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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




理容スズキ。葛飾区立石7-24。2008(平成20)年12月11日

京成立石駅から東へ2つ目の踏切り。この踏切りから北(写真左奥)へ、「ふれあいの町 立石西町商栄会」の幟が外灯から下がっている。「立石西町商店街」になるのだろうが、商店が立ち並んでいるというわけではないので、商店街という感じは希薄である。
線路際に建つ写真の建物は1階を店舗にした四軒長屋で、戦前からあるもののようだ。写真では「理容スズキ」と料理屋の「菊八」が営業している。現在は立石駅の線路を高架にする工事が進んでいて、長屋はその高架線路が引かれる敷地に入ってしまった。また、立石西町商店街の通りは、東側に拡幅する計画も進んでいて、長屋はその敷地でもある。ということで、2012年頃ではないかと思うが、長屋は取り壊された。


菊八。2010(平成22)年11月21日

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呑んべ横丁。葛飾区立石7-1。2008(平成20)年12月11日(5枚とも)

京成立石駅のすぐ西、線路の南から見た呑んべ横丁(2階建ての長屋風の建物)。右のビルは石井ビル(中華・海華)。とりあえず写真の面を正面とすると(例の「呑んべ横丁」の看板がある反対側が正面なのかもしれないが)二つの入口があって、それが北の裏側まで通っていて建物は南北に3列に並んでいる。中央の棟は二つに分かれていて、その間は南北の通路を結ぶ東西の通路だ。東(右)の棟は航空写真で見ると4棟の長屋からなるようだが、西の棟は細長い1棟に見える。通路は屋根が架かっていてアーケードになっている。各長屋の壁はモルタル塗りが基本のようだ。二階はいずれも通路の側に少し張り出していて、一階との段差は看板にするためだろう、斜めの壁にしてある。あの「アカカンバン洋服店」の看板はその部分に書かれている。



戦前は住宅地だったと思われるが、それが強制疎開で取り払われ、1954(昭和29)年(1953年とも)に長屋式の商店が建てられた。日用品を扱う店が多く入ったようだが飲食店もあったらしい(知の冒険>開発が迫る立石の…)。「立石デパート」と称した。しだいに普通の店は居酒屋にとって代わっていく。「ションベン横丁」と言われるようになって困った「立石デパート商店会」の何人かが「呑んべ横丁」の看板を作ったそうだが、いつのことなのだろう? 共同トイレは店にある鍵で開けるのだという(ラブ・ユー立石>おでんや)。「知花子」と「伯爵」には店内にトイレがあるそうだ。



立石駅北口の再開発がいよいよ工事に入ったようだ。今は建物を壊している段階で、呑んべ横丁の南側半分が取り壊された。36階建ての高層ビルを建てる計画らしい。人口減少の時代に入ってしまった今、資金の回収は大丈夫なのだろうか?

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安達太良、奴、わか葉。葛飾区立石4-26。2008(平成20)年12月11日(5枚とも)

京成立石駅の北、住所で立石4-26には居酒屋・スナックが集中している。勿論その周辺にもあるが、26番地の特徴は戦前からある建物がかなり残っていることだ。戦後、それらが赤線のカフェーとして営業し、売春防止法施行以降は飲み屋に転向して今に至ったのである。
上の写真は26番地の西の通りで、右奥が駅。写真の家並みの向かい側はマンションなどがあって店は少ないが、居酒屋安達太良の角を左に入ると「立石すずらん通り」で、両側に飲食店などが並ぶ。



居酒屋さつき、スナック竹馬、小料理さくら。スナックつかさ、居酒屋安芸

26番地には東西にY字型に路地が入っていて、そこが飲み屋街の中心である。写真の看板の店で今も続いているのは半分ほどだろうか?

