で荒川区南千住へ行けるようになったのは1989(平成元)年のこと。1978年の住宅地図では墨堤通りは「墨田川通り」、交差点名は「墨堤二丁目」となっている。その交差点から鐘ヶ淵通りを東南へいくとすぐ南北の道路と交差する。墨堤通りの裏通りに当たる通りだが、「西井堀」の流路だった道路である。
西井堀は低湿地の排水路として掘られた堀割ではないかと思う。『川の地図辞典』(菅原健二著、之潮(コレジオ)発行、2007年、3800円+税)には流路が挙げられていて「葛西用水から亀有村で分流し……堀切村で古綾瀬川(現・綾瀬川、荒川)を横断して、現在の墨田区に入る。……中ノ郷村・子梅村で分流し北十軒川と隅田川に合流した。……現在は暗渠化され道路となっている」という具合である。墨田区に入ってからはほぼ隅田川に沿って南北に流れている。この流路と鐘ヶ淵通りとの交差点の標高が「-0.75m」と地形図にある。

上左写真は鐘ヶ淵通りから西井堀の通りに入って北へすぐのところ。上右写真はさらに北にいったところで、右奥の道はカーブして墨堤通りの墨堤二丁目交差点へ向かう。左の塀は円徳寺で、ガードレールとの間の歩道に西井堀の名残りの下水溝があったところだろう。1969(昭和44)年の地図では、鐘ヶ淵通りから南にはその川が書き込まれている。鐘ヶ淵通りから北ではすでに埋められてしまっている様子だ。昭和22年の航空地図でも川があるようには見えない。
写真右の道路は西井堀の通りを横断して田中湯の前の道路になる。堀割には「丹頂橋」が架かっていた。



左:三軒長屋、墨田区墨田5-4。右:フヂヤ薬局、墨田5-39。2019(平成31)年3月2日

左写真は2枚目写真から北へいった次の横丁との角。1969年の地図では、長屋に「滝沢理容、藤野ずし」とある。
右写真は三軒長屋の斜向かい。現在、右に写っているビルが「フヂヤ薬局」なので、写真の建物は旧店舗になるらしい。


二軒長屋。墨田5-6。2019(平成31)年3月2日

4枚目写真からさらに北へいったところで、鐘ヶ淵通りからだと200mの地点。写真の建物は出桁造りの家の古い酒屋かなにかと思ったが、古い地図でも店名は書いていない。古い航空写真を見ると、四軒長屋の半分が残っているもののようだ。
その家の向かい側に隅田小学校にぶつかる横丁が出ている。そこの西井堀には「蓮池橋」が架かっていた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





田中湯。墨田区墨田5-46。2019(平成31)年3月2日

南北の鐘ヶ淵駅前商店街の中央辺りに東西に横丁が通っている。商店街から横丁を東に入ったところにあるのが田中湯。『風呂屋の煙突>田中湯』によると、戦前からの銭湯で、現在の建物は昭和27年に建てたものという。昭和22年の航空写真に写っている建物があるが、それを建て直したものになるらしい。
写真奥に写っているのが平屋の長屋と二階建ての二軒長屋。戦前からあるものと思われる。



平屋の三軒長屋。田中湯の通りから横の路地を撮った。



二軒長屋。この裏に、半分改築されているが、2棟の二軒長屋がある。写真左の、前面に増築している方は、1978年の住宅地図に「細谷ゴム」の記載。



平屋の二軒長屋。3枚目写真の左に写っている建物が「グリンゲイブルス」(1991年8月築、4戸)というアパート。「春風荘」というアパートを、1階を駐車場にして建て替えたものだ。その裏に写真の平屋の長屋が残っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





佐京洋食器製作所。墨田区墨田5-46。2019(平成31)年3月2日

鐘ヶ淵駅の駅前広場から鐘ヶ淵駅前商店街に入って、小沢理容店の5・6軒先にある二軒長屋。昔の航空写真を見ると、元は六軒長屋くらいだったらしい。その北の二軒が「太平食品」に替わり、さらに残った四軒の両端が取り壊されたり建て替わったりして二軒長屋として残った、ということではないかと考える。
一軒は「佐京洋食器製作所」、もう一軒は1階を車庫にした民家。ストリートビューで見ると、佐京製作所に木製のスプーンの写真が出ているので、木工所なのだろうか? その左側の一軒が取り壊されたのは2015年のことらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






