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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




福島質店。墨田区緑1-14。2007(平成19)年5月23日

京葉道路の緑一丁目東交差点を南に入ってすぐのところ、京葉道路の裏通りとの角にある質屋。古そうな蔵が2棟建っている。『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編・発行、1991年、2,000円)に1章をさいているので、以下その内容を紹介する。
「福島屋」開業は元禄2(1689)年で都内最古という。1991年の時点で店主は9代目。最初は横十間川と小名木川の交わる辺り(江東区猿江)にあったが、明治末の7代目の時に現在地に移転した。震災のころまでは中小質店から品物を預かって資金を貸す「親質(おやじち)」(一般の質屋は直質(じきじち))の形態だった。商売相手は50軒くらいあったという。
2棟の蔵は伝統的な外観だが3階建てのRC造。1階の床は水害を考慮したらしくかなりの高さがある。外壁は厚さ35cmのコンクリート壁で内側はヒノキ板張り。窓は鉄扉、鉄角棒格子、ネズミ返し用の金網戸、金網入りガラス戸の4層。敷地奥の東側質蔵が昭和9年10月の完成、西側質蔵は昭和2年4月の完成である。

道路の角に国旗掲揚塔が立っている。戦後のものかもしれないが「国旗掲揚塔/緑町一丁目町会」の銘板がはめてある土台は梅花形の断面で明るい色のコンクリート洗い出し。ストリートビューを見ると今はなくなっている。解体されたのは2017年。老巧化で倒れる危険性がでてきたのだろうか? ちょっと残念だ。



福島質店(裏通り側)。2015(平成27)年5月11日

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千葉銀行緑町支店。墨田区緑1-10。2007(平成19)年5月23日

清住通りの京葉道路との交差点が緑一丁目交差点で、そこから清住通りを南へ2本目の横丁との角にあった銀行だった建物。
建物の変遷は不明だが、三和銀行本所支店として1950年代に建ったものではないかと思う。クローバーのマークの三和銀行は、2002年(平成14年)に東海銀行と合併してUFJ銀行となった。1999年の地図では三和銀行になっているから2002年までは三和銀行だったのかもしれない。UFJ銀行、三菱東京UFJ銀行になったのかは分からないが、建物左の自販機のようなものは「すぐモビ」のローン申込書が置いてあるボックスのようで、三菱東京UFJ銀行系のモビットだったかもしれない。
2009年12月のストリートビューで千葉銀だったときの画像が見られる。上の写真はその前の空き家の時期らしい。住所は「緑」なのだが、それでは落ち着かないのだろう。旧町名を使って「緑町支店」としている。
現在の「ザ・パークハウス両国」(13階建47戸)というマンションは2012年2月の竣工。

都電館>都電アルバム新6江東の都電は異次元空間』に、昭和44年に撮られた緑一丁目交差点から南の町並みをとらえた写真が載っている。交差点を横切る都電を撮影したものだが、松山ビルから協和銀行、日本勧業銀行、そして三和銀行までが写っている見事な写真だ。松山ビルには「東都信用組合」の字がある。

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松山ビル。墨田区緑1-16。2007(平成19)年5月23日

京葉道路(千葉街道)と清住通りとの交差点が緑一丁目交差点で、その東南角の松山ビルはランドマークのように見られていたのではないかと思う。西南角がキングサイズの洋品店「ライオン堂」。
松山ビルは『日本近代建築総覧』に「松山ビル、墨田区緑1-16-4、建築年=昭和4年、構造=RC、設計・施工=清水組」で載っている。なんとも薄っぺらなビルで、厚さは乗用車1台分くらいしかない。
2016年5月頃に解体されたようだ。京葉道路拡張のため、という。ビルの後ろの5棟くらいあった家も同時に取り壊され、今は時間貸し駐車場になっている。



松山ビル。墨田区緑1-16。2007(平成19)年5月23日

清住通り側の家並み。松山ビル右の「ギャラリーもりた」は1969年の地図では「八百寅」。とんかつの「とん喜」と「中村絲店」はその地図でも同じ。写真右のビルは日本勧業銀行が変わって「りそな銀行本所支店」。

この辺りは墨田区の中心街の一つで、総武線両国駅と墨田区役所(旧本所区役所、吾妻橋一丁目に移動)が北に、京葉道路沿いに本所警察署がある。
かつては二つの大通りを都電が走っていて、緑一丁目交差点は「東両国緑町(みどりちょう)」電停が置かれた。京葉道路を走っていたのが25番と29番で、25番は「西荒川-小松川-亀戸駅前-錦糸堀-東両国緑町-須田町-神田橋-日比谷公園」を、29番は「葛西橋-大島-錦糸堀--東両国緑町-須田町」を運行した。清住通りは23番「福神橋-押上駅前-吾妻橋一丁目-駒形橋-本所区役所前-東両国緑町-門前仲町-月島八丁目」が運行した。25番は昭和43年9月に、23番と29番は昭和47年11月に廃止になった。
主要な銀行のほとんどが緑一丁目交差点を中心にした場所に支店を出していた。1969年の地図で拾ってみると、富士銀行、三菱銀行、大和銀行、第一銀行、日本勧業銀行、三和銀行の各本所支店、協和銀行本所支所と懐かしい名前が並ぶ。

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NTT深川ビル別館。江東区深川2-7。2003(平成15)年5月4日

葛西橋通りの、深川1丁目交差点のすぐ東にあったビルで、ビルの前の都バスの停留所は「深川一丁目」。上の写真は西の側面が写っているが、『電話局の写真館>NTT東日本|深川ビル本館、深川ビル別館』には東の側面が写っている写真が載っている。単純な3階建てではなく、2階建ての部分や塔屋があるのが判る。そのサイトでは「NTT東日本 深川ビル別館」で、裏口の表札は「NTT東日本|NTT深川ビル別館/東日本電信電話株式会社/第二法人営業本部」。なお、「NTT深川ビル本館」は別館と同じ並び、一つ東の街区にある。
NTTが発足した1985年以前は「深川電話局」だった。建物の詳細は分からないが、1947(昭和22)年の航空写真に写っている建物がそれらしく思える。
2009年に取り壊されて「ネクストサイト深川ビル」(2010年12月竣工、6階建)という賃貸事務所に建て替わった。

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福寿橋。江東区平野4。2003(平成15)年1月5日

小名木川の南をほぼ平行に東西に流れる仙台堀川は、木場公園の東で南北に流れる大横川と交差する。仙台堀川はその地点から東の流路は埋め立てられて仙台堀川親水公園(1978年埋め立て、1980年4月開園)になった。今は丁字水路になった合流点のすぐ北、大横川に架かっているのが大栄橋(だいえいばし)、その北に架かっているのが福寿橋(ふくじゅばし)で、両方とも震災復興橋のトラス橋である。どちらも西の平野4丁目と東の千石1丁目をつないでいる。
福寿橋は『江東区>区道橋>福寿橋』では、「橋長:39.1m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:昭和58年12月に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.5m」。1929(昭和4)年の竣工である。



大栄橋。江東区平野4。2003(平成15)年1月5日

大栄橋は『江東区>区道橋>大栄橋』では、「橋長:37.6m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:平成25年10月に大改修。設計荷重:20t。全幅員:13.4m」。1929(昭和4)年11月の竣工である。
大栄橋と福寿橋は、現在では黒に近い緑色に塗りなおされている。


大栄橋。江東区平野4。2003(平成15)年1月5日

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新扇橋。江東区扇橋1。2007(平成19)年5月29日

小名木川の、大横川と交わるところからすぐ東に架かるのが扇橋、その次が小松橋。その間に扇橋閘門があり、小名木川は東西に分断されている。
新扇側は北の猿江町1丁目と南の扇橋1丁目を結ぶ、大門通りに架かる橋。大門通りは洲崎遊郭にちなむ名称で、吉原とも通じていて昔から言われていたという。
江東区>区道橋>新扇橋』によると、「橋長:57.3m。架設形式:単径間鋼製アーチ橋。架設年次:昭和43年3月に大改修。設計荷重:20t。全幅員:17.9m」。竣工は1931(昭和6)年。


扇橋。江東区扇橋1。2007(平成19)年5月29日



小松橋。江東区扇橋2。2007(平成19)年5月29日

小松橋は北の猿江1・2丁目と南の扇橋1・2丁目を結ぶ、小松橋通りに架かる橋。『江東区>区道橋>小松橋』によると、「橋長:55.9m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:昭和56年6月に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.8m」。外観から西深川橋、新高橋と同じ仕様と思える。竣工は1930(昭和5)年。

新扇橋と小松橋の間に扇橋閘門が設けられた。「昭和47(1972)年1月の着工から、約5年の歳月と約30億円の事業費をもって昭和52(1977)年に完成した(東京都建設局>扇橋閘門>パンフレット)」。閘門から東の川は水面の高さを-1mに調整している。地面の標高は-3~-2mといったところではないかと思う。

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西深川橋。江東区白河1、2
2006(平成18)年5月1日

西深川橋は小名木川(おなぎがわ)の、隅田川河口から東へ640mのところに架かる橋で、北の高橋、森下3丁目と南の白河1、2丁目の間を繋いでいる。
江東区>区道橋>西深川橋』によると、「橋長:56.1m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:1983(昭和58)年に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.9m」。竣工したのは1930(昭和5)年である。
1990年に東北の橋詰めに「GOMBESSA」というシーラカンスの像が作られた。これという特徴もなく、「西深川橋」といっても漠然としていて困っていたところにシーラカンスの橋という分かりやすい特色ができて便利になったように思う。



新高橋。白河4。2007(平成19)年5月29日

西深川橋の東が東深川橋、さらに大富橋(三ツ目通り)があって、その東に新高橋がかかっている。北の森下5丁目と南の白河4丁目をつなぐ。また新高橋のすぐ東で、南北に流れる大横川が小名木川と交わる。
江東区>区道橋>新高橋』によると、新高橋は「橋長:56.1m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:1979(昭和54)年5月に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.8m」。竣工したのは1930(昭和5)年である。西深川橋と外観と大きさが同じなので、同じ仕様で架けられたものらしい。

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万年橋。江東区常盤1。2006(平成18)年5年1日

万年橋は万年橋通り(江東区道第3124号線)の、小名木川(おなぎがわ)に架かる橋。江東区では珍しいアーチ橋である。小名木川は東が上流なので、最下流、ほぼ隅田川の河口付近にあり、北の常盤1丁目と南の清住1・2丁目の間を結んでいる。
『ウィキペディア>萬年橋』によると、「構造形式:1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑。橋長:56.25m。幅員:17.2m。開通:1930年(昭和5年)11月19日。施工主体:東京市復興局、江東区。設計:鹿島組。橋桁製作:川崎造船所。施工:鹿島組」。
この辺りは近年、松尾芭蕉との関連で名所として整備されてきたが、江戸時代も名所だったらしく、葛飾北斎の富嶽三十六景「深川萬年橋下」、歌川広重の名所江戸百景「深川萬年橋」の浮世絵は有名だ。富士山を眺めるために来たとは思えない。隅田川と小名木川の眺め、橋そのもの、往来する船を見るのが主眼だろう。
写真で万年橋の奥に見えるのは「新小名木川水門」。1961(昭和36)年の竣工。写真では扉が3基あるが、2017年の耐震改修工事で北の1基は撤去され、上部の窓のある箱型のものも改装された。



万年橋。江東区清住2。2006(平成18)年5年1日

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冨士自動車鐘淵ガレージ。墨田区墨田5-2。上:昭和10年頃、下:現在(ストリートビューより)



1枚目の写真は竹ちゃんという方から、写真の冨士自動車のガレージが今も残っているのでブログの記事の材料としてどうか、ということで提供していただいたもの。昭和10年頃に撮影されたものという。撮影者は冨士自動車(当時の社名は「鐘淵自動車商会」)の社員で、戦死されている。2枚目の写真がその現況である。場所は墨堤通りの鐘ヶ淵陸橋交差点の北東角。
建物は2階は改装されているが、1階はほとんど変わっていない。ガレージの中を見ると柱と梁は鉄筋コンクリートのように見える。昭和になってからの建物らしい。玄関の前にある機械はガソリンの給油機だろうか。冨士自動車は創立時の建物ということで、保存しているのかもしれない。
冨士自動車は主にタクシー、観光バスなどを運用している会社で、冨士自動車のホームページによると、大正12年10月、「鐘淵自動車商会」として創業した。関東大震災の直後である。T型フォード2台から始めたという。乗用車とトラック1台ずつだったようだ。昭和10年12月、合名会社鐘淵自動車商会と組織を変更する。その頃の写真として、ガレージの前に保有車両を交えての集合写真が載っている。その写真では2階が写っていないので、1枚目の写真がいよいよ貴重なものになる。社名を「冨士自動車株式会社」と変更したのは昭和16年 1月。



昭和38年の航空写真に昭和44年の住宅地図の記載を重ねたもの。

戦後は昭和24年にタクシー事業を再開、昭和28年に観光バス事業を開始、と事業を拡張していく。昭和40年頃には事業所は最初のガレージの周辺にいくつも点在しているのが見て取れる。
墨堤通りの西、堤通2、3丁目は、現在では写真の面影は絶無である。ただ、榎本武揚像はほとんど動いていないようだ。

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松淵たばこ店、正起屋建具店。葛飾区立石7-24。2008(平成20)年12月11日

立石西町商店街の中ほどに信号のある交差点がある。写真はそこの南から通りの東を撮ったもの。古い店舗の商店が並んでいる。手前から「松淵たばこ店」「正起屋建具店」「太田神仏具店」、横丁があって「永井靴店」。いずれも戦前に建てられたと言えるほど古くは見えないが、戦後に改修されてのことかもしれない。
通りの拡幅事業によって今は4軒とも取り壊された。解体された時期はそれぞれ異なり、松淵たばこ店が2009年、永井靴店は今年(2019年)になってから。




永井靴店、洋風の平屋。立石7-23
2008(平成20)年12月11日

信号の横丁側も街灯に「ふれあいの町 立石西町商栄会」の旗が下がっている。そこを東に入ると古い建物が何軒か残っている。特に、昭和2年に建ったという平屋の洋風の家( Kai-Wai 散策>小さな町の精)があって見逃せないスポットだった。それも今は「レジーナ立石」(2019年1月築、3階建て12戸?)というマンションに建て替えられた。

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