立石の赤線跡についてはネットでも取り上げられていて、それらをまとめると以下のようになりそうだ。
昭和10年代、「立石新地」という家数40軒ほどの住宅地ができる(♪ラブ・ユー立石>写真で辿る立石北口)。そこに1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で焼けだされた亀戸駅付近にあった花街(銘酒屋?)の業者が移ってきた。「6月に民家を改装して営業が開始されたという」(『赤線跡を歩く』木村聡著、2002年、ちくま文庫)。戦後は進駐軍向けの慰安施設(RAA)に指定された。進駐軍が要求したわけではなく、日本政府が犯罪防止の防波堤が必要だと考えたのである。進駐軍の方では、半年後の1946年3月にはそんなところに行くと病気になるからと、立入禁止にしてしまった。替わって警視庁が営業を許可して「赤線」になる。
「スナックつかさ」と「居酒屋スナック安芸」の建物がカフェー建築の特徴をよく残している。モルタルで塗りつぶしてしまっているが豆タイル貼りの円柱、建物角のアールの庇が見られる。



スナッククリスタル、スナックポポ、パブブリっ子、創作酒菜厨、立石居酒屋関処

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立石荘。葛飾区東立石4-51
2010(平成22)年11月21日

奥戸街道の京成立石駅前交差点から横町を南に入ったところ。20室近くあるような割と大きいアパートで、昭和22年の航空写真に写っているのと、玄関まわりの壁にスクラッチタイルを貼っているので、戦前に建てられたものと思える。
ストリートビューで現状を見てみると、蔦に覆われてほとんど廃墟に見える。取り壊されないのはまだ居住者がいるのかもしれない。

下の写真は立石荘の南西、すぐそばにあった医院。戦後の建物である。2階は病室だったと思われる。写真右の鳥居は原稲荷神社のもので、参道の入口。現在は何棟かの住宅に替わった。2010年頃のことらしい。



安藤医院。東立石4-51。2008(平成20)年12月11日

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理容スズラン、吉田眼科医院。葛飾区立石1-16。2008(平成20)年12月11日

京成立石駅前の「立石仲見世」の西に「立石中央通り」というイトーヨーカドーのある商店街がある。そこを南に行って奥戸街道に出て、少し西へ行ったところに写真の出桁造りの商家があった。
2009年に現在の3階建ての小さなビルに建て替わってしまったが、「理容スズラン」はその新店舗で続いている。
この辺りは南に中川を控えた低湿地である。写真左のビルの左が交差点で、その地点の標高が-0.5mと地形図に載っている。この辺りの中川は「中川七曲り」と呼ばれる蛇行している部分だ。これが自然河川の形かと思っていたが、『川の地図辞典』(菅原健二著、出版=之潮〈コレジオ〉、2007年、3800円+税)によると、1700年代の工事によるものらしいが「(小合溜の)さらに下流の川幅を拡張し、付近に散在していた池沼を掘り連ねたため、七曲がりと云われるような屈曲のある流れが出来上がった」とあった。

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勝メガネ店。葛飾区東立石4-50。2008(平成20)年12月11日

奥戸街道の京成立石駅前交差点。写真右に、屋根式のアーケードが架かる「立石駅通り商店街」の入口がある。というより、京成立石駅から立石駅通り商店街を南に歩いてくると、奥戸街道の写真の交差点に出る。
交差点の南西角が、「勝メガネ店」と「はんこ屋さん21」の二軒長屋。戦前からあると思われる建物だが2018年に取り壊された。その右は「ウシゴメ文具店」。その右、青いテントが「伊勢屋」で、その間に路地があり、その路地の入口にアーチのように「ビリヤード」の看板が架かっている。地図を見ると、路地の中ほどの古いアパートのような建物に「富士ビリヤード」がある。ストリートビューを見るとアーチのような看板の裏側が見える。帰る客への挨拶なのか「ありがとうございます」と書いてあるようだ。



キヨタ菓子店。東立石4-50。2008(平成20)年12月11日

1枚目写真の右に写っているビルのさらに右にある二軒長屋で、奥戸街道に面した正面を看板建築にした建物。両店とも廃業して久しいようだ。右の店はヤマザキパンの看板が残っていて「キヨタ菓子店」だったと分かる。左の尖頭アーチと円柱の造形の店が何だったのか判定が難しい。スナックか喫茶店のような感じだが、ケーキ屋だと同じような店が並んでしまう。

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本田屋本店。葛飾区東立石4-45。2008(平成20)年12月11日

奥戸街道の美濃屋脇坂商店から少し東へ行った向かい側にある酒店。脇坂商店と同じ出桁造りの店舗で、横に看板建築の別棟を抱えているところまで同じだ。
京成立石駅付近を京成押上線に平行に東西に通っている奥戸街道は、住所が北は立石、南は東立石になる。その奥戸街道に対して脇坂商店と本田屋がほぼ向き合っているのだが、競合しないのだろうか? 京成立石駅は飲み屋街が有名だから、酒屋はいくつあってもいいのかもしれない。