小沢理容店。墨田区墨田5-45
2019(平成31)年3月2日

東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の鐘ヶ淵駅から北へ向かう細い通りの商店街があって、「鐘ヶ淵駅前商店街」という。周囲は空襲での焼失を免れた地区である。鐘ヶ淵通りから南は焼失した地区になり、駅前広場の辺りも焼失したようだ。
ほのぼの「B級商店街」歩き>[№69]鐘ヶ淵駅前商店街歩いた日(2012年)』には「墨田区商連の商店街リストにはないのですが、駅前の北側に「鐘ヶ淵駅前商店街」の名を掲げる古びたアーチがあって、その先に商店街らしき空間が続いています」とあるが、現在、「鐘ヶ淵駅前商店街」の表示の部分がとれてしまっている。他に商店街名の表示もなさそうなのだがいいのだろうか?

戦前築の店舗や長屋は、今はほとんどが建て替わっているわけだが、小沢理容店は建築時の面影をよく残している。『出没!アド街ック天国>墨田区鐘ヶ淵(2010年)』によると、戦後すぐの開店。頭を洗うときは「こちらへどうぞ」という形式だという。昭和40年頃まではそれが普通だったように思う。建物どころか設備の更新もないような様子だ。長年のお得意さんがいるのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





五味自動車株式会社隅田工場。墨田区墨田2-17。2019(平成31)年3月2日

写真手前の四つ角の右手前が、当ブログ前回の「ネオコーポ墨田」(旧・東京護謨製作所)の敷地の北西角になる。五味自動車の工場の事務所棟が工場敷地の南東角にある。写真右奥が工場棟。
事務所棟は木造2階建て、モルタル壁の建物と思える。2階の窓の下に階段状の水平線、建物四隅の水平線、柱上部のメダリオンなどで飾られている。入り口のある方を見ると、建築時のものかと思える菱型の窓の桟が残っている。この辺りで、このようにはっきりと戦前築の洋風の建物、と分かる建物を見ることは珍しい。
五味自動車は『出没!アド街ック天国』で取り上げられて、自動車用タイヤを再加工する工場、つまり再生タイヤを製造している。つまりこの工場も周辺に多かったゴム工業で、今も稼働している工場ということになる。





五味自動車の南側の塀。奥は「都営白髭団地 白髭東アパート」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





狸湯。墨田区墨田2-21。2019(平成31)年3月2日

当ブログ前回の通りからちょっと西へ引っ込んだ位置にある銭湯。下の写真の大嶋菓子店の横を入ったところが入口である。『東都よみうり>銭湯探訪』によると、大正12年に創建され、後に現オーナー(四代目)の初代に渡る、とあり、建物は戦災を免れたものという。「近くに鐘紡の大きな社宅やゴムなどの工場ができて、女湯の広い狸湯は人気が出た」というが、男は工場で風呂に入ってきてしまうため、客は女子供が多かったので女湯の方を広くして建てたようだ(『 REVIEW>2たぬき湯』)。
鐘紡の社宅というのは、戦前の地図に「鐘淵紡績会社住宅地」とある、鐘ヶ淵駅の南西、墨田2-12・42にあった大きな団地と思われる。



大嶋菓子店。墨田2-21。2019(平成31)年3月2日

写真奥のマンションは「ネオコーポ墨田」(1985年築、5階建98戸)という。そのマンションが建つ前は「東京護謨製作所」の工場だった。この辺りはゴムの工場が集中していたようで、1978(昭和53)年の地図を見ると、東京護謨から東武の線路の方へ「東都ゴム製作所」「長瀬ゴム工業株式会社第一工場、第二工場」「日興ゴム工業株式会社」と並んでいる。
1962(昭和37)年に「墨東ゴム工業会」が設立されていて、その『会報No.1』の名簿には、66社が挙げられている。その住所の主なものは、隅田町、寺島町、吾嬬町東、吾嬬町西、など。
1982年3月号の会報に各社の生産品目が載っていて、東京ゴム製作所のそれは「自動車用ゴム部品、医療ゴム、医療ゴム製品、一般工業用ゴム製品」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:小山魚店、墨田区墨田2-33。右:江島タバコ店、墨田2-21。2019(平成31)年3月2日

