JUN STORIES・3
《4月12日 淳の心情》
1945年4月12日、アメリカのフランクリン・ルーズベルトが亡くなった。
大方の読者はご存じであろうが「スネークアタック!」「リメンバーパールハーバー!」のキャッチコピーで日本を太平洋戦争に引きずり込んだアメリカの第32代大統領で、この月の1日には、アメリカは沖縄上陸作戦を実施、6日には坊津沖で戦艦大和が水上特攻で撃沈されている。マンハッタン計画の推進者でもあり、もし彼が大統領でなかったら、日本に原爆は落ちなかったかもしれない。
そんなルーズベルト大統領の逝去に対し、信じられないことだが、日本は中立国経由で弔電を打っている。
峰岸淳は、外務省の電信課長であった。
峰岸は外務省のキャリアの尻尾の方で、出世のチャンスは何度かあったが、そのたびに自分より能力が高そうな者に譲ってきた。
一つには、この難関になんとか戦争を回避したかったので、自分よりも優秀な奴がいっぱいいると信じていた。外務官僚は「オレこそが!」というキャリアが多かったので、人情の手前からも人に譲って正解だと思った。
同期に来栖がいた。来栖は、実は三国同盟に反対で、当然日米戦にも反対だった。
来栖は妻がアメリカ人女性であることもあり、冷静に国際情勢も分析、日米戦争には必ず反対を貫いてくれるものと信じていた。
それがドイツの見せかけのカッコよさと、ベルリンに行った時の歓待ぶりに幻惑され、三国同盟を結び、日米開戦前夜は、野村大使らと飲み過ぎて、最後通牒をアメリカに手渡すのに二時間も遅れ、真珠湾奇襲には間に合わず、ルーズベルトをして「スネークアタック!」と言わしめてしまった。
でも来栖には来栖の事情があったんだろうと同情していた。
淳は人情にも厚かったが、法規遵守の気持ちも江戸時代の奉行のように厚かった。淳は、ルーズベルトにも彼なりの事情があったと思えるくらいに冷静であった。アメリカのニューディール政策の結末には戦争が必要だと淳には思えた。ただ、その目標が日本であることだけが迷惑であるのだ。
淳は、外務省の電信規則は全てそらんじていたが、念のため、法規書を確かめ、外務大臣に上申した。
「大臣、アメリカに弔電を打つべきです。外国元首の逝去に当たっては弔電をうつべしと法規には書いてあります。戦時における敵国の条項がありませんので、規則上も弔電を打つべきです」
このようにして、日本はアメリカに弔電を打った。
当然アメリカは無視した。が、戦後になって、アメリカの新聞社が気づいて、淳に取材にきた。
「法規にのっとってやりました。日本は法治国家でありますから」
私情は挟まなかった。結局アメリカの新聞も揶揄したコラムとして扱った。
淳は1970年に亡くなった。2016年、アメリカの大統領はこのことに注目して、淳のことを調べなおし、改めて、この弔電を称賛した。いささかの思惑は秘められてはいたが。淳の年老いた息子は、それでもいいと思った。親父に似た心情の老人であった。
※:これは史実にヒントを得たフィクションです。