二軒長屋の魚屋。東立石4-45。2008(平成20)年12月11日

本田屋本店から右(西)へ少し行ったところに残っている二軒長屋。その左の鮮魚店はだいぶ以前に廃業した様子だ。看板の左に店名らしい字があり、消えかかっているのを無理に読んでみると「魚房」だろうか?
二軒長屋の右に見える戦後の看板建築か、と見える店は「富士屋模型店」。鉄道模型やプラモデルを売っていて、そのHPには「立石唯一の模型店」とある。

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美濃屋脇坂商店。葛飾区立石8-1。2008(平成20)年12月11日

奥戸(おくど)街道の京成立石駅に近いところにある老舗の酒店。そのHPによると、「大正9年東京都墨田区押上にて個人商店として創業、大正12年関東大震災被災後 現在の場所に移転営業」。とすると、出桁造りの店舗は昭和初年頃に建てたものだろうか。
関東大震災以前の東京府南葛飾郡は農村地帯だったが、大震災で避難する人々が流入して住宅・工場などが増えていく。1912(大正元)年11月には京成電気軌道が開業して、市内への往来が便利になったことも大きかっただろう。1932年(昭和7年)10月に東京市に編入されて葛飾区が成立した。
奥戸街道は都道60号市川四ツ木線の一部で、平和橋通りとの交差点(奥戸街道入口交差点、立石1丁目)から東へ、蔵前橋通り(六軒島交差点、西小岩2丁目)までの区間をいう。昔からの街道のように聞こえるが、1984(昭和59)年に東京都建設局が60路線の愛称を付けたときに決まった一つ。京成立石駅主変では「立石大通り」とも呼ばれることもあり、「立石大通り商店会」という商店街になっている。
写真の場所から右(東)へ少し行くと中川で、奥戸街道は本奥戸橋で奥戸へ渡る。その橋から西は「立石道」という古道の一部にあたるというから、古くからある往還なのかもしれない。

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戸田商会。墨田区墨田5-10。2019(平成31)年3月2日

上写真で左に軒だけが写っている家が花屋惣菜店。写真中央の家はベランダの腰壁の造りなどが古そうだが、戦後の改築のようにも見える。窓に「戸田商会」の表札がある。その右の家は長屋の一軒が残っているのだろうか?
 戸田商会の左は駐車場になっているが、下左写真が以前そこに建っていた二軒長屋。ストリートビューで見ると2017年頃取り壊されたらしい。
上の写真で右へ行く道が西井堀の流路だったと思われる道で、北へ荒川の土手まで続いている。そこを少しいったところに武田商店の出桁造りの商家が残っている。だいぶ以前に廃業したらしく、なにを商っていたのか分からない。つい最近までベランダの腰壁に日本の伝統模様に銅板を貼って店名の金文字を貼った看板があったのだが、改修されて下右写真のようになってしまった。以前の造りは『アクトデザイン凛太郎のブログ>鐘ヶ淵散策Ⅱ』で見ることができる。



左:二軒長屋、2010年1月撮影のストリートビューより
右:武田商店。墨田5-10。2019(平成31)年3月2日

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そば屋坂むら。墨田区墨田5-7
2019(平成31)年3月2日

上の写真は西井堀の通りの北端のような地点で、写真正面の家が通りを二つに分けている。右へ行く道はほぼ真っ直ぐ北へ向かうが、道は細くなる。左へ曲がる方が本線と思われ、半円を描いて墨堤通りに合流する。西井堀は左へ入ってからすぐ北へ向かう道路に入ったようだ。写真中央の3階建てビルの左にその道がある。
写真左の日本家屋の正面が左写真で、「坂むら」というそば屋だった。『食べログ』の記事によると2016年12月17日に閉店した。格子戸や立派な看板などから老舗のそば専門店のように見えるが、普通の町のそば屋だったとか。それでも明治30年代の創業、建物は昭和7年の建築という。

下の写真は1枚目写真の通りが左(西)へ曲がってすぐ見える四軒長屋。角が「花屋」という揚げ物などの惣菜店。店名の看板がないが、冷蔵庫の白いタイルに花屋の文字が書かれている。


花屋惣菜店。墨田5-7。2019(平成31)年3月2日

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