墨堤通りと東武伊勢崎線の中間あたりを南北に通っている通り。周囲は住宅地だが、写真の通りは幾らか商店街のような趣がある。北方向への一方通行のせまい通りである。明治半ばまで田圃だったかと思える低地で、1万分の1地形図にはちょうど左写真の場所に「-0.8(m)」と記されている。
昭和22年の航空写真を見ると、この辺りは空襲の被害をまぬがれている地域である。そこに写っている住宅は長屋が多かったかと思える。当然、今はほとんどが建て替わっているが、古く見える家があれば戦前からのものであっておかしくない。また、周辺は工業地帯でもあって、1980年頃までは工場が多く立地していた。そこで働く職工が長屋を借りたのだろう。玉の井や鳩の町も、その背景があってのことだった。
写真の商店名は1985(昭和60)年の住宅地図による。小山魚店はすでに廃業しているのかもしれない。江島タバコ店の右は地図では「花又食堂」。写真では住宅に改装されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






カフェー春美だった家。墨田区墨田3-12
2019(平成31)年3月2日

今回の記事は「憩、九十九/墨田3丁目」ですでに取り上げた建物である。その記事で「出桁造りの家」とした建物が、2016・17年頃に建て替わったしまった。その家に関しては、玉の井についての貴重な情報を提供していただいているキューピーさんから、コメントをもらっている。それをもとに、再度の登場である。
「憩」というカフェーだった建物は、赤線があった時代に称されていた「本通り」と「銀座通り」が交わる角にある。現在、本通り側の正面は2つの家がくっついて建っているようにしか見えないが、同じ建物である。憩の左側の家は古い民家のような造りだが、『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の「昭和28年頃のカフェー街」地図に「春美」とあるカフェーだったと思える。2階のベランダの手すりのようにも見えるものはカフェーの遺構なのだろうか? 柱に「玉ノ井町会々員」の表札が付いている。
上の写真では春美の左にあった家が取り壊されて春美の横と、その後ろの、表を銀座通りに向けた長屋の裏側が見えている。


カフェー鶯だった家。墨田3-12
2013(平成25)年4月5日

出桁造りの家は、キューピーさんからのコメントによれば、昭和10年に開業した酒屋だった家。その開業時に建った建物だろうか? 『玉の井 色街の社会と暮らし』の「昭和28年頃の玉ノ井界わいの住宅地図」の「磯部酒店」である。
戦後は「鶯」というカフェーを営業した。その時期は周囲のカフェーより5・6年遅く、昭和27・8年の開業だったという。
写真右のガレージが1枚目写真の手前の空き地にあったもの。民家の前面をガレージにした建物だったかと思う。古い航空写真を見ると、鶯とその右のガレージとで二軒長屋だったようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





カフェー ホームランだった家。墨田区墨田3-12。2019(平成31)年3月2日

玉の井に赤線があった頃に「柳通り」と言われた路地のような裏通りにある、どうということもない住宅だが、カフェーだった名残りの円柱が残っている。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の地図によると、「ホームラン」という店だ。円柱は4本で、コンクリート洗い出しの表面。2か所の出入り口の左右にあったのだろう。家の左側の角の入口はトタンで囲った物置小屋で隠れてしまっている。2階の前面にはバルコニーがあったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




相川ゴム工業所。墨田区墨田3-12
2019(平成31)年3月2日

銀月など、4軒のカフェーが入っていた長屋の向かいの長屋。古い航空写真を見ると、元は四軒長屋だったらしいが、両端が建て替わったようで、今は二軒長屋になってしまっている。その長屋に、「相川ゴム工業所」が入っている。
『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、自由国民社、2010年、2800円)の地図によると、この長屋に「ぎおん」と「第二福助」というカフェーがあった。赤線廃止の10年後の1968年の地図では「ぎおん/酒場/加藤」という記載。1978年の地図では「竹花工業所/相川ゴム工業所」。
場所は2棟の長屋に挟まれた行き止まりの路地だから、本来、他者は入ってはいけない路地である。ただこの路地にはカフェーの遺構であるタイル張りの円柱があり、住人が知らない人を目にしても、その目的が分かる。「変なものが好きだねえ」くらいに思って見逃してもらえるわけだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »